ふぶきの部屋

侍ブロガー、ふぶきが宝塚とドラマ、皇室からワイドショーまで語ります。連載中の小説もお見逃しなく。

世界配信の皇太子夫妻

2015-07-04 19:45:36 | 皇室報道

 何とかまともな写真はないものかと。

でも結局、世界配信されちゃった(どの国の記者が写真をとっても・・・・・)

以下、セリフつきでどーぞ。

ああ本当に久しぶりだねえ」

「海外っていいわあ。日本みたいに堅苦しくないし。みんな私を批判しないで

日本の未来の皇后って扱うしね」」

「33億円は着いたかしら?貧しい国への訪問をする私は未来の皇后」

 

ふん。私を誰だと思ってるの?未来の皇后よ」

 

しっかり前向いてなくちゃ。私は未来の皇后なんだから」

 

だけど気になるーーむずむずむずむず。でも頑張らないと。即位の大礼に向けてね。

カメラはどこ?カメラは。明日、皇后になるかもしれない私の歴史をちゃんと写しとって」

僕達の即位の大礼も洋装がいいかな」

うんうん。十二単なんかやだもんね

じゃあ、そうしよう」

「うんうん。そうするそうする

 

 

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皇太子夫妻 IN トンガ2

2015-07-04 17:30:00 | 皇室報道

 さてもさてお目出度いトンガの戴冠式。

南の国の王様は日本から33億円を貰ったって。

そりゃあ皇太子夫妻を大切にするでしょうよ。ねえ。

 

王様。ツボウ6世。インテリジェンス。

ツボウ4世の息子にしてツボウ5世の弟。

今時みない戴冠式の衣装だなあ・・・・フランスっぽいような?

王妃様。

非常に格式の高い戴冠式なんですね。御付の方のドレスも素敵。

いいよいいよ。太っていても。こんなににこやかで健康そうなら。

 

さて。

列席者はこんな感じ。でももっと王族方の衣装がみたいよねーー

これから色々出るかしら?

雅子妃は新しいドレスをおつくりに。オランダの時とは全く違う。

これじゃオランダが気の毒だわーーと・・・こういう差別をする事がおかしいんだって

いつになったら気づくのやら。

映像では、二人とも段取りがわからずきょろきょろする場面が多数みられました。

特に雅子妃はあっちをむいたりこっちを向いたりせわしなく。

 どっちを向いても顔を一度は横に向けて

「ああああはいはい」的な頷き方をするのはなぜかしらね。

何と言ってもこの一枚。「私こそ女帝」風座り方。

しかもしっかりカメラ目線。とにかくどこに居てもカメラをみつけては目線を送るお妃です。

 戴冠式式場を出る。

NHKによると、この時沢山の人から拍手が沸き起こり、皇太子夫妻はにこやかに

手を振っていたんだそう。

今回の戴冠式は「雅子様が主体的に見極められた」事らしいです。

 昼食会。

皇太子は添え物扱い。日本のマスコミは全て「雅子様が一番」と報道しています。

はっきりいって「皇太子夫妻」とは言ってるけど、当の皇太子なんてどうでもいい

扱いよね。

それがダイアナ妃並みに美しければしょうがないとも思うけど、どうして51歳の

皇太子妃がここまで持ち上げられるのか疑問です。

とはいっても、皇太子妃だからこそこんな素晴らしいドレスを作って貰えるのよね。

 

 

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皇太子夫妻 In トンガ

2015-07-03 20:00:00 | 皇室報道

 相変わらずマスコミのAGE報道にはまいるなと思いつつ。

本当の「言論の自由」って何でしょうか。

右も左もなく意見を出し合える環境ではないかと思います。

片方が何か言ったら即「言論封殺」といって騒ぎ立て、反対側の意見を

言えなくすることではありません

現実問題として沖縄の2紙は戦後すぐから左翼でしたよね。それがますます

ヒートアップしている。その理由は翁長知事。

知事のお墨付きを得たわけですね。

そもそも「二誌なんかなくなった方がいい」とか「懲らしめたい」とかいうのは

別にどうって事のないセリフです。

それを大げさに「言論封殺」「言論弾圧」と騒ぐのは反日です。

昨日職場で見た赤旗新聞の1面にデカデカと「言論弾圧!」とか書いてあって

ああ・・・・と思ってしまいました。

 

いちいち総理大臣が謝ったり遺憾の意を唱えたりしてもいいものですか?

こういう輩には逆に「これこそ言論の自由を奪ってる」と言ってやればいいのです。

小泉さんのように「人生いろいろ」的な答えがなんで出来ないかなと。

懲らしめたい」と「懲らしめるぞ」は意味が違う

左翼からすると「懲らしめたい=虐待」と受け取るんでしょうね。

だけど、これらの無知な輩の曲解が国を動かす事もあるのです。

だから私達は騙されてはいけないのです。

秋篠宮家貶め記事に関しても、もし、どこかが抗議したら「言論封殺」と

騒ぐでしょう。

つまり反日からすると保守の言う事には全て「言論封殺された」と騒げば

いいんですからやってられない

対抗しようがないのです。こっちが冷静になればなるほど騒ぐので。

大人と子供、どっちが勝つか。子供です。

じゃあどうしたら。

言論の自由とは何か」という事について国会で議論してみればいいと思います。

また、世界的に見て日本の在り方がどうなのか。きちんと保守派は意見を言うべき。

命をかけて欲しい。と・・・思います。

さて。

皇太子夫妻がトンガに到着しました。

いやーなんだろう。この自信に満ちた妃の姿は。

これが適応障害?体調の波?なんだそれ?って感じです。

むしろ「世界は私のもの」と言っているような女帝の輝きですわ。

 

雅子妃がこの女の子と頬をくっつけて挨拶した・・・・とか言うんですが

実際はさっさと立ち上がった?しかもよろめいたとか何とか?

あら、お疲れなのかしら?

