◆書く/読む/喋る/考える◆

言葉の仕組みを暴きだす。ふるい言葉を葬り去り、あたらしい言葉を発見し、構成する。生涯の願いだ。

共産主義・資本主義と脳化社会

2013-06-03 02:27:31 | 思想・哲学
 共産主義の成功と失敗は、脳化社会の成功と失敗に等しいのではないか。先日のNHKBSプレイアムを見て、そう思った。共産主義運動は、膨大な生命と悲しみと喜びを踏み台にして出現した。その意味で、たしかに革命という名にふさわしい。

 初期の共産主義者たちは、勃興し発展する資本主義社会を見ていた。とくにロシアの共産主義者たちはツアーリズムという古風な帝国主義も見ていた。もちろん当時は誰もが見ていたはずだが、共産主義者たちは、資本主義と帝政ロシアのもとで貧困と死の淵に追い込まれていく人々の姿に自分を同化した。

 もともと人間の思考とはそういうものである。雨が降れば喜ぶ人と悲しむ人がいる。人間が生み出したものに社会的価値を求める人間の思考は、見かけが複雑なだけで同じだ。それが悪いわけじゃない。よいわけでもない。

 しかしロシア革命を成功させた共産主義者たちは、すべての現実を自分たちの頭脳のもとに計画し、コントロールできると盲信した。自分たちは真理を体現している、すべての真理を手にしていると考えた。あとはこの真理を社会に世界に演繹するだけだと。この過信は社会主義と呼ばれたが、当時の資本主義とはまた違った残虐な刻印を人間の歴史に刻んだのである。反対者や怠惰な者への拷問、投獄、洗脳、暗殺・・・。武力革命で政権を奪取した旧ソ連圏の共産主義者たちは、秘密警察を創り、国民を監視し、ジョージ・オウエル作『1984年』さながらの社会を構築した。この社会が共産主義に基づいた極端な脳化社会だったことは注目に値する。

 こうした極端な脳化社会が失敗する原因は何か。また、なぜ資本主義は失敗を免れたのか。

 ここには、世界と人間の関係がある。もともと人間は、偶然に満ちる世界を理解しようと思考してきた。人間は思考によって偶然を必然の過程として理解する。そうしなければ、収穫のときを知ることもできなかった。こうして人間は身の回りから順に取り巻く世界の偶然を理解し、自然の一部を利用し、生き延びる工夫を重ねてきた。古くは太陽信仰や天文学の発達がそうだったろうし、家畜の飼育や稲作の開始もそうだったはずだ。そして、そうした集団にみあう国家と権力の形成も。

 しかし人間は、自らを含む自然への畏怖を忘れなかった。世界各地に残る神殿や祭壇の遺跡は、そうした古代人の心理を直接に証明する。この日本では神社仏閣がいまでも人々の中に、かろうじてではあっても生きている。このことは、科学技術が発達した現代においても、人間が偶然に満ちた自然に囲まれて生きる実感を得ているからではないか。否定的な状況証拠になるが、共産主義は宗教を排撃しようと試みた。脳化社会には、偶然の力は認められないからだ。

 こうして、極端な脳化社会の敗北が理解できる。人間の思考が理解し計画できるのは、自然の一部にすぎないからだ。そのことは天気予報を見るだけでもわかる。発達した現代科学をもってしても、予報は外れる。地震や噴火の予想は、人間に思考の限界を伝える神の声かとすら思えるほどだ。

 このような人間の存在を前に、極端な脳化社会が敗北するのは当然だろう。そして、人間の欲望という根源、けっして脳化できない部分を核とする資本主義が、敗北を知らずに生き残ったのも当然というべきである。

 したがって、これからの社会は資本主義を継続しながら、その都度に矛盾や悪癖を見出し、それを修正していく努力を要する。この修正を妨げる傾向こそが、未来への敵なのだ。このためには、きめ細かな目配りができる地方自治体を育て、スケールの大きな事業を探し出せる頭のやわらかい国家が必要だと考える。

世界の狂気を工業に乗せて

2013-03-13 19:09:24 | 思想・哲学
 賃金の値下げを主張する三文経済学者が存命だ。世界で同じ商品を売るなら、安くなければ売れない。世界市場をターゲットにする華麗なグローバル企業にとって、グローバル競争に有利な価格が必要なのである。すべての生産をロボット化すればいい。ついで、あの三文経済学者もロボット化するだろう。

 もともと貿易は、ある地域の特産物を交換するために行われたはずだ。その限り、関税など問題になるはずもなかった。肉や穀物など各地の自給品は、貿易の対象にならなかった。ところが人口増加と減反政策が重なって、米・小麦などの食料の輸入が要望される。日本政府は、自給品を削減して貿易対象に格上げした。

 なんでもかんでも物資不足だった戦争直後の世界では、繊維・電気をふくむ工業製品が経済活動の花形だった。粗悪品でも飛ぶように売れ、日本は工業化へ実経済の舵を切った。これが高度経済成長の背骨であり、国土を強力な気圧がおおった。気団の名前は「列島改造」であり、農地と農民が邪魔だった。

 こうして日本は、世界で同じものを作る生産の拠点になった。トヨタ、ニッサンなどは典型である。売るならチョットでも安いほうがいい、というしみったれた価値観の素地が作られた。

 「同じもの」「安いもの」で国土がおおわれた。プレハブ住宅の出現である。多様性を支える自然など、破壊の対象でしかなかった。海岸線はコンクリートで埋め尽くされ、山肌は造成地とインフラのために切り崩された。

 こんな日本にも希望があるとすれば、「同じもの」「安いもの」といった、さもしい価値観から脱出する以外にないだろう。あの三文学者がロボット化すること。グローバル経済の応援団は存在自体が不要なので、なにかウマミがあるんだろう。

 「違うもの」を輸出したいなら、市場の購買力分析などは必要だろうが、少しでも安く売るのは主要な戦略にならない。

 なので、世界に共通する工業製品の貿易化は、輸出の「華麗」な花形じゃない。日本酒やアワ酒、焼酎などの酒類、ミソや醤油などの食材など、日本に独特の商品を花形に育て上げる必要がある。そのためには、田園風景が広がる国土が大切だったのだ。捨ててきたけど。


ある言語学

2013-02-27 17:00:50 | 思想・哲学

 ――内田樹著『街場の文体論』を読み終えて

 言語の態様は、バルト型にしろ春樹型にしろ、言葉と言葉にならないものとの二重の構成物と考えられる。このうち言葉にならないものは、言葉を生み出す母胎であり、言語には特別に重要である。前回の【感想】で論述を試みた民族史的な織物は、言葉にならない構成部分の呼び名だった。また、こうした二重構造が、フロイト理論の意識/無意識を基礎にしているのは興味深い。

 内田樹氏によると、言葉にならないものはトラウマとは違って、見知らぬ他者や死者たちの経験せざる経験の記憶である。この意味でバルトの「作者の死」は成り立つが、言葉の表面には共時的にエクリチュールの個性、オリジナリティーが見出されるだろう。それも類似の枠(監獄)からの離脱はたいへん困難なのだが。

「魂」とか「生身」とか「ソウル」とか呼ばれる言葉にならないものは、右脳から言葉を操る左脳に向けて人にささやくという噂もある。たとえば、これがミューズのささやきである。多くの人々が作家になる必要もないだろうが、このささやきを耳にするデリケートな感性は持ちたいものだ。

好きな人と会話するとき、好きだ愛してるといわないのに、その気持ちが相手に伝わるのは、こうした言語の秘密があるからだ。これを〆としておこうwww

体罰と女性の道具観

2013-02-11 01:40:14 | 思想・哲学
 つまるところ、体罰は愛のムチだといわれる。劣った技術をたたき上げるムチ、甘すぎる意識を叩き直すムチ。このムチは選手のためと考える確信が体罰を支える。ここには忘れられた文脈がある。そのムチが監督の地位を守り、名声を高め、それが保護者・関係者からの贈答品や、ときにはカネに変わる文脈だ。選手を道具にする穢れた欲望、他者を自分の道具とする現代。

 そんな考えが、今さら女性との付き合い方を反省させる。いつからか女性を道具扱いしてきたんじゃないかと。男の欲望を放射させるための道具。あんなに優しくしてくれたのに、どこかでボタンを掛け違えたのか。人間として見てもらえなかった女性。これは体罰じゃないか。ときどき付き合うのが苦しいだけだったのでは。

 女性とどう付き合えばよかったのか。こちらを逆に道具にさせるって方法も考えられる。だが、相手の欲望を大切にするのかも知れないが、結局はSとMとに別れるだけだ。たまに土下座して謝り、頭をヒールでゴリゴリされたが、彼女に生まれたのは男を道具にする感覚だったはずだ。お互いが道具なんて最悪だ。

 いや、ほんとうに、考えたこともなかった。思うに任せて女性をゲットし、わきあがる欲望のまま行動した。それを女性は受け入れるように見えた。男も女も一緒! だけれど、男側の文脈だけにしたがった行動が適切だったはずがない。体罰と同じだ。その証拠に別れが多かったので、いつも二人の女性と付き合った。

 女性を道具にするのって、もっとよく考える必要がありそうだ。まず、女性に向かう男の欲望があるとしておこう。この前提も怪しいものだが、また振り返ることもあるだろう。女性への道具視は、男の欲望を達成するために女性が必要なので生じる。欲望の達成が目的、女性はそのための手段、道具ってわけだ。

