ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

2020年の皇室

2020-12-28 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 皇室にとって2020年は戦後最大の危機ともいえる1年になりました。

皇室経済や、皇室の意義を改めて考えるきっかけとなった事は喜ばしいのですが、それに対してなんら対策を打ち出さなかった宮内庁の怠慢、そして今上夫妻の「自分が一番可愛い」態度が今後の皇室に暗い影を落とすでしょう。

 

年明け、新年一般参賀や歌会始めなどは正常に行い、危ないと言われていたけど天皇誕生日の参賀や祝宴までやってしまった後で「自粛」生活に入り、一時期は動静がわからなくなってしまいました。

そもそも皇后が歌会始めで「災いを」と詠んだことに大変びっくりしてしまい、去年から続く令和の災害、今度は何が起こるんだ?と心配していたら、最終兵器のようにコロナが襲って来たのでした。

歌は言霊です。

皇族がこの「言霊」を信じないで「関係ないわよ」と言ってしまったらもう国は終わりだなと。

けれど、皇嗣家による済生会病院への手作り防護服の話題は国民にとても幸せな気持ちを与えてくれました。

いち早くオンライン公務を取り入れた皇嗣家では、外に出ないで様々な活躍をし始めました。

しかし、天皇家では「宮内庁の反対」とかで、オンラインに進まず、一々人を呼びつけて恐ろしいくらいの距離をとっての「進講」が公務代わりとなりました。

皇后の「養蚕」は結果的に「なんちゃって」に終わり、その後、言い訳するかのように愛子内親王の気持ち悪い蚕の写真を使って「養蚕に熱心」アピール。

何でそこまで熱心にアピールするんだろうと思いましたが、一度こだわりだすと気になってしょうがない。何が何でも誉め言葉が欲しかったんだろうと思います。

雅子皇后は自粛になって公務がなくなった事による適応障害」とかわけのわからない言い訳が続きました。

夏の終わりには一度「英国から来春には来てほしい」要請を受けますが、呪いなのかイギリスのコロナは広がるばかり。

 

春に学習院大学に入学した愛子内親王はオンラインのみで授業を受け、登校したのは今のところ1日。

もう19歳だというのにいつまでも小学生のような印象しか持てませんけど。公務見習いもなく、平日はきっと遊んでいるんだろうなと思いつつ。

 

延びに延びていた立皇嗣の礼が行われた11月。

皇嗣夫妻の立ち居振る舞いの素晴らしさと仲の良いご夫婦ぶりが際立ち、これで一安心・・・と思われた時に「眞子さまのお気持ち」が発表されたのでした。

元々「何等かの説明を」と皇嗣殿下がおっしゃっていたので、立皇嗣の礼が終了するのに合わせて出されたのでしょうけど、この「眞子さまのお気持ち」はまさに爆弾発言。日本中が驚き、失望した瞬間でした。

けれど結果的にこれがKKへの最後通告になった事は事実。政治家や宮内庁長官まで発言するようになっても逃げ続けるKKに退路は断たれたと思います。

これが眞子さまの真意なのかどうかは別として、かなり「結婚」そのものが出来ない雰囲気になってきたのは事実。

皇嗣殿下の誕生日発言「憲法に則って言えば結婚を認める。けれど婚約は別」という言葉がさらに謎めいた決めての一手となり、回りも真剣に考えざるを得ない状況になっています。

天皇と皇嗣の繋がりも日々疎遠になっていく様子が見てとれます。

長男であり溺愛されてきた筈の今上はまるっきり上皇夫妻には関心がないみたいですし。コロナ禍における家族関係を見直さないといけませんよね。

 

2021年、どこまで今のような状態が続くかわかりませんけど、皇室の在り方も変わって行くのだろうと思います。

希望としては、もっと国民に寄り添って欲しいと思いますが早々に上皇夫妻の引っ越しなどが控えておりそれは無理かな・・・

 

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どうして愛子様は天皇になれないのか2

2020-10-17 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

皇室典範を改正したら愛子様に皇位継承権が出来るんでしょう?」

何でそこまでする必要があるの?秋篠宮殿下も悠仁殿下もいるよ」

でも、悠仁殿下は結婚できないかもしれないし、子供が生まれないかもしれないし

何でそう思うの?」

だってヤフーニュースで書いてあったよ。だから今のうちに女性天皇・女系天皇を決めておいた方がいいって」

悠仁殿下が何歳かしってる?」

え?知らない」

まだ14歳だよ。14歳の少年が結婚できないとか子どもが生まれないとか、よくそんな残酷な事、言えるね」

でも、皇室ってすごく厳しいところだから、悠仁殿下と結婚したい女性はいないだろうってみんなが

あなたは悠仁殿下と結婚したい?」

えーーやだーだって厳しいんでしょ」

何が」

しきたりとか伝統とか。確か美智子さまも雅子さまもそれで苦労したって。うちのお母さんなんて美智子さまは虐められたって言ってるし」

それは全然違うんだけど、話が長くなるから今はおいておいて。伝統としきたりと言えば歌舞伎・狂言・茶道・華道・宝塚・相撲に神社に御寺・・みんなしきたりや伝統があるけど、嫁のなり手がないとは聞かないよ。歌舞伎なんて絶対に男子を産まないといけないし、相撲部屋のおかみさんだって旅館のおかみさんだって大変だよ。地域のしきたりや伝統を守らなくちゃいけないし。皇族だから厳しいというわけではないですよ」

そうかなあ。じゃあ、何で美智子さまや雅子さまは苦労したの?」

適応能力がなかったのと、プライドが高すぎて誰かに教わるって事が嫌で嫌で仕方なかったからでしょ。紀子様は学生時代に秋篠宮殿下と出会って恋愛結婚したけど」

庶民には関係ないっか」

そうそう。今現実に男系男子が2人もいるんだから、わざわざ皇室典範を改正してまで女帝を出す必要はない」

でもやっぱり悠仁殿下が・・・」

それはその時考えればいいのよ。それに愛子様は結婚できるって保証ある?

え?わからない」

上皇陛下の娘だった黒田清子さんは35歳まで結婚出来なかった。最後はお兄様である秋篠宮殿下のお友達と結婚したくらいよ」

ああ・・そうなんだ」

とにかく愛子様には皇位継承権はないし与える必要性もない

女性宮家は?これも雑誌で見たけど将来、悠仁殿下が天皇になったら他に誰もいなくなるから女性宮家を作って女性皇族を皇室に残すって」

女性宮家という言葉は元々ありません。民主党が勝手に作った名前。女性宮家というのは女性が宮家の当主になることで、それは皇位継承権を与えるのと同じ意味だから、創設の必要性はないの」

悠仁天皇を誰が支えるの?沢山の公務があるでしょう?」

天皇のお仕事というのは天皇しか出来ないもので、いくら周りに女性がいてもしょうがないのよ。今、妃殿下方が行っている公務というのは明治の昭憲皇太后が始めたものが多いし、他に企業などから「妃殿下を旗印に」という事で依頼があって成り立っているの。女性皇族がいなくなったら依頼がなくなるだけで別に誰も困りません」

そういうもんなんだ

もし天皇の仕事を代行できるとしたらそれは皇太子、摂政のみです。もし今の天皇が病気になって国事行為を代行するとしたら皇嗣の秋篠宮殿下か、その時悠仁殿下が成人していたら悠仁殿下しかいない」

随分、皇室における女性の地位は低いんだね」

またその話?皇位継承とか天皇と男女同権は関係ないのよ。歌舞伎は男性しか出来ないし、宝塚は女性しか出来ない。でも、それは男女不平等ですか?」

それは違うけど・・・・」

それでも明治天皇の后である昭憲皇太后は養蚕を奨励し、紅葉山に養蚕所を作って自ら育てたり、女子教育に力を入れたり、赤十字活動を支援したり、当時としてはありえないくらいキャリアウーマン皇后だったのよ。そういう方が残してくれた公務を雅子さまは全然やらない。男女平等を論じる前にまず、自分の目の前にある公務を引き継ぐべき」

やってないんだ」

雅子様は皇太子妃時代、養蚕所に手伝いにも行かなかったし、赤十字活動も一切やってないし、新年から始まる皇室の伝統的な行事もほとんど出てない。園遊会ですら出ない。やることやらないで「キャリアを無視した」というなっていうの」

つまり、雅子さま自身が男女平等っていいつつ何もしてないというわけ?」

その通り。紀子様は若い時に秩父宮妃から結核予防会の名誉総裁の仕事を受け継いで今に至るし、聴覚障害にも関心を持ってろうあ協会とかから公務の依頼が沢山来るし、おまけに愛育会のお仕事も三笠宮百合子さまから受け継いでいるのよ。学生結婚してコツコツ子育て・公務・勉強を続けて博士号を取って。

二言目にはハーバード大っていうけど、雅子様は学士ですから。それにお妃というのは勉強が出来ればいいわけじゃないと思う。社交上手で機転が利く賢い女性であることが大事」

紀子様ってすごいんだね

そうなのよ。なのに雑誌は嘘ばかり書いて紀子様を貶める

どうしてなの?

