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鎌倉近郊を歩く 36 金沢の瀬戸神社と琵琶島弁天社 

2019-06-15 09:59:13 | Weblog




鎌倉近郊を歩く 36
       金沢の瀬戸神社と琵琶島神社



 金沢の瀬戸神社は源頼朝が創建し、妻の政子はここに琵琶島弁才天を勧請しました。六浦湊の中心に位置し、鎌倉・室町・江戸時代を通じて交通の要衝地として賑わいました。瀬戸神社と枇杷島神社の間を往来の激しい国道十六線が分けています。神社の境内を国道が通っている感じです。

歩く:京浜急行金沢八景駅。または、シーサイドライン金沢八景駅。

 瀬戸神社の主神は、港や海上交通の守り神である大山?命(おおやまつみのみこと)。伊豆の三島神社と同じ祭神です。神社は平潟湾にのぞみ、その辺りは古代より海と陸の交通要衝の地だったのでしょう。市が開かれ多くの人が行き交っていたに違いありません。

 頼朝は鎌倉入りして金沢に臨み、伊豆三島神社を思いだして新たに大山?命を祀る神社を創建したのでしょうか。あるいはすでに大山?命が祀られていた瀬戸神社の神殿を建て直し、寺域を拡げたのか、どちらなのでしょう。

 治承4年(1180)8月17日伊豆三島神社祭日の夜、頼朝は平氏の目代山木兼隆を襲撃して平氏打倒の兵をあげました。源平盛衰記には武士の数は85騎とあり、吾妻鏡には46騎とあります。それだけの武士で、全国政権の平氏に勝利できるとは思わなかったでしょう。追い詰められて窮鼠猫を噛む、いや窮鼠虎を噛む気持ちで立ち上がったと思います。

 建久3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き、地方武士の棟梁たちが平伏する姿を眺めるとき、伊豆三島神社の祭りの夜のことを思いだしていたのでしょう。

 なぜ、瀬戸神社なのか、その名称が気になります。地名辞典に「河口が狭くなった所を瀬戸という」とあります。かっては野島や夏島と追浜の間に平潟湾が広がり、瀬戸内海のような景色だったのでしょう。

 「瀬戸の三島・六浦社といわれた神社が祀られていて、頼朝が伊豆三島神社を勧請したのだろう。六浦は陸浦・ムツウラによる」と案内書にあります。

 徒然草を書いた兼好法師は、「武蔵金沢という所にこもりけり。明け暮れ、ただ都の空のみ恋しくて」と書き遺しています。近くの上行寺に5、6年ほど居住していました。彼
の兄が称名寺の僧で、母も近くに住んでいました。都落ちして憂鬱そうな顔をした兼好法師が、海を眺めながらこの辺りを歩いていた姿が頭に浮かびます。


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