ふぶきの部屋

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祝!成婚30年雅子さま語録    3

2023-05-31 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

晴れて小和田雅子さんは皇太子殿下の婚約者となり、外務省も「寿退社」出来ました。

雅子さんがお仕事をされていた北米2課では「コピー番長」と呼ばれていた雅子さんの退職に一抹の寂しさが。

雅子さんは、よその課からコピーをしにやって来た人をよく追い返していたわね。自分のとこのコピー機を使いなさいよ!って。それがどんなに助かっていたか

でもちょっとほっ。いつお父様に告げ口されるかわからないから怖かった~~そういえば、オワって新人は駐車場を使ってはいけないのにお父様のコネで車で通っていたらしいわよ。婚約が決まって慌てて解約したらしいけど。何だかオワらしいわね」と言われました。

 1993年2月23日 皇太子の誕生日に東宮御所へ

とにかく雅子さんについた定冠詞は「超エリート外交官」「ハーバード大・東大・オックスフォード大出の才媛」「3か国語、いや5か国語はペラペラ」というものでした。

でも、本当は

 田園調布雙葉を退学になりアメリカに父親のコネを頼って留学

 ハーバード大・・・ではなくラドクリフ大に父のコネで進学

 卒論には複数の人間が手助けをした事が発覚

 オックスフォード大へ国費留学するも一人だけ修士論文を完成できずに帰国

 外務省への入省もお父様のコネ。外交官ではなくただの職員

 雅子さんの英語はほぼスラング

だった事を知っていた国民はほとんどいませんでした。

あってはならない秘密だったからです。

 

 1993年2月28日 田園調布雙葉を訪問

ごめんなさい。オワ。私達、マスコミに色々話しちゃった」と謝る学友に雅子さんはやさしく「私、喋られて困る事なんかないから」とお笑いになりました。

学友はほっとした顔で「よかった。オワがスカートめくりしてた事とか、クラスメイトに「ねずかあさん」なんてあだ名つけて虐めてたことも、私の背中に消しゴムのかすをいれらり、非常ベル鳴らして叱られたり、ホスチアを盗み食いして、とうとう退学になった事も・・気にしないわよね」

雅子さんは「勿論」と笑いました。

なぜってそういう話題こそが一番皇太子を喜ばせたからでした。

 

 1993年3月12日 雅子さんのお妃教育が始まる

8科目50時間に及びましたが美智子さまに比べると47時間も少なかったそうです。

またとても奇異な事でしたが、雅子さんは「神道」については英語のテキストを所望されました。

実は、「天照大神」を「てんてるだいじん」と読んでしまって大恥をかいた事があったのです。

英語ならストレートでわかりやすいんじゃないかしらと思いました。

 

幸せな雅子さんですが、またも本人が知らない所で軋轢が生まれていました。

マスコミは「納采の儀」を3月17日と発表していました。

ところが3月2日になって宮内庁は突然「納采の儀」は4月12日に延期と発表。

その理由は

 美智子皇后が正田家と川嶋家の面々を呼び、雅子さんを紹介する会を開いた

 しかし、他の宮家は一人も招かれず

 皇太子妃決定から紹介まで一度も宮家に連絡がなかった事で宮家の方々は怒り心頭

実は美智子さまは入内以来、宮家の事が大嫌いでした。

その理由は、美智子様が商家の出でだった事に由来します。

正田家ではお父様が結婚には反対でした。あまりにも恐れ多かったので。

でも母の富美子さんは宮内庁の小泉信三らとはかりm将来的に正田家に栄光を」という約束で美智子さまを当時の皇太子と結婚させました。(しかしその約束は反故にされたと富美子さんは自ら週刊誌に語っています)

お金持ちですから衣装も調度品も立派なものを整えましたが、ただ一つないものがありました。それは「小袿」です。

旧皇族や旧華族の家には当然1着はあり、あるいは親戚同士で借りたり貸したりして結納や結婚式で使うもの。それが美智子さまはお持ちでなかったのです。

仕方なく、納采の儀には庶民と同じように振袖を着用しました。

でもこの時の屈辱は何年経っても忘れることが出来ず、いつかご自分が頂点に立った時に「仕返し」をと思っていらしたのです。

美智子さまは、あんなに可愛がっていらっしゃった紀子様の事も、秩父宮妃にとても大事にされている事を知ると急に厳しくなりました。

紀子様の御実家は学者であり、地元和歌山の名士であり、父方の祖母は会津藩士のお家柄。武士ですらない商家の出の美智子さまはその事にも傷ついていたのです。

でも小和田雅子さんなら、御実家に傷の一つ二つあってご自分が優位に立てる。

そう思い、何でも雅子さんの好きにさせます。

勿論、お妃教育も「最高学府をお出になっているのだもの」と短くされ、雅子さまが嫌がっていた「ブライダルチェック」も免除されました。

現宮家を全部無視するという事が、美智子様の最高の幸せなのでした。

 

 1993年4月12日 納采の儀

この日は朝から緊張しっぱなしでした。

所作を最初から何度も繰り返したけど、結局、失敗してお母さまに「ほら」とつつかれてしまい、何だか嫌な気持ち。

この日、つけられた帯は美智子さまからお借りしたもの。紀子様も同様の帯を付けられました。

扇子を帯のど真ん中にさすと、ちょっと・・・と誰も教えてくれませんでした。

こんな写真が全世界に配信されてしまって・・・・お可哀想な雅子さん。

皇居に到着する頃には着物もしわしわに。それにしても金色の振袖をお選びになるとはさすがに雅子さんです。

お父様は中ロ大好きな方ですから、「黄色」が中国皇帝の色だとご存知だったのですね。

 

1993年4月17日 新潟へお墓参り。

泉性寺に小和田家のお墓があったのですが、何という事でしょう。

真新しい土台の上に古い石が乗っているではありませんか。

このようなお墓は誰も見た事がありませんでした。

通常、墓を移動する場合は「改葬許可証」を持ち、すっかり新しい墓を建てるものですが、このお墓の主である「小和田匡利」なる人物は、小和田恒氏の祖父である「小和田金吉」の父であるようなのですが、謎の人物で、小和田本家も「わからない」という事で、もしかして小和田家とは関係のない人の墓では?

そんな疑いが濃厚になってしまいました。

それというのも、新潟の小和田本家から「恒氏達は私達の一族ではない」といわれからです。

ではどうして「小和田」なのか?そのなぞは恒氏しか知りません。

ゆえに「3代前が不肖」と言われる所以です。

もし、明治の一番最初の戸籍までたどれるのなら4代前までわかり、尚且つ寺の過去帳を見ればさらにその前にも遡れます。

一体、小和田家とはどこから来た一族なのか。

たまたま新潟だったのか?

それとも・・・・・?