 この誘惑は強烈だ。女の子への興味は幼稚園のころからあったんだし、初めの夢精は中学だった。一方では、高校2,3年生まで女性の神格化みたいなものもあって話はややこしくなるwww

 しかし、この誘惑と女性の道具観は同じなのか。男の欲望の原因は身体に埋め込まれてもいる。遡上したサケでさえ、オスの精液はメスの産卵にたいして働きかける。DNAが原因だ。ただ人間の場合は、どう意識化するかが問題になる。無意識の意識化とは、また妙なことに突き当たったものだ。

 やっぱり男女のDNAが問題じゃない。食物連鎖に血生臭い動物世界をみて、一瞬で生物学を毛嫌いする傾向もあるが、それでは人間の美意識を優先しすぎだ。一種の多感さを否定するのではないが、食物連鎖の頂点が人間だからといって、人間の意識まで動物の頂点に立つのは行き過ぎた人間中心主義である。

 DNAが支配する動物世界は、人間の意識を完全に超えた「自然」とでも呼ぶほかない。なるようになってしまう世界。捕捉し捕捉され、喰い喰われ、命を燃やし奪われ、やがて朽ち果てる動物世界の「自然」だ。この自然を肯定するのも否定するのも人間意識の勝手だが、iPs細胞などの再生治療が発達したところで、自然の図式はまったく変わらないだろう。

 人間の意識はむずかしいけど、男に埋め込まれた無意識は女を求める。女も男を無意識に求める。これが意識を超えて逆らえない自然の情報だ。DNAが劣化しないかぎり、わけもわからず男は女を、女は男を求める。しかし人間の意識は複雑だ。欧米と日本をふくめた歴史上の先進地域では、一夫一婦制の婚姻形態を採用している。

 そして不思議にも、動物のメスとオスには互いの好き嫌いが発生するらしい。オスはどんなメスでもいいわけじゃなく、メスもオスをえり好みするらしい。この傾向は互いに個体識別できる動物に発生するはずだが、大抵はエサの補足がうまい、ケンカが強いなどが、メスにたいするオスの識別欲望を満たすらしい。

 この好き嫌い、えり好みは人間の世界にも起こるのが面白い。というより、「好き嫌い」「えり好み」の表現自体が人間の意識、言葉だ。多くの彼らには、身体を突き動かす沈黙した自然があるだけだ。ところが、この「本能」を利用して、人間はあれこれと女性をゲットする計画を立てはじめる。

 好き嫌いが満たされれば、女性も簡単な男の計画に「引っかかる」。引っかかろうとする無言の命令が組み込まれているからだ。その後は出会った二人の幸せを祈るばかりである。

 なので、男女が引っかかったり、引きあったりするのが男女の道具観じゃない。基本的に自然なのだ。自然は男女に、埋め込まれた無言の伝言を満たすように命令する。ところが、こうした自然の傾向を利用して、DNAが発信する男の欲望を実現する道具として、女性を位置づける考え(意識)も人間には生まれる。

 女性道具観は、男のDNA情報をみたす。一時的なら、女性のDNAも満たされるだろう。しかし、ここには消し去られた空白、欠如がある。ともに男女がDNA情報にしたがうという、協同関係である。それが脱落している。意識の上で男女の文脈は互いに孤立し、男は自分の欲望を発露することだけを見つめている。

 これは男女の秘め事だけの話でない。寒さや暑さをいたわり、日常生活の不足を気にかける一切の気遣いにも通底する協同関係のあるなしが、男女の道具観を乗り越えるキモになるだろう。そういえば、まだ機械化できない部分を人力にたよる大企業の流れ作業には、ほとんど一方的な合理化の関係しか見られない。


2012年アメリカ大統領選挙について考えたこと/完全な自由競争はファンタジーである(茂木健一郎)

2012-10-24 19:23:41 | 思想・哲学
記事元:夜間飛行

いまだに影響力を持つ「自由主義」というイデオロギー

みなさん、こんにちは! 茂木健一郎です。私は今、イタリアのシシリア島のタオルミーナにいます。先ほど、オバマ大統領とロムニー知事によるアメリカ大統領選の討論を見ました。どちらの候補者がアメリカの大統領になるのかは、我々日本人にも非常に大きな影響を与えます。その点から考えても、この二人の討論の内容に耳を傾けることにはもちろん意味がある。しかしそれ以上に、この二人の三回に渡る討論から、「私たちはどうやって社会をつくっていくべきか」を考えるための重要な論点が見えてきたように思うのです。

かつて、この世界には、マルクス主義、共産主義、社会主義といった「社会主義イデオロギー」というものがありました。そして、ソ連などいくつかの国家は、それらのイデオロギーを指針として国家を運営していた。社会主義とは要するに、中央政府が、社会資源の配分や経済システムを最適化することができるという思想です。ところが、ソ連邦の崩壊、ベルリンの壁の崩壊などがあり、そうした社会主義イデオロギーを通して、この世の中を運営するのは難しいことが明らかになった。今では、中国のように、名目上では共産主義を強行している国でも、実質上は資本主義が導入されている。北朝鮮でも、「計画経済・統制経済では立ち行かない」ということが、実際の国の運営から明らかになっている。

今回、アメリカの大統領選の議論を見ていると、もう一つ、いまだに我々に対して影響を与えているイデオロギーがあることに気が付きます。それは「自由主義」あるいは、「市場による競争」は素晴らしいというイデオロギーです。


アメリカはすでに「危険」な国?

ロムニー候補は、今回の討論で、オバマ大統領の医療健康保険改革、いわゆる「オバマケア」を厳しく批判しています。国が個人を助けたり、企業を助けたり、といったスキームは社会主義的であり、間違っているというわけです。人々がそれぞれの自由な創意に基づいて、市場の中で競争する、アメリカはそういう国にするべきだと主張しています。

実際、レーガン大統領とブッシュ親子二代の大統領が、そのような新自由主義的政策を進めた結果、アメリカの経済が活性化したという意見もあります。

しかし、一方では、アメリカはレーガン大統領時代以来、国民の所得の不平等はずっと広がってきています。これはジニ係数を見ても一目瞭然です。

みなさん、あるアメリカの機関が、世界中のさまざまな国のこのジニ係数の統計を取っていることはご存知でしょうか。そのアメリカの機関とは実は、CIA(アメリカ中央情報局)です。ではなぜ、CIAがこのジニ係数の統計を集めているのか。それは、このジニ係数から、社会の安定性を予測することができるからですね。つまり、ジニ係数が大きくなって社会の不平等が増していると思われる国は、革命が起きる可能性が高いということになる。

ちなみに、ジニ係数は、ゼロがもっとも平等な国ということであり、1になると完全な不平等ということを意味します。そして、0.5くらいになると危険水域とされています。ではアメリカは今いくつくらいかというと、0.45ほどになっています。アメリカは、すでにかなり不平等な社会になっていて、安定性の面から考えても危険な状況にあると言えるわけです。


安全基地が無ければ、人は競争できない

「市場の中で競争しろ」と言われても、世の中にはそれができない人もいるわけです。例えば、基本的な生活基盤がなければ、自由な創意工夫をする余地がありません。脳科学を研究している立場から言っても、「ここなら安全だ」という安全基地がなければ、脳はチャレンジできません。

日本の生活保護制度などはまさにその役割を果たしていますが、社会福祉のセキュリティーベースを用意しておくということは、その社会全体が積極的に挑戦をするために必要なことなのです。

その「安全基地」には、もちろん「誰でも教育を受けることができる」といったことも含まれます。経済的にどれほど恵まれていない家に生まれても、自分自身が努力すれば高い教育を受けることができる。そうした社会システムを作っておくことは、人々にとってチャレンジするために必要な条件なんです。

しかし、アメリカではそういう条件は満たされていません。皆さんよくご存知のように、日本でも少しずつ「格差が拡大してきた」と言われてきています。子供がどのような質の教育を受けられるかが、家庭の経済環境によって左右されている社会になってしまってきている。しかし、アメリカは日本などとは比べ物にならないほど、ひどい状態にある。

この自由競争というのは、僕は、ひとつのイデオロギーだと考えています。

イデオロギーはさまざまな前提のもとに成り立つものです。社会の構成員が、ある程度の安全基地を持って、しかもある程度の教育を受けた上で競争する、ということであれば、「自由競争を重視しましょう」という考え方も分かります。しかし、最初からまともに競争することができないような不平等がある場合には、それはおかしいと言わざるを得ない。そもそも「自由競争」自体が成り立たないと思うのです。


社会主義も自由主義も賞味期限が切れている

私は、今回の討論でロムニー候補が唱えている「自由な競争」や「市場原理」などはファンタジーだと思っています。

様々な不平等をもたらす社会的な歪みを直さなければ、ロムニー候補が主張しているような自由競争はありえない。ロムニー候補のように非常に恵まれた家の生まれであれば、自由に競争に参加することができるでしょう。けれども、必ずしもそうではない家の子供にとっては、そもそも「競争する」機会が与えられていないのです。

崩壊したソ連が、社会主義や共産主義というファンタジーを信じていたのと同じように、レーガン元大統領以来のブッシュ親子、ロムニー候補など、アメリカの新自由主義を唱える人たちは、結局一つのファンタジーを信じているのだと思います。

ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツは、『The Price of Inequality』 という本の中で、いわゆる市場原理主義が、いかに実際の社会に当てはまらないかを理論的、あるいはデータに基づいて緻密に議論しています。

