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新古典主義

2013-11-20 | 流派

 

新古典主義【流波・潮流】 新古典主義 流派

 

 

新古典主義 ( しんこてんしゅぎ ) 

 新古典主義とは、フランス芸術にあたえられた、ひとつの名前。バロックやロココ芸術の後に生まれた、18世紀後半以降の思潮のながれで、古代ギリシャとか古代ローマから触発されたテーマを扱いました。建築から装飾そして、文学や音楽とその分野は多岐にわたり、演劇や絵画そして彫刻などの視覚に多くをうったえる芸術では、均整の取れたフォルムがその主題として取り上げられた。バロックは装飾過多でロココは享楽主義、どちらも貴族趣味で新たに勃興してきた、産業ブルジョアからは過去のものとして否定された。18世紀の前半にヘルクラネウムとポンペイの遺跡が発見されて、古典への憧憬が大きく膨らんだのが、この時代懐古趣味のだったのです。過度なデフォルメを排して、洒脱な軽薄さも好まない。もとめるのは古典的な美を基調にした厳格なデッサン、フォルムの美しさだった。


 英語では、Neoclassicism と表現される。フランスではこの後、美術アカデミーにより権威が賦与されて一時代の主流を形作り、是がアカデミズムと呼ばれるようになりました。

 

 

 

 


18世紀前半に発掘されたヘルクラネウムとポンペイの遺跡は、当時の西洋人の古代への関心を高めることとなった。この頃美術評論家ヴィンケルマンがギリシア賛美の評論を書き、各国に影響を与えた。これらが新古典主義の背景になっている。

それまでのロココ美術があまりに甘美な装飾様式で、絵画等の題材が貴族主義的、退廃的と揶揄され、ギリシア・ローマの古典様式を模範とし、当時なりに解釈し、洗練させた芸術様式が生まれた。形式的な美、写実性を重視しており、その成り立ちから、新古典主義(ネオクラシズム、Neo-Classicism)と呼ばれる。新古典主義はフランスのアカデミーの主流になっていった。

 

 

 

 フランス革命 ナポレオン・ボナパルト の登場によって、古典の英雄主義的な主題はさらに好まれるようになった(ダヴィッドによるナポレオンの戴冠式を描いた作品は新古典主義の代表的なもの)。第一帝政期の様式は帝政様式(アンピール様式、Empire)とも呼ばれる。

 

 


 新古典主義の主な画家としては、ダヴィッド アングル ジェラール、グロ等が挙げられる。後期の、つまりアカデミズムの作家には、官能的な女性美や可愛らしい子供の絵などで人気のあった、ブーグロー などがいる 

 

ロココ様式の華美で表層的な表現や、イリュージョニズムに熱狂するバロック様式へのアンチテーゼとして、デッサンと形を重視し、理性を通じた普遍的価値の表現を理想とした。 19世紀に入り、より感性的・情熱的で表現者自身の感覚を重視するロマン主義(ロマン派)が台頭し、新古典主義とは真っ向から対峙する事となる。

 カバネル と ウィリアム・アドルフ・ブグローは印象派画家エドゥアール・マネなどの絵のサロンでの展示を拒否した。それが、1863年の落選展開催へと事態は発展した。

新古典主義の巨匠アングルと、ロマン派の巨匠ドラクロワの対立は有名だが、これは17世紀の、素描のプッサン派と色彩の ルーベンス 派 の論争に類似している。 この絵画の造形上の対立は、更には古代ギリシャに実在したと伝えられる二人の画家、アペレスとゼウクシスの対比に遡ることも出来る。つまり、線の連続性や調和を重視し色を輪郭に即して用いる態度、色の効果を重視し色斑によって形体を描き出す態度の相違は、絵画の誕生とほぼ同時に存在していたと言える程に根源的なものなのである。そして連綿と続くこの対立はアングルが指摘したように、色彩が優位を保つには手数が少なく素早い制作であることが不可欠であり、卓越した形体表現に必要な階調・バルールの徹底的な研究と絢爛たる色彩が両立しないことが根底的な理由である。
( Wikipedia より抄出して、画像の添付と加筆や編集を加えた。)

 

ジェローム 1824~1904
 

イギリス新古典主義

 

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