 

 1993年4月28日 皇太后陛下に婚約の報告

あーかったるい・・・雅子さんはお疲れのようです。

マスコミは毎日家の前に張り付いて「一言」というけど、雅子さんは何を話したらいいかわかりません。

挨拶なんてしたくないし。笑うのも嫌。

だから、行きと帰りの写真は撮らせるけど、喋らない。

それをマスコミは「雅子さんの肉声がない」と宮内庁のせいにしてくれています。

肉声?マスコミに挨拶したり、笑ったりって何でそんな面倒な事をしなくちゃいけないの?こっちは時間を護る事で精一杯なのに。

みんな色々要求しすぎ。

雅子さんはそう思っていました。笑顔を作るだけでも大変なのに、喋れとはありえない。

雅子さんは少し後悔し始めていました。

いわゆるマリッジブルー状態だったのです。

 

 

 

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祝!成婚30年 雅子さま語録       2

2023-05-30 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 1993年1月8日 雅子さん帝国ホテルでお見合い写真をとる

 1993年1月13日 東宮御所でデート

 1993年1月17日 東宮御所へ

みなに注目され、雑誌などでとびきり美しい自分の写真を掲載してくれることに、雅子さんは有頂天になっていました。

皇太子殿下からは何度も東宮御所に呼ばれ、その度に西洋料理のフルコースや中華料理などを食べることが出来るので嬉しくてたまりません。

実は皇太子殿下は雅子さんの為に滅多に食べられない食材ばかりを集めて食事を提供していたのでしたが、それは東宮職にとっては痛い出費でした)

まずは、服を揃えなくちゃ。着物も

張り切ったのは雅子さんのお母様。

銀座にある君島一郎氏の店を訪れ、次から次へと服を注文。

お店側は未来の皇太子妃の為に服を作るのですから大変光栄な事です。

しかし、お支払いは・・・・外務省事務次官のお家ですからすぐにお支払い頂けると思っていたのですが、これがなかなか。

皇室に入ってしまえはどうとでもなります」

お母さまはそう胸をはっておっしゃったのでした。

また、靴は河村龍介という靴デザイナーにご注文。しかし、雅子様はそもそも「測られる」事がお嫌い。寸法とか体重とか。

なので、履いている靴をお渡しになり作ったのですが、やっぱりお気に召さず「靴がフィッティングしないんですの」とおっしゃって結局は測り直しをしたのでした。

 1993年1月19日 皇室会議

皇室会議というのは親王が結婚する時に「妃」となる人物について賛成か反対かを示す会議で、一応形式上と言われています。

秋篠宮家に嫁いだ川嶋紀子さんの時は全員一致でございました。

しかし、小和田雅子さんの時、皇族方でただ一人反対された方がいました。

三笠宮崇仁親王殿下です。

三笠宮様は皇族を代表して「反対」をお示しになりました。

理由は、小和田雅子さん入内に関して、皇族方に一切の根回しがなかった事です。

そして「チッソの孫娘」であると言う事も反対の理由でした。

天皇皇后両陛下は小和田雅子さんの入内に関して、一言も他の皇族方に報告をされていなかったのです。何という事でしょう。

お蔭で、3月17日に予定されていた「納采の儀」が延期されてしまいました。

 

 1993年1月19日 婚約記者会見

その日の朝、雅子さんは大変緊張していました。

選んだ服はなんと金色に近い黄色のスーツ。それに手袋と帽子。

そのような格好をした事のなかった雅子さんはひたすら緊張し、前日に覚えたセリフを口の中で唱えていました。

車に乗る時にはお父様に「いつものようにやれ」とはっぱをかけられ。

 まずは写真撮影。

ご両親は得意満面でした。

何と言っても、「お勉強できる」事しか得意な事がない家から皇太子妃が出たのです。

しかも、娘はハーバード大卒!これからは一家で繁栄していくのだとの決意すら見えます。

しかし、その陰で皇室会議で反対意見があった事はご存じなかったようで。

最も皇族一人が反対したからといって、今更婚約が破棄されるわけでもないので、ご両親は平気でした。

ちょっと上品に座ろうとしたけど失敗してしまう雅子さん。

この時から目がなかなか上にいかない自分を感じていました。

 

「会見を終えていかがですか」

皇太子 たいへんうれしく思っております。この間、温かく見守って下さった方々に対して心からお礼を申し上げたい。また私からの申し出を受けてくれた雅子さんに対しても心から感謝したい。これからは力を合わせて様々な務めを果たしていきたいと思っております。
雅子 大きな責任をお引き受けすることになるわけですから、身の引き締まる思いがいたします。

その一方で、多くの方々に祝福いただいていることを大変幸せに思いますとともに、私をお導き下さった皇太子殿下をはじめ、これまでお力をお貸し下さった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

 出だしは上々ね・・・と心の中で思いました。そう皇太子妃になるって「責任」なの。愛じゃないのよね。

 

「プロポーズの時期と場所、言葉は。また、雅子さんの返事の時期と言葉は。」

皇太子 十月三日に千葉県の鴨場で、「私と結婚していただけますか」というようなことを申しました。その時の答えははっきりとしたものではなかったけれども、十二月十二日にこの仮御所に来ていただいて、そこで「私からのお申し出、受けていただけますか」というふうに申しまして、それを受けていただいたというわけです。
雅子 十二月十二日、殿下に「本当に私でよろしいでしょうか」とうかがいました。「はい」とお答え下さいましたので、私の方から次のように申しました。

「私がもし殿下のお力になれるのであれば、謹んでお受けしたいと存じます。

これまで殿下には、いろいろ大変幸せに思えること、うれしいと思えるようなことも言っていただきましたので、その殿下のお言葉を信じて、これから二人でやっていけたらと思います。殿下にお幸せになっていただけるように、そして私自身も自分でいい人生だったと振り返られるような人生にできるように努力したいと思いますので、至らないところも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」と

 殿下のお力になるの。私は皇室で仕事をするの。そこに愛はないのよ。

雅子 私がご辞退申し上げたことがあるかどうかは、私から申し上げるのは差し控えたいと思いますが、外務省で大変やりがいのある仕事をさせていただいておりましたので、仕事を辞めるべきかどうかについて、だいぶ悩んだことはございました。この新しい決心をするまでに、十分に考える時間が必要だったということだと思います。

 だって外務省で外交官になるつもりだったし。でもこっちの方が断然得だと思ったのは事実です。

 

「初対面の印象と五年ぶりに再会した時の印象は。またどこにひかれ合ったのかを」

皇太子 最初は昭和六十一年、スペインのエレナ王女が来られて、当時の東宮御所でレセプションが行われ、その席で会ったわけです。

その際、非常に強いというか、いい印象を受けました。

まず非常に控えめでいらっしゃるんだけど、自分の思っていることをはっきりとおっしゃって、それでいて聡明で、話題にも共通性があってお互いに心が通じ合うという感じを強く持ちました。話をしていて楽しい人というのが最初の印象です。
五年ぶりにまた会うことができ、最初に会った時のいい印象と同じようなものでした。

外交官として非常に大切な仕事をしているせいか、また人間としてひと回りもふた回りも大きくなった感じがして非常にうれしく思ったわけです
雅子 最初の時は、大変緊張してごあいさつ申し上げたんですが、その後は、意外なほど話が弾みました。

とても気さくで、かつ配慮のある方だと思いました。五年ぶりに去年の夏にお目にかかった時は、楽しくお話をすることができました。その時点では、殿下のお気持ちをうかがっておりましたので、内心、正直なところ複雑な心境でございました。私が殿下のどういうところにひかれたかと申しますと、殿下は、ご自身がお苦しい時でも、他の人の苦しみについてまず先に考えられるようなそういう大変思いやりの深い方で、大変忍耐強くいらっしゃる。こう言ってはちょっと失礼かもしれませんが、とても人間ができた方と敬服いたしました。ご趣味、ご交際もとても広く、心の豊かな方でいらっしゃると思います。

 話すのは楽しかったけど「結婚」とか言われても嫌だなと思っていた。殿下への誉め言葉はお父様が考えた事で私の意志ではないわ。まあ、人間が出来た人って感じ。

この「とても人間が出来たかた」という言葉が、その後、「皇太子殿下に対して失礼な物言いである」とクレームがつきました。お妃となる人は常に一歩下がらなくてはならないのに、自分が主役のようにふるまっていると、特に皇太子殿下の附育官だった浜尾さんには不評でした。

雅子 これまで六年近く勤めておりました外務省を去ることにさびしさを感じないと申したらうそになると思います。

やりがいのある仕事をさせてもらい、学ぶべきところも多く、尊敬すべき先輩や同僚に恵まれて充実した勤務でした。昨年の秋、いろいろ考えた結果、私の果たす役割は殿下の申し出をお受けして、皇室という新しい道で自分を役立てることではないか、と考え決心したので、今は悔いはありません。