昨日も言ったけど雅子さまのお父さんを始め、日本が嫌いで日本の象徴が立派じゃ困る人達がいっぱいいる。そういう人達が盛んにフェイクニュースを流してイメージを悪くしようとしてる。だからお願い。ヤフーニュースは信じないで。事実を見極める目が必要だよ。流されて間違った方向に行って、それを将来国のせいになんかしたら、それはすっかり半島の人達と同じ行為だから。自分の国の歴史を正しく理解して言うべきことは言う。それはとても大事なことだと思う」

難しいねーーーとりあえずニュースを見るたび、あなたに聞くわ。フェイクかどうか

そうして頂戴」

 

 

 

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なりふり構わなくなって来た愛子女帝擁立派

2020-07-13 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 今までだって反日系愛子女帝を擁立するようなブログは多々ありました。保守系を気取った実は「愛子女帝派」のブログもあります。

また、全く事実と違う皇室話をさも事実のように垂れ流す、しかも皇室に関係があると思わせるようなブログ主すらいます。

何でそこまで愛子内親王を女帝にしたいのか。

彼らにどんな徳があるのか?

逆になぜ秋篠宮家をそこまで貶めるのか。何がそんなに憎いのか?と思います。

しかし、今回堂々とネットニュースで「愛子さま皇太子への道」というサイトが紹介され100人の関係者がいると紹介されてしまいました。

これで興味を持った人がアクセス数を延ばし、そして賛同する人もいるでしょう。

何というか、まるで新興宗教みたいなサイトで「愛子内親王が皇太子になれば国民は幸せになれる」みたいな論調なんですね。本当に恐ろしいことです。

 秋篠宮家へのバッシングが始まったのは雅子妃誕生後

浩宮時代から徳仁親王のお妃選びは難航していました。

候補に上った女性達が次々結婚したり、スキャンダルを起こしたりでうまくいかない。

それと並行するように、「難しい外交官試験を突破した小和田雅子」はFOCUSにも取り上げられ次第に名前が知られて行くようになり、やがてお妃候補の一人になります。

しかし、昭和の頃は宮内庁も真っ当で「チッソの孫娘を入内させれば大変な事になる」という事で相手にしませんでした。

反日の外交官である小和田恒氏がどこから「娘を皇太子妃に」という野望を抱き始めたかはわかりません。一説には福田元首相あたりと繋がっていたからとも。

彼らは1970年代に吹き荒れた「反天皇制」グループで、本来なら娘を入内させるなんて考えない筈ですが、敵の真っただ中に娘を送り込むことで、内部から崩壊させるという手を思いついたのかもしれません。

小和田雅子入内 → 男子出生 → 小和田家の孫が皇太子から天皇になる → 彼らにリベラルを植え付け反日に導き、やがて皇室は終了する → その頃は小和田家は誰も残っていない

そんな図式が浮かび上がります。

小和田雅子自身の意思はともかく、計画としてはエレナ女王のパーティに手書きで小和田雅子を入れ、皇太子を誘惑するところまではうまくいきました。

しかし、当の本人は全然そんな気はないし、宮内庁も相手にしない。

そこでマスコミを使って執拗に小和田雅子を追いかけ、あたかも「お妃候補」にずっと残っているかのような印象操作をしたのです。

たとえ小和田雅子が「私は皇太子妃になりません!」と言っても、それすら「お妃候補」の証拠になるという具合に。

何より皇太子徳仁が小和田雅子を気に入ってしまった。

そこにあるのは「愛」ではなく、彼女の見た目と学歴だったろうと思います。

それというのも、1989年に弟の礼宮が川嶋紀子嬢と婚約したのですが、この紀子嬢が国民だれもが愛さずにはいられない程可愛らしく清貧でありながら上品、そして何よりも礼宮と深く愛し合っていることがわかった。

国民は「紀子ちゃんフィーバー」を通して「憧れのプリンスとプリンセス」のラブラブな生活を満喫していました。

これに危機感を覚えたのが小和田家です。

そこで「紀子様は堕胎経験がある」「川嶋家が東宮家に怒鳴り込んだ」などとあらぬ都市伝説を流し中傷を始めました。

若くて絵になり、公務も祭祀もきっちり行う、おまけに早々に懐妊して眞子内親王を出産。国民的人気が高い秋篠宮家に対抗策を打ち出さなくてはなりません。

「見た目と学歴重視」は美智子皇后の考えでもあります。

血筋を追えばコンプレックスが刺激される。ゆえに「頭がいい。美しい」が全ての后の条件を上回り、皇太子はそれに従ったまでです。

ハーバード出身、東京大学に学士入学しオックスフォード大に留学。外務省勤務だった雅子妃のキャリアは美智子皇后好みでした。

しかし、マサコ妃は根本的に「皇太子の役割」を理解せずに入内し、自分の思う通りの生活が出来ない事に不満を持ち、能力不足も重なり次第に仕事をしなくなります。子供を産むなんて考えられない・・・というような状態です。

その間、秋篠宮家には佳子内親王殿下が生まれ、このままでいけば男子誕生も間もないと思われました。

ここから本格的なバッシングが始まり、秋篠宮家はどんどん隅に追いやられて行きます。

 秋篠宮家に手を差し伸べなかった宮家

秋篠宮家の行く末を本当に考えてくれていたのは秩父宮妃だけですが、宮妃の死後、高松宮妃も三笠宮家も高円宮家も常陸宮家も秋篠宮家を支える側には回ってくれませんでした。

特に高円宮家は東宮家と組んで便宜を図っていました。

宮家が何ゆえに秋篠宮家に目をかけなかったか。

その原因は継仁親王と美智子妃の存在です。

彼らは「美智子妃入内」の頃からの恩讐があるのです。

昭和時代は、昭和天皇と香淳皇后のおかげで何とかその絆が立ちきれずにいたものの、平成になってその糸は切れました。

宮家としては美智子皇后のやることなす事全部「掟破り」でしたし、それに追従する天皇にもあきれ果てていたでしょう。そしてその子供である徳仁親王もまた同じ愚を重ねたのです。

「皇室の藩屏」たる宮家や旧皇族・旧華族を完全に敵に回した余波は、紀宮の婚姻の遅れにも影響を与え、現在の眞子内親王・佳子内親王の婚姻にも影響があります。

血筋と家柄こそがもっとも重要な皇室にあって「美と知」がそれを上回る価値があると言い切った平成の天皇と皇后の在り方は、徳川家や宮家の正当な血筋を持つ皇族からしたら相容れないのです。

プラス「お金」と言われたらもっとです。

 

 愛子内親王を皇太子にすることによって皇室の形を変えようとする勢力

なぜこのように「愛子内親王を皇太子に」とかいうサイトが堂々と紹介されたりしたのか。その大きな原因は「天皇の退位と皇嗣誕生」にあります。

 天皇は退位してはならない

これは皇室典範の条項にある文ですが、明治に作られた旧皇室典範で決められました。

江戸時代以前、天皇が「幕府」への抗議の為に退位するという件が多々あり、その度に改元したり、争いが起こったりしたので、明治政府は近代的な世の中では「改元は一天皇一度きり」「天皇の退位は認めない」としたのです。

その代わり、天皇が病気や重篤な精神病になった時は「摂政」を置くと定めました。

 「摂政」に悪印象しか抱かなかった上皇

大正天皇の時、身体の弱い天皇は末期になると政務を行えなくなりました。そこで政府は皇太子を「摂政宮」として天皇に代わり政務を行わせます。

摂政宮というのは、ほぼ天皇と同等の地位にあることです。

これにいい感情を持たなかったのが貞明皇后と言われています。つまり、大正天皇はまだそこまで重篤ではないのに、政府の「大正天皇おろし」により無理に皇太子を摂政にした・・・傀儡にされたと思ったらしい。

大正天皇はとても家庭的な人で、側室も持たず、子供達にも優しく、その分おおらかというか西洋風の生活を好んだりしました。そういう甘さが他の皇族の反感を招き、伏見宮を覗いてほとんどの皇族から見下されていたようです。