私は、20世紀を動かした二つのイデオロギー、つまり社会主義も自由主義も、どちらも賞味期限が切れていると考えています。社会主義や共産主義の賞味期限が切れたということは、ソ連の崩壊や中国の変質で非常に分かりやすく我々の前に提示されています。一方の新自由主義という、イデオロギーないしはファンタジーは、いまだに力を持っています。実際、今回のアメリカ大統領選挙でも、このファンタジーを信じてロムニー候補を支持する人たちがいる。

このすでに賞味期限が切れているのに、いまだに我々の周りを徘徊している亡霊とも言える新自由主義は、日本にも非常に大きなダメージを与えています。

この新自由主義が前提としている世界観は、つまり、「我々は利己的な存在であり、我々は自分の利益のために競争する」というものです。しかし、シリコンバレーの実際の仕事ぶりや、スティーヴ・ジョブスさんの仕事を見ても、「自分一人で何かを成し遂げる」ということはありません。つまり、パートナーシップだとかコラボレーション、協力、協調、など、お互いに補い合うネットワークのモデルにしなければ、現代においてイノベーションは作り出せない。そういう現代のリアリティーと新自由主義的な世界観は一致しないのです。

例えば、日本の受験勉強を見ても同じことを思います。受験勉強というのは、典型的な個人競技です。ペーパーテストの点数だけが問題にされて、どのくらい友達と協力できるかといったことは、まったく考慮されない。この受験勉強も僕から見れば、ある意味で極端な新自由主義的な考え方と変わりません。もっと評価を多様にして、どのくらいの子供たち、あるいは社会と協力できるのか。一緒に何を作れるのかを総合的に評価するものにすべきです。そうしないと、結局、過去に「自己責任」という知性のかけらもない言葉が跋扈したのと同じように、科学的に見て間違っているイデオロギーの亡霊が、この世の中を徘徊し続けることになるのではないかと思います。


僕はオバマ大統領を支持します

いずれにしても、今申し上げた理由で、今回の大統領選挙については、オバマ候補を支持しています。

ロムニー候補が主張していることは、単なるファンタジーに過ぎない。しかも、自分自身を正当化するためのファンタジーに過ぎないと思います。1パーセントの人だけが幸せな社会などありえません。

脳の中には、不平等を嫌う回路があることが研究でわかっています。人間は、自分がある程度のものを持っているとき、よりたくさんのものを持ちたいという衝動よりも、むしろ分け与えたいという衝動の方が強くなるものなのです。例えば、日本には、家を建てる時に、建前(たてまえ)といって、家の上からお餅やお金を撒くような風習がありました。これも「自分は家を新築するぐらい経済的に余裕がある。そういう時には、富の一部を他の方に与える」ことで自分自身がさらに幸せを感じていたことから続いた風習です。つまり、「分け与える」という行動は、人間の本能のようなものなのです。これは日本人だけの習性ではありません。アメリカのネイティブ・アメリカンの方々の間にもポトラッチという風習があります。これは、持てる者が持たざる者にパーティーを開いて、いろんなものを分け与えるというものです。こうした「分かち合う社会、分かち合う経済」こそが、今我々が直面している現代の混迷を切り開く、一つの道だと思います。

今回のアメリカ大統領選挙について言えば、21世紀にふさわしい新しい社会福祉を志向しているのは、オバマ候補であって、ロムニー候補ではないと感じています。個人攻撃をするわけではありませんが、ロムニー候補の表情からは、他人に対するリスペクトを感じることができませんでした。他人が苦しかったり、辛い思いをしている時、それに対して共感を持つ。そうした共感を原動力として、政治の世界に入ってきた方ではないように、僕は感じています。

日本の政治状況は、今、非常に混迷しています。その日本でどういう政治を選択するかは悩ましいところですが、自由主義や自己責任を強調する政治勢力よりも、分かち合いやネットワークといったことを強調する政治勢力を支持することが、結局は、日本の経済を活性化して、文化を育て、そして、また「日が昇る国」と言われるようになる道ではないかと思います。

動画で見たい方はこちらから→USTREAM

「立教大・吉岡総長の祝辞」を読む

2012-04-04 18:14:49 | 思想・哲学
前回のブログ記事、『卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)』を読んでみます。エッセイとしても秀逸なので。

◇   ◇   ◇


まず、今回の東日本大震災によって、日常を構成する要素への信用が失われたと指摘されます。

東日本大震災が崩したのは、日常世界の物質的基盤だけではありません。深刻なのは、水や食料から社会制度まで、日常世界を構成しているさまざまな要素に対する「信用」が失われてしまったことです。

「大学という研究・教育機関」も例外ではなく、「信頼が失墜していった」。
ですから、「大学の存在根拠」が問われる必要があります。

大学とは考えるところである。・・・人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。

何を、どのように考えるのでしょう。
考えるとは、どうすることでしょうか。

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません。

興味が尽きません。歴史や伝統すら「現実の社会」、「日常」を構成する要素として扱われています。その根拠を問う者にとって、日本の歴史・伝統への回帰をうたう原理主義者たちは、たんなる日常至上主義者にすぎません。では大学にとって、考えることは必要でしょうか。

マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。/・・・大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。

「社会的な諸制度」が「次第に硬直化」する理由は、社会や歴史の「必要や利益」が変化するからでしょう。人間に奉仕する「社会的な諸制度」が目的を逆転させると、人間が「社会的な諸制度」のために存在するようになります。社会の「硬直化」を防ぐために、既存の価値や諸前提を根本から考え直し、「社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要」がある。

こうして、「既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくこと」が、考えることの意味とされます。

既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。
言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。

「考える自由」と等価な意味で、大学の自由を問題にされます。既存の価値や思考方法に拘束され、自由を失うと、根拠を問うことが不可能になります。今日まで大学が存続してきた理由は、社会から「考える」という人間の営みを「信託」されてきたからですが、現代の大学は社会の「信託」に答えてきたでしょうか。

東日本大震災とその後の原発事故は、大学がそのような「考える」という本来の役割を果たしていないし、これまでも果たしてこなかったことを白日のもとに明らかにしてしまった。/・・・社会が大学に求めるものが、「考える」ことよりもすぐに役立つスキルや技術に特化してきたことはそれを示しているのではないでしょうか。

この部分にたいする読者の意見は、賛否両論あるでしょう。しかし吉岡氏は「考えること」に言及しているのであり、社会の「グローバル化」や「ユニバーサル化」といった日常の処方箋とは別の次元に属しています。その処方箋を大学に持ち込み、次元の混乱を引き起こすのは、日常性の支配を通して根源を考える自由、大学の自由を奪うことに繋がります。

社会に「東日本大震災とその後の原発事故」が及ぼした影響のうち、他の面も見逃しません。「反知性主義」です。社会に既存する価値観、日常性を、根拠から問い直す知性の隣に、知性を見失った絶望も繁殖するのでしょう。この「反知性主義」は近い将来、日常性へと回収されざるをえません。

また、このような変化の背景に、そもそも「考える」ことの社会的意味を否定するような気分が醸成されてはいないか、という点にも注意しなければなりません。反知性主義が力を得るための条件は東日本大震災以後いっそう強まってきていると思われるからです。

ですが時間ぎれでしょうか。これ以上、吉岡氏は「反知性主義」について言及しません。そのかわり卒業生と大学人にたいして、ある存在の覚悟を要求します。

さて、これまで述べてきたことからもお分かりのように、「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です。
・・・・・
皆さんがどのような途に進まれるにしても、ひとつ確実なことがあります。
それは皆さんが、「徹底的に考える」という営為において、自分が社会的な「異物」であることを選び取った存在だということです。

どうか、「徹底的に考える」という営みをこれからも続けてください。そして、同時代との齟齬を大切にしてください。

考えることは、観念の中で罪を犯すことです。ときには観念の中で罰を受ける覚悟も必要でしょう。成文化された憲法や法律、または成文化されていないが慣習になっている社会の既存価値や前提を破り、観念として違反するからです。考える行為は本質的に反時代的・反社会的であり、その点で、根源を考える人は罪人です。

その一例として、ハリウッド映画をあげられます。混乱に陥った社会秩序を回復して、健全なナショナリズムを再興するために、映像の中で残忍な犯罪が行われます。ですが現実には、だれも俳優やシナリオ・ライターを罰しません。ゾンビ映画では、シューティング・ゲームのように銃が激しく火を吹きますが、映像の自由が保障されています。

また根源的な考えを圧殺すると、2010年ごろから始まったアラブの春は起こらなかったでしょう。いまもなおチュニジアのベンアリ政権、エジプトのムバラク政権、リビアのカダフィ政権の独裁は存続していました。アウン・サン・スーチー女史の政治的な復活もありえなかったはずです。

したがって、根源的に考える大学人と卒業生は、「社会的な『異物』であることを選び取った存在」であると、吉岡氏は聴衆に訴えます。「同時代との齟齬」は、「異物」に与えられた証明でしょう。


◇   ◇   ◇



木更津・全裸遺体事件と人間の根源

2011-06-13 12:59:51 | 思想・哲学
11日、千葉県木更津市の林道脇で女子大生(19歳)の全裸遺体が発見され、死体遺棄容疑で無職の男性が逮捕された。この事件はまだ捜査中で、男性を犯人と決め付ける段階ではない。

 ※<女子大生遺棄>24歳男を逮捕 容疑は否認 千葉・木更津(毎日)

