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喜多川 歌麿

2010-06-23 | 日本人作家

 江戸時代

喜多川 歌麿【江戸時代の作家】 拡大

喜多川 歌麿    (きたがわ うたまろ)

宝暦3年〈1753年〉頃? - 文化3年9月20日〈1806年10月31日〉)
江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。

 

姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号す。通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。生年、出生地、出身地など不明。生年に関しては、一般には没年(数え54歳)からの逆算で宝暦3年(1753年)とされるが、関根只誠の『名人忌辰録』では没年が53歳とされているので宝暦4年(1754年)生まれとなり、また瀬木慎一の『日本美術事件簿』では宝暦5年(1755年)から8年(1758年)の間と推定している。出身に関しても江戸市中、あるいは京、大坂、栃木、川越との諸説がある。
( wikipedia )

 

鳥山石燕のもとで学び、根津に住む。細判の役者絵や絵本を制作する。初作は安永4年(1775年)に北川豊章の落款で描いた中村座の富本節正本『四十八手恋所訳』(しじゅうはってこいのしょわけ)の表紙辺りであろうといわれる。初めは勝川春章風の役者絵、次いで北尾重政風の美人画、鳥居清長風の美人画を描いていた。また天明8年(1788年)から寛政初期にかけて、蔦屋重三郎を版元として当時流行していた狂歌に浮世絵を合わせた狂歌絵本『百千鳥』、『画本虫撰(えほんむしゑらみ)』、『汐干のつと』などを著した。これら狂歌絵本では植物、虫類、鳥類、魚貝類を題材にした華麗で精緻な作品を描き、狂歌人気と相まって歌磨の出世作となった。その後は蔦屋の援助を得て抜群の才を発揮、歌麿の画風の独立はその後援によって急速に進むこととなった。ここで歌麿は重政や清長の影響を脱し、自己表現として完成度の高い「風流花之香遊」や「四季遊花之色香」のような清新な作風の美人画を制作した。寛政2年(1790年)か寛政3年

 てっぽう てっぽう

(1791年)の頃から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で特に人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」などと優れた大首半身物の美人画を刊行した。全身を描かず、半身あるいは大首絵でその女性の環境、日常、性格までを描こうとしたのであった。豊麗な情感は一面理想的な女性美の創造の結果であったが、一方、逆に最も卑近で官能的な写実性をも描き出そうとした。「北国五色墨」の「川岸」、「てっぽう」や「教訓親の目鑑(めがね)」の「ばくれん」、あるいは秘画に見られる肉感の強烈さは決して浄化の方向ではなく、生身の存在、息づき、汚濁もある実存世界へと歌麿の眼が届いていることも知らされる。やがて、「正銘歌麿」という落款をするほどまでに美人画の歌麿時代を現出、自負した。また、絵本や肉筆浮世絵の例も数多くみられる。


 

寛政三美人 【寛政三美人】はいわゆる三人娘、この時代の三美人です。
天才的版元の蔦屋重三郎と組み、その援助のもとに多色刷り狂歌絵本をだして人気者になり、1791年(寛政3年)から売り出した「美人大首絵」シリーズが爆発的に評判となり、美人画絵師歌麿の名前を一躍不動のものとしたのです。
さらに冒頭のような肉筆画や春画にも異才ぶりを発揮して浮世絵や艶本界の寵児となってゆきます。
作品は三人のうち、上が「富本豊ひな」下の左が「高島屋おひさ」下の右が「難波屋おきた」と呼ばれた美人達で、歌麿が描いた美女達は遊女や花魁など無名の女性たちを描いたのですが、描かれた美女達はたちまち江戸中にその名が知られ、男達の評判を二分、三分する人気者になったそうです。
【賢者の石ころ】

 

歌麿はそれまで全身を描かれていた美人画の体を省き、顔を中心とする構図を考案した。これにより、美人画の人物の顔の表情や内面を詳細に描くことが可能になった。歌麿は遊女、花魁、さらに茶屋の娘など無名の女性ばかりを作品の対象としたが、歌麿の浮世絵によってモデルの名前はたちまち江戸中に広まるなどし、歌麿の浮世絵は一つのメディアへと育っていった。これに対して江戸幕府は世を乱すものとして度々制限を加えたが、歌麿は判じ絵などで対抗し美人画を書き続けた。しかし文化元年(1804年)、豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけとなり、幕府に捕縛され手鎖50日の処分を受ける。これは当時、豊臣秀吉を芝居や浮世絵などにそのまま扱うことは禁じられていたことに加え、北の政所や淀殿、その他側室に囲まれて花見酒にふける秀吉の姿に当代の将軍・徳川家斉を揶揄する意図があったとも言われている。この刑の後、歌麿は非常にやつれたとされる。しかし歌麿の人気は衰えず版元からは仕事が殺到したとされ、その過労からか二年後の文化3年(1806年)死去した。享年54。墓所は世田谷区烏山の専光寺。法名は秋円了教信士。

「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続) 色調や明暗を【わたしの里美術館】で調整してあります。クリックで拡大します。

明治時代以降、歌麿の作品を含む多数の浮世絵や春画が海外に流出した。春画では縁起物として陰部を大きく描くことが常であったため、春画が海外に流出した後浮世絵師として有名だった歌麿から「ウタマロ(Utamaro)」という語がとられ、巨根の日本人を指す隠語として使われるようになった。

 

 

 

女達磨図【喜多川歌麿】 「歌麿と栃木」展

 

 

 

海女【作品】 海女

 

 

 てっぽう

 

 

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