真実はわかりませんが、「摂政=政府のいいなり」という考えが平成の天皇の頭の中に刷り込まれていたのは確かでしょう。

認知症疑いをもたれていた天皇は譲位を考え始めます。

色々噂はあります。美智子皇后が生きている間に息子の晴れ姿をみたいと思ったとかね。

でも、とにかく平成の天皇は自分の体調が悪くても「摂政だけはだめだ」と思ったのです。そこには戦前の日本を思い出させるものがあったからでしょう。

天皇の「戦前否定」は相当なもので、昭和天皇との不和もここから来ているのです。

また摂政を置き、皇太子をその地位につけるとボロが出て廃される恐れもあると思ったのかもしれません。

退位出来ない地位に押し上げることが父の愛とでも思ったのでしょうか。

 

 皇室典範に「皇嗣」「上皇后」の言葉はない

徳仁親王の即位により、秋篠宮殿下は「皇嗣」になり、美智子皇后は「上皇后」になりました。

なぜ「皇嗣」なのか。

秋篠宮が徳仁親王の子ではないので。というのです。

しかし、それなら「皇太弟」にすればいいだけの話でした。「皇嗣」というのは皇位継承権のある男子の中で最も有力である程度の意味でしかありません。「大兄」のようなものです。

しかし、政府はそれを認めてしまいました。

恐らく、有識者会議も総理も「皇太弟」と「皇嗣」の違いがわからないのでしょう。

また、「上皇后」という言葉も過去にはありませんでした。

なぜなら、過去において譲位した天皇は100%仏門に入るので、皇后もまた同じ。「院」で呼ばれるのが普通だからです。

本来、天皇の母ですから「皇太后」でないといけないのですが、それでは未亡人になると勝手に思ったんですね。

しかし、上皇が仏門に入るでもなく神道の宮司になるでもなく、仮仙洞御所に新銭湯御所まで建てさせるに至って完全に「二重権威」になってしまいました。

仙洞御所の使用人は御所とほぼ同じ。仮と新仙洞御所の予算は10億を超え・・上皇は自由に皇居に出入りして研究に励む。天皇は行事の度に上皇に挨拶しにいく。これでは天皇は格下になる。

 

 上皇・上皇后が行った掟破りが愛子内親王の立太子を後押し

このように、上皇・上皇后が行って来た数々の「皇室改革」があってはならない「愛子内親王の立太子」という幻想を呼び込み、そして実現できると信じるよすがになっています。

諸悪の根源は上皇と上皇后なのです。

例のサイトは「男女平等論」「長子相続」を盾に愛子内親王の正当性を訴えていますが、それは違います。

過去に、聖武天皇の后、光明皇后と藤原家が無理やり阿部内親王を皇位につけ、国は大きく揺れました。もう少しで皇室とは縁もゆかりもない道鏡が天皇になるところだったのです。

それを阻止した和気清麻呂が現代にいるかと言えば・・・残念ながらいません。

今、もし出来ることがあるとすれば、政府によって「内廷費」を削減することです。

 現在3億の内廷費 → 半減

 使用人を半減

 新御所を狭くする

 御用邸使用件を皇嗣家と共有

 天皇になったのだから奥志賀への静養を認めない

これだけでも十分に効果的と思いますけど。

 

 天皇の地位はあくまで「男系=父が天皇であること」それこそが皇室の権威を保つもの

この事をよく国民は考え、安易に「愛子内親王を天皇に」と考えてはいけません。

万が一愛子内親王が天皇になったら「男系」を保つ為、一生独身でいなければなりません。男系の血筋をなくす「女性宮家」などもってのほかなのです。

また、生まれた時から奇妙な動きや表情しかしない。成績もスキーの腕前も全てにおいて「ねつ造」するような内親王を天皇にしていいのか、よく考えましょう。

 

 

 

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韓国とのゆかり発言に関わる天皇の話

2020-01-09 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 系図だけ作って、いつかブログに書かなくちゃいけないなあと思っていながら機を逸していたのですが。今回は光仁天皇と桓武天皇の話です。

というのも、よく今上と6歳しか違わない秋篠宮が即位する頃には老齢すぎて天皇になれないだろうと週刊誌に書かれていましたよね。

天皇の在位期間と元号は結びついていますし、どういうわけか上皇が「国民に負担をかけないように」と自分より先の即位の礼だの大葬の礼だのに関しては質素にしろと言い続け。いつの間にか国民の間では「そういえば昭和天皇が亡くなった時、社会的な影響が大きくて国民は困ったよな」という印象を受けて、どんどん地味に質素にしていこう、なるべく若いうちに即位させてせめて30年は持たせないとなあと思っている節があります。

しかし、昭和天皇が亡くなった日は土曜日でそんなに混乱はなかったし、確かに亡くなる3か月前くらいから毎日のように報道があり「自粛」ムードがあったことは確かですが、それだって強制されたものではなかったですよ。

それだけ昭和天皇の存在が日本人には偉大だったということで、心配しなくても上皇も今上も、「自粛」になんかなりませんから安心して下さいと言いたいです。

で、高齢で即位した天皇として、真っ先に思いついたのが光仁天皇でした。

何と、彼は61歳で即位しました。

当時の平均寿命って40歳くらいでしょう?だから61歳といったらかなり老齢。後期高齢くらいのイメージです。在位期間は11年。

11年も在位したのか――長生きだったのねーーという感じです。

 光仁天皇について

 709年11月18日生まれ

 祖父は天智天皇、父は志貴皇子

天武天皇即位後、天智天皇系の皇子には皇位継承のチャンスがほぼなくなり、持統天皇や藤原不比等の力が強まり、天武天皇 →持統天皇→文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇→桓武天皇と流れていきます。

天武天皇の皇子の中で舎人親王という長生きした長老格がおり、長屋王と共に皇親政治の中核として活躍したのですが、彼の子である淳仁天皇は叔母にあたる孝謙天皇と道鏡の仲を「いけません」と言っただけで廃されてしまいました。

この時代は光明皇后や孝謙天皇(称徳天皇)によって粛清の嵐が吹き荒れ、天皇の子や孫であっても命の保証はなく、逃げても逃げても謀反の罪を着せられて殺されるケースが多かったんですね。

また、臣籍降下してもそれでも粛清されるケースも目立っています。

(長屋王)・・・父は高市皇子(天武の子)母は御名部皇女(天智の子)で血筋は聖武天皇より上で実力者であったのに藤原4兄弟によって殺される。

(塩焼王)・・・父は舎人親王で孝謙天皇の皇女である不破内親王と結婚するも謀反の罪を着せられて臣籍降下したものの、一時は栄耀栄華を誇るも最終的に殺される

(道祖王)・・・父は舎人親王で一時期、孝謙天皇の皇太子に叙せられるも廃太子

長屋王は聖武天皇より出来がよかったし血筋もよかった為に妬まれた・・・と簡単にいうとそうです。孝謙天皇は自分の姉妹でも親戚でも一旦信用しないとなると容赦しないんですよね。それで名誉を傷つけられた人が多数。

長生きしてもちっともいい事なかった時代にあって、白壁王(光仁天皇)は権力とは無関係の立場を貫き通して天皇になったのかなあと。

 

 752年、孝謙天皇の姉である井上内親王と結婚

 754年、45歳の時に長女の酒人内親王、52歳の時に他戸親王を授かる

井上内親王は聖武天皇と縣犬養広刀自の娘です。

縣犬養広刀自と、縣犬養三千代(光明皇后の母)は同じ一族。

広刀自は他に聖武天皇の唯一の皇子である安積親王を産んでいるのですが。安積親王は聖武天皇の留守中に突如死去。結果的に皇位は孝謙天皇に渡るのです。

井上内親王は717年生まれ。721年伊勢の斎宮に選ばれ744年、安積親王の死去によって斎宮の任をとかれる。27歳の時。

そして白壁王の妃となり、37歳で長女の酒人内親王、45歳で他戸親王を産む

 高野新笠との関係

【平成13年天皇誕生日の発言】

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」

この「桓武天皇の母」「武寧王の子孫」が高野新笠になるのです。

武寧王・・・462年~523年に存在した百済王。

和乙継(やまとのおとつぐ)→ 高野新笠の父で武寧王の子孫と言われるが、具体的に武寧王の子のうち、誰の子孫かまではわかっていない。

土師真妹(はじのまいも) → 出雲国造の分流で豪族

「韓国とのゆかり」というより「百済とのゆかり」で(韓国と百済って原則的に違いますので)でも実はどこまでの子孫かわかってないし、高野さんのお父さんはすっかり日本人になっているし。

しかし、いわゆる「渡来系」は中々出世の道が開かれず王様の子孫とはいっても高野新笠は白壁王の側室として入っています。宮人、つまりお女中上がりって事ですね。

733年・・・能登内親王

737年・・・山辺王

750年・・・早良王

山部王が後の桓武天皇です。

彼は生まれた当時は母方の身分が低すぎて、皇位継承からは完全に外れていました。

 770年 即位

 773年 皇后井上内親王と他戸皇太子が呪詛の疑いをかけられて幽閉ののち775年に死亡

 藤原蔵下麻呂の死 → 祟りじゃないか?