 皇室外交官になるの。

雅子さんは勘違いをしていました。

皇太子妃はあくまでも皇太子殿下のお妃であって、皇太子自身ではありません。それが「皇室という新しい道で自分を役立てる」などと言ってしまうと、いかにも就職したかのように聞こえてしまうではありませんか。


殿下からは私の心を打つような言葉をいくつかいただきました。

ひとつは去年の十一月の後半、「皇室に入るのはいろいろ不安や心配がおありでしょうが、雅子さんのことは僕が一生、全力でお守りしますから」と話しかけてくださいました。
さらに、十二月初め、「十分にお考えになって下さい」とおっしゃられ、ご自身も「大変悩んだ時期があった」とおっしゃられたので、「何をお悩みになられたのですか」とお尋ねしました。

僕としては雅子さんに皇室に来てもらいたいとずっと思っているけれど、本当に幸せにしてさし上げられるのか、悩みました」と言われました。

そのような殿下の真摯なたいへん誠実なお言葉をいただき、幸せに思うことができましたので、「私でできることでしたら、殿下のことを幸せにしてさし上げたい」とお受けした次第です。
その間、殿下からは、私がお受けすることになれば両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている、ということで、私にとって大変大きな励みになりました。

一部で言われているように、直接、皇后さまから私にお気持ちをお伝えになられたようなことはありません。

 ここからが大事ってお父様に言われたわ。しっかりと言質を取る事で事を有利に運ぶこと。それが大事だって。

 

「雅子さんの事は全力でお守りする」という言葉は30年たっても有功です。

「殿下をお幸せにして差し上げたい」という言葉を聞いた時、国民の多くは「随分自信がおありなのね」と思ったでしょう。まさか30年後に真逆になっているとは思いもせず。

皇太子 「両陛下、特に陛下には折にふれ、いろいろご相談して参りましたが、皇后陛下の方はこの結婚問題が始まったころから、当事者である私と、関係者に任せておられて、皇太子妃という立場を了承してこちらへ来て下さる方に対するお心を砕いておられたのです。

私が結論に達する前に、皇后陛下が特定の人に対して、それを否定したり、支持されたりするようなことは一切ありませんでした。

それは雅子さんの場合も同じです。皇后陛下としては、私が選んだ人を心から受け入れるという気持ちを終始貫いて下さいました。
今回の結婚に至ることを振り返ってみましても、両陛下がこの件をすべて私に任せて、そして信頼して下さって、そしてご自身は温かく私たちを見守って、そして長い年月をともに耐えて下さったということで、私はそのことに対して心から感謝したいと思っております。

とはいえ、やっぱり小和田雅子さん入内の陰には美智子皇后の動きがあった事は確かです。そうでなければ根回しもせず皇室会議に持ち込むなどと言う事がありましょうか?

 

  • どのような家庭を築きたいか。お子さまは何人ぐらい?

皇太子 私自身、幸せな家庭に育った経験をもつ者として、安らぎのある明るい家庭を、と思っています。それは私たちがこれから様々な公務を尽くしていく上でも、また次代の子供たちにとっても非常に大切なものではないかと思っております。これから先、二人でお互い学び合って、ともに高め合っていくということもやってみたいと思っています。

 雅子 基本的には殿下のおっしゃる通りですが、[[一言つけ加えさせていただければ]]、愛情に満ちた温かい家庭ということ。特に、苦しい時やつらいことがあった時にお互いをいたわり合って助け合っていくことができるような家庭にできればと思っています。
皇太子 子供についてはコウノトリのご機嫌に任せて、と申し上げておきましょう。
雅子 その質問に関しては多分出るでしょうと、一昨日お目にかかった時に、だいぶ相談しましたが、答えは出ませんで、殿下にお任せすると申し上げました。ただひとつだけ、これだけはおっしゃらないで下さい、ということがありました。それは殿下は大変音楽がお好きでいらっしゃるんですが、家族でオーケストラが作れるような子供の数、ということはおっしゃらないで下さいと申しました。

「コウノトリのご機嫌に任せて」という言葉がウケたと皇太子殿下は大変ご満悦でした。マスコミもちょっと笑いましたし。

でもその後の雅子さんの「家族でオーケストラが作れるような子供の数ということは・・

云々はマスコミもあっけにとられてただ乾いた笑いをするしかなかったようです。雅子さんはこの言葉も笑いを誘ったので完全に「成功」と思ったものです。

しかし、実際の所「懐妊するかどうか」は天任せ。世の中には不妊で悩む人もいる中、あのような大きな発言をされて喜んだ人はいないと思います。

また「一言付け加えさせて頂く」という官僚言葉ですが、これはお父様からもご注意がなかったようで雅子さんは当たり前のように使ってしまいましたが、これまた「皇太子殿下の言葉に付け加えるなんて」と随分失礼だと言われました。

 

  • 雅子さんがお妃候補と騒がれた後、ご交際が中断し、宮内庁は一度、雅子さんを断念したようだが、その時の皇太子さまのお気持ちは。

皇太子 この件に関してはチッソの問題もあり、宮内庁の方でも慎重論が出て、一時は中断もやむを得ない状況になってしまいました

その間、雅子さんも外交官としての研修中でもあり、外交官の仕事を続けたい、という意向でしたし、マスコミの取材攻勢もあり、お互い静かな環境のもとで、ゆっくり話し合うという機会がとれませんでした。

その間、私は常に雅子さんのことが念頭にあり、「本当に雅子さんでは?」ということを何回となく宮内庁にも申し入れをしました。

私は私自身の気持ちも大切にしたいと思いますけれど周囲の意見、周囲の考えも、これもまた大切にしたいと思っておりましたので、昨年、周囲の意見が雅子さんでいい、ということで固まった時は、大変うれしいものがございました。

 チッソの孫娘だから何だっていうのかしら。おじいちゃまが悪く言われて不愉快なのはこの私よ。

当時、自民党の後藤田氏は「皇室に筵旗が立つ」としてこの結婚には反対でした。

お妃というのは、出自も育ちも純潔でいなければならない存在。

他の皇太子候補者が「朝鮮総督府に〇〇がいた」とかいうつまらない理由で辞退に追い込まれたのに「水俣病」の名で有名なチッソの会長、江頭豊氏を祖父に持つ雅子さんが堂々とお妃になれたこと自体がものすごい事だったんですね。

  • 皇后さまは嫁がれた当初、慣れない皇室生活に苦労されたようだが、仮に雅子さんにそういうことがあった場合皇太子さまはどのように雅子さんを支えていくお考えか。

皇太子 皇后陛下の方から一切そのようなことに関する話はうかがってはおりません。私から拝見しましても皇后さまは大変明るく楽しい方で、そのようなことがあったと言われても、ちょっとピンと来ません。
ただ以前に皇后さまに、この件に関して、うかがった際に「私はいつも自分の足りない点を周りの人々に許していただいてここまで来たのよ」ということを言われたことがございます。その言葉が今でも非常に印象深く残っております。両陛下の歩まれた三十数年の歴史がありますので、雅子さんが大きな苦労をされることはないと思いますが、何分にも皇太子妃という責任のある重大な立場になるわけですから、苦労があった場合には、私がそばにいて全力をもって守って、そして助けてあげたいと思っています。

そんなこんなで緊張しまくりの小和田雅子さんの記者会見が終わりました。

一部「日本語としてよくわからない」部分がありますが、雅子さんは外国での暮らしが長かったので、日本語を話す時翻訳したような言葉遣いになると説明されていました。

実際は、非常にコミュニケーション障害だったわけですね。

 

雅子さんは皇后陛下からルビーの指輪を贈られました。

これは香淳皇后から頂いたものです。

本来ですと、皇嗣妃殿下に譲られてしかるべきものですが。

 

1993年2月9日 雅子さん退職

 