っていうか暑くないの?

 

ああ・・外国っていいわーーって顔。

 

そしてさっそく、海外青年協力隊は皇太子のみなのでした。

雅子妃はホテルで「ご静養」だそうです。

あの自信に満ち溢れた女帝っぷりがどうやってホテルで「静養」?

ベッドで寝てるとは思えないし。

やっぱりインペリアルスウィートの部屋の中でワインか?

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禍々しいご出発

2015-07-03 07:00:00 | 皇室報道

 修学旅行以来の京都行きに心はちょこっと舞い上がっておりますが

たまき様とミロ様の九州・・・も、やっぱり魅力的ねーー

色々情報をありがとうございます。

だけど、実現に向けて大事な事があります。

それは、現地で実際に動いて下さる方が必要という事です。

例えばジュゴン様が予約して下さった会場に下見に行ったり、ご挨拶を

して下さったり、二次会の場所を設定して下さったり。

今回はありがたくも複数名、そのような方がいらしたので無事に開催できそうです。

ヅカっぽく言えば「九州の代表さん」が必要なんです。

もし、お手伝いいただける方がいらしたらご連絡ください。

お役所では夏になると「戦没者弔意金」と「被爆者見舞金」支給の受付が始まります。

今、働いている所では数名、そんな方がいらっしゃいます。

今日も「被爆者見舞金」の請求にいらした方が・・・・

被爆者手帳を見たら5歳の時に被爆したようで。

どちらで?」と聞いたら「広島。でもね、爆心地から遠かったからね

覚えていらっしゃいますか

勿論。非難する道々、水くれーとか沢山の人がうめいてたよ。だから私は

戦争反対なの。戦争はもう絶対に嫌」

そして帰り際「ありがとう」とおっしゃいました。

何で「ありがとう」なんだろう・・・・ああ、きっと、ずっとそんな話、してこなかったんだろうなと。

たまにはそういう昔の話を思い切って聞くのもいいのかも。

だけど、「だからアメリカは嫌い」ってならないのが日本人なんだよなあ

原爆を落としたアメリカより、落とされた日本、戦争をした日本が悪いって理屈だもの。

被爆者ですらこうなら、戦争を知らない若者たちが左巻きになるのも

仕方ないのかもと思い。

皇太子夫妻がトンガに向けて出発したようです。

飛行機は18分遅れで出発。

 この一瞬が怖いのよ。

まるで普段着のような・・・「ちょっくら行ってくるからーー」って。

ただただもう

「飛行機に乗って外国へ行ける私」というものに寄っていらっしゃいます。

それにしても髪がばっさばさ。

スタイリストはついていくのよね?

 

どこまでも主役は雅子妃。

トンガでは戴冠式と国王主催の晩さん会以外は「ホテルで静養」だそうです。

何しに行くの?また小和田家と密会か?

トンガによると「どの国の人にも「重要な儀式以外は出なくていいよ」と言ってます」

だそうです。そうは言っても全部出席するのが礼儀ってもんですが

この方に「ぶぶ漬け」は通じません。

国旗の下に顔を出すんじゃない

トンガのみなさん、このお二人は別に日本にとって大事な人じゃないので

勘違いしないでね。

いくら日本から沢山のお金を貰っても親切にしなくてよろしいのよ。

そんな事より、「誰のおかげで即位式が出来ると思ってんのよ」とか言われて

横柄に振る舞われないようにして下さい。

日本人からのお願いです。

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ラブラブな25年目の対談  4

2015-06-29 08:12:49 | 皇室報道

紀 子 「こちらこそ、いつもこまやかにお教えくださり、また健康面も気遣ってくださり、

     深く感謝しております。

     また、一緒に生活をするようになってからわかったことですが、

     食べ物の好き嫌いがほとんどありませんね。私は、いくつか苦手なものがありますが…。

     食材を自由に選ぶことができて、助かっています。

      旅先でもいろいろな郷土料理を一緒に楽しむことができ、

      食文化に親しむ機会が増えたように思います。

      ほかにも、用事が立て込んでいましても、余裕をもって時間を守られていることには

     敬服しております。

    私は自分の時計の針を早く進めても、遅れ気味になってしまいます。

    もっとも、行事の前に私のところにいらして、あと何分と言われると、

   プレッシャーを感じますが…。

     お互いの気づきや発見がいろいろあり、自分と違う考え方だなと感じるいっぽうで、

   共有できる見方もありました。また、理解するのが難しかったこともあれば、

   言葉を交わさずとも心が通じ合うようになり、助けられたことも多々ありました。

秋篠宮 「そうですね。結婚するまでまったく異なるところで暮らしてきたわけですから、

      考え方などで共有できるところとそうでないところがあるのは当然のことでしょう。

      その上で、我が家の場合に限って言えば、経験を共有することと

      趣味を共有しないことがよかったと思います。

      経験は共有することで将来的に発展しますが、

     趣味、たとえば、あなたが瓢箪(ひょうたん)に興味をもってそれを共有したとすると

     競ってしまいますので、良好な関係でなくなる可能性大です

     趣味はそれぞれ楽しみましょう。

紀 子 「それぞれの趣味もありますが、一緒に音楽を聴いたり、自然に親しんだり、

     旅行にでかけたりという時間も楽しいですね。

〈夫、妻、親として〉

秋篠宮 「さて、ときどき夫もしくは親としてどのように認識されているのか

     気になることがあります。あなたも同様でしょう。最後に評価でもしてみませんか?