即位はしたけど老齢・・・天皇を支えるのは皇后と皇太子の筈です。

ここで一発大逆転劇が起こります。皇后と皇太子が呪詛の疑いをかけられて突如廃され、さらに庶民に落とされて幽閉され同日に亡くなるという事件が起きます。一説には二人とも餓死したと伝えられます。

前述したように井上内親王は聖武天皇の長女ですから家柄・血筋も抜群。無論他戸親王もそれに倣っていくのですが、側室で渡来系腹の山部親王が黙っているわけなく、藤原百川と共に廃皇后・廃太子を画策したのではないかと思います。

血筋も家柄も劣る親王が頼みにするのは権力です。

正当な血筋を廃したことで国は乱れ、天変地異が続きます。

 776年 秋篠寺建立の勅許

私は光仁天皇の気持ちというのがさっぱりわからないんですね。

井上内親王は結婚当時27歳で、当時としては年増というかオールドミス。そういう内親王を半ば天皇の権威で押し付けられた格好になった白壁王。

そこに愛はあったのか?とは思いますが、それでも2人の正当な血筋の親王と内親王に恵まれ、皇后としては非常によい仕事をした筈なんです。

呪詛の疑いをかけられた時に守ってやろうとか、何とかしてやろうとか思わなかったのかなと。

感情が見えてこない天皇ですよね。

ただ、天変地異が続いてその祟りを鎮める為に秋篠寺を建立。秋篠宮の名前の元になったお寺が実は祟り鎮めだったというのは意外というか、そういうことかとも思ったりして。

777年 光仁天皇が病気になる

     山部親王も大病を患う

それこそ「井上内親王の祟りじゃーー!」ということで、墓を掘り返して埋葬しなおしをする。天皇自身にもいくばくかの良心の呵責があったものと感じたいです。

 782年 崩御 73歳

さて、光仁天皇の後を継いだのが桓武天皇で高野新笠の子ですよね。

彼の大きな業績としてじゃ「平城京→平安京」への遷都で、いわゆるここからが平安時代の始まりになるのです。

しかし、彼は非常に掟破りの人物でした

 皇后 藤原乙牟漏(平城天皇・嵯峨天皇の母)

 妃 酒人内親王

藤原氏は臣下、一方酒人内親王は光仁天皇の娘で桓武天皇の異母妹ですから身分は酒人内親王の方が上のはず。ということは本来、形だけでも酒人内親王が皇后にならなければいけないのに、皇后を藤原氏にしているんですね。

その理由は、勿論藤原氏とのつながりを深くする事で権力を盤石にすることでしょう。でも、別の面から言えば「皇后にふさわしい身分は藤原氏」という身分の考え方の転換です。

自分の血筋にはかなりコンプレックスを持っていた彼が、酒人内親王を妃にしたのはとりあえず体面を保つ為だったと思うのですが、皇后が自分より血筋がいいというのは許せなかったんでしょうね。

 早良親王を死においやる

桓武天皇即位時に皇太子に立てられたのは弟の早良親王でした。

しかし、藤原種継暗殺の罪で流罪に。無実を主張した早良親王は食を断ち餓死。

桓武天皇は井上内親王と他戸親王に行った粛清を実の弟にも行ったわけです。

以後、祟りを恐れて遷都するということになるんですけど。

やることが韓流史劇だよなーーと思ってしまい、やっぱり血は争えないのかと感じます。

また桓武天皇は沢山の宮人を側室に置いていましたが、その中に沢山の百済人の娘がいたのです。

自分のルーツを考えたんだろうなとも思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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産める妃に産ませなかった皇室

2019-11-30 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

コメントの中に「伝統は現代と融合すべき。側室や女官がいない今の皇室で妃に男子を産むプレッシャーを与えるのはよくない。ゆえに女性宮家と女性天皇を認めよ」

というのがありました。

荒らしだからほっておくことも出来るんですが、私は、意外とこんな風に思っている人は多いのではと思います。

こう思っている人っていわゆる「雅子さまおかわいそう」派なんですよね。

「好きでもない人と無理に結婚させられた雅子様は世継ぎのプレッシャーで適応障害になった。なのに秋篠宮家には男子が誕生した。愛子さまは天皇になれない。お可哀想」って。

でも、皇統は「男系の男子が継承する」と決まっています。

なぜならそれは2000年の伝統があるので。

伊勢神宮がなぜ今も毎朝「火起こし」から仕事を始めていると思いますか?

なぜ20年に一度式年遷宮があるのでしょう?

それはまさに「伝統」と神道という考え方から来ているから。

天皇は神社の長ですから、自ら伝統を破壊してはいけないのです。

今回の皇后の「扇の持ち方」にしても、こんな簡単な間違いも皇后たる人が堂々とやっていったらいつかそれが「正しい」ことになる。それはいけないことなのです。

世界中の王室がこの問題を抱え、譲るべきところ、守るべきところきちんとわきまえているのです。

まず天皇皇后に正したいことは「プレッシャー」と言う程、努力をしたのか。

昭和天皇もまた男子が生まれず悩んだ人です。

昭和天皇と香淳皇后の縁はお二人が小さい頃に決められました。久邇宮家が多産系であった事も大きな要因でしょうし、戊辰戦争の折に賊軍になった事に対する贖罪の気持ちもあっただろうと言われています。

確かに香淳皇后は多産系できっちり2年ごとにお子様をお産みになられ、昭和天皇もそれに応えられた。その結果2人の親王に恵まれたのです。

当時は側室を持ってもよかった時代。でも昭和天皇はそうはしなかった。ということは、心の中で必ずや香淳皇后との間に男子を・・・と言う思いがあったと感じていますし、もしダメだったとしても秩父・高松・三笠の3親王がいましたから、それほどの危機感は持っていなかったかもしれません。

「皇后は女腹だ」と悪口を言ったのは政府関係者で、これこそマタハラですよね。

戦前、皇室は親王が子をもうけることが出来る体かどうか、性的思考がどこにあるかなどわりと把握してお妃選びをしていたのではないでしょうか。

秩父宮殿下が病気で早く亡くなるというのは予定外だったかもしれませんが、秩父・高松の両妃に子供がいないからといって肩身の狭い思いをしたり、精神的におかしくなったという事例はありません。

皇室の中では「子に恵まれる宮家がそれを担う」という通常の考え方があったと思います。

上皇のお妃に正田美智子が選ばれたのも、上皇の好みだったということではなく、生物学的にみて子供が産める身体であること、兄弟に男子がいる事も加味されたことでしょう。

徳仁親王は上皇の結婚の翌年に生まれています。

不妊であったり避妊もしなければこれは自然な流れで、ダイアナ妃もキャサリン妃もメーガン妃も同じように1年ないし2年以内にお子が産まれている。秋篠宮夫妻も1年目には眞子内親王が生まれています。

つまり、「皇族の結婚」に必要なのは本人の好みではなく「男子誕生の確率」がどの程度あるかどうかでした。

小和田雅子さんは、そういう大切な検査を自ら拒否しました。

そして上皇も徳仁親王もそれを許してしまいました。

伝統云々以前に、この時点で皇族としての自覚がないと思いませんか?