逮捕された男性が真犯人かどうかは捜査の結果を待つとしても、こうしたおぞましい事件の発生が頻発し、人の目耳を引き、マスコミの社会面はネタが途切れそうにない。ここで人間の本性について考えれば、マスコミに毒された哀れな頭脳だと揶揄されそうである。

しかし、想定される非難にもめげず考えてしまうのは、人間の根源が怪物性にあるだろうことである。

アウシェビッツや西欧の思想・哲学を持ち出すまでもなく、この日本でも古くから人間の怪物性については考えられてきた。たとえば歎異抄でも、親鸞は「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と述べ、後世、親鸞の悪人正機説と呼ばれてきた。これを投稿者としては、人間性に潜んでいる悪と戦ってきた「善人」が救われ往生するのは当然だから、自分や他者に潜む悪を克服できず、振り回されて生きざるを得なかった者が救われるのは、いうまでもないことだ、と解釈する。すなわち親鸞は、人間に潜む本性(悪)を救うことが仏教という宗教の役割だと考えていたのだろう。「善」とは、部分的ではあるが人間の本性を自力で克服しようとする努力なのである。

不思議にも親鸞の悪人正機説は、キリスト教の「原罪」説と共通するものがある。神の命令に反して楽園に実る禁断の果実をかじったアダムとイブは、その楽園から追放されなければならなかった。この「原罪」を背負う者が、神とは異なる人間なのである。神(理想)とは異なる、罪を負った者が人間だとキリスト教は説く。

ただキリスト教は、「原罪」を負ったものをそのまま救済しようとはしないようである。人間は罪びとであり、未来永劫、神のもとに集い神に忠誠を誓わなければならない。しかし浄土真宗は、悪を本性とする人間そのものが救われると考える。キリスト教は人間の本性を「罪」として否定し、浄土真宗は「悪」を抱える人間そのまま、救われるものとして肯定する。奇妙な言い方だが、キリスト教より浄土真宗のほうが「人間的」なのである。すべての仏教が悪人正機説ではないが、こんなところにも、仏教を現状肯定の宗教と見る根拠があるかもしれない。

解剖学者の養老氏の言葉を借りれば、この人間の本性を人間に潜む「自然」と呼ぶこともできるだろう。あるいは子ども性と。人間は自然を、子ども性を、そのまま肯定して生きていくわけにはいかない。ここが人間のむずかしいところでもある。


遠くて近いフランス革命?

2010-12-15 18:51:50 | 思想・哲学
年末はタクシーの仕事が忙しく、平等について自分の考えをまとめる時間がありません。「自由、平等、博愛」をうたったフランス革命は、なにか参考になりそう。革命前夜の社会こそが、「自由、平等、博愛」への希求を市民・農民の間に生みだしたはずだからです。


考えつづけています。
また書きますが、今日はこのへんで。


もう一度、「平等」ってなに?

2010-12-14 18:57:46 | 思想・哲学
みなさん。もう一度、「平等」ってなにかを、考えてみませんか。
いまから仕事なので、自分の考えを書くのは明日になりますけど。

みんな一緒にゴールイン、が「平等」でしょうか。
パチンコ玉みたいに、お互い知らないのが「平等」でしょうか。
差別や自由と関係あるのでしょうか。

もう一度、じっくり考えてみませんか?


既視感のある青少年健全育成条例についてのコメント/内田樹氏を読む

2010-12-11 18:47:23 | 思想・哲学
ふたたび表現の規制に内田先生が言及するのは、石原都政が表現の禁止を制度化しようと執念深く狙っているからである。いまの状況は、民主、自民、公明など多数が賛成に回り、この15日の定例都議会最終日で成立する模様。

 ■民主も賛成、都青少年健全育成条例改正案は成立へ 
 【要約】過激な性的描写がある漫画の販売規制を強化する。
  これは表現の規制ではない、と民主は述べた。

うえのニュースからも理解できるように、この法案の特徴は「過激な性的描写」という、一見もっともらしい恣意的な禁止の根拠にある。いつだって詐欺師の言葉は一見もっともらしいから、細心の注意が必要な場合もある。この場合は、だれが、どのレベルの描写を、規制するのか……などなど、おおきな曖昧性(または「国民」の名を借りた独断と偏見)を法的な根拠にする点に詐欺師の正体が隠されている。ここに「既視感」があると内田先生は感じているんじゃないか。すなわち、映倫や戦前の検閲そっくりだと。独裁者の独断・偏見にもとづくスターリンの粛清は、形をかえて、この21世紀の世界にも繰り返されるのは驚きだ。では、どう考えたらいいのか。

このブログの読者は、品性ある方が多いだろう。ブログ筆者がそうだから(笑)。なので「過激な性的描写」と聞いたら、「そんなの、いらないじゃん」と脊髄反射する方もいらっしゃるはずだ。しかし、これでは素人の「床屋談義」、「パーマ屋談義」にすぎない。新しく法をつくるのは、この日本の形を未来に刻んでいく行為にほかならない。そこで、一度くらいは「なぜ?」の問いを発して、こうした法の制定にみられる思想的な背景を考えてみる必要がある。

そのためには、内田ブログに掲載された「既視感のある青少年健全育成条例についてのコメント」が参考になる。

この書き出しで、先生もはっきりと指摘している。

・・・表現規制についての議論がさかんである。けれども、「有害な表現」とは何かという根本の問題は主題的には問われていない。


思想的には、わざと根拠をあいまいにする点に大きな問題が隠されていると考えるが、先生は、こう話しはじめる。

最初に確認しておきたいのは、「それ自体が有害な表現」というものは存在しないということである。
どれほど残虐で猥褻な図画や文字であっても、マリアナ海溝の底や人跡未踏の洞窟の中に放置されているものを「有害」と呼ぶことはできない。どのような記号も人間を媒介とすることなしには有害たりえないからである。全米ライフル協会の定型句を借りて言えば、有害なのは人間であって、記号ではない。

マリアナ海溝や洞窟から話しはじめると、チョット待ってーッな人もいるようだが、そんなことから噛んで含んで話してやらないと考えられない人々がいる(石原慎太郎とか、民主党とか、自民・公明とか)。そのレベルに合わせたってこと。そのうえ、彼ら規制派の主張は完璧に「床屋談義」、「パーマ屋談義」のレベルなので、その分スルっと無抵抗に、一定の国民の間に入り込めそうな言論になっているからね。これが詐欺師の常套手段。

ここで先生は、記号(マンガ、銃、イラスト、核兵器etc)と、その価値(判断)は、まったく別ものだと指摘している。記号の価値は、記号の読者、記号の利用者が決めるものだから。たとえば「〒」マークを、日本人なら郵便関係を示すマークだと読解するはずだ。いつの間にか、そうなっている。しかし日本人の認識機構に組み込まれているが、これは万国共通じゃない。記号と認識、記号と価値の関係は、重要だが落とし穴でもある。って、だれでも知っていることじゃないの。「常識」の重要性であり、その限界でもある。これを詐欺師たちはうまく利用する。

有害な行為の実行に先んじて(有害な行為抜きで)、存在自体が有害であるような記号というものは存在しない。

とは、そういう意味だ。この確認のために、数々のデータをあげている。ここでは前回の寺島氏の講演を応用されているかも知れない(笑)。なかなか説得力あるデータが採用されているので、ぜひ実物にあたってほしい。

この事実から知れるのは、人が有害な行為を行うに至るには無数の要因がかかわっているということである。遺伝的形質も家庭環境も学校教育もメディアもそれに関与しているだろう。/もちろん政治文化もその一因のはずである。

そういうわけで、最後の結論は、これだ。

政治家たちが原理的な議論をネグレクトし、統計的根拠も示さずに重大な政治的決定を下すことが許される社会では、そうでない社会よりも人々が非寛容で攻撃的になる可能性は高いと私は思う。/この「有害政治家」たちのもたらす社会的災厄の責任は誰が取ってくれるのであろう。

「政治家たちが原理的な議論をネグレクトし、統計的根拠も示さずに重大な政治的決定を下すことが許される社会」、そんな社会は恐怖の社会だ。独断と偏見で、少数の政治家や権力者が猛威をふるう社会なのだ。

民主党は、もうダメだな。
石原氏も、もうゴメンだ。
声が出なくて音がはずれるアグネスも終わった。


立国の道すじについて/内田樹氏を読む

2010-12-05 21:23:46 | 思想・哲学
内田樹ブログ、『立国の道すじについて』を拝読。

まず、書き出し。

昨日の平松市長を囲む会の最初の1時間は寺島実郎さん(大阪市特別顧問)の講演会。/寺島さんはスケールの大きい話を「常識的」という節度を超えずに話すことができる珍しい知性である。/『街場の中国論』を書いたときは寺島さんの『大中華圏』(岩波書店、2004)にずいぶんお世話になった。

ここには、2本の枝が隠れている。
 ・スケールの大きい話を「常識的」に話す人物に出会えた感動
 ・『街場の中国論』を出版し、公安調査官の訪問を受けた思い出(笑)

2本目は冗談にちかいが、先生のブログ記事『なぜ日本に米軍基地があるのか?』に書かれているので事実らしい。また1本目は、近々のブログ記事『無垢の言語とは』にまで枝をのばしていくだろう。ラフカディオ・ハーンの怪談みたいに、常識から慎重に離脱を図るのがリーズナブルな文体なのだ。小説文体は、大なり小なりそうなるように工夫している。