紀 子 「気にしているかどうかわかりませんが、面白そうですね

秋篠宮 「本来であれば、第三者、まったくの第三者というわけにもいかないので、

      私以外の家族に委ねなくてはいけないのでしょうが、

      それをするにはまず自らを振り返ることが必要です。

      とはいうものの、あなたと子どもたちから私の評価を聞くことは、

      今までの自分の行いを考えると少し怖い気もするので、

      今回はあくまで自己点検・評価でいきましょう。

     きちんとした項目立てをして、優・良・可・不可で客観的に点検および評価を

     したわけではありませんが、漠然としたメルクマールからすると、

     私の場合には限りなくボーダーラインに近い「可」といったところでしょうか。

紀 子 「私も仲良く「可」にいたします。いろいろな可能性を秘めている

      「可」ということでいかがでしょうか。

秋篠宮 「おたがい、改善点が多いということですね。

      「良」や「優」は、今後の努力目標とすることにしましょう。

紀 子 「はい。これからも、可能性を大事にしつつ、努力目標にむけて一緒に年を 

     重ねていくことができれば幸せに思います。

秋篠宮 「それでは、このあたりで終わることにしましょうか。

紀 子 「そうですね。ありがとうございました。

 導火線が短い殿下ならではの「プレッシャー」

   長く付き合っていても「うるさいわね」と思いそうなものですが。

   はっきりと「「プレッシャーです」と言えるから、適応障害にならないのだと思いました。

 また「可」という評価。こんな評価のつけかたもあったのだと思いました。

   私達はついつい両陛下にならって「感謝状」だとか「100点」だとか想像しがちですが

   「可」でいいですよ。結婚50年目に「優」になっていれば。

   謙虚で素晴らしいなと思います。

 ご結婚記念日、本当におめでとうございます。

   これからもご家族仲良くお過ごしくださいませ。

 

 

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ラブラブな25年目の対談  3

2015-06-29 08:10:31 | 皇室報道

紀子 「すてきですね。私も眞子より母の日に羊の親子のカードを受け取りましたときは、

    胸が熱くなりました。

秋篠宮 「佳子とは比較的最近のことですが、珍しく一緒に買い物に出かけたことがありました。

      父親にたいしてつっけんどんな態度のことが多いのですが、

      意外と優しいところもあり、私が自由に選んだものについて、

      代わりに会計をしてくれました。もっとも、帰りに彼女にそのまま荷物を

      持たせていたら注意されましたけれどね。

紀子 「ほほえましいですね。佳子が小さかったとき、

    誕生日によく手作りのものを贈ってくれました。

     幼稚園のときだったでしょうか。私の誕生日に2つの贈り物を考えていたのですが、

     先に作った貝殻の贈り物を私に見せたくて、早めに渡してくれました。

     そのあと、誕生日にもうひとつの贈り物をもらい、

     お祝いを2回してくれた、かわいらしい思い出もあります。

秋篠宮 「悠仁もしばしば折り紙などの作品を届けてくれます。

     上の子どもたちと同様、もらったものには年月日を付して

    、飾ったり、保存したりしています。

     最近は、絵も上手になってきましたね。

     自分が絵を描くことが下手なので言うわけではありませんが、

    何かを観察してそれを絵として表現できると旅をしたときの記録として

    意味が出てきますので、どんどん描いてほしいものです。

紀子 「絵を描いたりするほかにも、切り紙をしたり、

    厚紙で入れものをつくったりしながら、

    いろいろなものを創り出すことを、悠仁は楽しんでいますね。

    私たちの手許(てもと)には、子どもたちの小さいときからの作品がいくつもあります。

    どれも大事な宝物。普段なにげなく描いた絵から、

     本に登場する主人公や生き物などを描いたものが廊下の壁にかかり、

    折り紙やペーパークラフトが部屋に飾られています。

 

〈結婚したころと今と〉

 紀 子「 ここで、結婚したころと、それから25年たった今のお気持ちを伺ってもよろしいでしょうか?