しかも、雅子妃は「3年間は子供はいらない」と言ったのです。

当時29歳。今でこそ普通ですけど当時は高齢出産間近の年齢で、欲しいなら早くした方がいいと言われたものです。

なのにご本人は「3年は子供はいらない」と言ったのです。

その間、紀子妃は佳子様を懐妊。

すると、「子供を産まない」と言った筈の雅子妃は泣き顔で公の前に出てきてしまった。自分が産まないんだから誰も産んじゃいけない・・・そういう考え方ですよね。

以後、秋篠宮家は壮絶な産児制限を課され、出産可能年齢が限界に近づいたところでお許しが出て大変な思いで悠仁親王を出産されたのです。

佳子様と悠仁親王の年齢差は12歳。

産児制限をかけたのは上皇后です。「佳子ちゃんが生まれた時のようになったら可哀想」と言った・・・つまり紀子妃は佳子内親王を出産した時、相当な意地悪をされたわけです。

皇室は産める女性に産ませないという究極のマタハタをやってのけました。

何の為に?小和田雅子さんが悲しまない様にする為です。

これって、よく不妊治療をしている女性が、子供が生まれましたという年賀状を受け取って「私に配慮してない。許せない」と怒る心境と同じですね。

なぜ上皇后がそんな思想を受け入れて雅子妃を庇ったのか。

一言でいうと、紀子妃は「出来すぎお妃」だったから。

虐めても怒っても切り返してくるし、絶対に折れない。いつの間にか妃としての威厳も美しさもアップしている。「皇室の顔」「皇室で一番美しい私」を自任している上皇后にとって、自分の地位を脅かす存在だったから。

どんなにプレッシャーをかけても切り抜けて出産する女性。白雪姫紀子妃と、「鏡よ鏡」のまま母の対比ですね。

結婚5年目についにしびれをきらした上皇が「国民みなが待っているからね」と言ったら「私の友達にそんな事をいう人は一人もいません」と言い返した皇太子妃。

本当に泣きたくなかったら、最初に子供が産めるかどうか調べて無理だったら諦めるのが筋。でも、彼女は「ありのままの自分を受け入れてくれない皇室が悪い」と思ったのです。

当然皇統の危機が叫ばれ、不妊治療を行うことに。

やっと懐妊したと思ったのにそれを隠してベルギーへ行き、寒いのに外に出てワインをがぶ飲み。スクープした新聞に「流産」の責任を押し付けるというありさま。

8年目にやっと生まれた娘は障碍者だったけど、それを隠し通して「ご優秀」伝説を広め「だから天皇になれる」と言っている。

一方の紀子妃は「お許し」が出てから懐妊。マスコミの犯罪的なマタハラをも、前置胎盤をも乗り越え無事にご出産。

ネット内では「前置胎盤」と発表された途端「生まれるのは絶対に親王」という話が広がりました。そういう科学的根拠があるみたいですよね。

私自身も39歳で妊娠しましたけど、初産が39歳と違って辛さが3倍くらいあります。色々体調にあれこれ出てくる・・・でも我慢の一筋。1人目2人目の時はあんなに楽だったのになんで?といつも思ってましたが、紀子妃も同じだったようです。

前置胎盤の為に入院後、人知らず泣かれた事もあったとか。

おかげ様で42年ぶりに直系男子が生まれたわけです。

今、「女性天皇」「女性宮家」を検討する本当の理由は「悠仁親王に子供が出来ない可能性がある」「悠仁親王が早死にするかも」といった根拠のない理由なんです。

わずか13歳の皇族に諦観して「だから伝統を現代に融合させる為に女性天皇・女性宮家」というのはおかしい話です。

「天皇」という地位は不可侵のもので職業ではない。

職業ではないけど21世紀の今、賢さや気遣いや思慮深さが求められます。

今上は即位したけど、これらのものが全く備わってない為に言い間違えが多いし、おかしな宗教に取り込まれる結果になっています。

皇后も立ち居振る舞いや表情の一つ一つに皇族としての使命感がなく、まさに「ありのまま」で即位しました。

今は宗教団体がくっついているから人気でしょうけど、そのうち国民はその存在をわすれることでしょう。

「女性宮家」というのは民主党は発案した言葉です。

皇室では女性が当主になることはあり得ません。

それは平等意識がないからではなく、皇統はあくまで男系で繋いでいかなくてはならないものだからです。

伝統を破壊すれば、アイデンティティが失われます。国が消えるのと同じです。

 

ところで・・・

こんな動画があります。

本当かどうかわかりませんけどね。

 

 

 

 

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え?令和の壬申の乱?

2019-10-27 18:28:50 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 えーーっと。

仮に旧宮家男子と眞子内親王・佳子内親王が結婚して宮家を作ると、どうして悠仁殿下系と間に壬申の乱がおきてしまうのでしょうか?

全然わからないので、誰か教えて下さい。

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皇室における和服の位置

2019-08-21 08:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

こざとさま

その疑問、わかりますよーーー 何で悠仁殿下は羽織袴を履いていたの?ですよね。

 ちょっと聞いたこんな話

結構昔の話です。森光子さんが勲章を貰う時、皇居まで車を出したのはジャニーズ事務所でした。そして東宝関係者がお付き添いで行ったのですが、その時「袴ははかず洋装で」と言われたそうです。よくわからないけど、武家の装束である羽織袴を履いて皇居に入ってはいけないとか・・・当時、小泉首相でしたけど確かに洋装だったかな。

 装束の変化

公家の衣装 → 男子は束帯

        女子は女房装束

ですよね。でも現実問題、現代の日本でこの格好で外、歩けると思いますか?

こういうのは即位の礼とか大葬の礼などで見ることが出来ます。私達は10月にテレビで見ることが出来るでしょう。

時代劇などで見る公家といえば

こんな格好。これは直衣姿といいます。多分、女性の場合は和宮に代表されるような「おすべらかし」唐衣という画像が思い浮かぶのではありませんか?

 

 明治時代 → 正式衣装は洋装

明治になっても暫くの間、宮中の女官たちは

 こういう姿でお仕えしていました。

男性はざんぎり頭になり、軍服や制服の着用になり明治天皇は直衣をやめて軍服で過ごすようになります。けれど女性に対する規定はなかったので、庶民までも相変わらずの髪型と着物姿。

宮中においては

これが外出着です。昭憲皇太后の行啓の図ですが、面白いのはハイヒールを履いていること。とにかく洋装になれなくちゃということで、袴にブーツならぬ袿にハイヒールをはいてみたんです。日傘もさしたとか。

でも、やがて「洋装令」が出ます。

 皇族の最上級の装束は大礼服

 日々は洋装

という風に決められたのです。ここから男性皇族は軍服が正式の服装となり、女性はバッスルスタイルの洋装が通常になります。

香淳皇后は女学校時代は

こういうお姿でした。

けれど、外交儀礼としては洋装が最も格上になったのです。

 

 昭和天皇も召された羽織袴

 お小さい頃の昭和天皇。羽織袴です。

お写真を撮影するのに何を着てもいいというわけにはいかず、かといって直衣などは着用が大変、軍服はまだ早い。学習院の制服?みたいな色々な考えが渦巻いたと思うのですが、とりあえず日本人だし・・・だったのかなと思います。

ただし、皇太子時代、天皇になってからは一度もこういうお姿はありません。

数少ない外国訪問の時も洋装で通されました。

 

 皇室に大々的に着物を持ち込んだ上皇后

とにかく美智子妃というかたは着道楽でいらっしゃる。他の皇族が全員洋装でも自分だけは着物を着たりする。雅子妃は回りが着物でも洋服ですが。

戦没者追悼式も洋装で行くべきですが、皇后になってから着物になりました。

それも「陛下に何かあった時、支えるのに着物の方が動きやすいから」という理由です。

幼い浩宮も着用。大きくなっても

着用。一方の紀宮には大学卒業の時も袴を履かせなかったわけで、ここらへんどういうおつもりなのか全然わかりませんよね。

上皇が皇太子時代、タイのワチュラロンコン皇太子が来日した時には皇太子と3人の子供達がみな着物なのに美智子妃だけが洋装です。多分、美智子妃の服はタイの女性の正装を模したものじゃないでしょうか。

 

 21世紀の皇室では着物が女性の正装

眞子さまも佳子様も皇室外交の時によく振袖を着用されていますね。眞子さまはどこへ行くにも正式の場では着物です。

個人的にはローブ・デコルテにティアラ姿を外国でも見たいです。晩さん会とお正月の制服みたいな洋装じゃなくて、ダンスが出来るような。それこそわっかのドレスをお召し頂きたいです。

しかし・・・・眞子さまが着物を外国で着用されるのは、それが海外の人からみて「もっとも日本人らしい民族衣装姿」に見えるから。それと経費節減かなと。

ドレス姿だとすぐに「あの時も着てた」と海外の人にもわかりますが、着物ならかなり使いまわしが出来ます。眞子さまのペルーとボリビアでの着物は以前着用になられたものばかりでした。

予算の少ない宮家にとって着物なら親子で使えるし(眞子さまの場合は洋服も紀子様のおさがりを着ていますが)長く着用できるというメリットがあるのでしょう。

佳子様がオーストリアやハンガリーでもずーーっと着物なのかなと。本当はエリザベートのようなドレスを着て頂きたいところなんですが。

 

 悠仁殿下が羽織りを召された理由を考える

ブータンは今でこそ旅行者は普通の格好でもいいですが、以前というか昔は外国人でもブータンの民族衣装を着なくてはいけなかったと思います。

ワンチュク国王は新婚旅行で日本にいらした時も、インドでもどこでもあの民族衣装をお召しです。前国王は昭和天皇の大葬の儀の時にもあの民族衣装を召されて、私などは「寒いのに・・・」とびっくりしました。雪が降る中でのあの装束だったので。

だから眞子さまも紀子様もブータンに入られると「キラ」を履いてますよね。出来るだけあちらの服装に近づけるという意味合いがあるのでしょう。

悠仁殿下も同じだと思いますよ。スーツの時はネクタイまでお父様とお揃い。今回はあちらの皇子さまと会う予定もあったことだし、子供同士で民族衣装を着ましょうということだったんじゃないかなと思います。

とってもエキゾチックに見えますよね。

秋篠宮殿下が袴を履かなかった理由ですか?持っていなかったのでは?

