わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

てっぽう

2007-07-18 | 作品

ご案内  

 

 喜多川 歌麿

 竪大判錦絵
サイズ : 388×260mm ?

 

 

「てっぽう」 とは売れない最下級の遊女のことで、花柳界の病気持ちが多かった。

それで、これに当たると死ぬかも知れないので、鉄砲と呼ばれた。ちなみに鉄砲が伝来したのは、1543年で梅毒は、それより早く、1512年にはその記録が残っているという。したの吉原の図で、大門から水道尻までが大通り。135間あったというから、240余メートルである。この通りから一番離れた、奥の河岸店にてっぽうは棲んでいた。

 

 

 
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喜多川 歌麿    (きたがわ うたまろ)

宝暦3年〈1753年〉頃? - 文化3年9月20日〈1806年10月31日〉)
江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。

 

姓は北川、後に喜多川。幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)と改める。名は信美。初めの号は豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号す。通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。生年、出生地、出身地など不明。生年に関しては、一般には没年(数え54歳)からの逆算で宝暦3年(1753年)とされるが、関根只誠の『名人忌辰録』では没年が53歳とされているので宝暦4年(1754年)生まれとなり、また瀬木慎一の『日本美術事件簿』では宝暦5年(1755年)から8年(1758年)の間と推定している。出身に関しても江戸市中、あるいは京、大坂、栃木、川越との諸説がある。
( wikipedia )

 

参 考

梅毒は、こちら を参照した。

Wikipedia の梅毒の稿は、こちら をクリックして下さい。

  乳房 boob
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