秋篠宮 「このような機会がないと考えることもないですからね。

       1990年というのは、ついこの間のことのように思えますが、

       やはり相応に時間がたっているということを感じることはあります。

      仕事や研究などでいろいろな事柄を解釈・判断するときに、

      若いころでは思い至らなかったことが多々あると感じます。

      そのことで、ずいぶんと周りに迷惑をかけたことがあるように思います。

     もちろん、いまだに不十分で、反省と後悔すること多々ありです。

     精神年齢が未だ20代から進化していないのでしょう。

紀 子 「私も結婚をしたころは、慣れないことや戸惑うことがあり、考えすぎることや

    力を入れすぎて、ご迷惑をおかけしたことがいろいろあったのではないでしょうか。

    今は遅ればせながら、力を抜くこつが少しずつわかってきたように感じていますが。

    このようなことにも「進化」という見方があるのですね。

     今でも、20代のときのような探究心や若々しい感性や創造性をおもちに

    なっているのではないでしょうか。

    例えば、研究会に参加されているときには、そのように強く感じることがあります

秋篠宮 「たしかに研究会等への出席は、今まで自分がもっていなかった知識を

      得る機会にもなり、有意義に感じることが多くあります。ま

      だまだ好奇心は残っているなと。出かける前と帰ってきた後とでは、

      テンションが違うと感じることがあるでしょう

紀 子 「はい。お話しくださる様子から、心がはずむ時間を過ごされたのではないかと

     感じることがあります。

秋篠宮 「いっぽう、フィジカルな面は劣化していますね。

     走り回ることについては、佳子が小学生の時にリタイアしてしまいましたが、

    最近不便に感じているのが老眼。

    もともと遠視があったので遠からずそうなるだろうと予想はしていましたが、

    眼鏡が放せなくなってしまいました。まあ、いたしかたないことではありますが。

紀子 「私も小さい字が急に見えにくくなりました。

     また、疲れたとき、回復する時間が以前に比べてかかるようになりました。

      毎朝のように散策をされたり、休みの日には庭仕事をされたり、

     よく身体を動かされていますね。週末は、散策に私も誘ってくださいますので、

      四季の移り変わりを感じながら歩くこの時間は、健康のためにも、楽

     しみのためにもありがたいです。

秋篠宮 「25年というと、親・兄妹と過ごした年月より長く一緒にいたことになります。

      それだけの期間をともに過ごしていれば、共有することができた貴重な経験は

      数多くあります。また、誰かの言葉を借りれば導火線が短い私ですので、

      口論も多々あるのはごく普通のことでしょう。そのようななかで、

      ほとんど言葉に出さないので不満かもしれませんが、

      感謝の気持ちもきちんともっていますよ。

紀子 「それはうれしいです。

秋篠宮 「さまざまな書類、私の所に届くまでに不明な点などを整理しておいてくれますね。

      これは非常に助かっています。

紀子 「まだまだ至らないところもあると思いますが、そういう面でもお役にたっておりますなら、

    幸せです。

秋篠宮 「また、昔から何故か階段を踏み外しやすいことから、階段のあるところでは

     、滑り落ちないようにさりげなく支えてくれていますね。

     周囲から見ると、私があなたを支えているように見えているかもしれないけれども

 顔から火が・・・・出そうな程ラブラブ。

   照れながらおっしゃる秋篠宮殿下とそれをさらりとかわす紀子妃。

   絶妙だなあ。

 

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ラブラブな25年目の対談  2

2015-06-29 07:51:38 | 皇室報道

 結婚の日と生活

 

秋篠宮 「さて、1990年6月29日の結婚の日は、結婚の儀にはじまり朝見の儀、

       その他の諸行事が朝からたくさんあり、夜の10時頃でしょうか、

      一息ついたときにようやく結婚したことを実感した記憶があります。

      もっとも、その翌日からもいろいろと行事があったので、

      何となく慌ただしかったですけれどね。

紀子 「はい。このよき日の行事を滞りなく終えたときは、安堵(あんど)いたしました。

    大学院生としての日々から、公的な仕事をする生活となったことは、大きな変化でした。

    そうした中で、折にふれて、両陛下が導いてくださり、あたたかくお見守りくださいました。

    各宮妃殿下方にも、行事の所作や服装などを丁寧に教えていただきました。

    さまざまな形で多くの人から支えられましたことを、ありがたく思っております。

秋篠宮 「少しばかり新居となった家のことを話しましょうか。というのは、

       私にとって10年ほど過ごしたこの家には、けっこう思い出があるからです。

      当初、宮内庁は新婚の我々のために、仮住まいではあるけれど同じ場所に

     新たな家を建てることを考えていました。しかし、いずれ何処かに居を構えるのに、

      仮住まいのためにたて直すその計画は無駄が多いように思い、

     現存している建物を一部改築して使いたい旨伝えました。

      たしかに大勢の人とそこで会うのには適当ではありませんでしたが、

     こぢんまりとしていたぶん、非常に落ち着く場所でもありました。

     玄関を入って少し大きな声で呼べば、どこにいても大抵聞こえたのではないでしょうか?

     結婚後の生活をあの家でできたことはよかったと思っています。

紀 子 「約60年の木造家屋を、二人で過ごせるように直して、新しい生活がはじまりました。

     そして、娘たちの誕生にあわせて部屋を増やしました。

     その中で、娘たちは成長していき、子どもたちの元気な声が響き、

     ギターやピアノの音もよく聞こえる、温もりの感じられる家でした。

秋篠宮 「今の家からは近くにあるので、この前行ってみたのですが、

      子供たちが小さい頃に遊び回っていたことを想い起こし懐かしく感じました。

      彼女たちも気に入っていましたよね。

紀子 「はい。今の家に移りましてから、またあちらの家で住みたい、と娘たちが話して

     いたこともありましたね。

 

〈日本国内・海外の訪問などに関連して〉

秋篠宮 「ところで、結婚後には公的私的は別にして、日本の各地や海外を訪問する

      機会がたびたびありました。

      また各種の行事にも出席をしてきました。訪問場所や行事そのものというより、

      それらに関連して何か印象に残っていることはありますか?

紀子 「この25年の間に、日本国内、国外でいくつもの場所を訪問し、行事に出席いたしました。

    そして、さまざまな出会いがあり、多様な分野の人のお話を伺ったり、

     取り組まれている活動を見せていただいたりするなど、貴重な経験をいたしました。

秋篠宮 「そうですね。各地で温かく迎えてくださる方たちがいることは、

      うれしいしありがたいことです。

紀 子「また、健康作り、子育て支援や食育など、幼児から一人暮らしの高齢者まで地域の人々の

     暮らしを見守っている方々にも多くお会いしてきました。心強い活動と感じています

秋篠宮 「私の場合には、たとえば学術や環境関係の授賞式等でご縁の

      あった人や団体が、その後さらに発展した形で社会への

      貢献をしたときなどは、とてもうれしく感じます。

     公的ということに関連して、あなたもよく知っているように、

    皇族には国事行為の臨時代行以外に公務は存在しません。

    あくまで公的な行為もしくは活動であり、言葉としてきちんと区別するべきものと考えます。

    そのような公的な仕事は、公務と異なりある程度自分の裁量で

    取捨選択ができてしまう。そのようなことから、声をかけていただき、

    それらが適当と判断されたものについては、

    できるだけ応えるように心がけてはいます。

紀 子 「私もそのように努めてまいりました。

      そして、公的な活動でも、生活の中でも、宮家に関わる宮内庁や

      皇宮警察の職員をはじめ、さまざまな形で支えてくれる人たちが

      いることを大切に思っています。

秋篠宮 「いっぽう、これは私的なことになりますが、

     国内外であなたとは一緒でなく訪れている場所もけっこうあります。

     なかには、一緒に行ってみたい場所もありますので、

     近い将来の楽しみとして考えることにしましょうか。

     ちなみに、この時は眞子と一緒だったのですが、

     かなりの悪路ではあるものの、マダガスカルのチュレアールから

     ムルンベへ行く途中に3種類のバオバブやパキポディウムを見ることができ、

     コーデックス好きにとっては素晴らしい12時間半のドライブを楽しみました。

     もちろん、ほぼ同じ時間をかけて帰ってきたのですが、

      ムルンベのバオバブの景観は本当に素晴らしいですよ。

紀子 「いつか見てみたいですね。

 