先生がまとめた寺島講演の概略は。

(1) 日本の21世紀の外交戦略・経済戦略のメインターゲットは欧米ではなく、大中華圏(中国、香港、台湾、シンガポール)と韓国である。
(2) 日本の経済的・文化的なポテンシャルはきわめて高いが、それを適切に発現するためのシステムは整備されていない。

これだけなら、まるでどこかのイデオロギーおじさんの話と変わらない印象をうける。だが、そうではないので、逆に恐ろしく輝度の高い未来像になってくる。

寺島さんはイデオロギー的な外交経済戦略を語らない。三井物産の社員として、世界各地でものを売り買いして、口銭を稼いできた「商人」のスタンスを崩さない。/その「商人」の眼で見て、対米貿易はもう先がないという。
三井物産のサンフランシスコ支社が先日閉鎖された。シリコンバレー相手の商売では支社の経費が払えなくなったのである。/アメリカから日本のビジネスマンたちが立ち去り始めている。それはニューヨークの日本料理店が次々閉店していることからも知れると寺島さんは言う。

つづいて何個かの数字があげられるが、これらの数字は、すべて日本の現状と未来を「常識的」に、雄弁に、語っている。

日本の対米貿易は1990年で27.4%。それが減り続けて、2010年は13.2%。/20年で半減したことになる。/それに対して対中国は3.5%から20.6%、約6倍に増えた。/対大中華圏は13.7%から31.0%。アジア全域では30.0%から51.0%に増加した。
このアジア・シフトは、アジアからの観光客の急増というかたちで私たちにも実感されている。/日本からアメリカへ向かう出国者は95年の475万人から09年の292万人に減った。40%減。/ただし、292万人のうち214万人はハワイ、グアム、サイパン。/アメリカ本土に到達したのは78万人にすぎない。
対中国は95年の87万人から09年は332万人に増加。/大中華圏全体では601万人。
海外からの訪日外国人も現在は76%がアジアからの来訪者である。/前年度比でみると、中国が47%増、韓国72%増(これは09年がウォン安で来日者が少なかったために数値が突出している)、台湾37%増、香港28%増、シンガポール44%増。

この驚異的なアジア・シフトを通じて、なんとか私たちにも、寺島氏のスケールが大きい結論、そして内田先生が驚嘆された結論が納得できる。

これらのデータが意味するのは、戦国時代以来の、東シナ海を縦横無尽に人とモノと情報がゆきかう「アジア大移動」時代が始まりつつあるということである。

もちろん、「アジア大移動」時代は豊臣政権の朝鮮侵攻を指すのではなく、歴史の影に隠れ気味の密貿易や勘合貿易を代表とした商人中心(そして知識人?)の「アジア大移動」のことである。

さて、お二人の重要な問題意識は、経済トレンドの分析にあるわけではない。そんな問題は、どこにでもいる似非経済学者や金融関係者が、昨日・今日・明日の事柄として論じていればいい。

寺島氏と内田先生の問題意識は、彼らと次元が異なる。

この「アジア大移動」シフトを一過性のものとしてはならない。来日者が温泉やリゾートやブランド品の買い漁りで通過するだけの場所にしてはならない。/継続的にアジア圏(に限らず全世界)の人々を惹きつける「情報の磁場」が日本に存在しなければならない、と寺島さんは言う。

現在の日本には、すでに「情報の磁場」が存在しているのである。その特徴を継続的に育てようとするのだから、内田先生と寺島氏の問題意識はキラーンな感じでウルトラ・マッハにリンクする。そこで、これ以降、寺島氏と先生の仮想対談がはじまってしまう。

寺島さんの提案のひとつは、ジュネーブのように国際機関を誘致することである。…(略)…/だが、国際機関の誘致の条件は交通の利便性やホテルや通信網の充実や治安のよさだけではない。
なぜ、日本のように国際機関が常駐するためのほとんどすべての条件が整っている国の都市が選択されないのか。/それは日本では政治的中立性が担保されないのではないか・・・と世界の国々が何となく思っているからである。/そこには日本が米軍の常駐する「アメリカの軍事的属国」だという認識が反映している。/国際機関を誘致するための最優先条件は「米軍基地の撤去」だと私は思っているが、たぶん同意してくれるひとはきわめて少ないであろう。

この日本を米国主導のTPPで「開国する」などと最近になって述べたバカもいたが、この国の国際化は不可能である。「日米同盟の深化」を誇らしげに語る植民地の政権が、自民・民主と、戦後65年もつづいてきたのだ。主体性を失った風見鶏政権など、外交的には未熟児とおなじ。だれだって、その言動は大人として信用しない。

寺島さんは学術的なセンターを構想されているが、私も同意見である。/ある国が人々を惹きつけるもっとも安定的な要素は軍事力でも経済力でもなく、文化の力だからである。/日本の文化的ポテンシャルは世界でも一流だと私は信じている。
けれども、アウトカムはまだその潜在する資源の何十分の一をも発現していない。/これこそが21世紀における日本の「真の国力」になりうると私は思う。/このポテンシャルをどう涵養し、開花させるか。/それが喫緊の国家的使命である。

上から下まで自信を失いがちな日本人は、「一流だと私は信じている」と書かれちゃ、やっぱりねと思うかも知れない。そいつは信念の問題なのだと。事実じゃなく。

そんな人は、夜空に消えていったハヤブサを思い出そう。あいつぐノーベル賞の受賞者を思い出そう。受賞の対象にならなかったが、iP細胞の中山教授も村上春樹氏もいる。プロ野球や映画女優が海外で活躍している事実を思い出すのもいい。ジャパン・アニメの国際的な威力を思い出せ…って、どこまで「文化的ポテンシャル」の出土例なのか、わかんなくなるけどさ。とにかく民主党のチンケな菅・仙谷政権などと、政治思想が段違いなことくらいはピンとくるだろう。

奇妙なことに文化の力は、チンケでさもしい政治力を逃れて育ってきたのだ。

ここから先は、内田先生の教育論が展開されるのだが、『下流志向』とは違って、いちいち納得させられる。あとは読んでのお楽しみとしておこうか。


階層化する社会について/内田樹氏を読む

2010-12-01 17:45:41 | 思想・哲学
内田樹先生のブログ、「階層化する社会について」を拝読して。

最近の内田ブログは更新度が低い。神戸女学院の教授職をリタイアされたことに関係あるのかな。急峻で猥雑にガレた胸突き八丁を登りきって、頂上に立ってみると、自分を囲む空と山並みと澄みわたった空気の壮大さに気がついたりするが、あの感じかな。目の前に広がった予想外の原始風景に圧倒されて、日常バランスを失い、むしろ存在の不安におびえて生唾を飲み込んだときもあった。あれは、予想もしなかった「美」にネジ伏せられた服従感だったかもしれない。

そういえば、はじめて白い肉体に対峙した経験もよく似ていた。見たこともない奇妙な「美」の現実に襲撃され、存在のバランスを失い、うまく誘い込んだ自分の企てに怯えたものだ。

内田先生も、しばらく茫然自失の状態かもしれない。
違っているかもしれない。

先生のブログ記事、「階層化する社会について」は、じつのところ自筆の『下流志向』についての解説である。韓国でも翻訳・販売中らしく、韓国人の誤読を中心に語るスタイルになっている。

「上から目線」で勉強しない人間や労働しない人間を「叱咤」している本というふうに読んだ人が多かったようである

この「誤読」は、しかし読んでみた日本人にも共通する。こちらも数十ページ読んで、壁に投げつけたりしないが積読した。はじめて「内田先生らしくない」と思ったものだ。なぜだったのか。

『下流志向』のポイントは
(1)日本社会の「階層化」が進行していること
(2)階層下位に向けての「自分らしく生きる」イデオロギーの集中的なアナウンスによって階層化が果たされつつあること
この二点である。

前提(1)に、なんの疑問もない。いろいろなイデオロギーと立場の差異にかかわらず、この現状認識に異議を差しだす日本人は少ないはずだ。むしろ、階層化を格差化と読んだとき、日本に格差はないと発言したのは内田先生だったんじゃないか。とにかく、先生にも階層間の格差が見えているので、安心した。

階層社会というのは一部の社会集団にのみ選択的に社会的資源(権力、財貨、威信、文化資本)が配分されるシステムのことだが、このシステムは静態的なものでない。/階層社会における「支配的なイデオロギー」は、階層下位にいる人間たちに自ら進んで「階層下位に自らを釘付けにする」ようにふるまわせる。/「支配的なイデオロギーは支配階級のイデオロギーである」とマルクスが看破したとおりである。

不思議に、この一般論にもほとんど異論なく同意できる。ただ、権力と財貨を占有した「一部の社会集団」が、威信と文化資本まで占有できているかは疑問だ。アメリカやイギリスなんちゃら大学卒業を売りにした人物が日本社会の目立つ位置を占有しているが、ほんと馬鹿が多いと印象を受ける。もちろん、内田先生のことじゃないけど。

しかも現在、占有しつくした権力と財貨のため、この日本だけじゃなく世界中の先進国を消費の死滅へと追い込んでいるんだから、彼らは社会の困ったちゃんたちだ。次の資本主義革命は、こいつら困ったちゃんたちの国外追放と発生システムの再調整以外にないだろうとさえ考えている。そうでもしなければ、健全な資本主義は取り戻せないだろうと。

先生が述べる「支配的なイデオロギー」は、具体的には「自分探し」である。

その時代のマスメディアが大衆にむかって「こうふるまえ」とうるさく言い立てる生き方に従うと、その結果「階層上位」に資源がいっそう排他的に蓄積されるように支配的なイデオロギーは構造化されている。/それが私たちの時代においては「自分らしく生きるイデオロギー」「自分探しイデオロギー」として制度化されていたということである。
…(略)…「自分らしく」ふるまうということは、「他人の模倣をしない」ということである。