あくまで皇嗣の礼装は洋装ですしね。

 

 愛子内親王や眞子内親王・佳子内親王の服装について考えてみる

愛子内親王の場合、とても自分で服を選んでいるわけではないと思います。

でも小さい時から本当に衣装持ちで、静養に行く度に服が違ってしかも海外ブランドを着せていたようです。好みは多分母君なんでしょうね。

何であんなに子供っぽいのか・・・それは以外と両親が娘と同世代を知らないからじゃないですか?むしろ「うちは皇女なんだから高級品を着せればいい」と思っているかも。

一方、眞子さまも佳子様も小さいころは紀子様手作りのワンピースなどをお召しでした。

ファッションセンスが最もあるのは佳子様で、本当におしゃれなスタイルを貫いてますが、ちょっと肩を出しただけで大バッシングになります。

つまり、現在の秋篠宮家はそれこそフェイクニュースで叩かれる程なので、たとえ服1着といえども簡単に「これが着たい」とはいえないのです。

特に美智子皇后の時代には、ご自分は若いころ散々おしゃれして最先端を気取っていたくせに、孫娘たちにはそれを許さないという変な圧力をかける人ですので。

 

愛子内親王が健常で自分の好きな服装でおしゃれを楽しむような姫だったら、回りの宮家ももっと自由に服を着ることが出来るのでしょうけど、愛子内親王がああですから・・・目立たないようにしないといけません。だから海外では素晴らしい服装をされる眞子さまも国内では地味な色のスーツばかり選ばれるのです。

 

何にせよ今回の袴の話も嫌がらせですから気にしないで下さい。

公家装束では外を歩けませんから。

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どうして女系天皇がいけないのか 7

2019-07-27 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 タナボタ天皇 孝徳天皇の悲劇 

皇 極:私の目の前で蘇我入鹿を討つなんて信じられない!頭、どうかしてるわ

中大兄:も母上、入鹿は上宮王家を滅ぼした大罪人ですよ。皇族にとってこんな驚異はないでしょう。

皇 極:こんな権力争いはまっぴら。私は何も見てないわ。勝手にしたらいい。天皇なんてやめる。

中大兄:え・・・

皇 極:あなたが天皇になればいいじゃないの。

中大兄:じゃあ、叔父上。天皇になって下さい。

孝 徳:いや、私なんかより古人大兄皇子の方がいいと思います。

中大兄:古人は入鹿の婿ですよ。とんでもない。ここは叔父上に。

孝 徳:でもやっぱり古人大兄皇子が皇位につくのが筋だと思うので。

中大兄:蘇我氏じゃダメなんですって。叔父上。

孝 徳:でも私も歳だし・・・(下手に天皇になんかなったら殺されるかも)

中大兄:うちの大事な妹、間人を皇后に立てて下されば何の文句もいいませんから。

孝 徳:あんなに若くて綺麗な子をいいの?じゃあ、天皇になる。(まさか妹の夫を殺したりはすまい)

と言ったかどうかわかりませんけど、母の皇極天皇が退位したので、弟の孝徳天皇が即位しました。史上初めての「譲位」が行われたわけですが、理由は結構感情的。

ここで中大兄皇子は皇太子になりました。

中大兄皇子がこの時、即位しなかった理由は色々説があります。もっともポピュラーな理由は「皇太子という身分でいた方が自由に政治が出来るから」というものです。

でも最近では彼と間人皇女の同母なのに愛し合っちゃった件や、どうみても滅びそうな百済に肩入れしすぎる件、そして乙巳の変などで人望がなかったんじゃないの?という見方もあります。

 孝徳天皇って結構影が薄いですよね。女帝の弟なのに皇位継承権はほとんど期待できない地位にいました。その理由は

 父の出自がイマイチ

 蘇我氏の血を引いてない

ですけど、お姉さんは舒明天皇の皇后になってしかも女帝にスライドしちゃったわけですから「天皇の大后」という地位は何にも代えがたい大きな地位ですね。

舒明天皇・皇極天皇の流れで直系相続は頭の中に入っていたと思います。皇極天皇だって出来れば中大兄皇子に継がせたいと思っていた筈。でも、彼女からすれば次々にライバルを先手を打って殺していく中大兄皇子は「不肖の息子」だったかもしれません。

以後、彼女の生きがいは中大兄皇子と越智娘との間に出来た可愛い孫息子の建皇子になっていきます。

譲位した皇極天皇は弟から「皇祖母尊」(すめおみやのみこと)という称号が贈られました。

影が薄い孝徳天皇の時代ですがかなり大きなことが多々怒っています。

 645年 元号を「大化」とする

       中大兄皇子を皇太子にする

       阿倍内麻呂を左大臣に蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任命

       大化の改新

       戸籍の作成・新羅・百済・高句麗から使者

       僧旻などを呼び寄せ、仏教の発展に貢献する

       古人大兄皇子が中大兄皇子に殺される

 649年 蘇我倉山田石川麻呂が謀反の罪で自殺させられる

 650年 白雉と改元

 653年 難波宮から中大兄皇子らが引き揚げ、天皇は一人ぼっちに

 654年 中臣鎌足に紫冠を与える

       崩御

孝徳天皇は仏教を深く信仰し、性格的にも優しかったようで、政治や外交にも意欲的に取り組んでいきますが、それがまた中大兄皇子からすると面白くないわけです。

そもそも「天皇になって」と言ったのは中大兄皇子なのに、なって頑張ったらそれが気に食わないなんてあまりにも意地悪じゃないですか?

さて、蘇我氏は入鹿と蝦夷の死で滅んだのかというとそうではありません。中大兄皇子の妻である越智娘の父である蘇我倉山田石川麻呂の一族が残っていましたし、以前として蘇我氏というのは朝廷でかなりの権力を持っていたし、相変わらず「后を出す家柄」として名門でもあったわけです。

だから孝徳天皇の右大臣にもなったわけで、これは決して中大兄皇子にとっても悪い話ではなかったんですよね。

中大兄皇子の正妃は倭姫で彼女は古人大兄皇子の娘。つまり蘇我系のお姫様。そして夫人は越智娘。こちらも蘇我系です。家柄としてはピカ一のお后達でもし建皇子が長生きしていたら当然「皇位継承権1位」になった筈です。

孝徳天皇としては今までの政治の流れをそのまま引き継いで、うまくやって行きたいなと思ってて、小足媛の父である阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にして中大兄皇子の顔を立てたつもりだったでしょう。

でも、真面目になるほど中大兄皇子からは嫌われるというか、この中大兄皇子という人は心が猜疑心で一杯なんじゃないか?どこかで自分が実力不足であることを思い知らされて、地位を奪われると怖がっていたんじゃないかと思うんですね。

まず、自分の正妻である倭姫の父親を殺し、次に皇位継承順位に最も近い男子を産んだ越智娘の父を殺す。これでほとんど妻達からは信頼の「し」の字もなくなりますよね。

越智はこの件で気が狂ったとも言われ、結果的に早死にするし。

そうまでしても蘇我氏を滅ぼさないと自分の身が危ういと思っていたんでしょう。

 

孝徳天皇が自分のただ一人の息子である有間皇子を皇太子にしたかったかどうか、わかりません。自分の即位もタナボタなら息子もタナボタいける?と、そこまでおバカだったとは思わないんですけど、中大兄皇子はそう思ってしまった。

だから自分の方がいかに天皇より権力があるかを見せつける為に、遷都を促し、断られると母親も妹も弟も引き連れてさっさと去る。

有間皇子と取り残された天皇は、寂しくて悲しくて、でも追い打ちをかけるがごとく

中臣鎌足に紫冠を与えて下さい」と中大兄皇子に命令されてしまう。

正直、中臣鎌足?それって入鹿を討ったヤツじゃない?くらいしか思ってなかったかも。

蘇我氏というのはこの時代になっても名門なのに、いきなりどこの馬の骨ともしれない中臣氏に紫冠って・・・でも断れず。孝徳天皇はその直後に亡くなるのです。

 