〈子どもたちのこと〉

 紀子 「子どもたちが小さいときは動物園や博物館にでかけ、また、一緒に旅行もしました。

      その他にも、子どもたちとはたくさんの思い出がありますね。

秋篠宮 「先日、英国にいる眞子から父の日のカードが送られてきました。

      普段は必要最小限の連絡事項をメールでしているだけなので、

      妙にうれしい気分になりました。久しぶりだったからかな。

 25年前、新居についてもあれやこれや報道されていた事を両殿下は

  御存じです。私は殿下のこの言葉を100%信じているわけではありませんが

  ここは「お察し」して先手を打ったと見るべきかもと思いました。

 

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ラブラブ25年目の対談  1

2015-06-29 07:30:18 | 皇室報道

 秋篠宮両殿下は25年目の結婚記念日に対して「文書」ながら

対談形式で思いを綴られました。

 

  結婚25年にあたって

〈出会い〉

 秋篠宮 「今年は結婚をしてから25年が経つようです。

       時間は常に経過していますので、取り立てて25年に意味づけをするものでは

       ないと思いますが、少し振り返ってみるのも記憶と記録を整理する上で

       よい機会かもしれませんね。

 紀 子 「はい。私たちの今までを整理する方法のひとつとして、

     対談の形もあるのではないかとのお話になりました。

     このような形に慣れておりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

秋篠宮 「もっとも、結婚する前にしばらく付き合っていた時期があるので、

      そのあたりから始めましょうか。いつのことか覚えていますか?