この点は、むしろ目からウロコ。こちらも「自分探し」ゴッコに批判的だったが、「結果、『階層上位』に資源がいっそう排他的に蓄積されるよう」に仕組まれた支配者のイデオロギーだとは気がつかなかった。

…脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである。

模倣から固有が生まれるのは、ひとりの人間の不思議であり、異論や「誤読」が生じる場面ではない。どうしても納得できない者は、おなじエンジンと浮力の原理を使いながら、各国で異なる戦闘機が生まれる現象を思い浮かべるのも方法だろうか。おなじ飛行原理をコピーしても、さまざま異なった外部条件が重なるからだ。模倣は均一を約束しない。ここに異論が発生する余地はない。

興味ぶかいので直後も引用する。

月本洋さんによると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」。/その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。/言い換えるならば、他者との身体的な「同期」が「理解」ということの本質なのである。


よく先生が言及する聴くことでもあるのだろう。模倣と他者の理解、模倣と他者を聴くことの、本質的な関係を明らかにする。やっぱライヴでは踊りだすのが正しい聴きかただ。これで参加者と傍観者の差異もわかっちゃった。

ところで、「自分探し」だった。

思考も感情も私たちは外界から「学習」するのである。/外界を遮断して、自分の内側をじっと覗き込んでいるうちに自生してくるような思考や感情などというものは存在しない。
ところが、「自分らしさ」イデオロギーはこれとまったく逆転した人間観に基づいている。/「自分らしさ」イデオロギーによると、…誕生の瞬間…(略)…以後の成長過程で外部から外付けされたものはすべて「自分らしくないもの」である。/それゆえ「自分探し」とは、自分が後天的に学習してきた価値観やものの感じ方や表現法などを削り落とし、剥がし落とし、「原初の清浄」に立ち帰ることを意味することになる。

「自分らしく」ふるまうとは「他人の模倣をしない」ことであれば、すべての模倣を排除したところに自分らしさは存在することになる。そのとき存在する自分(らしさ)があるとしても、脳科学の論理では誕生の瞬間における状態以外にありえない。または、精子の亀頭が卵子に埋没した瞬間。そんな「自分」を探し出せたって価値も意味もない。発見されるのは固有の自分じゃなく、脳科学的に人類としての発生過程でしかない。未来じゃない。

しかし先生は、もっと論理的に考察する。学者さんらしいところだ。

これは言い換えると、「私は知るべきことはすでに知っている。私がこれから実現すべきことのすべてはすでに胚芽的なかたちで私に内在している。私が私であるために外部から新たに採り入れなければならないものは何もない。私が所有すべきすべての知識と技術を私はすでに所有している」ということである。

たぶん、ここいらへんが誤解を生み出す場所なんだろうな。先生の理路をたどると、疑問が生じるようで生じない。なぜって、探すほど大切なものは、女のなかに男がドクドクンと射精した瞬間の出来事じゃないだろう。純粋で何の「ゆがみ」も知らず、もしかしたらスゲー画家かアニメータ、小説家、数学者か物理学者の才能をもち、大金持ちの子孫だったかも知れない「自分らしさ」だから探すんだろう。わたしは王家の一族だったかも知れないとか。

どーせ、昔はどっかの水のみ百姓さ、と思っている者(おれ)は、家系図にすら興味ないもんね。まして個体が発生した瞬間など、探したって幸福のかけらも見つかるわけがない。

いま能力も力もない自分に気づくなら、あったかも知れない能力と力を探そうとするんじゃなく、おれなら本を探す、考える。トレーニングの方法を工夫する。お金と暇とコネがあったら、大学いって勉強しろよ。図書館の蔵書と女の数に目まいがするぜ。だけど教授が全員、信頼できるわけじゃないって覚えておいたほうがいい。信頼できない教授ほど、休講がメチャメチャ多いからだ。授業の短縮も多い。ハッピーすぎて受講者が減り、「ちょっと面白いお店みたいなのがあんだけど、行ってみない?」なんてセフレ候補に誘いもかけやすい。ガンガレ。

そこで問題は。

問題は「私がすでに潜勢的に所有しているもの」を現勢化するための「チャンス」(しかるべき地位や年収、しかるべき敬意や配慮)が(誰かがそれを不当に占有しているために)まだ「私」に分配されていないことに尽くされる。
そのようにして、「自分らしさ」「自分探し」イデオロギーは「無権利者が占有している資源はほんらいの所有権者たる『私』に戻されねばならない」という「政治的に正しい」社会的格差解消論に結びつくことになる。


このあたりになると、「誤解」が生じる理由がありありと理解できる。記事の前半に、多少は流動的ではあっても、「階層社会というのは一部の社会集団にのみ選択的に社会的資源(権力、財貨、威信、文化資本)が配分されるシステムのこと」であると、明確に述べられていた。疑問もありつつ、一部集団に社会資産は選択的に分配される。これを資産の独占とか占有とか呼ぶ。じっさい日本も世界も独占、占有が極端に進行し、税金として吸い上げた資金を支配者間で融通しあい、そのため生じた消費の冷え込みに、彼ら自身が困った困ったといっている。巨大なお化けダコが、すっかり自分の足を食いつくして困っているようなものだ。

そこで、「無権利者が占有している資源はほんらいの所有権者たる『私』に戻されねばならない」という「政治的に正しい」社会的格差解消論も、先生の否定にかかわらず意味をもってくるのではないか。朝日にかぎらず、日本のマスコミなんて死に体でかまわないんだけれど。

しかし、まだ先生のご主張を全面的に理解できたわけではない。
以下に独特の教育者的な視点が展開される。

なぜ「自分らしさ」の追求が階層の再生産に加担することになるのか。/理由は簡単である。/それは、「自分らしさ」を追求している人間は、「学ぶ」ことができないからである。

つまり話は、教育者が語る教育論だったのだ。教育論的には、模倣を拒否った「自分探し」のイデオロギーは教師のコピーを拒否ることになる。「はーい、一緒に発音してみましょう。This is a pen」など、ばかばかしくて放り出したくなるだろう。そんなものが自分らしさの何に役立つのかと。のみか、歴史理解も過去のコピーである。江戸時代の次は明治だったりして、それが何の「らしさ」なのかと。物理法則も数学の公式も、過去の人類の成果を理解するという名目のコピーにすぎない。自分の興味はそこにない、と。

この学びの拒否は、たしかに恐ろしい。

「自分らしさ」を追求する人間が前提にしているのは「私には知らないこと、できないことはない」だからである。/私は知るべきことはすべて萌芽的なかたちで「知っている」のだが、それを開花させる機会を提供されていない。/私はなすべきことはすべて潜勢的なしかたでは「できている」のだが、それを発現する機会を提供されていない。/仮に私が何かを知らなかったり、できなかったりするとしても、それは私の責任ではなく、私が「私らしく」自己実現することを阻害している「社会の責任」に帰される。

「私は…それを開花させる機会を提供されていない。…それを発現する機会を提供されていない」
しかし、この論理は人々の中にスルリと入り込んでくる。お金がないので進学できない者も、実際には多いじゃないか。超特別の才能が認められても、日本の奨学資金は重たい。その反面、芸能人とか自衛隊の幹部などは、役にも立たない学生や教授に推薦される。このスルッと入ってくる論理を拒否した向こうには、人材が豊かな日本の才能たちを探すシステムは展望されないんじゃないか。子どもは天才、そんな童話のほうが有用なんじゃないか。だが、その論理は社会批判に向かう。

むしろ内田先生は、学びを忘れた旧左翼的な社会批判に疑惑の視線を投げられているのではないか。学びを忘れたバカはバカでしかなく、この高度に発展した社会のなかでタクシーの運転手でもしてなけりゃ生きてけないだろうと。おれのことだ。そう、たしかに。おれはバカだったのでタクドラしている。極道にも低学歴にも破産者にもできる仕事がタクドラなのだ。これは事実だ。

けれども、現在の自分の社会的な不調や地位の低さや年収の少なさをすべて「私が私らしく生きることを阻んでいる社会の責任」に帰するというのは、幼児の論理である。/たしかに幼児は免責される。/けれども、免責されることの代償に、幼児には幼児のポジションしか与えられない。

反論の余地もない。そう、与えられた「幼児のポジション」を自覚している。そして、こちらの意見など無視される社会構図もわかっている。むしろ、わかているから好き勝手なことを発言できるとも考える。いや、おなじポジションにいる躾の悪いタクドラたちを愛してもいるらしいから嫌になる。ここに階層が固定されている実例があるってもんだ。

「ロスト・ジェネレーション」論では、さらに進んで、「社会的に下位に位置づけられた人々は、社会の実相をそうでない人々よりも正しく把握しており、それゆえこの社会がどうあるべきかについて、より適切なソリューションを知っている」という「もっとも虐げられたものがもっとも明察的である」という左翼的知性論を語り出した。
…(略)…
「現に収奪され、自己実現を阻害されているがゆえに、この社会の実相を誰よりも熟知している」と宣言してしまったものは、それによって「私には『教えること』はあるが『学ぶこと』はない」という宣言にも同時に署名したことになる。

