思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

小野伸二と堀江貴文で考える、人名の所属団体および肩書きの扱いについて

2006-01-31 21:39:39 | 出版・言葉・校正
2006年1月27日、東京・六本木ヒルズ森タワーを下から見上げる。株式会社ライブドアはこのビルの38階に入っている。


僕が本ブログで人名を挙げるさいは、その人の姓名とともに、その人が所属している企業・団体などがあればそれをカッコ書きで付記するようにしているのだが、基本的には記事を投稿する日現在の状況で判断している。
ただ、今月は各種報道を見ればわかるとおり、そういった所属の大きな変動がいくつかあった。その代表的な事例として、プロサッカー選手の小野伸二と、“ホリエモン”の愛称? がすっかり定着した堀江貴文を挙げてみる。

まず小野伸二だが、今月、それまでに所属していたオランダのフェイエノールトから、2001年7月にそこに移籍する前まで所属していたJ1チーム・浦和レッズ(正式名称「浦和レッドダイヤモンズ」の略称)に戻り、先週26日に浦和と3年間の正式契約を結んだ。埼玉県民の僕としては10年以上前から、それこそJリーグ開幕当時は最下位を独走? していて、「Jリーグのお荷物球団」などと揶揄されていた頃から見守り、常にひいきにしているチームの朗報だから、もちろん嬉しいことは嬉しい。ただ小野の場合、年齢的にもまだまだ外国のチームでやれるはずだから日本に帰ってくるのはまだ早いよ、とも思う。まあ、今年6月にドイツで開催されるワールドカップに万全の状態で出場するための帰国となったわけで、とりあえず3年間は契約しているが、その後は再び外国のどこかのチームから良い条件で声がかかれば、おそらく1年以内に再び浦和を離れる可能性は多分にあるだろう。だから今回の契約を両手放しで大喜びはできないんだよな。
とはいえ、小野が加入したことで今年の浦和の戦力はより増大し、チーム内の競争も激化し、リーグ戦、ヤマザキナビスコ杯、天皇杯のいずれかと言わず、これらにすべて勝つという「3冠達成」ももはや夢ではない状況になってきたため、やはり小野に対する期待は大きい。んー、ブッフバルト監督は小野をどう使うのだろうか? とチーム運営関係者のみならず、スタジアムで赤色のレプリカユニフォームを着て喉が枯れるくらい応援に力を入れる熱狂的浦和レッズサポーター、略して“レッズサポ”も嬉しい悩みを抱える1年になりそう。昨年は浦和レッズの試合を(親善試合も含めて)4回観に行ったのだが、今年は何試合観に行けるかな? 小野が再び移籍するまでに何度かはちゃんと見ておきたいよな、と僕も多くの浦和びいきもんと同様の心理で今季のJ1開幕を迎えることになる。

そしてもうひとつの事例としての堀江貴文のことも気になる。
各種媒体で連日報道されているとおり、先週23日に逮捕され、肩書も「社長」から「前社長」になり、東京拘置所にいる現在は「容疑者」とも言われる。今年の前半は肩書というか呼び名がコロコロ変わりそうだな。
僕は「人の心はカネで買える」という名言というか迷言? には違和感があるため当然、拝金主義的な堀江は基本的に嫌い。だが、Tシャツにジーンズというあの出で立ちと、何を考えているのかようわからんふてぶてしさとぶっきらぼうな物言いは(まあこれは僕も似ているところがあるのであまり深くは言及できないが)、合法か違法かは置いておいて時代の流れを読む力は凄いな、とも思う。起業を目指す彼より下の年代の若者にかなりの刺激を与えたことは日本経済的には良いように評価できる。
堀江は高校時代、実家のある福岡県八女市から高校のある久留米市までの片道15kmだか20kmだかの距離を毎日自転車通学していたり(聞くところによるとロードレーサーらしいね)、パソコンを買うために新聞配達のアルバイトに精を出していたりしたそうだが、そこまでの人間臭いというか人間として健全なことを過去に経験しておきながら、よく人の心をカネで~、なんて言って、しかも年間の維持費が1億円近くかかるプライベートジェットに手を出すまでに豹変したな、と基本的には嫌いな人物ではありながらもやけに気になる。カネだけでそこまで変わるもんかね。
僕も自転車が大好きで、2002年秋に自転車で九州を縦断する旅をしたさいに八女と久留米も経由したので、彼の当時の通学風景は容易に想像できる。僕の普段からの持論に、

「人力移動(徒歩や自転車などの動力に頼らない移動)にこだわっている、もしくは積極的に楽しんでいるヤツに悪いヤツはいない」

というのがあるのだが、毎日10km以上走っていた堀江も根っからの悪ではないはずだ、という思いはある。片道7、8kmはよく聞くけど、高校生時分で2ケタの距離は結構凄いと思う。ホントに。まあこれは心底自転車を愛していると言うよりは、福岡県内でも屈指の進学校に通っていたという自尊心からくる頑張りだったのかもしれないが。