紀子 「30年位前になりますでしょうか。私が大学1年生の春、

    本を探しに大学内の書店に立ち寄りましたとき、初めてご挨拶をさせていただきました

秋篠宮 「私の記憶に間違いがなければ、1985年の5月のことです。

      ちょうどそのころ、各地の文化や自然を楽しむことを目的としたインター・カレッジの

      サークルを作ったので、そこに誘ったところ喜んで入ってくれました。

      白川郷の合掌集落などずいぶんあちらこちらに出かけましたね。

紀 子 「はい。いろいろなところを旅行して、地域の豊かな文化や多様な

     自然にふれることができました

秋篠宮 「そして1986年、ある集いがあった後、あなたを送っていく途中に…。

紀 子 「二人で信号を待っておりましたとき、突然、将来のことについてのお話があって、

   びっくりいたしました。大学卒業後は、海外の大学院に行くことを考えていましたので、

   どのようにお返事をしたらよろしいかと迷い、考えさせてくださいとお話しさせていただいて

〈結婚にむけた準備〉

秋篠宮 「少し時計の針を進めましょう。私が大学を卒業したのが1988年ですが、

       その年の夏から暫くの間英国に滞在しました。

       この間、昭和天皇のご不例と崩御があったことから、

      しばしば日本に帰ることになりました。

      日本にいる間は、諸行事に参列するためだったのですが、そのおりに、

      将来のことについていろいろと話す機会にもなりました。

      そして、1989年の9月に公表するに至りました。

      これはいわゆる結納に当たる正式な婚約ではなく、皇室会議の議を経て

      婚約が内定したということを発表する機会でした。

     服喪中のこうした発表は異例なことと思った人がいたようですが、

    1951年7月の順宮(現池田厚子)様の発表は貞明皇后の崩御から約2ヶ月後で、

     しかも当時参考としていた旧皇室服喪令によると、

    私たちの発表時期より一段階重い

    服喪期間中でしたので、手続きを終えたという発表は前例にもあり問題ないと

    宮内庁は判断したわけです。

    そして、私たちの結婚の時期についてです。

    秩父宮両殿下のご婚儀が1928年9月末で、昭和天皇の即位の礼が

    同年の11月初旬。

    その間は2ヶ月もなく、大変だったことを両陛下が聞いていらしたそうです

     そのようなことから、私たちのときには、結婚から同じ年の11月予定の即位の礼までに

     ある程度の時間があったほうがよいとのことで、私が帰国した直後に式が

    おこなわれることになりました。

紀 子 「とてもありがたい思し召しを賜り、感謝申し上げております

秋篠宮 「話が少し前後しますが、昭和天皇の一周年の行事が終わり、

      私は1990年の1月から6月にかけては英国に滞在していたわけですが、

      その間、新たに住む家については、あなたに任せきりでした。

      もっとも、改築の平面図を見てもイメージすることができない私より、

      多少は空間認知に優れているあなたが見る方がよかったのは明らかでしたが。

     今のは自分にとって都合のよい言い訳なのですが、

     実際のところ帰国したのが6月21日で、6月29日の結婚式までは

     約1週間しかなかったことを考えれば、新居での生活の準備は完全にあなたへ

     依存していたわけで、このことについては申し訳なかったとしか言いようがありません。

紀 子 「いいえ。むしろ、英国よりのご帰国を待っていたのかのように、

     式までの約1週間、宮中行事の習礼(しゅらい)をはじめ、

     関係者とのこまかい打ち合わせが多くおこなわれましたが、

     時差がある中、大変ではありませんでしたか。

秋篠宮 「幸いなことに、私は一般的に言われていることとは逆で、若いころは東へ向かうほうが

     時差の影響が少なかったため、それで大変ということはなかったと思います。

紀 子 「新しい生活にむけての準備や支度は初めてのことばかりで、新居について、

    相談をしたいと思いましても、当時は連絡手段としてメールはまだ普及していなくて、

    電話やファクシミリで、英国との時差もあり、すぐには連絡がとれない状況でした。

    式までに考えるべきこと、決めるべきことがたくさんあり、大学院の講義も受けていましたので、

   時間が経つのが早く、準備を終えられるか心配でした。

   そのような中、宮内庁の職員が、改築や内装をはじめ、よく考え、提案してくれました。

   そばにいらしてくださったら、どんなに心強いかしら、と思うことはありましたが、

   いろいろな人の助けを借り、用意をある程度進めることができました。

   帰国されたときは、本当にうれしく、それまでの不安もどこかにいってしまうくらいでした。

 もおうっ 勝手にしてっ 羨ましいっ それだけっ

 一度だけ、紀子妃が記者達の前で涙目になった事があった裏にはこんな事が。

   新居について任せきり・・・普通は「私の好きにしていいのね」だけど、公のお客を

   迎える事もあるし、宮邸として恥ずかしくない調度を整えなくてはならないし。

   泣きたくなるよね。

 順宮と秩父宮の結婚も服喪期間中だったんですね。

  でもあの時のマスコミはかなり「異常事態」と騒ぎました。じゃあ、一体

  あそこまでバッシングしたマスコミはなんだったのよっ

  宮内庁が庇わなかったからでは?

  両陛下も「前例がある」とわかっていたら、誕生日会見等で少しは言って

  あげてもよかったんじゃ。

 

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秋篠宮家創設25年目の疑問3

2015-06-29 07:00:00 | 皇室報道

 秋篠宮両殿下 銀婚式 おめでとうございます

これからもお健やかに仲良くお過ごしくださいませ

国民は秋篠宮家の繁栄を心から祈っております

1989年の8月。そのニュースは突如私達の耳に飛び込んできました。

礼宮さまご婚約内定」ニュース。

学習院のキャンパスを父君と歩く紀子嬢は、音声がないものの

清楚な雰囲気でいかにも「女子大生」と「いう雰囲気。

っていうか、バブルのあの頃、あそこまで清楚な女性はそうそういなかった

婚約会見で生の言葉を聞いた時

こんな時代に、こんな言葉遣いをする人がいたの?」状態。

なんせ「お答えしてもよろしゅうございますか?」ですよっ

それは「礼宮様は初恋ですか?」と聞かれた時の答え。

私なら「はい」か「いいえ」で答えそうな処、紀子嬢は

お答えしてもよろしゅうございますか?」とお聞きになった。

そして礼宮殿下は自信を持って「どうぞ」とおっしゃり、紀子嬢は

にっこり笑って「はい。そうでございます」と答えられたのです。

また「お子様は何人ですか?」ときかれて、礼宮がじょうだんめかして

何人にしましょうか」というと、紀子嬢は吹き出しそうになるのを耐えつつ

それも・・よく相談して」と。

まあ、なんて奥ゆかしいのっ 誰もが思い出した。

「初恋」ってこんな感じよねっ 一途で甘くて酸っぱくて。

回りが顔を真っ赤にしてしまう程、お二人は愛し合っていたのでございました。

が・・しかし。

実は「紀子様バッシング」はこの時からひそかに始まっていたのです。

婚約時期が昭和天皇が亡くなられて半年後の事であった事が、異常に取り上げられ

「喪中なのに婚約を強行したわがままな礼宮」から始まり

「実は紀子妃は堕胎していた」やら「そもそも礼宮とは身分が違う川嶋紀子嬢は

結婚が認められるとは思わなかった」等々

紀子ちゃんフィーバーで、世間は大騒ぎしている陰で、こんな報道もいくつかみられたのでした。

 

天皇家としては1990年の11月には即位の大礼があり、どうせ結婚させるのなら

ぜひこれに参列してもらわねば困る・・・・(と考えたのが陛下なのか宮内庁なのか

それはわかりませんが)

紀子嬢は単に「礼宮のお妃」として宮中に入るだけでなく、いきなり「筆頭宮家の妃」

という立場で「即位の大礼」に臨まねばならなくなったのです。

皇太子妃不在のこの時、「筆頭宮家の妃」は皇后に次ぐ地位

国際的に大きな行事であり、失敗は許されませんでした。

もし、この時、雅子妃がいたら・・・・・と思うと、ちょっとぞっとしますよね。

 

私達国民は、ただただ庶民的で可愛らしい、だけど「育ちのよさ」を十分に感じさせる

可愛い「紀子スマイル」にまいっておりました。

礼宮とのツーショットがラブラブで、いいなあと思った人も数知れず。

そして迎えた1990年6月29日。

その日は曇っていて、とても寒かった・・・・本当に寒かったんです。

朝、ピンクのワンピースを着てご両親に「ありがとうぞんじました」とおっしゃった

可憐な紀子嬢は、颯爽と新調した萌黄の十二単に身を包み、まるで平安時代から

タイムスリップして来たのか?と思う程美しい姿を私達に見せてくれました。

まさか、朝見の儀、秋篠宮の髪を直す紀子妃の写真が物議をかもすなんて

思いもよらなかった事

朝見の儀を終え、ローブデコルテにコートをお召の紀子妃は本当に美しかったです。

コートがゴージャスで私は大好きでした。

でも、車がオープンカーでなかった事にはちょっとがっかり。

窓から手をふられる紀子様は、一瞬にして「秋篠宮妃」として存在していました。

この時、必死に「お妃らしく」振る舞おうとされたのでしょうね。

そして、宮邸について、着替えて庭で取材を受けた時の姿を見てびっくり。

え?あれが宮邸・・・・・?

申し上げておきますが、事大はバブル最終期。

結納金は100万。婚約指輪はダイヤで給料の3か月分、新婚旅行はヨーロッパ

やニューカレドニアが当然だった時代ですよ。

新しい宮家の誕生に、てっきり宮家を新築するのだとばかり思っていたのに

なんと職員宿舎とはっ

 

それでも「そのいち新築するんだろう」と思っていました。

だって皇族だし、筆頭宮家だし。

ところが!