ここまで来ると、こちらの自己認識とは大きく違っている。そんな「左翼的知性論」もあるのか。ただだ。その「左翼的知性論」の全否定の一種、お前たちのような知的貧乏人は何も知らない、わかっていない、といった意見には賛成できない。政権交代の国民運動は敗北したが、国民の熱狂を知識人らしく傍観した内田先生の文言を覚えている。フランス革命だとか思っていたわけではないが、一般的には国民の熱狂が歴史を作るはずじゃないのか。知識人にとっては馬鹿げた盆踊りにも熱中する、知的貧乏人の歴史作りを知るべきだ。その知的貧乏人の熱狂を斜に傍観するんじゃなく、正しいフォローの風を送るのが知識人の役割じゃないのか。

しかし、階層社会とはいえ、一定の流動性は担保されており、当たり前のことだが、そのパイプラインはただ「学ぶことができる人間」にだけ開かれているのである。/「私には学ぶべきことはない」と宣言してしまったものは、まさにその宣言によって社会の流動性を停止させ、社会の階層化と、階層下位への位置づけをすすんで受け入れることになる。
「学ぶもの」にとって社会は流動的であり、「学ぶことを拒否するもの」にとって社会は停滞的である。/「学ぶことを拒否するもの」が増えるほどに社会は流動性を失って、こわばり、石化する。/この趨勢をどこかで停止させなければならない。

教育者としての内田先生の情熱と問題意識はよくわかる。旧「左翼的知性論」なんてクソ喰らえだ。しかし、先生の教育論さえ、上の階層を目指すための学びに力点が置かれていないだろうか。その意味では功利的なインセンティブ学習奨励論で、先生の教育論は階層分化の破壊ではなく固定化を前提にしていないか。

学びそのものに、階層間の跳躍力がなくてもいいんじゃないのか。主食にアンパンかじりながら、それでも本を読んで考えている者が最下層にいてもいいと思うんだけど。そして、それを恐怖するのが支配層なのではないか。ここには無名の群集、署名入りの発言ができない群集を恐れる現代システムの脆弱さも存在しているのではないか。


社会階層化された言語現象/内田樹氏を読む

2010-11-07 21:42:04 | 思想・哲学
内田樹氏の『エクリチュールについて』を拝読して。

ほとんど無意識に使っている日本語は、あきらかに社会構造化されている。たとえば、活字中毒化したタクシー運転手というキャラは、とても成り立ちにくいものだ。運転中は、カッと目を開いてお客を探しまくっているから、A地点からB地点まで行ければOKの一般人とは違っている。本が読みたければ信号待ちでも読める、なんて話もあるが、そんなのタクドラにはぜんぜん見当はずれ。

なら休日にでも、とお考えになる方もいらっしゃるはずだが、これもきつい。隔勤(隔日勤務)の運転手なら、5時、6時の早朝から街を流し始めて、あくる日の早朝に帰庫(車庫がある会社に帰ること)してくる。たぶん20~22時間、ほとんど一日分を走り回った後の休日って、どんな時間? たいていの隔勤たちは一日で300~350kmを走ってくる。東京・静岡間が150~160kmだから、距離からいえば、一日で東京・静岡を往復する。

そのうえ東名高速をただぶっ飛ばすのと、わけが違う。神経の疲れが違う。自転車、人、ゴミ袋、どら猫、カラスたちがあふれた繁華街、一年に一回くらいしか通らない細い道を慎重に通過していく。後ろじゃ、妊娠中の猫みたいに客がイラついてる。そこで隔勤たちは、仕事があけた次の日は日没にも気がつかない。夢も見ないで寝ている。フィリピンパブへ出かけるのはそれからだが、うっかり騒ぎすぎると、あくる日の仕事があてにならない。来月はコンビニのおにぎり(¥105)も買えずに泣くことになる。サラ金通いだ。

こっちは夜勤(毎日6、7時pm~4、5時am勤務)で、隔勤たちと少し違うが、自分の安アパートに帰ってきてから何すんの? そんなわけで、ブログをやってる運転手自体が成り立ちにくいキャラなのだ。

そこで、自然にタクドラは工夫を凝らす。

おれの場合は背徳にも、出庫(車庫から出て、仕事しはじめること)したら「回送板」をデーンと立てて走る。途中、タクシーを探している人を見かけても、アレ~? って顔して、上げかけた手を下ろしている。悪徳運転手の行き先は可愛い子が待っている行きつけのサテン。その子とおれがセックスしたかなんて、どーでもいい。そこで夜食を食い、コーヒーを飲んで目を覚ます。同時に本を読だり、手帳にメモしたり。こうして、かろうじて、活字中毒のタクドラってキャラが出来上がる。

ところがだ、そのサテンにタクシー運転手たちが入ってくるときもある。
2、3人、ときには5人、10人と連れ立って。
おれは、そっと店を出る。

  なぜだ?

会社は違っても仲間だろう? それを嫌うなんて、自分を嫌っているのとおなじだ。ちょっと本が好きだからといって、ブログをやっててIT関係にボンヤリ明るいといって、タクシー運転手内のチンケな臭いエリート意識って感じがする、鼻持ちならない、許せない。そんなふうに、おれを責めたい人も多いだろう。

このブログ読者にタクドラがいるなら、許してくれ。
ちょっと事情ってやつが違うんだ。

それじゃイカンだろうと、おれは何度も我慢してみたが、何度でも事情はおなじだった。まず、ドスドスンとソファに腰掛ける。椅子ならガラガラと引き出して座る。それはいい、しつけの悪いやつらだから。次に、大声で話が始まる。しかも話題はお決まりだ。「昨日、どこへいったって?」「いま売り上げいくら?」、そこに今月の売り上げ予想だの、給料だの……。違うか?

なんであんなに大声をあげて話すんだろう。おれの推測では、周りの人々を忘れているからだ。目の前にいる自分たちのことしか見えていない。左の歩道の客しか見ていない視野狭窄。その証拠に、普通のサラリーマンたちは静かに話している。なかには聞かれたくない話題もあるんだろう、周りが気に触らない音量で話している。ほかに耐えられないのは、40~50前後のどっかのオバチャンたちだ。これも大声をあげて、周りを無視して話している。年のせいで耳が遠くなっているんだろうか。不思議だったのは、韓国語で話す娘たちの集団に遭遇したときだ。まだ20才代の娘たちが、キーの高い大声を張り上げて話していた。

ぜんぜん本なんて読んでられない。メモもまとまらない。それより、本を読んだりメモしたりの運転手が「らしく」ないと、逆にウサン臭い視線を投げつけられる可能性がある。これが、ソッと店をでる理由だ。ついつい話す音量、選ばれる話題、しぐさ、そんなものが明らかに社会階層化されている。これが会社の談話室でも変わらない、運転手たちのエクリチュールだ。どこのオバチャンか知らないけど、オバチャンたちのエクリチュールだ。韓国の娘たちのエクリチュール。そして黙って店を出ていく、おれのエクリチュール。

エクリチュールは欲望の表現。エクリチュールが社会階層化されているのは、人々の欲望が社会階層化されているからだ。そこに、耳が遠くなっているといった身体的な原因も重なるか。身体的な超個人的「スティル」を別にして、さまざまに分断されているエクリチュールを超えるエクリチュールは、分断されている人々の個々の欲望を超えた超越的な欲望の表現であるほかはないだろう。

おれは願っている。多くの人々が、少しでも幸せを感じられる社会の到来。この日本という国家と社会が、その方向に少しでも前進するなら、社会的に分断されたエクリチュールという言語現象は、ある統一に向かって少しずつ収束していくのではないか。その意味で、社会的に分断され特徴づけられたエクリチュールは社会の失敗を表現している。政治、経済、思想などの失敗を意味している。


剥奪イデオロギーと絶対王政からの決別

2010-09-27 12:49:06 | 思想・哲学
古代人には、再生の思想が見られた。そのひとつの具体例が休耕田である。ほかに、山に分け入って狩猟を行ったマタギにも「山の神」信仰があり、乱獲への戒めもあったという。こうした狩猟民たち、さらに農漁民たちに守られてきた信仰は、狩猟や農耕、漁業の無事を祈って豊かな収穫を願うと同時に、食物となった生物の鎮魂と再生の願いがなければ整合的な宗教行事とはいえなかっただろう。内田樹氏がブログに取り上げた沈黙交易も、すっかり神話の磁場に取り込まれた歴史的なイコンになっているが、他者との共生を願いでることによって、古代人たちは「こちら」側と「あちら」側の共同体の存続と再生(すなわち繁栄)を見通していたと読み取ることもできる。しかし、こうして太古を解釈するには確実に危険が付随する。現代のドミナントなイデオロギーによって、歴史を汚染する可能性が強いのだ。

問題は、現代世界をおおう剥奪イデオロギーの形態である。やや恣意的ではあるが、歴史のコマを驚速で早送りしてフランス革命を眺めてみよう。フランス革命は暴力的な資本主義革命だった。といっても、革命の主体はイギリス産業革命とはすこし異なって商業資本家が中心だったように思われる。

この主体の違いは、鉄道の発達史にも垣間見られる。イギリスでは早くも18世紀に蒸気機関車の実用が試みられたが、初期のレールは木製だったらしい。一方、フランスの実用化は19世紀を待たなければならなかったようである。