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祝!成婚30周年 雅子さま語録    1

2023-05-29 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 みなさ~~ん。

今年は天皇陛下と雅子皇后が結婚して30年目なんですって。

私達、その前から生きている者にとっては、あまりに突然で「え?あの人、断ってたよね?」という印象しかない小和田雅子さんがいきなり「皇太子妃決定」となったので、

ますます「へ?」しかない所に、いきなりお祝いムードを無理やり作られた~~~~という感覚が。

 1986年 スペインのエレナ女王のパーティで初めて出会った浩宮と小和田雅子さん。

雅子さんはドタ出だったようで名簿には「手書き」で名前があったとか。

 1987年 高円宮邸で浩宮と小和田雅子のデートを設定。深夜まで長々宮邸に居座る

 1987年 小和田雅子さん東宮御所に招かれ浩宮と歓談。賀陽氏が同席

 1987年12月18日 「どこの社なの!名刺出しなさい」指差し恫喝事件発生。

マスコミは「お妃候補」の話を聞きたかっただけなのにびっくり。

 1988年2月18日 パリに赴任する小和田夫妻が東宮御所へ

  それに乗せて貰う小和田雅子。なぜか怒っている。

 1988年週刊新潮


雅子さん 「プロポーズもされてないのに何でこんなに騒がれなくちゃいけないの」

友達 「それにしては、何回も東宮へ行くのはどういうわけ?」
雅子さん「好奇心よ」

記者 「小和田さんは“プロポーズもされてないのに、云々”と女友達に話したっていいますが、これまで東宮へ招待された女性の、ほとんどは一回で二度と行きません。

本人が行きたくても、東宮で呼んでくれないケースも無論ありますが、浩宮様や皇太子ご夫妻が気に入られても女性の方で二度目の招待をお断りするわけです。

それがお妃候補から外して欲しいという一つの意思表示になる。
 ところが小和田さんは少なくともこれまでに四回は浩宮様にお会いしています。

いくら“好奇心”からだといっても、お相手が今どういう立場にいる人か承知しているわけですから、彼女の方にまったくその気がなければ出かけませんでしょう」

 

1989年 昭和天皇崩御 その後、浩宮は「小和田雅子さんではダメですか」

 1989年 イギリス在住の小和田雅子さんにマスコミが突撃取材するも「私は関係ありません!」ときっぱり

 1989年 10月4日 マスコミの取材をうける小和田雅子さんはなぜか上機嫌。

関係ないと思ってますけど~~~

成績ご優秀で将来は総理大臣になるかも・・・と言われた小和田家の長女、雅子さん。

彼女がエレナ女王で浩宮様に出会った時、なぜ回りがぺこぺこするのかわかりませんでした。

帰宅後、おばあ様に「浩宮さまってお偉いの?」と聞くとおばあさまは「将来天皇陛下になられる方ですよ」と。

天皇陛下って日本で一番偉くてお金持ちの事?」

雅子さんは俄然好奇心が湧いてきて、誘われるままに東宮御所に何度も足を運んでしまいました。

それがマスコミには「お妃候補」とみなされ、取材される事の恐ろしさといったら。

ただ興味があるし、あっちが誘ってくるから会っているだけなのに、どうしてマスコミに追いかけまわされるのかしら?

お蔭でオックスフォードに入ったのに修士論文が書けなかった。マスコミのせいよ。

でも、まだ20代の雅子さんにとって、マスコミが会う度にちやほやしてプレゼントをくれたり、食事をおごってくれたりするのが楽しくてたまらなくなりました。

思わせぶりに「私、関係ないけど」っていっても、そんな笑顔の写真までとってお礼を言ってくれる。

雅子さんは次第にそんな快感に打ち震えるようになったのでした。

 1991年5月、日米半導体協議にスタッフとして座る

 海部首相の会食に通訳として同行

そうは言っても、雅子さんには外務省でのお仕事があり、日々それに撃ち込んでいたのです。

一方で、浩宮さまは小和田雅子さんが忘れられずにいました。

雅子さんは「水俣病を引き起こし、現在も訴訟中のチッソの会長の孫娘と言う事で皇太子妃には向きません」と側近から言われていましたが、昭和天皇崩御後ははっきりと「小和田雅子さんではいけませんか」と周囲に問います。

あの外国人のような顔、大きな目、よく食べるしぐさ、庶民的な話っぷり。どれも皇太子殿下が経験した事なかったもので、新鮮に映ったのです。

でも側近は、元皇族で香淳皇后の御実家の才媛「久邇晃子」さんを皇太子妃候補として挙げていましたし、本人からも承諾を得ていました。

しかし、それに皇后美智子さまが賛成なさる筈がありません。

「民間から」嫁がれ、皇太子妃となり皇后となった美智子さまにとって、皇太后さまは敵、その実家から妃を娶るというのは考えられない。

そこで、直々に久邇家にお断りを入れたのです。

理由は「あちら(小和田雅子さん)の方がお出来になるから。だって、久邇さん、お宅様はお仕度にお父様の退職金を充てるとおっしゃっているのでしょう?こちらとしてはそんな無理をしてまで来て頂きたくないの

 

一方雅子さんも悩んでいました。

職場での勤務が辛くなって来たのです。

どういうわけか、何をやっても「こんな事も出来ないのか」と叱られる事が多くなり、その度にびっくりし、何が悪いの?この上司バカ?と思います。

なぜって、ご自分は外務省事務次官の娘ですからその自分に対等な会話をもちかけてくること自体おかしいのに、まして𠮟りつけるなんて。

でも回りの人は上司を恐れているのか何もいいません。

「おかしいわよ」と話しかけても「オワ、もうちょっと頑張りなさいよ」と言われるばかり。

次第に30分に一度はトイレに駆け込んで手を洗うという異常な行動を始める雅子さん。

「仕事に向かないのか」と思い始めました。

「結婚・・・しちゃおうかな」この当時、誰もが一度は考えることです。

皇太子殿下と結婚したら外務省の人達を見返してやれるんじゃ」そんな事を考えてしまう雅子さん。

雅子さんは、ちょっとした好奇心から浩宮様とお付き合いを始め、東宮御所で色々な話をして、美味しい物をたくさん食べた記憶が忘れられなくなっていたのでした。

 1992年10月3日。新浜鴨場に呼び出された雅子さん。なんと皇太子殿下は両陛下の留守を狙ってあずき色のワゴン車に身を隠し、鴨場へ。

皇太子「結婚して下さい」

雅子 「お断りしてもいいですか?」

皇太子殿下はびっくりしました。

まさか、「お断り」前提で言われると思っていなかったので。

とりあえず「はい」とは言ったものの、どうしていいかわかりませんでした。

せっかく、ワゴン車に隠れてここまで来たのに・・・・

「あの・・」と殿下は言いました。

「外交官として活躍したいんですよね。でも皇族になったら「皇室外交」として外交の仕事が出来る。そんな風に考えて貰えませんか」

それを聞いた雅子さんは目を輝かせました。

(やっぱりこれなら見返せるかも)

 1992年12月12日 再度プロポーズされて雅子さん了承

その陰には勿論、小和田恒というお父様のお力がありました。

「何でも思い通りにいてやるから」

「小和田家の長女ならそれらしくしろ」

そこまで言われては雅子さんも嫌とは言えません。

半信半疑のまま、とにかく了承したのでした。

今まで皇太子殿下のような方とはお付き合いがなかった雅子さん。

背が低いし、ハンサムでもないし、スリルもミステリーもない。

でも彼は持っています。「皇太子」という地位を。

 

 1993年1月6日 小和田雅子さん皇太子妃に決定

さあ、もう歯車は回り始めました。

後戻りは出来ません。

 1992年1月8日 小和田邸を出る雅子さん

未来は栄光に包まれている筈でした。

まさか・・・こんな・・・ご病気で苦しむことになるとは誰が想像したでしょう?