「学生結婚なのに新宮邸は贅沢」と言われた(誰に?)為に

延々とこの職員宿舎にお住まいになったのでした。

確かに学生結婚に違いないのですが、でも、お二人は若い皇族として

両陛下と皇太子に次ぐ立場。

賓客をもてなす事もあるでしょうに・・・・・何で宮邸を新築しなかったのでしょう。

秩父宮妃がそのあまりのみすぼらしさに

自分が死んだらこの宮邸を使って」と遺言を残され、やっとお引越し。

一時、秩父宮邸より広い高松宮邸に移るのでは・・・・という噂がありましたが

それも「辞退」

悠仁殿下が生まれた時はプレハブで増築でしたっけ?

 

申し上げておきますが、平成になって吹上御所は新築されました。

東宮が結婚する時も東宮御所が大幅に改修され、その後も改修されました。

高円宮邸も改修されています。

というか、末端宮家が宮家を創設する時には「職員宿舎」という選択はなかった

んですよね?

 

なぜに秋篠宮邸は新築される事がなかったのか。

今もって疑問です

学生結婚でも学問も公務もしっかり務め、さらにお子様を産んで育てていらっしゃる。

その「成果」をなぜに認めて差し上げなかったかと。

両陛下の強い思い」はこういう時は絶対に出て来ませんけど

それだけではなく、私達は小さな眞子姫や佳子姫の着袴の儀の画像すら

見せて貰えないのでございますよ。

確かに秋篠宮家への様々な「遠慮の強制」は雅子妃入内以後、表面化しましたが

実は結婚当初から、なにかにつけて「遠慮」させられてきたのが事実ではなかと。

その理由はよくわかりません。

 今上と常陸宮兄弟の親密さがない事

大正天皇まで一人っ子だった皇室は秩父宮が生まれた時

「天皇の弟」への扱いに苦慮したと言います。「弟」とは何をする人なのか

近代の皇室にそんなマニュアルなど絶えて久しかったからです。

慎重派の昭和天皇に対して、一つ違いで「スポーツの宮様」と呼ばれた

秩父宮はとても人気があり、一時は「擁立」を考えた人がいる程。

高松宮は有栖川宮家の祭祀を受け継ぐというちょっと特殊な宮家。

そして末っ子の三笠宮は、思うに兄宮と年齢が離れすぎてあまり親しみを

感じた事はなかったのではないかと思われます。

 

昭和天皇に皇太子が生まれなかったら、皇位は間違いなく秩父宮に移って

いたろうし、その後は三笠宮系統で繋がっていたかもしれませんね。

今上と常陸宮は兄弟とはいえ、あまり親しさを感じません。

幼い頃から別々に暮らしていたという事もあるでしょうけど、「弟」として

あまり期待されていなかったせいもあるのではないかと

(それは公務ではなく、やっぱり世継ぎの話で)

今上は現皇太子程「弟」にライバル心を燃やしたことなどないでしょうし

弟が自分に匹敵する立場になるという事も考えてはいないでしょう。

(古い話ですけど、日揮事件でぽしゃった常陸宮様の喜寿のお祝いは

どうなったんでしょうか?陛下が「中止」にしたのですけど)

要は気遣いがないんですよね。

 

現代、皇太子と秋篠宮で逆転現象が起きています。

「兄と弟、どちらが天皇にふさわしいか」という事です。

世継ぎのいない兄、世継ぎをもうけた弟。

本来なら皇統は弟に譲られるべきであり、それ相応の扱いを受けるのが当然。

しかしながら、今もって秋篠宮家は沈黙と遠慮を押し通しています。

けれど、依頼される公務の質や量が、今までの宮家の比ではなく、どの宮家も

経験した事のない立場の「重み」というものが秋篠宮家にはあるのです。

沈黙も遠慮もしていられない状態になっている筈です。

もはや「長幼の序」は逆転しているのだという事に両陛下も気づいて頂きたい。

本当に将来の皇室を憂えるなら、目の前にいる皇統」を大事にして頂きたいです。

 

 

 

 

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秋篠宮家創設25年目の疑問  2

2015-06-27 10:00:00 | 皇室報道

>カエルさま

別腹説は置いといてお気持ちはわかります。

皇后陛下は冷遇しているつもりはないのです。「長幼の序」を守っていらっしゃる

だけです。

「将来一宮家」

「将来民間人」

お育て方をされただけ・・・・・と思っていらっしゃるでしょう。

サーヤは小さい頃から年に1度、皇后陛下と私的な旅行をされていました。

それは「将来、降嫁される宮様との思い出作り」みたいに報道されていました。

個人的には「紀宮はそんなに早く結婚するのかしら」と思っていたんですけど

結果的に35歳まで皇室にいらした。今だって皇居に出入りはご自由。晩さん会にも

ご出席。「内親王の降嫁」も随分イメージが変わりましたよね。

じゃあ、あの私的旅行は一体なんだったのかと。

>ナビちゃんさま

紀子妃のお気持ちねえ・・・・心が折れまくっていると思いますよ。疲れていらっしゃるし。

ただ小さい親王を抱えていますから馬車馬的に頑張らないといけない。

立ち止まれない状況だと思います。

ゆえに、何かきっかけがあったら突如、ぽきっといきそうな気がして心配です。

秋篠宮家に関する本はなかなか出ておりません

日本の血脈」(石井妙子・文春文庫)あたりはいかがでしょうか?

