久々の補足。今年も(嫌味なくらい?)長いぞ。
先週発売の「週刊少年チャンピオン」08年21・22合併号で、ここで連載中の自転車マンガ『弱虫ペダル』の10話のなかの、高級車に乗った強面の兄ちゃんが自転車乗りの主人公たちをバカにする場面でのネーム(セリフ)で、
「自転車自転車て バカか ダセーんだよ 人力は」
というものがあったのだが、拙著『沖縄人力紀行』(彩図社刊)もそれ以外の場も含めて「人力」を生涯の最重要課題として追求・追及している僕としては簡単に受け流すことはできない大問題で腹が立った。マンガを読んでいて本気で腹が立つというのは久々の体験ですな。
とはいえ、これは「動力」のクルマと「人力」の自転車という対比を狙ってあえて示した表現であることはもちろんわかる(この作者・担当編集者ともに自転車にかなり乗り慣れているほうなのかなあ?)。
以前同誌で連載していた(今年9月に映画化される)『シャカリキ!』以降年々増えている自転車系マンガでは技術的な講釈やマンガだけに人間模様を中心に描かれることが多いが、自転車を扱ううえでの真に現実的な、乗り物を扱うヒトの感情におよんだこのような表現はなかなか見られないので、読んでいて腹が立つのと同時に面白くも感じた(深読みしすぎ?)。
拙著のまえがきで、人力の旅は「しぜん」「やさしく(やさしい)」「カッコイイ」と書いたが、「しぜん」と「やさしい」については本文でも細かく触れたつもりではある(前者は人間の実力に見合った速度で行ける、健康的、後者はクルマ利用よりも二酸化炭素排出量は格段に少ない、騒音を出さずに静かに進める、とかいうこと)。が、みっつめの「カッコイイ」についてはほとんど触れていなかったかな。
でもこれは、自分がかわいい、自分のやっていることを美化しよう、と自己陶酔しているという意味ではなく、自分の五感を含めた全身を駆使・酷使しながら行く、エンジンとガソリン、つまりは他力に頼った動力の移動よりも自分の意思で行動を選択・判断する場面が多くてそのぶんより責任を持つ必要がある、という意味で「潔さ」がある行為である、ということ。動力に頼って必要以上に調子に乗ること(本文の170~171ページあたりで強調した)よりも、人力で慎ましく人間の身の丈に合った旅をすることのほうが正直で妥当な行為である、という信念が僕にはある。逆に言うと、移動するさいに動力に頼りきることを「ずるい」とか「卑怯」とか思っているふしも少々ある。
で、そのセリフで人力は「ダサい」と表現されていたが、でもたしかに僕も旅先でそういった言い分をたまに聞くことがあり、なぜ人力移動は世間ではそんなふうにバカにされる傾向にあるのだろうか? と考えることがよくある。
まあ簡単に考えるとこれは、クルマや新幹線や飛行機のような便利な移動手段が発達している現代で、あえて全身を駆使して汗かいてベソかいて風雨に晒されてもみくちゃにされて汚くもなってさらには経済的にも困窮しながら節約しながら移動する自虐的な行為である、そして当然ながらクルマや二輪車よりも維持費も含めて安価な移動手段だからその価値が低く見られる、さらには現代のクルマ社会において道路上では動力が幅を利かせていて「みんなが乗っているからオレも乗る」という多数決的な発想から現代では少数派である人力を排除する傾向にある(中国のチベット弾圧の構図に似ている)、という主に3点の理由から人力はダサい、と見られるからなんだろうけど。
ほかにも、格好が野暮ったい、動力のほうが馬力があって強い、速度も出せて速い、クルマであれば運転するさいに硬いボディに囲われて安全、人力では交通法規を守らないヤツが多い、とかいう細かい理由もあるだろうか。でも馬力や速度についてはエンジンとガソリンに頼ったうえで初めて実現できることだからねえ。それを扱う運転者の真の実力ぢゃないからねえ。近年、そこを勘違いしているヒトが多いよねえ。
それをなんのたいした考えもなしになぜか(他力に頼っている状態で強がって)上から目線で旧来の人力をバカにする、人生のなかでの重要課題というような意気込みで人力で本気で旅して移動して生きている様子を虐げるという感覚が僕にはよくわからない。
自転車について言うと、近年はフレームや部品の組み方によってはクルマ以上に値の張る高級な自転車も作れたり、自転車をMTB、ロード、ピスト、折りたたみ小径、ママチャリなど複数種類をクルマ1台分以上出費して所有して目的によって使い分けたりして、現在は価値という点ではクルマと対等かそれ以上にもできるのだが(最近、東京都板橋区に自転車乗りのためのマンションも造られたし)、一般的にはそんな細かいところまではわかりにくいか。今は自転車というと1万円未満でも買えてしまう(交通では歩行者の感覚に近い)ママチャリが物量的にも精神的にも浸透しているからなあ。