 

 

 

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皇室ウイークリー

2023-05-28 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

5月22日・・・天皇陛下 → 旧小松川閘門・荒川ロックゲート・江東区中川船番所資料館視察

5月23日・・・天皇陛下 → 通常業務

5月24日・・・両陛下 → 第50回戦没・殉職船員追悼式出席

5月25日・・・天皇陛下 → 勤労奉仕団に会釈

              ラオス国家主席と会見

              認証官任命式

 

皇嗣家

5月19日・・・両殿下 → ICA海外協力隊(令和5年度第1次隊派遣隊員(二本松訓練所)に会う

5月22日・・・佳子内親王 → 「第51回伝統工芸日本金工展」を見る

       両殿下 → 令和5年度学術研究助成金贈呈式」について説明を受ける

5月23日~24日・・・殿下 → 山口県訪問

 「令和5年度公益社団法人日本動物園水族館協会通常総会出席

 白鳥湖視察

 ときわ動物園視察

5月23日~24日・・・佳子内親王 → 宮城県訪問

 石巻南浜津波復興祈念公園供花・視察

 石巻市震災遺構門脇小学校視察

 県勢概要聴取

 「令和5年度全国都市緑化祭」レセプション出席

 「令和5年度全国都市緑化祭」記念式典出席

 第40回全国都市緑化仙台フェア会場視察・仙臺緑彩館内展示パネルを見るおよび「令和5年度全国都市緑化祭」記念植樹

 昼食会

  宮城県美術館視察

5月25日・・・両殿下 → (令和5年度第1次隊派遣隊員(駒ヶ根訓練所)113名)に会う

 両陛下の船舶戦没者云々の公務は予定されていなかったらしいですね。

 もしかしたら天皇一人の予定だったかもしれません。

 その式典の前後に横須賀美術館に「立ち寄り」しています。これはトイレ休憩と見えますが、式典後の立ち寄りは近くにあるレストランが目的だったとみられます。そのレストランは平日の昼間にも関わらず、半日休んでいるので恐らくは貸し切り。

食べる為の公務・・・なんですよね。皇后にとっては。

 天皇の社会見学と秋篠宮殿下の視察では、表情からして全然違うものがあります。

 ラオス国家主席との会見ではまたもマスク強要。国家主席のマスクは顔の大きさにあってないような気がします。それでも皇后が一緒で丸テーブルよりましというのが何とも。

 大聖寺にいらっしゃった紀子様

上皇夫妻の後に大聖寺にいらっしゃった紀子様。これは公務だからですが着物姿の美しいこと。そしてお寺によく似合ってますよね。

「私的旅行」だからといって普段着にスカートだけ長いの履いて・・・というのとは違うなと思います。

上皇后は「自分流」を貫く人で、「私が法律」という部分では雅子さんと同じです。

でも、こんなに正統派を見せられたらやっぱり違うと思わざるを得ません。

 

ところで宮内庁に新たな広報室が出来て大夫立ちますが、お仕事しているんですか?

相変わらず秋篠宮家への誹謗中傷が酷い事になっています。

猿之助一家の自殺騒ぎは他人事ではないと言う事に、宮内庁は気が付きませんかね。

何でこんなに一方的に「ない事」をあったあったと宣伝されないといけないんでしょうか?

先日の、園遊会でのひどい失態は、実は天皇皇后の責任なのに宮内庁長官が「反省」を表明しました。

しかし、それって全然言葉だけの話でしょう?「反省」という言葉すら上から目線で、いらした方々に「申し訳なかった」という気持ちがみじんも感じられないのです。

その理由は、結果的に長官は「俺の責任じゃない」と思っているからですよね。

本当に自分達の責任であるなら「両陛下に大変申し訳ない事をした」とか言いそうなもんですけど、そういうのなし。

つまり上から「週刊誌が騒ぎ出しているから止めろ」と指示があったとしか思えません。

 

赤十字大会でも、2年連続で皇后は長話で他の皇族方に迷惑をかけています。

反省の「は」の字もないのでは?

「ドタ出」で式典参加されたらたまったもんじゃないし、賓客へのマスク強要もいい加減にしろと言いたい。

宮内庁の広報室がこれ以上機能しないのであれば、あっても意味なし。

長官は更迭されてもしょうがないんですけどね。

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長野立てこもり事件 理由なき殺人はあります

2023-05-27 07:00:00 | ドラマ・ワイドショー

 正直、改めて日本の警察及び国家の「お花畑ぶり」を見るような事件でした。

これがアメリカならさっさと射殺です。

それがいいとは思いませんが、延々と翌朝まで話をして投降させることに何の意味があったのか。

その間、ずっと避難所にいた人達はどうなるわけ?

 突如女性の声「助けて」

これを聞いて現場に駆け付けた男性は、心肺蘇生をします。

その時、側にいた青木政憲容疑者に「手伝ってくれ」と言おうとした。

しかし、その時、パトカーが来て、彼は一旦家に入ると散弾銃を出してパトカーの窓に向けて至近距離で発砲。

蘇生を頑張っていた人はそれであっけにとられたけど、隣で一緒にいた人に「逃げろ」と言われるまで逃げなかった。

 「何でこんな事をしたんだ」「殺したかったからころした」

 よくわからないけど、近所で農作業していたおじさんは、青木家の長男が女性を刺した現実を受け入れていないような気がして。ゆえに即、助けに行ったんじゃ?

自分だって殺されるかもしれないのに、何だかちょっと他人事っぽい。

 「刃物で女性を刺した」と通報を受けた警察は、パトカーを出動。

刺した場所あたりに到着するなり、窓の方から至近距離で発砲。その後、後ろ側から発砲。二人の警官は死亡。

田舎でこんな残忍な事件が起きるとは思わなかったのか、あまりにも無防備にパトカーで駆け付ける警官。

日本のパトカーはアメリカ製と違って防弾装備がないので、あっさり銃弾は窓を突き破って殺してしまう。

ここを何とかするべきなのではないか?と思います。

 

 警官を殺した後、自宅で立てこもる

 帰宅して来た父親は中に入れず外に

 母親が最初に逃げ出し、そのあと叔母が逃げ出す。

 という事は、自宅には誰もいなかったって事になりませんか?

上空にヘリコプターが飛んでいるのを窓際に寄ってみてた映像がありますが、その時に、SATなどが発砲して、家の中に入る事は不可能だったのか?

どうも、ネゴシエーターによる「容疑者との会話」を重要視し、結果的に投降させた。

翌朝です。

犯人は地元の名士、議会長の長男、青木政憲31歳。

学生時代の成績はよく、けれど人間付き合いはダメ。ひきこもりを経験。

実家の農業を手伝っていた。

典型的なアスペルガーって感じですけど、両親は青木本家で、しかも農業は成功。

ジェラートのお店も繁盛させるなど順風満帆。

妹は嫁いで、弟は自衛隊。

普段は両親と叔母と4人暮らし。母親に溺愛されている・・・趣味はサバイバル・ゲーム。

写真を見る限り、生きる意欲に欠け自分の中に閉じこもっている風がありあり。

農家の長男でこういう人って珍しくないんですよね。何でだろう。

期待を一身に受けて一番可愛がられて何でも与えられて来たと思われる中、そんな回りの華やかな期待とはうらはらな自分のギャップに違和感を覚えていた筈。

「本当はいい子なんです」と恐らく母は言うでしょうし、母や叔母には手を出さずにいた事から、それなりの理性はあったと思います。

 

だからこそ、警察は「説得」よりも突入を選ぶべきではなかったのか?と思います。

何の為に容疑者の心に寄り添って自首させるのか?