話は戻って、今後の堀江の立場とライブドアまわりの捜査の展開はどうなるかはまったく予想できないが、それらが(何年かかるかはわからないが)落ち着いたら、堀江にはいまだに実家に廃棄せずに取っておいてある自転車で、人の心を取り戻すための自転車旅に出てもらいたい、と切望する。東京・六本木ヒルズから昨夏の選挙活動でお世話になった広島6区を目指すのでもよいが、日本一周くらいの壮大な旅をぜひやってもらいたい。MONGOL800の歌ではないが、このような野ざらし状態で人間の本能というか潜在能力を最大限に発揮しながら移動するような濃い旅をして、これまでよりもたくさんの他人のやさしさに触れれば、人の心も自分というひとりの人間の存在の小ささも身にしみてよくわかるだろうよ。僕も旅先ではそれをほぼ毎回痛感しているからよくわかる(ただ、あえて「自分探し」の旅をしているわけではないけど)。

まあとにかく、2006年1月は良くも悪くもこのふたりの動向が気になったのであった。こういうのを見ると、今年は世間の様々な物事が変化を遂げそうな予感がある。今年からブログを始めた僕にも何か大きな変化は起こるのかな?

非日常腹立ち度チェックの補足

2006-01-31 20:10:24 | 自分の旅話(非日常)

先の「非日常腹立ち度チェック」のなかでさらにもう一点について、写真とともに補足しておく。
上の写真は、4の事例。2005年2月に、登山で長野県・北八ヶ岳の高見石小屋に立ち寄ったさい、先に着いていた団体の登山者が小屋のすぐそばにある高見石に登っているときに、このようにザックを小屋のデッキにある机と椅子に載せていた様子。

本来、人が食器やコーヒーカップなどのちょっとした小道具を置く机と座るべき椅子に、床にも置ける、というかふつうは床に置くザックをこれらに載せて荷物置き場として占領していることに心底腹が立った。べつに僕はこのときは気温が0℃近いなかで椅子に座って、さらにここにじっと座り続けていると寒いということもあり、積極的には座らなかった。この状況でこの机と椅子を利用する人はほとんどいないかもしれない。それに積雪期なのでザックの底面は雪が着いて少し濡れることはあるだろうが、無雪期のように土でひどく汚れることもないだろう。
だが、ほかの登山者のなかには、ここに座って何か飲み食いしたりして休憩したい人がすぐあとに現れるかもしれない。現れる確率はかなり低いのだろうがもしそういうその人たちが訪れたとしてこの状況を見たらどう思うだろうか。こういうザックの置き方をする団体一行は他者へのそういう可能性を考える力、つまり想像力が明らかに足りない。言葉は汚くなるが、まさにアホの集団である(関西圏の言葉で言うと、バカ)。

この写真を撮ってから数分後にこのザックの持ち主たちが下ってきたのでその顔を遠めに見てみると、人並みにすくすくと成長した子どもや孫がいるようなオバサンや、会社勤めをしていたときはそれなりの地位にいたであろうオジサンで、物事の分別はついているはずのいい歳をした人たちだったのだが、実際にはこの写真のように分別はついていなかった。こういう人たちは、列車内の座席でもこういうことをやっているのかな。そうなると、他の登山者ではない一般乗客から迷惑がられて、登山者全体の印象がより悪くなって、他の健全な登山者もそんな一部のアホ集団と一緒くたにされて肩身がより狭くなるんだよね。そういう悪影響も想像できないものなのかな。
まあこれは非日常的な登山に限らず、日常の列車内などでも言えることなんだけど。ただ、僕も列車の座席の上にデイパックなどを置くことはあるが、人が座るべき座席に一度以上床に触れたデイパックの底面は絶対に触れさせないように気をつけているし、しかもそれも明らかに乗客が徐々に減っていくであろうと容易に予測できる夜間の下り列車でしかやらないようにしている。

このような細かい行為は気にならない人はホントに全然気にならないのだろうけど、僕はものすごく気にする。この写真を見て、僕のこんな感覚に共感していただける方は、たぶん僕とかなり気が合います。個人的に連絡ください。

非日常腹立ち度チェック10

2006-01-31 19:01:45 | 自分の旅話(非日常)
2004年7月、JR武蔵野線の最後尾車両に分解した自転車を載せて「輪行」する。この路線に限らず、上りか下りかにもかかわらず、日曜日の7時台という乗客の少ない時間帯に、しかも先頭か最後尾の車両まで自転車を移動させればほかの乗客から迷惑がられることはほとんどないだろう。


先日、日常においての腹立ち度チェックを30項目記したが、それだけでなく、非日常、つまり旅している最中にもほかの旅人やそうでない人々を見ていて気に障ることもいくつかあり、それらについても考えてみた。ただ、その事例が日常ほどは思いつかないため、とりあえず以下に10項目のみ示してみた。