どんなヒトでも自分でお金を稼げるようになる前は、運転免許を取得する前は主に徒歩や自転車による移動で生活していたはずなのに、歳を取るにつれて裕福? になってクルマやオートバイのような動力を持つようになってそれに頼る(他力本願の)割合が高まることによって信念がブレるもしくは失われるからこそ、過剰に調子に乗ったりするのではないかと思う。しかも無意識のうちに。動力にばかり頼っているヒトというのは、人間は元来人力で移動する生き物だ、という人間としての基本というか“初心”を忘れている、もしくはそれがポロポロと徐々に欠落している寂しいヒトたちなのではないか。
だから、車道上で自転車にわざと幅寄せしたり不必要なクラクションを鳴らしたり、歩行者の多い細い路地で爆走したりするようなバカグルマを見たり実際にかち合ったりするたびに、これまた腹が立つのと同時に「(自己満足しか考えない、他者との接し方に気が回らない)ガキンチョだなあ」と、ヒトとして成熟しきれていないんだなあ、とその運転手の顔を見て哀れに思うことはよくある。程度の差はあれど、どちらかと言うと動力よりも人力で移動するヒトのほうが見るもの感じるものは多く、人間としての成熟度は断然高い、と思う。
旅するにあたって動力に頼って多くの点ばかりを巡ってお気楽に行くのもアリだとは思うが、あえてそれに頼らずに人力で線を延ばしながら行くほうが旅自体もそこから生まれる発想や思考もより充実すると思うけどなあ。近年目立つ好例では“グレートジャーニー”の関野吉晴や“リヤカーマン”の永瀬忠志の旅があるが、そのようにあえて人力で行くほうが、観ているほうもそのヒトの信念をひしひしと感じられると思うのだが。
ただ、その度が過ぎると生死の境の淵をギリギリで渡るような、安穏とした生活を送る一般人からすると尋常ではない行為に行き着くこともたしかによくあり、1984年2月に厳冬季のアラスカ・マッキンリーの登山中に遭難した植村直己、2001年5月に北極海を徒歩横断中に遭難した河野兵市、今年2月に熱気球による太平洋横断に挑んで消息を絶った神田道夫、などの冒険者が、人生のなかでそういった冒険的行為をその中心に据えて、結局はこの方々は残念なことに悪い結果のほうに傾いてしまったが(でも当人たちにすれば好きなことをやったうえでこうなったのは本望なのかもしれないけど)。
ほかにも、そのような冒険的行為を経て生き残ったヒトのなかにも、あとで脳の機能が低下したり凍傷によって手足の指を切断したりするような後遺障害を抱えるような、命は獲られなくてもタダでは済まない事例もあるが(行為の規模が大きくなるにつれて、あとで多額の借金を抱えるという問題もあるかな)、でも信念を貫いたうえでそのような結果を迎えても、自分のやったことは間違いではない、後悔していない、障害を障害とは思っていない、といういくらか前向きな心持ちになれるのであればそれはそれでその当人の人生のなかではアリのことだと思う。それを安易にダサいと、言い換えるとたいした信念もなく安全というか無味乾燥な立場のヒトの側からナシと批判・否定するのはおこがましいことだとも思う。
ここまでわかりやすい人名で事例を挙げたが、このような強い信念を持った人力主体で行く行為者が行なったことを(神田さんの熱気球は人力とはやや異なるかもしれないけど、僕は熱気球は動力よりは人力に近い行為だと思っている。これについては雑誌『Coyote』No.18と今月発売のNo.27に詳しい)、ダサい行為か、というと僕はそうは思わないのだが。一般の安穏とした人々に比べると数倍、いや数十倍熱く生きたこれらの行為を、結果はともかく過程を見てダサいと断言できますか? 動力頼みで安直に生きている方々。僕はカッコイイと思うけどなあ。これでダサい、と断言できる方がもしいらっしゃれば、その理由をぜひ聴きたいものだ。
だから僕は近年、そういった旅においての信念や潔さの数々を多く感じられる地平線会議という集まりに関心があって入れ込んでいるわけで(まあそのなかでもやはり人力の旅話が大好物なのだが)、それ以外のちょっとした旅話を聴くような催しでは生ぬるいな、と感じることがよくある。
先日もある別の旅の催しで、特に南米に強い旅人のバックパッカー的な旅話を聴く機会があったのだが、僕は正直、そこからはあまり信念を感じられなくて一部を除いては予想外に楽しめなかった。
