本項はいつになく一般的にはちょいと不適切っぽい表現もあるかと思うが、人命にもかかわる大事なことなので、あえてそのとき率直に思ったままのことを挙げてみる。
拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)のあとがき、特に187~188ページに、ひとりで「旅」する僕は団体で「旅行」する人たちが苦手、ということについて簡単に触れたが、それに関することで、先の東北旅で訪れた岩手県・JR岩泉線の終点である岩泉駅で衝撃的なできごとに遭遇した。まさに「旅行」の典型的な悪い事例。
14日に岩手県内でも特に有名な観光地である龍泉洞に行くために、前夜にJR山田線で茂市駅に前乗りして、この駅付近の空き地でこの時期がちょうど見頃だったペルセウス座流星群を寝転びながら眺めつつしっぽりと野宿し、翌14日朝に午前は7時台に運行している茂市発岩泉行きの始発列車に乗り込んだ。岩泉線は現在は茂市-岩泉間を1日に3往復しか運行しないかなりローカル度の高い路線のため、公共交通を利用する場合はできるだけJRで移動したい僕としては数年前から気になっていたこの路線に確実に乗るにはこうやって前乗りする必要があった。
で、やっとこさ14日朝に数年来楽しみにしていたこの列車に乗り、ちょうど盆の時期ということでこの路線狙いの鉄ちゃん風男子が茂市駅からも、そして途中の駅からもちょこちょこ乗ってくるくらいに乗客は意外と多く、ガタゴトと50分ほど揺られながら岩泉駅(上の写真参照)に辿り着いた頃には、乗客は朝イチの列車なのに40人近くいたりした(この9割がたは10~30歳代の男子だったかな)。ここまでは地域を問わず運行の乏しい(特に春休みと夏休みの)ローカル線にはよくある光景なのでまあよい。問題はここから。
この1両編成総ボックス席の列車が終点の岩泉駅に着き、さて降車しますか、という段になると僕はいつものように40人ほどの乗客の降りる列の最後のほうで降りることにし、車両の前後にふたつある扉のうちの片方に向かった。そしてやっと降りますなあ、と扉の手前の1段低い段差のあるところに差し掛かったとたん、前方からわらわらわらわらと中高年の団体十数人が僕の降車を待たずに一斉に乗り込んできた。
そのうちのひとりの胸のあたりをチラッと見ると旅行会社らしき名札というがバッジが付いていたので、この列車は岩泉駅から折り返して宮古に行くのだがそのローカル線目当ての団体旅行なのかな、と一瞬思った。
朝イチの列車で、しかも夏休みの時期なので地元の高校生もいないはずだからそんなに混むことはないだろうと踏んでいて、そんな事態はまったく想定していなかった僕としてはなんの前触れもないそんないきなりの“奇襲”に驚く間もなく僕のほうにガシガシ突進してくるその団体に一瞬にしてもみくちゃにされ、まだ車内にいるのに数歩押し戻されながらその60~70歳代と思しき団体客に全身丸ごと、特に肩をぶつけられながら、列車を降りられずに数秒間もがき苦しんだ。
地域を問わず、鉄道やバスやエレベーターの乗り降りではふつうは乗客の入れ替えの意味で降客の動きが優先されるべきだが、まあこれは「ルール」ではなく「マナー」の話なので厳格にどちらが先、と決められているわけではない。でも、普段から鉄道にそこそこ乗り慣れている人にとっては降りる人が先、ということくらいは小学生でもわかることで、近年は特にそんな鉄道やエレベーターの乗り降りにまつわる「マナー」が悪いと以前はよく言われていた大阪近郊でも、鉄道利用時の整列乗車が浸透してきて大きな問題は起こらなくなってきている。
でも、そんなこともわかっていないらしきその団体客が、おそらく特にボックス席の窓側の車窓から眺めの良い席を確保するために我先にとまだ降車していない僕のことなんかまったく眼中にない状態で、言い換えると盲目状態でわらわらと乗り込んでくる状態というのは、ある意味、怖い。
今回の一件では比較的重量のある僕だから対向する流れにもなんとか倒されずに持ち堪えることができたが、これがふつうの線の細い人であれば押されてすぐさま後方に倒されて、頭などをしこたま打ちつけて大ケガする可能性もある。
実際、僕がその降り口でもみくちゃにされながらも中高年のその一団の顔を瞬時に見ると、目線はみな僕ではなく奥のほうにあり、それだけで早く良い席を獲りたい、と気が急いているということが一瞬でわかった。しかも、そうやって席まっしぐらという感じで僕に気遣う理性というか生気はまったく見られなかったので、その一団は例えるとホラー映画によく出てくるゾンビのようなものではないのか? と困惑し、悪い意味で鳥肌が立った。団体だとこんなに理性がなくなるものなのかと、呆れよりも怖さのほうが強かった。
その一団としては「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というふうに、大人数でやればなんでもアリ、という集団心理が働いていたのかもしれないが、ホントに理性を失ったその一団の目つきは正直、この世のできごととはとても思えなかった(でもべつに、その一団のひとりひとりが人生の残りの手持ち時間が短い、三途の川に片足を突っ込んでいる、という意味ではないよ)。
今思い出しても、そんな盲目的な行動はある意味、暴動に加わる暴徒と同じ状態だよな、そんな盲目状態になるのでは諸外国のテロ行為を批判する資格はないのではないか、とも思った。
でもそんな違和感を一瞬のうちに考えても、こちらとしてもとにかく列車を降りなければ先へ進めないので、その一団の“攻撃”でそれこそ膝カックンをやられた、もしくは映画『マトリックス』の主人公・ネオが弾丸を避けるときのようなあの海老反りに近い状態に崩された体勢をなんとか立て直しながら、意を決して、
「降りるんですけど!」
と一喝し、僕のほうからも流れがどうにも止まらないその一団が続々と突っ込んでくるのを泳ぐようにかきわけながら対抗して強引に前進し、なんとかケガなく降車することができた。その一団の先頭と接触してから僕が駅のプラットホームに足を着けるまでに20秒はかかったかな。
集団で何か事を成し遂げるのは良い面もあるが、このように単独行動のときよりも気が大きくなって、つまり偉い気分になってしまう、みんなでやれば怖くない、という雰囲気にもなってそれに流される、自分の本意ではない行動も集団になることによって平気でできてしまう場合はどうしてもあり、どちらかと言うと悪い面のほうが多いと思う。
僕は拙著のあとがきには、「個人が団体の行動を気遣う状況に陥るのは腹立たしい」と書いているが、逆に言うとふつうは、児童の遠足を引率する先生のように団体が周りのほかの個人の行動に気遣うべき、という発想には異論はないだろうと信じているのだが、この考え方は間違っているのだろうか?
近年は、というか元々はひとり旅を志向している僕ではあるが、これでも一応はボーイスカウト活動で11年、ワンダーフォーゲル部で高校・大学合わせて8年、団体行動も経験しているために、普段の生活も旅も限らず公共交通を利用するさいの個人での動き方も団体での動き方も心得ているつもりなのだが、その経験から鑑みてもその一団の、(人数はこのさい置いておいて)降客にかまわずにわらわらと乗車してくる行為というのは、どう考えても間違っている行為である。その中高年の一団の息子ほどの歳であろう若僧の僕でもそんなことを普段から考えて行動しているのだが、その手本となるべきその年代の方々がそういうことを平気で行なっているのはいかがなものか。集団心理だから、そして一般的には「旅の恥はかき捨て」とよく言われるように、旅の空だから成せる業なのか。業という大層なものではないか、愚行だな。
ちなみに、その一団と相対したときにチラッと見た名札をなんとか降車してから再び見ると、旅行会社名を包み隠さず挙げるとクラブツーリズムのものだった。僕個人的にはこの会社、2005年9月に北海道の利尻島・礼文島に行ったときにもその移動のためのフェリーの船内でどんちゃん騒ぎに近い騒ぎ方をしていたことに辟易したために元々あまり良い印象は持っていないのだが、またもやここで交錯するとは運が悪いなあ、とさらに凹んだ。なんでふつうに旅しているだけで岩手県でも個人客である僕のほうが落ち込まなきゃならんのだ、腹立たしい。
まあこれはクラブツーリズムに限らず、JTBでも日本旅行でも近畿日本ツーリストでもどこでもそうだと思うのだが、団体になるとやはりそれ独特の(悪い意味での)ヘンな力はどうしても発生すると思う。薄利多売のそういった格安の「旅行」が大好き、と需要がありすぎるのもいかがなものか、とひとりや小人数でしっぽりと行く「旅」を好む僕としては、ケッ、と毒づきながら、またもやこの一件でさらに辟易したのであった。クルマを使わない「旅行」であっても、このような団体になると起こる、個人が被害に遭う(被害妄想ではない)細かい問題もあるんだよな、最近の旅行業界というのは。
この団体客の傍若無人ぶりが日本国内だけならまだしも、最近は諸外国でも頻繁に起こっているというのがまた問題なんだよなあ。どう考えても、過剰な団体で行動する、「旅行」するというのは、いろんな意味で多方面にやさしくない行為だと思う。21世紀の「旅」には、自分にも周りにも、やさしさが必要不可欠なのだ。