母や叔母が自力で逃げ出すほど手薄だってわかっていたでしょうに。

身代金を要求したり、自殺する可能性があったわけではないと思うので、素早く取り押さえる方法をとるべきだったと個人的には思います。

 

 日本では警察官の発砲は物議をかもす

 容疑者を生きたまま逮捕に持って行きたい

という事で、もし強引に突入などしたらあとから色々言い訳しなくちゃいけなくて、面倒だったのかなと思って。

散弾銃を持っていると言っても、弾はすでに2発使っていて、あと何発残っているのかなど父親に聞けばわかるんじゃないか?と。

本当に窓際に来た時がチャンスだったと思うんですけど。

今回、ひたすら見守っていたことが私には理解出来ません。

 

理由はなんだ?

理由?「殺したかったから」に決まってるじゃないですか。

迷彩服にサバイバルナイフ、サングラスにマスク。彼は完全武装してたわけです。

となると、きっと何かになりきっていた可能性があります。

「敵を倒す自分」というものに。

それが近所の年取ったおばさん達だったのが悔やまれます。

「あら、政憲君。どしたの?そんな格好で」なんて声をかけたかもしれないし。

まさか、あのおとなしい青年がいきなりナイフ持っておいかけて来るとは思わなかったんだろうと。

 

こういう事件が起きると、すぐに「なぜ」と問いますが、理由なき殺人はあります。

いわゆるシリアルキラーです。

彼はそうなる素質を持っていたのです。

環境なのかDNAなのか、脳の障害なのか、それはわかりませんが、心の奥底に潜んでいた魔物が姿を現したって感じですかね。

でもどこかに前兆はあったと思うんですが。

 

何の罪もないのに殺された女性2人と警官2人のご冥福をお祈りします。

 

精神医学の分野でこういう事がもっと研究されるといいのになと思います。

日本の精神医学は対処療法ばかりで薬を与えればいいと思っている。

だけど、実は多くの危険人物がうろうろしている可能性もあるんです。

本人のせいではないかもしれないし、今時の精神病院はなかなか入院させないけど、でもどこかに隔離した方がいいと思われる人達が一定数いることは確かですよね。

今回は家族に向かず他人に向かった事が事件をより大きなものになりました。

 

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宮内庁長官に反省させた雅子さま

2023-05-26 07:00:00 | 皇室報道

毎日天気が違うし、気温も上がったり下がったりで喉が痛いです。

マスクして窓口対応してたら「聞こえないよ」って言われたので外しましたよ。

しょうがないなあ・・・・

さて、記憶も新しい令和最初の園遊会は散々でした。

 2時開始の筈が、いつまで経っても天皇皇后が到着しない。出席者は1時から立ちっぱなし。

 2時半になってやっと天皇皇后登場、そこから延々と1時間以上、しゃべくりまくって、秋篠宮以下皇族をだんご状態に。

という流れでしたね。

いわゆる「雅子さま大好きだわ」達は、「遅刻したのは紀子様だ」とか言い出すし、

「遅れてない」の一点張り。

でも事実として、ミヤネ屋を見てたけどいつまで経っても始まらない園遊会に、山下晋司が「雨だから止むまで待とうかみたいな話をしているんじゃないか」と場を繋ぐも、わりと沈黙。

実際には2時になっても赤坂御用地に到着してなかった事が判明。

知ってる芸能人やスポーツ選手などには積極的に話しかけ、ながなが喋りまくる雅子皇后。

「雪・・じゃなく雨なのに」

「よろしかったら傘をどうぞ」

「お待たせしました(笑)

「(卓球とスケート選手に)お二人は一緒に競技をしたりするんですか?」

「フェデラーとテニスしました」

等々「迷語録」を残し、せかす側近を無視して天皇と列席者の会話に割り込む始末。

どしゃぶりの雨の中、3時間立ちっぱなしだった人々はすっかり疲れ果て・・・

 

この責任は誰が?って当然、本当は天皇皇后なんですよ。

でも、宮内庁長官が反省しちゃった。

反省すべき点が多々ある」

「雷雨への対応を検討していなかったこと」

「1時間ほど時間が延び、多くの人が濡れたまま待つことになった

「多々」の中のほんの一部で、「秋以降は改善したい」そうです。

 

しかし、果たして秋以降に改善できるんですか?

「遅刻」常習犯の皇后に「時間をお守りください」と言えますか?

長話で一方的にまくしたてる皇后に「黙って」と言えますか?

先日の赤十字大会でも雅子さんが延々としゃべり、また紀子様が後ろに下がる羽目に。

2年連続この状態ですので、とても「反省」「改善」が出来るとは思えません。

予定を発表せず、いきなり「船員戦没者慰霊祭」にドタ出するっていうのも、十分、反省材料じゃないか?と思います。

何でも横須賀のレストランに行くための公務だったって?

おいおい 本当にやりきれないなあ。

 

ところで、インドネシア訪問はどうなったの?

1ヶ月前ですけど。

時間を守れない。

相手の立場に立てない。

右往左往するんじゃないかと思うと、海外は御免被りたい・・・のが宮内庁の本音では?

じゃあ、「超ご優秀」な愛子内親王が行ってはどうか?

国内では一度も公務なし、墓参りすら出来ない内親王ですけど、それでも「超ご優秀」でスペイン語と英語がお得意。新しい女官にそういう人もついたし、やってやれない事はないのでは?

なんせ留学を本気で考えてるなんて週刊誌に書かせるくらいですからね。

 

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臨機応変や機転が出来ない天皇皇后

2023-05-25 07:00:00 | 皇室報道

 傷口に塩を塗り込む週刊誌 

 

さて、佳子様は杜の都仙台へ。

今の時期の仙台はみどりが一杯 駅前の通りがけやきの葉で影を作ります。

青葉山も涼し気で、美術館がある場所は東北大の敷地のすぐそば。広瀬川を見て遠くにかすむ山々が懐かしい。

美術館が出来たのは私が高校生の時だったかな・・・一度か2度行きましたよ。

全国都市緑化祭にふさわしい土地は仙台が一番だと思っています。

そんな所にいらした佳子様。

「杜の都と呼ばれるここ仙台では、伊達政宗公が城下町を築く中で植樹を奨励していった屋敷林が周辺のみどりと一体になり、まち全体にみどりが広がっていったと伺っております。昨日、仙台に到着し、空に梢を広げる木々の美しい新緑を眺めながら、杜の都と呼ばれるゆえんを実感しました」

ありがとうございます。ええまあ、武士階級が自給自足できるように木を植えろと言ったとか、昭和の仙台市長が金がかかるのもいとわずにけやき並木を作ったとか、色々言われておりますの。

背景が美しく、佳子様の美がより引き立ちます。

 

そして秋篠宮殿下は山口県宇部市へ。

動物園水族館協会の総会に出席。

 その後、常盤公園でコブハクチョウを視察。

 

さらに。

今週の予定が全く報道されなかった天皇皇后がドタ出、当たり屋か?と思われる程突然、横須賀に登場。

第50回戦没・殉職船員追悼式に出席。

二人とも眠そうな顔に見えて・・・・・(笑)

天皇 「大変な思いをなさって来たでしょう」

皇后 「お身体に気をつけて下さい」

天皇の「大変な」って言葉、毎回使うけどこれって何の意味があるんでしょう?