最近、旅人が旅先で出会った人物とのできごとや、動植物やモノの写真を見せてそれにツッコミを入れて笑いを誘う、つまりはそれらをネタとして取り上げて短時間に消費する見世物的なつくりに仕上げる催しが多いが(そういった雰囲気の、特に若い女子にウケそうな軽めの旅本も増えているね)、僕としてはもっとその地域の現状を的確に報告したりその旅人の信念をさらけ出したりする、それこそ1冊の旅本を読むに等しい催しにできればいいのに、とよく思う。話を聴くのに来客からお金を取るのであれば尚更のこと。ウケ狙いで面白おかしくすりゃあいいってものでもないでしょう(まあこれはヒトによって趣味嗜好も差もあるから、嫌だったら聴きに行かなきゃよいだけのことでもあるが)。
これは拙著のあとがきでも触れているが、最近の旅行業界は何事も、良く言えば敷居が低くなったけど、悪く言うと軽薄になったよなあ、とも感じる。
しかもその催しのあとの深夜の2次会3次会のような場で、ある人が地平線会議のことに言及したさいにその本質をうろ覚え程度にしか知っていないうえで批判的なことを言っていたために、このヒトはちょっと違うな、といぶかしく思って不愉快になったりもした(でも逆に良く言うと、自分の価値観と異なる言い分が聴けて新鮮に感じる)。
僕は好物の旅話を聞いて違和感を覚えることはあっても腹が立つまでのことはめったにないのだが、このときばかりは久々に腹が立ち、旅の手法や考え方は旅人の数だけ無数にあることをわきまえて、ひとつの対象をきちんと認識したうえで批判するのはかまわないが、たいして知る努力もしていないくせに軽口を叩くとは何様だ、と(発言していたのは歳上のヒトだったが)わざとオマエ呼ばわりで反論しようかとも一瞬思ったが、場の雰囲気を考えてやめておいたけど。
まあ最近、旅話に関するそんな問題? もあるにはあったが、冒頭のネームに戻って、僕としてはやはり動力利用よりも数段潔いと感じる人力の移動手段や旅はダサいとは思わない、断然カッコイイ、という思いには現在も変わりなく、たいした信念もないくせに安易にダサいとか違うとかのたまう人々(「輩」と呼んでもいいかな)には、今後もツッコミを入れていくことにする。
二足歩行することは、岩や沢をじりじり登り詰めることは、自転車のペダルを漕ぐことは、スキーやスノーボードのエッジを効かせてターンすることは、カヤックのパドルを握ることは、バカな行為ではなくより思索が深まって頭も良くなって、体力も付いて健康にもなって、周りの物事により敏感になって五感も鋭くなって、地球に暮らすいち動物としては動力に頼りきりの状態よりも間違いなく成長できる行為である(まあ無理に成長しなくてもいいけど)。
12日の投稿で触れた『自転車をめぐる冒険』(東京書籍刊)という本にもあるように、これからは自転車を含む人力の移動が一過性の「流行」や非日常の行為ではなく、「文化」として尊重されて日常の当たり前の行為になり、産業革命以降の欧米の文化の影響を過剰に受けていない、それこそ江戸時代以前に近いくらいに人力で真っ当に移動できる世の中になってほしいと切望し続けるし、それに関して手伝えることがあれば協力していくつもり。
まあ僕としては、初心を忘れずに、周りからダサいと言われようともとにかく自分らしい、自分で腑に落ちるカタチの旅と生活を今後も続けていって(ついでに言うと、“ダサイタマ”の国に長年住んでいますが何か?)、カッコイイか否かは周りが評価・判断すればよいだけのことだ。でも、人力にこだわっているというだけで今の時代カッコイイんではないか、とはちょこっと自認している。
なお、2007年11月の「拙著『沖縄人力紀行』の補足24」と、同年12月の「拙著『沖縄人力紀行』の補足25」はまだ保留中で未完成。過去のことで調査中のことも少々あり、先送りになっている。そろそろなんとかしたい。
沖縄県の過去写真。2005年1月9日、本島最北の辺戸岬から半日かけて辺土名まで歩いて南下してみた。さらに3年前の拙著の自転車旅のときは北上中に強い向かい風にやられて顔があまり上げられずに周りの景色をほとんど楽しめなかったこの約12kmの区間をなんか歩きたかったのよね、ということで歩いてみた。この区間内にある「カニ注意」の黄色の注意標識や西方に浮かぶ伊是名島・伊平屋島も含めて、動力利用よりもやはりより移動速度の遅い人力移動のほうが見えてくるものや感じることは多い。
右奥に見えるのは赤丸岬で、この近くに県内でも比較的有名な保養施設「JALプライベートリゾートオクマ」がある。