 (参考)1.イギリスの鉄道の歴史
      2.History of rail transport in France
      3.フランスの鉄道史

この歴史的な時刻表の差異は、イギリスでは絶対王政の封建制に反抗する市民革命、資本主義革命が、50年ほどの時をかけて徐々に進行したからではないか。ピューリタン革命(1642年)以来の戦乱を経験したイギリスではあったが、名誉革命(1688年)以降、政治権力を奪われた王政が立憲君主制として復活した光景に、社会的な混乱の影響が比較的すくなかったことがうかがえる。また日本とおなじように、ドーバー海峡で大陸から隔てられた孤島だったことも幸いしただろう。一方、フランスのブルボン王朝は、植民地戦争や奢侈な浪費などによって累積した巨額の財政赤字を、はじめから第三身分の市民(第一身分は聖職者、第二身分は貴族)のみに課す重税によって乗り切ろうとした。そのような王党派への反抗がフランス革命であってみれば、ついに武力による過激性を帯びた事情は理解できるし、それ以降の国内の安定が遅れたことも理解できる。しかしながら、市民と呼ばれたフランス革命のおもな主体は、拡大したフランスの植民地経営によって潤沢な資本を蓄積した商業資本家たちだったろう。商業資本家にとっては、国内のいたる所に工業製品を運ぶ鉄道より、海外を往来するための商船と軍艦のほうが、はるかに重要だったのではないか。

「自由・平等・博愛」というスローガンはあまりにも有名である。フランス革命は、同時代の多くの知識人たち(カント、ヘーゲルら)も国境を越えて共感というより同一化した世界史的な出来事だった。奴隷制の開放戦争に混乱するハイチに攻め入ったナポレオン・ボナパルトの軍隊は、敵の奴隷軍が歌っていたラ・マルセイエーズに遭遇するはめになったという。ハイチ軍はついにナポレオンの軍隊を打ち破り、1804年にハイチ共和国が樹立された。

フランス革命における「自由」は、封建的な絶対王政からの脱却である。「平等」は、差別的な身分制度からの開放を意味していたはずだ。「博愛」は、自由と平等の実現と継続に欠くことのできない国民相互の関係を象徴化していただろう。自由、平等、博愛のどれもが、敵対のなかに意味をもっている。逆にいえば、不自由・不平等・非博愛を体現する敵性をもった抑圧がなければ意味をうしなう。剥奪のイデオロギーがないところに自由も平等も博愛も前提をうしなって無意味化する。だれも叫ぶ必要がなくなるのだ。

第一、第二身分とブルボン王朝は、商業資本家を中心とする市民の資産を剥奪しようと露骨な攻撃にでた。もともと第一、第二身分とブルボン王朝は、他者からの剥奪によって存在する社会の構成要素だったから、第三身分のみに課す重税は、彼らのイデオロギーから整合的に演繹される政策だったろう。これが革命を準備する前提条件になった。

日本における絶対王政への反抗は明治維新に見られる。徳川幕府が西欧的な絶対王政であったかどうかの検証はどうでもよく、先を見通せない封建体制への抵抗が明治政府の樹立へと結実したことが重要なのだ。広く知られているように、日本の知識人たちの開眼は早かった。すでに19世紀前半の水戸藩では、尊王攘夷をキーワードに反幕と先進諸国への警戒があらわになっていた。

 (注)水戸学で藤田東湖が尊王攘夷を説いたのは、維新に先立つ19世紀前半だったらしい。

幕末期の徳川政権と諸藩も、巨額の財政赤字に悩まされていたという。江戸城にあった幕府の金庫はカラだったそうであるが、幕末期の経済については、まだよくわかっていない。年貢による徴税方法が限界に達していたといった解釈もある。収穫量や飢饉による米価の変動が大きいため、幕府と諸藩の税収が一定しなかったからというわけだ。

もともと徳川政権は豊臣政権を打ち倒して全国を統一した軍事政権であり、巨大な軍隊を抱えつづけて諸藩の上に君臨した。戦乱に明け暮れた世は去って、幕府は全国から租税(年貢)を徴収できた。この政権の構図は、全国から資金と資源を剥奪して存在する絶対王政となにもかわらない。その政権の存続を保障するのは軍事力であり、派手な植民地経営に乗り出さなかったところが英仏などと異なっている。商工業と資本の蓄積が、そこまで発達していなかったからだ。

しかし社会から戦乱の危機が去ると、商人たちの経済活動が活発に行われる。とくに注目されるのは海外貿易だろう。日本式の木造船を建造して、さかんに中国や韓国と交流したらしい。知識人たちの海外通がよく話題にされるが、こうした商人たちの活動がなければ説明できない。日本人は、列強によってバラバラに侵食されていく中国・清朝の惨状を早くから知っていたし、諸外国と比較することで徳川政権への疑問も深まっていったことだろう。日本に「ラ・マルセイエーズ」の歌声が聞こえてきたといっても大げさではない。

1868年、江戸幕府は打ち倒された。士農工商の身分制度は解体され、年貢は税金に取ってかわった。黒煙と猛炎を撒き散らして蒸気機関車が新橋ー横浜間を走ったのは、1872年のことだった。沿線の民家では火災が絶えなかったそうである。だが、維新革命の主体が潤沢な資本を蓄えた商業資本家と雄藩の下級武士だったことは、明治政府の骨格に大きな影響を与えただろう。

ざっとではあるが、絶対王政から脱却を果たした17世紀~19世紀の歴史の局面を自分なりに考察してみた。それは剥奪の歴史からの、剥奪イデオロギーからの脱却であり、自由と平等と博愛(友愛)の物語だった。


他者像と殺人の関係

2010-09-26 16:41:31 | 思想・哲学
剥奪の思想に関して、もっとも気になるのは「殺人」である。もちろん殺人は他者の生命を剥奪するのであるが、そのような直接的な意味関係よりも、他者に見る像と殺人が関係しているのではないかと思えるからだ。他者に見る像は、他者を見る「こちら側」の思想、こちら側がもっているイデオロギーに関係する。

たとえば前回のブログ記事にあげた休耕田の例でいえば、休耕田を焼き払って失われる植物や小動物たちの生命はなんだろう。他者から生命を剥奪していることにならないか。たしかな意味で、それは剥奪だろうと私たちの多くは考えるはずだ。人類の生存にとって必要悪だったのだと。

このように考える私たちは、21世紀に生きる人間として歴史を眺めていることに気づかないことが多い。まるで右肩上がりの'70年代以前における増税論が、この新世紀にも正義であるかのように思い込んで反省できない一部の認知症患者のように(笑)。

休耕田を支えていたのは再生の思想だった。休耕田を焼き払うことをとおして、田畑に用いる土壌は再生する。この再生のイデオロギーにとっては、焼き払われる植物も小動物も再生するはずの生命体だったのではないか。ここが現代に生きる私たちには理解しにくい。なぜなら、古代人の網膜に結んでいたはずの植物や小動物の像が、現代人のものとは異なっているからだろう。つまり再生する生命としての古代の像である。

じつは、現代人のなかにも「再生する生命」像の例を探しだすことができる。人間の生活にとって害を与える生命体の像が典型的である。ゴキブリにしろ米の害虫カメムシにしろ、うっかりしていれば発生してくると私たちは考えている。ウイルス、カビ、怖い細菌にも同じ考えをもって対処しているだろう。退治して一度は姿を消したはずのものが、また再生してくるのだ。

ウイルスやカビの一個一個、個々のゴキブリについては考えていない。そうではなく、類として考えられているのだ。個体としては区別できない小生命体であってみれば、なおさらである。だが、ときどき里に下りてきて事件を起こすサルやイノシシ、鹿、熊なども、適切な対応策が工夫されないなら何度でも再生してくる事件、というか再生してくる生命体だと受け取られていないだろうか。

「再生する生命」像が現代人のなかにもあることに気がつけば、古代人の焼畑に見られる不思議な再生のイデオロギーが理解できる。焼き払われる生命ですら、また10年後には再生してくれるのだ。

生命の像が異なる可能性に気がつけば、よく東西の昔話で取り上げられる「人柱」や「生贄」などにたいする現代人の解釈が危険であることにも理解が及ぶ。たいていの現代人にとって、それらは野蛮で残酷な処刑に準ずる風習に見えるはずだ。または、その文化内における栄光ある役割。しかし、この解釈は現代人の自己像をとおして古代を眺めている。ここに解釈の危険が潜んでいる。

おなじ理由から、「殺人」にたいしても人間の自己像による隔たりがあるだろうと予想できる。類として理解された人間は再生する。またどこかで新しい生命を得て、復活するのだ。とくに害ある人間は、適切に対処しないかぎりまた発生し、再生する。こうして、戦乱の世における一族郎党の皆殺しにも接近できる。殺戮しつくしたはずの人々が亡霊となって現れる心的現象も理解できる。亡霊は再生への怯えなのである。ちょうど現代人たちが、カビや害虫や流行病の発生に神経質になっているように。

現代における「殺人」の意味は変遷した。人間の自己像が変遷したからである。私たちは生命体である人間を類として見る以外に、個性が異なる個人としても見るようになった。殺人は、その子孫が存在しつづけても、被害者の生命を剥奪する行為なのである。にもかかわらず、いまでも大量殺人が行われているのは、古代の浸透による混乱が見られるよい例といえるだろう。殺した相手の亡霊に殺人者が悩まされるとしても、これは再生の思想ではない。ただ剥奪のイデオロギーが不徹底なだけだ。その証拠に、現代の殺人鬼たちは奪った生命にたいして礼拝しない。礼拝は死せる魂の鎮魂を祈り、、殺人者にとっては亡霊を呼び覚ます再生行為だからである。

またしても再生の思想が、剥奪イデオロギーの反対物であると考察された。