ウィリアムのいたずらの、まちあるき、たべあるき

ウィリアムのいたずらが、街歩き、食べ物、音楽等の個人的見解を主に書くブログです(たま~にコンピューター関係も)

「三島由紀夫VS東大全共闘」の話続き ー ネーミングかラベリングか

2020-11-25 09:06:26 | そのほか
「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」を見て来た。話のつづき。最後に書き残したものを、疾走感、ステレオタイプ、天皇と書いて、前に天皇を書いたから、今回は後ろから言って、ステレオタイプの話。

 その映画で、名前を付けることがどうのこうのというのが出て来たんだけど、名前を付けるっていのが、ネーミングかラベリングか、よくわかんなかった。
 あるものに対して、他と区別するために名前を付けるのは、ネーミング。
 これに対して、あるものを、「なにか」と分類してしまって、その分類から、かってにいろいろなことを「こうだろう」と決めつけてしまうのがラベリング。
 たとえば、東京の本郷にある大学を「東京大学」となまえをつけるまではネーミング。
 これを、「東京大学の人は頭がいいんだよね」とか特徴づけてしまうのはラベリング。

 ネーミング自体にはそんなに問題はないんだけど、ラベリングはおうおうにして、「こういうもんだよね」という過信(ステレオタイプ)、さらには、「男とはこういうものだ」「男らしくしなさい」とかいう話になって、できない人を差別したりする問題が起こってくる・これは避けるべきで、今、忌み嫌われている。(ミュージックライン11月23日に出ていたReiさんも、Categorizing Meって歌っているくらいだし。




むかしは、大量生産社会なので、効率性、量産が推奨されたから、そのために標準化が行われ、「こうあるべきだ」とか等級をつけたりするために、ラベリングは必要だったけど、今は効率的に大量にモノをつくっても売れないから、むしろ、ラベリングして大量なものを作るより、それぞれの個性を大事にして、カテゴライズしないで、サービスを提供するっていう形になってきた。そういう技術も発展してきたし。

 つまり、昔、ラベリングからの解放みたいなことをいっても、それを支える技術もなかったので、社会もそういう方向に動かず、むりだったけど、今は技術が発展し、むしろ生産しても余る社会になってきて、社会も個性を伸ばしていく雰囲気が上奏されて、むしろ社会が、ラベリングを否定しだしている(男らしく、女らしくなんて言ったらLGBTの観点から、めちゃくちゃ非難される)ようになったということなんでしょうねえ・・・50年でここは、大きく変わったと思う。

P.S 今日もミュージックラインが出て来たけど、どうしてミュージックラインが出てくるかというと、ウィリアムのいたずらが、南波志帆押しなので、たまに聞くことがあるから(聞き逃しで)。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする