2006年2月15日、香港旅でネイザン・ロードを散歩しているときに発見した、映画『ナルニア国物語』のポスター(携帯電話会社とのタイアップ広告?)。広東語なので何が書かれているのかはよくわからんが、とりあえず、ライオンと魔女が登場しますよ、くらいのことは書かれているのだろう。
ここ数年、各種媒体(フィクション)で「信じる」という言葉をよく見聞きする。で、2006年1~3月に僕個人的にそれが特に目立っていたなあ、と思った作品を振り返ってみる。
●『I believe』
2006年に入っていきなりヒットした絢香(ayaka)の『I believe』という曲で、サビの歌詞の「信じることで全てが始まる気がする」とあった。この曲は現役高校生にしては相当の歌唱力だな、という点がかなり高く評価されているが、まあたしかに上手い。歌詞自体は特に世間向けにひねったわけではなく、ふつうの高校生目線で感じたことを正直にしたためたものなんだな、というのもよくわかる。若い自分には可能性がある、何事も前向きに捉えて生きていこう、という意欲は買う。
この曲を主題歌として採用したテレビドラマ『輪舞曲(ロンド)』自体は観なかったのでよくわからんのだが、竹野内豊とチェ・ジウの掛け合わせによって日本と韓国の信頼関係を取り戻すひとつのきっかけというか可能性を提示した感じのドラマではないか、と勝手に推測する。それにも当てはまる曲かな。
それと、「あやか」つながりで言えば、2003~2004年にかけてヒットした『Jupiter』をカヴァーしていた平原綾香も、自分を信じてあげられないことが悲しいこと、と表現していた。他人を信じることは大事だが、それ以前に自分の生き方を肯定し、自分にウソをつくことなく生きていくことのほうがもっと重要、という気運が今時の若者にもそこそこはあるという表れなのだろう。まあ最近は不可解な犯罪が年々増えていて、しかもそれも低年齢化していたりするから、他人の存在をどこまで認めて受け入れられるかの線引きはひと昔前よりも難しくなっているからこそ、若いうちからより多くの人に「信じる」ことを訴えたくなる気持ちもまあわかる。「信じる」という言葉を盛り込んでいく傾向は今後も続くだろうな。
●映画『ナルニア国物語 第一章:ライオンと魔女』
今年公開してすぐさま大ヒットしている映画、『ナルニア国物語 第一章:ライオンと魔女』も、「信じる」ことが物語の基本になっていた。
アスランが掟を破った罰を受けるため、エドマンドの身代わりとして石舞台に行くシーンでは、これでたとえ自分が死んだとしても、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの4人が国を救ってくれる、そして伝説どおりに事が進めば自分は生き返ることができる、というふたつの確証があり、実現する可能性は未知数のそれらの伝説をアスランが信じ抜いたという、このシーンが映画の肝ではないか、と僕個人的には思う。
まあ子ども向けのおとぎ話だから、物語の筋はわかりやすい、旧来のマンガやアニメでもありがちな展開で、お子様の純真さを狙って夢や希望を持たせることとともに、他人を信じることの大切さを知らしめるようなベタな話の作り方は昔も今も、そして地域を問わず万国共通なんだな、ということは観ていて思った。これによって“浄化”された(幼い頃は持っていた清い心を失っていたが、取り戻した)大人はどれくらいいるのだろう?
ちなみに、僕は『ハリーポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』の類は苦手でこれまでも一度も観ておらず、『ナルニア~』もそんな感じなのかと敬遠していたのだが、先日、たまたまこれをぜひ観たかったという友人と観に行くことになってしまった。で、結果は、娯楽作品としてはまあまあかな、という感想。冬の厳しさとともにそれが融解して四季の移ろいがあることもきちんと見せていたところは評価できる(でも、この映画を四季のない極地や赤道付近の国の人たちが観たらどう思うのだろう? という疑問も浮かんだ)。
ただ、「信じる」という人としての基本的な事柄をお子様たちに伝えるためにかなりお金をかけすぎかな、とは思った。でもまあ、ディズニーの看板を背負っているのであればCGを駆使したりしてどうしてもそういう傾向になってしまうのは仕方ないことか。
●テレビドラマ『西遊記』
このドラマの初回から最終回まで全般的に、“なまか”(仲間)を信じる、という身近な人(と妖怪)の信頼関係をしきりに表現していた。この言葉は何回出てきたかね、というくらい、他人を「信じる」ことを特に意識した話になった。
三蔵法師一行は「師匠とその弟子」、「人間と妖怪」という上下関係ではなく、お互いに助け合いながら進むことによって、最終回では4人が肩を組んで天竺を後にして歩いていたように、最終的にその関係は皆ほぼ同等の「旅仲間」の括りになった。先のWBCのイチローと若手選手とのかかわり方の構図に似ている。上下関係を取っ払ってスクラムを組んで仲間になると力は倍増、いや3倍増4倍増するという感じかな。ひとりでいるだけは気付かないことも、複数人になったときに初めて気付く、ホントに大事なものが見つかる、というのはよくある話。でもまあこれは人によるか。僕個人的には、ひとりでいて、しかも一歩引いた目線で物事を見るときのほうが他人も含めた世間全体の良いところと悪いところは見つけやすかったりする。
それにしても、このドラマの見せ場であった、毎回後半の香取悟空の「よぉーーーく聞けーーー!!」から始まる、
「自分にウソをつくヤツは嫌い」
「ヒトの使命は生きること、生き続けること」
「頑張ったヤツが報われなきゃいけない」
のような人生訓は、この番組の主対象であろうお子様たちにはちゃんと伝わったのかなあ、というのが気になる。今回は従来の恋愛調の「月9(げつく、げっく)」ドラマとは毛色の異なる手法を仕掛けてきたが、実はこの『西遊記』という物語を再現するうえで必要不可欠な出演者陣の扮装(現代風に言うと“コスプレ”?)する様を見せたい、というよりは、これらの悪く言うと説教っぽいことをきちんと伝えたいがために、脚本ありきでこの企画は始まったのではないかと勝手に推測する。だから、深津“お師匠さん”の、香取悟空の、内村悟浄の、伊藤八戒の、現実ではいざ他人に面と向かって言うには赤面してしまうようなちょっと臭いセリフであっても、彼ら彼女らが代弁することによって素直に伝わり、それがグッときたというか反省した(従来の月9の視聴者層の)大人も結構いたのではないかと思う。僕も激しく首を縦に振って同感できるふしはあった。僕も元々、正直者がバカを見る世の中はおかしい、と思っているクチなので。
これを全国的一般的に影響力の特に強い媒体である東京キー局・フジテレビ社員の良心の総意と受け取ってよいのだろうか。
「信じる」は、ほかのドラマでは『氷壁』の中盤や『小早川伸木の恋』の最終回でも出てきたが、これらは男女の仲に関することで以上の3点とは意味合いが異なるが、まあこの世の中では何事においても、すべては自分と他人を「信じる」ことから始まるということの再確認にはなったね。
最近の世相を見ても、世界各地で犯罪やらテロやらが頻発し、世界的に身近な仲間内の枠から外れた他人を信じられなくなってきている風潮がある。堀江貴文、小嶋進、ボブ・デービッドソンのような??? な人たちも出現し、「オレが一番!」と言わんばかりに幅を利かせるようになってきてもいる。たしかに、こういう傾向は困ったものだな、こういう人たちとできるだけかかわりたくないな、とも思うが、現実世界ではそういう「逃げ」の姿勢だけでは生きてはいけないのが常で、どこかでそういう人たちとかかわらなければならないこともあり、ある程度は我慢しなきゃならんこともある。そういう「信じられない」人や物事のほうが主流になってきている部分も時折ある絶望的な現代であっても、それらを前向きに捉えて少しでも信じられるというか受け止められるような余裕のある、「生協の白石さん」のような懐の広い大人になれるように頑張ろう、ということを最近よく考えている。
ここ数年、各種媒体(フィクション)で「信じる」という言葉をよく見聞きする。で、2006年1~3月に僕個人的にそれが特に目立っていたなあ、と思った作品を振り返ってみる。
●『I believe』
2006年に入っていきなりヒットした絢香(ayaka)の『I believe』という曲で、サビの歌詞の「信じることで全てが始まる気がする」とあった。この曲は現役高校生にしては相当の歌唱力だな、という点がかなり高く評価されているが、まあたしかに上手い。歌詞自体は特に世間向けにひねったわけではなく、ふつうの高校生目線で感じたことを正直にしたためたものなんだな、というのもよくわかる。若い自分には可能性がある、何事も前向きに捉えて生きていこう、という意欲は買う。
この曲を主題歌として採用したテレビドラマ『輪舞曲(ロンド)』自体は観なかったのでよくわからんのだが、竹野内豊とチェ・ジウの掛け合わせによって日本と韓国の信頼関係を取り戻すひとつのきっかけというか可能性を提示した感じのドラマではないか、と勝手に推測する。それにも当てはまる曲かな。
それと、「あやか」つながりで言えば、2003~2004年にかけてヒットした『Jupiter』をカヴァーしていた平原綾香も、自分を信じてあげられないことが悲しいこと、と表現していた。他人を信じることは大事だが、それ以前に自分の生き方を肯定し、自分にウソをつくことなく生きていくことのほうがもっと重要、という気運が今時の若者にもそこそこはあるという表れなのだろう。まあ最近は不可解な犯罪が年々増えていて、しかもそれも低年齢化していたりするから、他人の存在をどこまで認めて受け入れられるかの線引きはひと昔前よりも難しくなっているからこそ、若いうちからより多くの人に「信じる」ことを訴えたくなる気持ちもまあわかる。「信じる」という言葉を盛り込んでいく傾向は今後も続くだろうな。
●映画『ナルニア国物語 第一章:ライオンと魔女』
今年公開してすぐさま大ヒットしている映画、『ナルニア国物語 第一章:ライオンと魔女』も、「信じる」ことが物語の基本になっていた。
アスランが掟を破った罰を受けるため、エドマンドの身代わりとして石舞台に行くシーンでは、これでたとえ自分が死んだとしても、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの4人が国を救ってくれる、そして伝説どおりに事が進めば自分は生き返ることができる、というふたつの確証があり、実現する可能性は未知数のそれらの伝説をアスランが信じ抜いたという、このシーンが映画の肝ではないか、と僕個人的には思う。
まあ子ども向けのおとぎ話だから、物語の筋はわかりやすい、旧来のマンガやアニメでもありがちな展開で、お子様の純真さを狙って夢や希望を持たせることとともに、他人を信じることの大切さを知らしめるようなベタな話の作り方は昔も今も、そして地域を問わず万国共通なんだな、ということは観ていて思った。これによって“浄化”された(幼い頃は持っていた清い心を失っていたが、取り戻した)大人はどれくらいいるのだろう?
ちなみに、僕は『ハリーポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』の類は苦手でこれまでも一度も観ておらず、『ナルニア~』もそんな感じなのかと敬遠していたのだが、先日、たまたまこれをぜひ観たかったという友人と観に行くことになってしまった。で、結果は、娯楽作品としてはまあまあかな、という感想。冬の厳しさとともにそれが融解して四季の移ろいがあることもきちんと見せていたところは評価できる(でも、この映画を四季のない極地や赤道付近の国の人たちが観たらどう思うのだろう? という疑問も浮かんだ)。
ただ、「信じる」という人としての基本的な事柄をお子様たちに伝えるためにかなりお金をかけすぎかな、とは思った。でもまあ、ディズニーの看板を背負っているのであればCGを駆使したりしてどうしてもそういう傾向になってしまうのは仕方ないことか。
●テレビドラマ『西遊記』
このドラマの初回から最終回まで全般的に、“なまか”(仲間)を信じる、という身近な人(と妖怪)の信頼関係をしきりに表現していた。この言葉は何回出てきたかね、というくらい、他人を「信じる」ことを特に意識した話になった。
三蔵法師一行は「師匠とその弟子」、「人間と妖怪」という上下関係ではなく、お互いに助け合いながら進むことによって、最終回では4人が肩を組んで天竺を後にして歩いていたように、最終的にその関係は皆ほぼ同等の「旅仲間」の括りになった。先のWBCのイチローと若手選手とのかかわり方の構図に似ている。上下関係を取っ払ってスクラムを組んで仲間になると力は倍増、いや3倍増4倍増するという感じかな。ひとりでいるだけは気付かないことも、複数人になったときに初めて気付く、ホントに大事なものが見つかる、というのはよくある話。でもまあこれは人によるか。僕個人的には、ひとりでいて、しかも一歩引いた目線で物事を見るときのほうが他人も含めた世間全体の良いところと悪いところは見つけやすかったりする。
それにしても、このドラマの見せ場であった、毎回後半の香取悟空の「よぉーーーく聞けーーー!!」から始まる、
「自分にウソをつくヤツは嫌い」
「ヒトの使命は生きること、生き続けること」
「頑張ったヤツが報われなきゃいけない」
のような人生訓は、この番組の主対象であろうお子様たちにはちゃんと伝わったのかなあ、というのが気になる。今回は従来の恋愛調の「月9(げつく、げっく)」ドラマとは毛色の異なる手法を仕掛けてきたが、実はこの『西遊記』という物語を再現するうえで必要不可欠な出演者陣の扮装(現代風に言うと“コスプレ”?)する様を見せたい、というよりは、これらの悪く言うと説教っぽいことをきちんと伝えたいがために、脚本ありきでこの企画は始まったのではないかと勝手に推測する。だから、深津“お師匠さん”の、香取悟空の、内村悟浄の、伊藤八戒の、現実ではいざ他人に面と向かって言うには赤面してしまうようなちょっと臭いセリフであっても、彼ら彼女らが代弁することによって素直に伝わり、それがグッときたというか反省した(従来の月9の視聴者層の)大人も結構いたのではないかと思う。僕も激しく首を縦に振って同感できるふしはあった。僕も元々、正直者がバカを見る世の中はおかしい、と思っているクチなので。
これを全国的一般的に影響力の特に強い媒体である東京キー局・フジテレビ社員の良心の総意と受け取ってよいのだろうか。
「信じる」は、ほかのドラマでは『氷壁』の中盤や『小早川伸木の恋』の最終回でも出てきたが、これらは男女の仲に関することで以上の3点とは意味合いが異なるが、まあこの世の中では何事においても、すべては自分と他人を「信じる」ことから始まるということの再確認にはなったね。
最近の世相を見ても、世界各地で犯罪やらテロやらが頻発し、世界的に身近な仲間内の枠から外れた他人を信じられなくなってきている風潮がある。堀江貴文、小嶋進、ボブ・デービッドソンのような??? な人たちも出現し、「オレが一番!」と言わんばかりに幅を利かせるようになってきてもいる。たしかに、こういう傾向は困ったものだな、こういう人たちとできるだけかかわりたくないな、とも思うが、現実世界ではそういう「逃げ」の姿勢だけでは生きてはいけないのが常で、どこかでそういう人たちとかかわらなければならないこともあり、ある程度は我慢しなきゃならんこともある。そういう「信じられない」人や物事のほうが主流になってきている部分も時折ある絶望的な現代であっても、それらを前向きに捉えて少しでも信じられるというか受け止められるような余裕のある、「生協の白石さん」のような懐の広い大人になれるように頑張ろう、ということを最近よく考えている。