どんな大変な思いをして来たと思っているのか?と逆に問いただしたくなりますよね。

この式典は2020年に予定されていたのですが、延期されてこの日に。

さて、タイトルの事ですが。

外なのに、またもマスクで、回りもみんなマスク。

この所、「5類になってマスクの着脱は個人の判断」となり、マスクを外している人もみかけるようになりましたが、その事で若い人がマスク姿の老人に怒鳴られるという事例が起きています。

「私がマスクをつけているのになぜおまえは外す?」

「なぜマスク無しでしゃべる」

って怒るらしいんですよ。

コロナへの考え方は人それぞれで、尾身会長などは未だに「マスク着用が望ましい」と言ってます。

しかし、コロナは今はインフルエンザと同等になったわけです。

マスクをしていようといまいと、かかる人はかかるし、かからない人はかからない。

ワクチンを打ちたい人は今年までは無料だから打てばいいし。

でも日本としては、「脱コロナ」で行こうとしているわけですね。

ゆえにG7のサミットでもマスク着用なしだった筈。

なのに、天皇皇后は、そこが屋内だろうと野外だろうとマスクをつけ、当然自分達の回りにもそれを押し付ける傾向があります。

佳子様も秋篠宮殿下もマスク無しで公務をされている。

なのに天皇皇后だけがマスクをつけ、まるで今も「コロナ禍」であるとアピールしているように見えるのです。

 

この二人は、世の中の流れについていけないと感じます。

コロナ禍になった時、真っ先にオンライン公務を開始した秋篠宮家に対し、天皇家は一切外に出ずにオンラインもやらなかった。

愛子内親王などは丸3年以上学校にいかず、皇居の外に出なかった。

そして、「5類に移行」すると、秋篠宮家は順次マスクなし公務が始まりました。

無論、イギリスの戴冠式にもマスク無しでした。

しかし、天皇皇后はマスク姿でイギリスへ行き、なぜか国葬では外し、帰国するとまたも大きなマスクをつけている。園遊会でも、赤十字大会でも。

臨機応変に対応する事がどうにもこの二人は出来ない。

頭の切り替えが出来ないのですね。

周りがどういっても、多分「コロナが怖い」で聞かないんでしょう。

ワクチンを打ってない説は本当かもしれません。

 

日本が海外からの観光客を受け入れ、みんなマスクをしないのに、天皇皇后は「マスクをしろ」と言っているように見えます。

っていうか、それだけ影響が大なんですよ。

5類に移行したばかりの頃は脱マスクの人がいたけど、今は、またマスク生活に逆戻りした感があります。

都内ではそうじゃないかもしれないけど、うちの回りは逆戻りしつつあります。

お年寄りに怒鳴られたら怖い、とか、「お前のせいでコロナになった」と言われたらいやだとか、様々な要因はありますけど。

コロナが怖いなら結核もインフルエンザも、はしかも怖い。

毎日怯えてマスクして家に閉じこもってないと・・・・

周りに「陛下、マスクをお外しなさいませ」と意見出来る人は・・・いないのね。

 

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美しい人は黒が似合う・・・佳子様宮城訪問

2023-05-24 07:00:00 | 皇室報道

佳子様が宮城県訪問です。

まず石巻の被災地を訪問され、献花。

いや、もう何という美しさ。神々しい。

被災地に来て頂き、本当にありがとうございます。

どれ程の魂が慰められた事でしょう。

佳子様は黒が似合う。

安倍元総理の国葬の時も、喪服姿が美しいと評判でした。

よくよく見ると、上と下で素材が違うものをお召しなんですね。

さぞや寒かったでしょう。

佳子様がこのように被災地を訪問して頂く事は大変ありがたいです。

本当は岩手にも行って頂きたいです。ね?

ところで、天皇陛下はドタ出だったのか何なのか、予定にない行動を。

それはなんと荒川の水門を見学する事でした。

こんな近い場所を「視察」って・・・水がライフワークって言っても。

マスクしてる。意地でも外さない気だなと思います。

いつも政府の意向と真逆の事をするって、どんだけひねくれものなんだか。

しかも、かつらがそれとすぐわかる状態だし、とても「視察」じゃないよね。

小学生の社会見学に大勢引っ張り出したって感じです。

水俣へ行け~~~とツイッターではかなり呟かれてます。

 

一部、「テムズの流れに」本の宣伝じゃないかとまで言われちゃって。

でも荒川とテムズじゃ偉く違うしなあ。

それにしても、予定に出さずに行動する意味はどこにあるんでしょうか?

また、この社会見学によって何か完成するものがあるんですかね?

論文書くわけじゃないし、せいぜいどこかで発表するくらいなものでしょう?

「水問題」「と「水門」の何がどう関係あるか教えて欲しいです。

 

まあ・・どうしても一人で皇居を出て散歩したかったという気持ちならわかるけど。

でもマスク外そう。野外なのですから。

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広島サミットの裏で

2023-05-23 07:00:00 | 政治

そう言えば「歌舞伎座の呪い」という言葉を思い出しました。

新しく歌舞伎座が立ってたからろくなことがない。神様をないがしろにした、棺桶に似た箱が悪いと散々言われていたのに、結果、とうとう看板役者の自殺未遂というどうにもならない事件に発展。

「被害者に寄り添ってない」とか言われますけどね、成人した男同士にセクハラも何もないと思う。聞けば可愛がっていた弟子なのに態度が悪くて破門されたから仕返しに雑誌にチクった? そりゃあ絶望するって。芸能界やお水の世界にはやってういい事と悪い事があるんですけどね。

やっと終わった広島サミット。

岸田首相の故郷である広島で行われ、みんな原爆資料館を見るという画期的な事をなしとげた。あの資料館から出て来た人達は悲痛な顔をしていたし、特にゼレンスキー大統領はなんとも言えない顔をしていたし。

だからって「核廃絶に動かなかった」として政府を攻撃する必要がありますか?

核は廃絶出来ません。

それぞれの思いはあるでしょう。

「所詮は78年前」

「可哀想に」「悲惨な歴史だ」と様々。でも経験者と同じ思いには至らないと思います。

G7及び韓国・ウクライナ・インドには「日本は世界で唯一の被爆国」という認識が残ればそれでいいと思います。

核は消えません。あとはどう抑止力にしていくかしかないんですよ。

 

アナウンサーなどがひどく感情的に広島を語っているのを見ると、それはちょっと違うんじゃないかと思います。

現在、戦争中のゼレンスキー大統領だけが感じ取る事が出来る危機感ではないですか?

婦人たちの外交力は素晴らしいですね。

スナク夫人のファッションもいいけど、岸田夫人の着物も素敵です。

岸田夫人のおもてなしは完璧で安心してみていられました。

 

でもそんな広島サミットの裏で。

こんなデモが行われていようとは。

沖縄大学の連中はじめ様々。

全学連とかいうのが後ろにくっついて扇動していたようです。

「反米」なんだろうなと思いますけど、思想が中国中心で情けないの一言。

わざと騒いで警察は横暴だ~~というのが目的だったらしいですね。

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性加害・性被害の線引きと対処は今後の課題(男同士のね)

2023-05-22 06:00:00 | ドラマ・ワイドショー

明治座で公演中の猿之助の歌舞伎。

代役に立った市川團子に涙一杯でスタンディングが起きたと言います。

 わずか19歳で代役を務める重圧に負けず、至らない点も多々あったでしょうけど、観客の温かい拍手に支えられた舞台だったのだろうと思います。

舞台ファンは決してこういうの、嫌いじゃないのね・・むしろその場に居合わせたかったなと思う程です。

もう一人の代役・中村隼人も「大富豪同心」の主役でかなり人気がある人。

若手をしっかり育てていたんだなと感動します。

宝塚でもトップが突如休演した場合、2番手が繰り上がる事がありますし、新人公演主役が抜擢される事もあります。

「エリザベート」初演の時は、一路真輝が万が一に陥った時の為に2番手以下が全部役代わりでやったとか。

その場でしか味わえない感動が舞台のいい所です。

ところで猿之助の演目「不死鳥よ波濤を越えて」は宝塚の演出家である植田紳爾作です。そう「ベルばら」の作者です。

本当に申し訳ないけど左のポスター見て「マグマ大使みたい」と思ったのね。

でも、いわゆる平知盛が壇ノ浦で死なずに生き残り、外国へはばたいた・・というような話だそうで、へえ~~初演当時としては斬新かなと思いました。

でも私は「あれ?こういうの、宝塚でなかったっけ?似たような名前の」って検索したらありました。

同じ「鴎よ波頭を越えて」という作品が。

この「鴎よ」は1970年の作。1968年に初演された「メナムに赤い花が散る」の姉妹作品。「メナム」は山田長政の話で、「鴎よ」はその子供の話。

ざっとストーリーを見ただけで面白そうだなと。

演出とかセリフとか全部変えて新しく生まれ変わらせることは出来ないものかと思いました。

「不死鳥よ」は1979年の作ですし、内容も違うけど、頭の隅っこに「鴎よ」があったものと。「鴎」の演出には尾上松緑が入っていますしね。

雑学でした。

男は彼女を好きだと思った。

「いい?」と聞いたら彼女は下を向いていた。

OKだと思って男は彼女にキスした。これで彼女が笑ったらめでたしめでたし。

でも実は後から彼女が「実は怖くて何も言えなかった」と言ったらそこで男は性加害者になり、女性は被害者になる。

正直、こんな事が多々あったら男性は怖くて女性に近づけません。

だって、表情だけでは本当に何を考えているのかわからないんだもの。

常に「合意の上」という言葉があるけど、「違う!」と言い張る人がいれば簡単に男は犯罪者になってしまうわけです。

 