 斉明天皇重祚 

斉 明:今度こそあなたが天皇になりなさいよ。私はあなたに代わって建皇子を育てる仕事があるから。

中大兄:・・母上、もう一度天皇になって下さい。

斉 明:はあ?自分が天皇になりたいから古人大兄皇子を殺したんじゃないの?越智の父親に謀反の罪を着せて殺したのもお前よ。ああ、恐ろしい。自分の妻達の父親を次から次へと殺すなんて。

中大兄:仕方ありません。そんな罪深い私が天皇になるより母上になって頂いた方が国の為でしょう。

斉 明:私はもう本当に歳なのよ。

中大兄:いえいえ母上はまだお若い。まさに国の母として君臨して下さい。

とまあ、ほぼ強引に再び天皇にされてしまった斉明天皇。

要するに中大兄皇子にはそれだけの抵抗勢力がいたということなんです。

 658年 有間皇子 処刑

       建皇子 死去

 660年 百済が滅び、豊章が亡命してくる

 

まず、重祚して斉明天皇は何かタガが外れたというか・・・どういうわけか公共事業に没頭し始めます。それには税金が必要で、じゃぶじゃぶ使いだすし、労役もどんどん負担させるし、だんだん民の不満は溜まっていきます。

きっと天皇にしてみたら「いいこと」をしているつもりだったろうし、中大兄皇子にしてみれば「母上が好きなことをやってくれてたら自分は外交に費やせる」と思っていたんでしょう。

蘇我赤兄:有間皇子さま。大王は間違った政治をしています。いまこそあなたが大王になるべきかたです。

こそっと孝徳天皇の息子である有間皇子に耳打ちした蘇我赤兄。蘇我氏はここでもちゃんと生きていて、中大兄皇子に忖度して有間皇子に謀反を起こさせ、結果的に処刑してしまいます。

有間皇子:天知る、赤兄知る、吾知らず

と言い残した有間の辞世の句、「家にあれば笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る 」(家にいれば茶碗に盛るご飯を旅先の今は椎の葉に盛る)

は哀しすぎますよね。政争から逃れたいが為に気が狂った振りもしたけど、ごまかしはきかなかったというわけです。

この出来事も斉明天皇にとってはショックな事でしたでしょうけど、一番はあれほど可愛がっていた建皇子を失ったことです。

建皇子が瀕死の時は氷室を開けさせ、貴重な氷を削って食べさせようとするほど愛していたし、「皇孫」の称号も与えたし。

口をきかない建皇子は斉明天皇にとって「安心」そのものだったんですよね。

なのに、僅か8歳でこの世を去ってしまう。


傷ついた斉明天皇。けれど息子の中大兄は「百済を救おう!」運動を始めるわけです。

救うったってもう滅んでいるのに、回りだって「今は百済の時代じゃないでしょう」って言ってるのに、何だか一人で空回りして船を出し・・・斉明天皇は旅の途中で亡くなってしまいます。

次から次へと自分のライバルになりそうな人を殺して、母親を失って、これで晴れて天皇に?と思ったらそうでもない。

中大兄皇子の孤独な戦いはまだ続くのです。

 

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どうして女系天皇がいけないのか  6

2019-06-20 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 まずは山形・新潟の方々にお見舞い申し上げます。

今も避難生活を送っている方も多いでしょう。令和になってから毎日のように残酷な事件が起きるんですけど、最初の大地震が来てしまいました。

何でこんなに暗い幕開けなんだろうなあ。また令和が始まって2か月も経たないのに。

平成の最初は紀子ちゃんフィーバーで楽しませてもらったけどね。

さて、「どうして女系天皇がいけないのか」自分で書いてて全然答えになってないよねというのはわかっているんです・・・

系図を書くのが結構面白くて、でもこれに時間を使っていると結論より疑問の方が大きくなっていって、あれれ?何で〇〇と〇〇は結婚したのかなとか頭の中で妄想が。

だから「うん。だから?」って言われても仕方ないですよね。

学者じゃないから自分の説を披露するというわけにはいかないし。教科書に毛がはえた程度の事しか書けない自分が情けないと思います。

 舒明天皇・宝皇女同母説について

これはネットで見つけたんです。数年前に。多分どこかの教授さんの論文だと思います。要は宝皇女の出自が怪しいとか。でもそもそも天皇の大后になる女性の出自が様々に取りざたされたり、結婚経験があったりということ自体が異常じゃないかと思うんですよね。

再婚・・・でいえば聖徳太子の母、間人皇后も用明天皇の死後に田目皇子と再婚していますし、大らかな時代というか。役割を終えたらあとは自由みたいな?

でも、宝皇女の場合は、一度高向王と結婚して男子を得て、それから天皇の后ですからね。謎の多い女帝です。

 

 大海人皇子が漢皇子説について

これも知ってますが、そうなると完璧に大海人皇子が皇位を簒奪したことになってしまうわけです。しかも渡来人の血を引いている人ということ。

そういえば天智も天武も額田も新羅や百済系の王族だと主張する本を買っちゃった事もありました。数ページで読むのをやめましたけど。

 

「女帝」という言葉のせいで、とても大きな存在のように感じるんですけど、推古天皇にしても皇極天皇にしても、男達のしりぬぐいをさせられているというか、ほぼ仕方なく「天皇」になりました・・・という悲哀の方が強いような気がします。

もともと皇女として生まれているし天皇の大后として未亡人として、夫の血統を守らなくてはいけないという使命に燃えているのはわかるんです。じゃあ「蘇我」と「夫である天皇」とどちらの比重が高いのかというと、私は夫の方かなと思います。

平安時代の女御たちのような「お父様のいいなり」系ではないけど、自分で国を牛耳るまでの野心は持たない。

古代における女性天皇は孝謙天皇が即位するまでは「男系を守る為」の天皇であったと思います。

 

そういう歴史を見ると、愛子内親王が天皇になる意義は全くありません。

なにせ男系男子皇位継承者は愛子内親王と同世代でいえば悠仁親王一人。競争したり蹴落としたりする相手などいないからです。

では天皇の娘として愛子内親王の役目は何かというと、「悠仁親王にきちんと皇位を継承させること」に他なりません。

本当の内親王であれば、従兄弟であり正当な皇位継承者が政治に利用されたり、皇位を簒奪されないように守り、導き、敵対する人をなだめる、あるいは蹴散らす。それが仕事なんです。

なのに、その内親王自体が皇位を要求するということは、裏で「傀儡の天皇」を欲しがっている人がいるということに他ならないのです。

まして2000年以上「男系」を続けて来た天皇家の血筋を変える、それが内親王だなんて言語道断、皇族の風上にもおけないということになります。

 

今上は「娘の将来の安泰」の為に皇位が欲しいのだと思います。

天皇として祀り上げられればすべてを隠して安穏な生活を送ることが出来ると本気で思っていそうです。

皇后はまさに「天皇の母」になれば今以上に称賛されると思っているんですよね。

二人とも本当に「天皇」とは何のために存在しているのかさっぱりわかっていません。

英語が出来なくても、留学経験なくても天皇になるべき人はなりますし、その価値は日本の為にこそあるもので、外国の為にあるものではありません。

女系天皇=自分の好き勝手にお金を使うことが出来る地位

に天皇が成り下がることです。

 

 

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どうして女系天皇がいけないのか  5

2019-06-19 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

 山背大兄王VS田村皇子 

  上宮王家の華麗なる血筋

 推古天皇の末期に蘇我氏に小さな波風が吹き始めます。

それは政治に対する考え方の違いとか、馬子の強引な手法に対する反対勢力とか。

厩戸皇子は元々蘇我の血を濃く受けている人で、後継ぎを産んだのも蘇我氏。

思えば最も蘇我氏に推されていい、庇護されていい一族だった筈なんです。

ところが、厩戸皇子は段々馬子の政治に嫌気がさしてきたというか、理想と現実の違いに悩むようになり、斑鳩に引きこもります。

当然妻達も一緒に斑鳩へ行くのです。

その後、厩戸皇子は亡くなり、長男である山背大兄王が当主となるのですが、彼が娶ったのは異母妹の舂米女王。

父と同じ気持ちだったからなのか自分の中の蘇我の血筋を消したかったのか、彼の婚姻にはそんなアンチテーゼが含まれていたような気がします。自らの配偶者に皇族を選ぶことで「皇族としての優位性」を示そうとしたのかもしれませんよね。

 

 

