一週間と一日目。すこし遠いところまで、メアリーが買い物にでかけた日。ドビング博士も研究所にでかけて不在だった。メアリーと入れかわりに四十五才くらいの男が博士の家を訪ねてきた。おれと男をマダム・ドビングはリビング・ルームに案内した。壁と天井には寝室と色違いのペルシャ模様の壁紙が張られ、床に同系色の絨毯が敷かれている。この部屋に入るのは初めてだ。トイレ、シャワー室にしても、機械と点滴棒に囲まれた寝室の外にでるためには常駐ナースの「外出許可」が必要だったんだ。向かいのソファに座る男は、仕立てのよさそうなウール地のスーツを着ていた。〝ウイリアム・ヒューズ〟という名前を聞いてピンとくる。〝ヒューズ〟はメアリーのファミリー・ネームだし、眼球は彼女と似て濃いブルーだった。マダム・ドビングとナースが、目くばせして席をはずした。
「リョウくん、だったね。単刀直入に話したいんだが」
「どうぞ」クシュン。部屋にただよう甘いハーブの香りに、おれはむせ返った。
「もうわかってると思うが、私はメアリーの父だ」
「イギリスで商社マンをなさってるとか。こちらへはお仕事で?」
「メアリーを妊娠させたのは君かね?」
父親の尋問その一、なるほど。
「いいえ。でも、手をつないでキスしました」
イギリスの英雄、ウイリアム・テルが放つ矢のように、男はおれをじっと見すえた。銀白色の髪が光る。
「メアリーは、きみのことが好きだというんだが。リョウくんのほうはどうなのかね?」
「おれとは、あまりにも違う世界に生きているって……」
「単刀直入に話したいといったはずだ。きみも好きか、そうでもないのか。どっちかね?」
「好きです」OK、ビジネス・ライクにいこう。
「子どもがいても?」
「えええっ? 堕ろさなかったんですか!?」
瞬間、頭ン中がまっ白になった。これだから、現実ってやつは!
「メアリーは話さなかったんだな。私たちの宗教はクリスチャンでね。残念だが、堕胎は禁止されている」
「そうだったんですか……」
「それでも、メアリーを愛せるかね?」
「ずっと、愛してます。でも……」
「わかった。じゃあ忙しいので、今日のところはこれで」
おれをソファに糊付けして、男は立ちあがった。
考えなくちゃ。でも何を? とりあえず、いつまでもここにいるわけにはいかない。これ以上の迷惑はかけられない。仕事、それを考えると絶望的になった。ゲーム・ソフトの海賊版はもうだめだ。ひとまずスペードのビニール・ハウスに帰ろう。ずいぶんと御無沙汰した実家に。大好きなスコッチでも土産に買っていこう。おれは寝室にもどった。どういうわけか、ナースはいなかった。所持品を確かめる。携帯、ピアス、薬の錠剤、ほかには何もない。廊下で叫んだ。
「奥さーんっ!」
裏庭のほうから返事が聞こえた。
「大声あげて、どうしたの?」
ハーブの葉を摘み取っているんだ。
「今日まで、ありがとうございましたあっ! おれ、出て行きます!」
「待って! 待ちなさい、リョウ!」
バタンッ。ドタドタドタ、ズサーッ! 廊下を曲がって現れたマダム・ドビングがスリッパにブレーキをかけた。ふっくらしたスカートの腰に両手をあて、表玄関につづく進路に立ちはだかる。その後ろにナースが追いついた。二人で植物採集してたんだね。マダムが訊く。
「どこ行くの?」
「とりあえず……スペードと一緒に暮らします」
「そのスペードが、よろしく頼むといったのよ!」
「はあ!?」話が見えない。
どうして現実の物語は、こんなにも理解しにくいんだ?