女性セブンの猿之助記事は、「痴態を繰り広げていた」という、誠に衝撃的でこれ譲ない程恥ずかしい文面が並んでいます。

見出しと小見出しだけでも死にたくなる人多数と思います。

猿之助は「ある事ない事書かれた」と呟いていたそうです。

 取材を受けた日、楽屋で平謝りをしていた

 家族で話し合い、死のうと思って薬を飲んだ

 遺言書には家族以外の人物に財産を分与すると書かれていた(マネージャー?)

 謎の部分。

両親は向精神薬を飲んだと言われていますが、今時、向精神薬を大量に飲んでも死なないんです。恐らくハルシオンだろうと思うんですが、誰が何の為にこんな強い薬を処方されていたのか。

 父親の段四郎氏は療養中で寝たきりとも言われていましたし、母親は認知症の気があったと言われ、年老いた両親に一人息子のスキャンダルは生きる希望を打ち砕くものだと思われますが、それにしても完璧な一家程脆いものと感じざるを得ません。

反論せず、否定もせず、ただ潔く死ぬというのは誣告された人がよく行う事です。

香川照之の例を見てた猿之助としては「本人がいくら違うと言っても世間は聞かず、イメージばかり先行してテレビ局はあっさり俳優を切るし、事務所も庇ってくれない。謝罪しても干すし、視聴率に貢献してきても関係なし。

人間だれでも表と裏があり、特に役者のストレスは仕事にまい進する程きつくなっていくわけで、どこかでストップをかける人が必要だった筈だけど、誰もいなかった。

 「これ以上はストップ」と言える人が誰かいればと思います。

いや、マスコミは「忖度」とか「殿様気取り」とかいう言葉で貶めるけど、何でも加速し始めたら止まらない事もあると。

コロナ禍のストレスは多くの舞台人間に悲劇をもたらしましたが、猿之助も例外ではなかったって事ですね。

 けれど、セクハラ・パワハラといっても、証拠があるわけではなく、どこの誰が告発したかも明かされず、それを嬉々として書く週刊誌の正義がわからない。

妬みやそねみが満載の役者の世界で、「仕返し」だったのかもしれないし、やきもちによるものだったかもしれない。

勝手気ままに書きなぐった週刊誌は歌舞伎界の重鎮を潰した責任をどう取るのか。

 せめて猿之助のご両親の葬儀くらいはきちんとして挙げて欲しいです。

ジャニー喜多川氏による性加害は全く別問題。

藤島ジュリー景子が「知らなかった」と言ってもそれは嘘です。

マスコミ・テレビ局総出でジャニーさん、いやメリー喜多川氏の怒りを恐れてみても見ぬふり、知っても知らぬふりをして来たことは大きな罪です。

かねてから、「サンデーLIVE」で東山紀之がどんなコメントをするのか注目されていましたが、以下の通りでした。

先週事務所より喜多川氏に関する公式見解が出されましたので、私自身の考えを伝えさせていただきます。

この件に関しましては、最年長である私が最初に口を開くべきだと思い、後輩たちには極力待ってもらいました。

彼らの心遣いに感謝します。

今回の喜多川氏に対する元Jr.たちの勇気ある告白は真摯に受け止めねばなりません。実際に被害を訴えられていることは本当に切実で残念でなりません。

未成年に与えた心の傷、人生の影響ははかり知れません。

今回、事務所から再発防止策が出されましたが、我々もどのような未来を迎えるべきなのか、現在在籍しているタレントはどうすべきなのか、告白された皆さんにどう対処すべきなのか、そもそもジャニーズという名前を存続させるべきなのかを含め、外部の方とともに全てを新しくし、透明性をもってこの問題に取り組んでいかなければならないと思っています。

心を痛めた全ての方々、本当に申し訳ありませんでした。

今後は今いる皆とともに、安心して応援していただけるよう、一丸となって全力を尽くしてまいります。

日曜の朝にこのような話をしてしまい、重ね重ねお詫びを申し上げます。

 

その前にニュース番組に出演した櫻井翔がこの問題になるとテレビ画面からフェイドアウトしたという事があり、彼に対する評価が下がっていました。

しかし、今回東山氏が述べた通り「後輩には待って貰っていた」という事で、櫻井翔も救われたことになります。

ここまで心遣いをするってすごいと思いました。

私は櫻井翔が消えたのは藤島ジュリーの指示と思っています。

そういうものを東山氏が全部被って上記のような文章を発表するのは、本当にすごいというか、やっぱりこの人こそ「ジャニーズの頂点」なのだと思いました。

だって、赤字で書いた部分、本来は藤島ジュリー景子が言わなければならない事ではありませんか?

社長でもない、会長でもないただの最年長である東山氏がこれを言うというのが、どういう事なのか、考えて欲しいのです。

 

 メリー喜多川と森光子との関係

この二人の仲のよさから、森光子が東山紀之の後ろ盾となり「恋人宣言」したわけですね。今では馬鹿な話と思うのですが、昭和にはよくある事。

例えば近藤真彦の後ろ盾には黒柳徹子が、タッキーの後ろ盾も森光子だった筈。(&細木数子)

この時点で「将来のジャニーズ事務所の社長は東山紀之」と言われていましたよね。

でも、彼が木村佳乃と結婚したあたりから関係性が代わり、また森光子死去の後、財産をメリー喜多川に残さなかった事から東山紀之の社長職就任は白紙に。

 ジャニーズ事務所の頂点は近藤真彦

メリー喜多川の中では近藤真彦こそ、ジャニーズ事務所の長と思っていたようです。

ゆえに、近藤がほとんどタレント活動しなくてもそのまま給料は支払い、最年長のドンとして君臨したのです。

 滝沢秀明の役員就任とジャニーズアイランド社長就任と退所

その近藤がコロナ禍でスキャンダルを起こし、退所を余儀なくされ、ジャニー喜多川お気に入りの滝沢秀明が自分の俳優としての役割をなげうって裏方に回り、様々なタレントを誕生させプロデュースして来たのですが。

ジャニー喜多川&メリー喜多川の死後、引き継いだ藤島ジュリー景子と滝沢の相性は決してよいものではなく、結果的に滝沢は退所。

それに伴い、沢山のタレントが事務所を後にしました。

 現在は滝沢秀明が立ち上げたジャニーズアイランドの社長は井ノ原快彦

ジャニーズアイランドはジャニーズ事務所の子会社になります。

ジャニーズジュニアの育成から海外のデビューなどを手掛けている。

 

つまり東山紀之は最年長とはいえ、役職なしの1社員に過ぎないんですよ。

なのにいつも重大な局面では一番言って欲しい事を言ってくれる人です。

近藤真彦の退所の時も言及したし。

何だかそんな役割だなと思いつつ、今になって東山紀之の存在感を感じますね。

 

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