 蘇我本家と上宮王家の仲が微妙になるに従って、刀自古郎女もまた本家の出でありながら蘇我から離れようとします。

そこに分家の境部摩理勢が近づきます。

つまり

 蘇我蝦夷・入鹿 → 古人大兄王子推し(押坂彦人大兄王子と法提郎女の子)

 境部摩理勢 → 山背大兄王推し

この境部は馬子の弟になる人です。

ところで、この頃、天皇を決めるにあたっては朝廷の合議制が取られていました。

つまり長子だから、血筋がいいからなれるというものではなく、朝廷全体が認める人でないと天皇になれなかったのです。

馬子の死後、朝廷には「もう蘇我系の天皇はうんざり!」の空気が流れに流れていました。何事も永遠に続かないということでしょうか。その空気に蝦夷も入鹿も逆らえなかったということは

 穴穂部皇子暗殺

 崇峻天皇暗殺

 物部氏滅亡

 推古天皇擁立

という数々の悪行が尾を引いていたからではないでしょうか。

そこでダークホースのごとく現れたのが田村皇子、後の舒明天皇です。

彼は押坂彦人大兄王子と息長氏の間に出来た皇室的サラブレッドです。

血筋がよく年齢的にも最適だった父が皇位継承から外れ、息子がリベンジを果たしたという感じですね。

朝廷はいわゆる原点に戻って天皇を選んだのです。

蘇我系皇族のサラブレッド山背大兄王と息長系皇族のサラブレッド田村皇子の皇位継承争いは「空気」で決まった感じでしょうかね。

舒明天皇(田村皇子)時代には

 皇后を異母妹の宝皇女に決定

 630年 遣唐使派遣

 新羅・百済から使節がやって来る

など穏やかな外交が繰り広げられていたのですが、実は朝鮮半島では新羅・百済・高句麗が覇権争いをしており、大和朝廷にとっても他人事ではありませんでした。

21世紀の現代から見ると、新羅が最も強かった・・・という話になるのですが、一時は高句麗が領土を広げ、そこに新羅が高句麗を騙して百済を乗っ取り・・みたいな韓流史劇そのものが繰り広げられていたんですね。

そんな時、日本は隋に代わって中国を統一した唐に遣唐使を派遣します。

さて。舒明天皇の皇后が宝皇女で、即位と同時に決められたようなんですけど、この宝皇女という人はなかなか謎めいた女性なんです。

そもそも彼女のお父さんである茅渟王って誰?って感じですけど、

彼は押坂彦人大兄王子と大俣王の子です。大俣王のお父さんは漢王というので渡来系の王族だったかもしれません。

そしてさらに不思議なのはこの宝皇女は一度結婚しているんですね。

お相手は高向王という人で間には漢王という息子までいた。高向王が誰なのかは不明ですけど多分に渡来系と思われます。

ただ、皇后になる女性の出自がはっきりしないというか、母方が3代前まで遡れないというのはこの時代としては珍しいのではないかと思うんです。

無論、この当時はわかっていたかもしれないけど、歴史書や系図にその名が載らないということがね。

結婚歴があって子供もいる女性を即位と同時に皇后にたてるというのは結構異常事態だと思うのですが・・・そこで出てくる宝皇女と舒明天皇の「同母」説。

これはあくまで一つの学説に他ならないのですが、舒明天皇と宝皇女は実は同母だったのではないのかというもの。あの時代でもさすがに同母同士が結婚するのはタブーでした。もしどうしてもそうしたいなら、女性側の出自を曖昧にするしかないというか歴史書から削除する必要があったのかも・・・っていう、途方もない話。

でも後に中大兄皇子と間人皇女が同母ながら愛し合うという話が公然と出てくると「この両親にしてこの兄妹」とも言えなくもない?

 宝皇女は舒明天皇の死後、すんなりと女帝に即位

 同母弟で2歳しか違わない軽皇子は皇位継承者から外れていた

宝皇女は舒明天皇の大后となり、舒明天皇が641年に死去すると翌年天皇になります。

 山背大兄王VS古人大兄王子 

私達は教科書で皇極天皇について

 天皇として初めて譲位した人

という風に習っています。「ふーんそっか」くらいにしか思っていなかったけど、平成の「譲位物語」と比較してみると「譲位する」っていうのは相当な覚悟が必要であるし、この時代の普通の天皇なら絶対に譲位なんかしたくない筈ですよね。でも皇極天皇はいともあっさりと譲位しちゃうわけで。このあたりがやっぱり女性だからというか、母であり女性であったがゆえと思うんです。

 

では、舒明天皇の死後、なぜ皇極天皇が即位したのでしょうか?

皇極天皇が即位したのは49歳の時です。この時皇位継承者の有力候補は

・軽皇子47歳ぐらい

・中大兄皇子17歳くらい

なので山背大兄王と古人大兄王子は軽皇子と同世代、中大兄皇子と大海人皇子は近い年齢だったでしょう。

山背大兄王と古人大兄王子は共に蘇我系サラブレッドで、軽皇子は蘇我系ではないので最初から皇位継承者から外されていました。

野心満々な中大兄皇子はまだ17歳。

またも皇位継承争いが勃発か!それも蘇我同士で!ということで「とりあえず」皇極天皇が即位したのだろうと思います。

 643年 上宮王家滅亡

 645年 乙巳の変

皇極天皇が皇位についていたのはたったの2年なんですけど、この2年の間に2つの大きな事件が起きてしまいます。

この時代、マスコミなんかいないんですけど、「〇〇から山背大兄王が謀反を企んでいると聞きました」というだけで立派に「犯罪」として立証されちゃうんですね。

嘘でも真実になるあたりは21世紀の日本とよく似ています。

蘇我系サラブレッドで、聖徳太子を祖とし上宮王家と尊ばれていた一家が、たった1日でぐるりと兵士に取り囲まれ、自害に追い詰められてしまうのです。

この首謀者は蘇我入鹿であるというのは教科書。

でも、蘇我氏が蘇我系を滅ぼすでしょうか。入鹿にとって山背大兄王は従兄弟だし、刀自古郎女は叔母さん。古人大兄王子は義理の息子。どっちが天皇になってもそんなに悪い目は見ないような気がします。

だから現在では、入鹿首謀者説は緩んできています。

入鹿が上宮王家を滅ぼした理由として「山背大兄王が即位したら分家の境部氏が栄えてしまう」というのがあったようです。

でもそれでも理由として弱いような気がするんですけどね。そもそも上宮王家にそんな野心があったかな?とも思いますし、聖徳太子亡き上宮王家の権威ってなあにって私は思ってしまうんですよ。

 

じゃあ、影の首謀者は誰だったのか?

いわゆる蘇我氏の血を引かない皇族達だったのではないかと・・・私は思うんです。わずか17歳の皇子にそんな策略をめぐらすことなんて出来る?でも、ここに蘇我氏に代わって権力を握りたい中臣鎌足がついていたら可能だったかも。

そして中大兄皇子の母、皇極天皇にとっても、上宮王家が滅びるということは息子の即位が1歩近づくことになるわけですから、悪い話ではない。

長い間、蘇我氏が支配してきた朝廷。

それを天皇を中心とする「皇親政治」の芽はここからすでに出ていたんでしょう。

 

結果的に上宮王家を滅ぼしたことが蘇我氏にとって致命的になったことは事実です。

山背大兄王が死んで古人大兄王子が喜んだか?いやーーむしろ震え始めたのではないでしょうか。次は自分かも・・・と。

そして645年に乙巳の変が起きます。

いわゆる大極殿にて蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足によって殺されるという事件です。

皇極天皇にとっては寝耳に水。まさか息子が自分の目の前で人殺しをするとは思わなかったでしょう。

皇極天皇にとって蘇我氏は自分の手足のようなものでしたでしょうし、うざいなと思っても殺そうとまではしたくなかったと。

しかも、中大兄皇子の言い訳がすごい。

蘇我氏は上宮王家を滅ぼした大罪人だから」って。

最近の学説では蘇我入鹿極悪人説は嘘っぽいというのが定説になっています。

なぜって、蝦夷と入鹿亡きあとでも蘇我氏は朝廷の重鎮であり続けたし、後々は「石川」を名乗り皇妃を出す家柄となっているからです。

ともあれ

こんなこともういやっ!私、天皇やめるから!なりたい人がなればいいでしょ」とばかり皇位をなげうったのが皇極天皇でした。

史上初の「譲位」と言えばカッコいいけど、要するに残酷なシーンを見せつけられて絶望したのと、そんなことをやってのけた不肖の息子の責任を取る形でお母さまは譲位されたのでございます。

 

 

 

 

 

 

コメント (8)
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