 「沖縄2紙が左翼に乗っ取られている」まさにその通りなんだけど

そのまま言うと大騒ぎに。

それがそもそもおかしいのはわかってる。だけど誰も味方にならない悲しさを感じます。

 

 礼宮が結婚を急いだ理由は何か

あくまで個人的な印象を述べますね。

昭和60年・・・川嶋紀子嬢、学習院大学に入学。

         本屋さんで礼宮が見初める。

         早速自然文化研究会に誘う。

昭和61年・・・・「私と結婚してくれませんか」

          「よく考えさせて頂いてよろしいでしょうか」

平成元年・・・・紀子嬢、大学院入学。婚約。

平成2年・・・・礼宮と紀子嬢結婚。

という流れです。

 

礼宮の行動は用意周到というか、非常に策略的です。

その裏には、成人するやいなや「お妃は誰に」と騒ぎだしたマスコミへの

警戒感があったのだろうと思います

実際、浩宮の「お妃選び」はマスコミ先導型の仕組まれた感すらありました。

浩宮自身も「価値観が同じ人」だの「ティファニーであれやこれや買う人は困る」

だのって言ったものですから、よけいにマスコミが騒ぐ

そうかといって、イギリスの王子たちのように女性と付き合っているという噂は

一切聞きません。

女性と並んで歩いているというシーンすらなかったんじゃ

無理無理ブルックシールズとツーショットとか・・・柏原芳恵に薔薇を渡すシーンを

撮影しては「お妃候補か」と大騒ぎ。

今思えばかなり滑稽でしたよね。

根拠がないのに騒ぐマスコミを知り、礼宮は自分の結婚について、噂レベルで

言われたりするのは嫌と考えたのではないでしょうか。

だから、川嶋紀子嬢と知り合うと、まず自分のテリトリー(サークル)に引き込み

回りを学友で固め、極力二人きりにならないようにする

付き合い初めてわりとすぐに東宮御所で皇太子夫妻に紹介。

「運命の相手」というのは、付き合ってる時間ではなくて一瞬のひらめきの

ようなものでしょう。

出会って1年の間にサークルに入れて、ひそかに付き合って両親や家族に紹介。

多分、昭和天皇もご存じだったのでは。

「お印に檜扇菖蒲」を選ばれた理由を考えるとそんな気が。

 

だけど、考えてみればであった時、紀子様は18歳。礼宮は19歳です。

礼宮は成年式を終えた時点でプロポーズしたという事になるのでしょうか。

礼宮20歳の頃、浩宮は26歳。

 昭和61年といえば、浩宮がエレナ王女のレセプションで小和田雅子さんと

出会った年。

ここに大きなカギがあるような気がします。

小和田雅子さんの魔力に魅入られた浩宮と、すんなり「結婚」に行きそうにない

ムード。当時の宮内庁はまだ「チッソの娘はダメ」という雰囲気でしたでしょう?

浩宮の執着をそらす為に別な女性を・・・・と考えても不思議はありません。

そして、学習院育ちで皇太子夫妻とも仲が良い「礼宮のガールフレンド」を・・・

と誰かが考えてもおかしくはないのです。

この時点で美智子妃殿下は紀子嬢を気にいっていたと思われます。

紀宮とも仲良しで、まるで生まれながらに皇室にいたかのような懐かしさを

感じさせる女性に誰もが夢中になったに違いないのです。

浩宮にとって紀子様は「好み」だったかどうか。

大きな瞳と外国人のような容姿が好きな浩宮ですから、ちょっと系統は違うかも。

でも柏原芳恵の雰囲気は少しはあるかなと

 

川嶋紀子嬢は賢い女の子でした。

礼宮と付き合い始めると言葉遣いが変わったと学友が話しています。

つまり「覚悟」があったのです。

それを「好きで皇室に入ったんだから」というとらえ方をするのは間違っています。

紀子嬢は学習院の教授を父に持ち、自らも学習院育ち。

「皇族」と付き合う事がどんな事なのか、一般の人より知っていたのです。

その上で、礼宮の「相手」としてふさわしい女性になろうと努力したのです。

 

最初は「紀子ちゃん」と可愛がっておられた皇后陛下ですが

これが「結婚」になると、難色を示します。

皇后陛下のおっしゃった言葉は「長幼の序」

つまり弟は兄より先に結婚してはいけないというもの。

今じゃ「結婚出来る人から先にどうぞ」ですけど、25年前は確かに

そういう「序列」は大切にされていた時代です。

それは礼宮にもわかっていた筈。

にも関わらず「どうしても今、結婚したい」とおっしゃった。

 紀子嬢は学習院大学大学院入学決定

 礼宮は大学院からイギリスへ留学

この二つが決まっていた事を考えると、そこで「結婚」は普通、考えないでしょう?

「大学院を卒業したら結婚しよう」という話になった筈。

無論、両陛下もそれを望んでいた筈です。

紀子嬢が大学院を卒業する2年後には皇太子の結婚も決まっているのではないか・・・・・

と期待していたかもしれない。

にも関わらず。

礼宮は「今」と説得。

若さ弾ける情熱・・・というものとは全く違う思惑がそこにあったのではないか。

すなわち「今を逃すと紀子嬢は永遠に自分のものにならないかもしれない

という不安ですよね。

紀子嬢の気持ちは決まっていました。

礼宮とであったその日から。

だけど、いくら本人がそう願っても、求婚してくる相手が礼宮より上位の場合は

ましてや、その後ろにいる人達の事を考えると、とんでもない話になります。

皇太子の気持ちはこの際、考えません

小和田雅子嬢がイギリスでマスコミに対し「そういう気持ちはありません」と言った

時点で、頭の切り替えをしようとしたかもしれないし。

これはあくまで憶測ですよ。

 

婚約記者会見で礼宮はは

今の時点で兄の結婚が決まっていないという事」を婚約の理由に挙げていました。

男性24歳の結婚は当時でもちょっと早いかな・・・あと2、3年は恋人期間を

楽しみたい人が多い中で「家族になる事」を真っ先に考え行動した礼宮。

川嶋紀子嬢のおっとりとした雰囲気と賢さや可愛らしさは「皇太子妃にこそふさわしい」

と考えた人々。

それらの期先を制する形で礼宮は結婚を決意したのでは・・・・と思うのです。

 

そして無論、それを許した両陛下の側にも思惑が。

それは「即位の大礼に妃が欲しい」という事。

本来なら皇太子妃が欲しい所だけど、それはもう絶対に無理・・・それだったら

この際、弟宮妃でもというお気持ちだったのでは。

皇室における高齢化の波は差し迫っていたのです。

 

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