「彼は祖父よね?」
「年令からいえば、そうなります? とにかく、おれは……」
「博士は、あなたの父親なの!」
「は――あっ!?」
元〝国境なき医師団〟の女性メンバーをまん丸い目で見ているしかなかった。理解の絶壁。ガラス瓶の壁をよじ登ろうとしてはズリ落ちる蟻ンコの姿が目に浮かんだ。病気になりそう。おれは額に手をあて熱を計り、手首の脈拍をカウントしたかった。
「だから、そうなの!」
「悪い冗談は悪い子を育てますよ。NGOの寮にいたとき、二人はまだ結婚してなかったじゃないっすか! 婚前交渉の末にできた子どもが邪魔で、プンナンロードに捨てたとか!?」
「バカね。そんなことしないわ!」
マダム・ドビングの目頭がうっすらとピンク色に染まったのは、文脈から遠く離れて過去のロマンスに思いを馳せているからだろう。これだからわかんない、女性って。
「アリをお見舞いに行けるくらい、おれは回復できました。あとは何とか自分やっていきます。マダム、そこどいてください!」
「フーン。じゃあ、こうしましょう。明日の朝になったら、リョウの思うようにしなさい。今日一日、あなたはまだ患者のまんま。いいわね?」
彼女の威圧的な態度がなつかしかった。おれたち悪ガキ相手に、ときどき女性ボランティアたちは威圧的に接した。そうしない女性隊員はナメられて、おれたちに思いっきりスカートをまくられた。 《続》
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「リョウくん、だったね。単刀直入に話したいんだが」
「どうぞ」クシュン。部屋にただよう甘いハーブの香りに、おれはむせ返った。
「もうわかってると思うが、私はメアリーの父だ」
「イギリスで商社マンをなさってるとか。こちらへはお仕事で?」
「メアリーを妊娠させたのは君かね?」
父親の尋問その一、なるほど。
「いいえ。でも、手をつないでキスしました」
イギリスの英雄、ウイリアム・テルが放つ矢のように、男はおれをじっと見すえた。銀白色の髪が光る。
「メアリーは、きみのことが好きだというんだが。リョウくんのほうはどうなのかね?」
「おれとは、あまりにも違う世界に生きているって……」
「単刀直入に話したいといったはずだ。きみも好きか、そうでもないのか。どっちかね?」
「好きです」OK、ビジネス・ライクにいこう。
「子どもがいても?」
「えええっ? 堕ろさなかったんですか!?」
瞬間、頭ン中がまっ白になった。これだから、現実ってやつは!
「メアリーは話さなかったんだな。私たちの宗教はクリスチャンでね。残念だが、堕胎は禁止されている」
「そうだったんですか……」
「それでも、メアリーを愛せるかね?」
「ずっと、愛してます。でも……」
「わかった。じゃあ忙しいので、今日のところはこれで」
おれをソファに糊付けして、男は立ちあがった。
考えなくちゃ。でも何を? とりあえず、いつまでもここにいるわけにはいかない。これ以上の迷惑はかけられない。仕事、それを考えると絶望的になった。ゲーム・ソフトの海賊版はもうだめだ。ひとまずスペードのビニール・ハウスに帰ろう。ずいぶんと御無沙汰した実家に。大好きなスコッチでも土産に買っていこう。おれは寝室にもどった。どういうわけか、ナースはいなかった。所持品を確かめる。携帯、ピアス、薬の錠剤、ほかには何もない。廊下で叫んだ。
「奥さーんっ!」
裏庭のほうから返事が聞こえた。
「大声あげて、どうしたの?」
ハーブの葉を摘み取っているんだ。
「今日まで、ありがとうございましたあっ! おれ、出て行きます!」
「待って! 待ちなさい、リョウ!」
バタンッ。ドタドタドタ、ズサーッ! 廊下を曲がって現れたマダム・ドビングがスリッパにブレーキをかけた。ふっくらしたスカートの腰に両手をあて、表玄関につづく進路に立ちはだかる。その後ろにナースが追いついた。二人で植物採集してたんだね。マダムが訊く。
「どこ行くの?」
「とりあえず……スペードと一緒に暮らします」
「そのスペードが、よろしく頼むといったのよ!」
「はあ!?」話が見えない。
どうして現実の物語は、こんなにも理解しにくいんだ?
「彼は祖父よね?」
「年令からいえば、そうなります? とにかく、おれは……」
「博士は、あなたの父親なの!」
「は――あっ!?」
元〝国境なき医師団〟の女性メンバーをまん丸い目で見ているしかなかった。理解の絶壁。ガラス瓶の壁をよじ登ろうとしてはズリ落ちる蟻ンコの姿が目に浮かんだ。病気になりそう。おれは額に手をあて熱を計り、手首の脈拍をカウントしたかった。
「だから、そうなの!」
「悪い冗談は悪い子を育てますよ。NGOの寮にいたとき、二人はまだ結婚してなかったじゃないっすか! 婚前交渉の末にできた子どもが邪魔で、プンナンロードに捨てたとか!?」
「バカね。そんなことしないわ!」
マダム・ドビングの目頭がうっすらとピンク色に染まったのは、文脈から遠く離れて過去のロマンスに思いを馳せているからだろう。これだからわかんない、女性って。
「アリをお見舞いに行けるくらい、おれは回復できました。あとは何とか自分やっていきます。マダム、そこどいてください!」
「フーン。じゃあ、こうしましょう。明日の朝になったら、リョウの思うようにしなさい。今日一日、あなたはまだ患者のまんま。いいわね?」
彼女の威圧的な態度がなつかしかった。おれたち悪ガキ相手に、ときどき女性ボランティアたちは威圧的に接した。そうしない女性隊員はナメられて、おれたちに思いっきりスカートをまくられた。 《続》
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