●旅先で、野外で気になる他人の行為

1.山の頂上もなどの空気のきれいな場所で、人がいる風上でタバコを吸う人
2.余所の土地でタバコの吸い殻・空き缶・果物の皮などのゴミを残して逃げる人
3.スーツケース・サーフボード・スノーボード・ザック・輪行袋などの大荷物をえて鉄道駅構内を移動したり列車を乗降したりするときに、周囲の人の流れを無視して動く旅行者
4.ザックやスポーツバッグなどの荷物の底辺の濡れや汚れを落とさずに列車・駅・公園など の座席に載せる人
5.比較的乗客のある列車やバスの車内で、集団で延々とうるさく喋る人々
6.長距離列車が終着駅に到着した時、降車するさいに弁当などのゴミを座席に置き去りにし ていく人
7.行動後の衣服や荷物の汚れや臭いを全然気にせずに公共交通を利用する旅行者
8.トレッキングポールの先端やピッケル・アイスバイルの先端にプロテクターをせずにザックに取り付けている登山者
9.クルマに良さげなカーナビを搭載しているのに、安易に他人に道を尋ねてくる観光ドライバー
10.河原や公園やキャンプ場などで、深夜までどんちゃん騒ぎをしたりロケット花火を打ち上げたりする集団


僕が特に腹が立つのが1と3である。
1は、野外の自然の美味い空気を吸いたいのにタバコの煙を吸わされるのはホントに腹立たしい。べつにこれは街でも自然のなかでも同じことなのだが、特に山などの自然にどっぷり浸りに来ている人の大半は、身体を動かしたり動植物を愛でたりすることとともに、街の雑踏のなかにいる時よりも数倍ウマイ空気を吸うことも大きな楽しみとして来ているだろうから、それを街と同様の感覚で他人のその楽しみをぶち壊すのは許せない。日常でも非日常でも、他人がいる状況とその周辺の空気の流れを読めない人を見ると幻滅する。周りに誰もいない場合であれば吸ってもいいけど(吸い終わった吸い殻も自分で持ち帰りましょう)、周りに人がいる場合はもっと気にしようよ。
でもそれ以前に、わざわざ空気の良い場所に来てまでタバコを吸って不健康になろうとする喫煙者の神経が理解できない。自然のど真ん中で良い空気を吸って健康上はプラスの効果を生んでも、タバコの煙を吸うことによってマイナスの効果が働き、その度合いは差し引きゼロになって、山に来る意味がないんぢゃないの? といつも思う。
まあそういう場所でも平気でタバコを吸う人たちって、環境云々について考えながらあえて野外に出かけているわけではなく、街なかにいるよりは少しは健康に良さそうな運動をしに来ている感じで、フィットネスクラブでの器具を使ったトレーニングや各種スポーツをすると同様の、余暇時間にいそしむゲーム感覚で来ているからなのだろうけど。それはこのようなヘタクソなタバコの吸い方やその後の処理の仕方でわかる。

3は、外国へ旅行に行く人が持つスーツケースや、サーフィンをしに行く人のサーフボード、スキー場にスノーボードをやりに行く人のスノーボード(スキーも同様)、登山に行く人のザック(バックパックとも言う)、それに自転車を分解して輪行袋に収納して移動する「輪行」などの人。まあ他にも大型の弦楽器やパソコン・ミニコンポ・電子レンジなどの配送扱いにせずになんとか手持ちで持ち帰れる電化製品など、運ぶさいに人間ひとりぶんかそれ以上の空間を必要とする荷物をどうしても列車に乗せないといけない経験は誰でも一度はあると思う。そのさい、大きな荷物を持ちながらどのように行動するか、ということ。
僕がよくやる自転車の「輪行」の事例で言うと、列車の乗車時は乗客が比較的少ない時間帯に、車内でもさらに乗客が少なそうな先頭の車両か最後尾の車両に荷物を移動させて載せている。
15kg前後の荷物を運びながら駅の端っこまで移動するのは大変だが、旅するさいは事前事後のそのくらいの苦労は仕方ない、自転車を確実に移動させることのほうが重要だ、とあらかじめ覚悟したうえで列車を利用している。
だから、大荷物を持って移動するさいは毎回、乗車するつもりの列車を1、2本遅らせてもよいくらいの時間の余裕を持つようにしている。でもまあこれは東京や大阪などの1時間に何本も列車が通る大きな駅の話で、1時間に1本通るかどうかの田舎の単線列車の場合はこの限りではない。
そして僕の目的の駅で降車するさいは、僕と同様にその駅で降りる他の乗客が先にすべて降りきるまで待ち、降りきってから僕も降りるようにしている。そうやって他人との移動のタイミングをわざとずらせば彼ら彼女らの降車の邪魔にならないし、僕も運びやすい。そして駅の階段や改札でも、他の乗客がすべて移動し終わるまで待ってから移動するようにしている。
これは文章にすると説明しにくいのだが、僕はとにかく、人の流れを常に意識しながら移動している。だが、そういうことをせずに、大荷物を持ったまま他の乗客と同じタイミングで乗降というか突入して、その人たちの肩や腰や足に荷物をガシガシぶつけながら移動している人をよく見かける。そういうことが続くと、
「痛ぇな、なんだコイツ? 自転車に乗る奴ってこういう周りの人の行動が読めないヤツらばかりなのか?」
と悪く見られて、自転車乗り全体の信用にもかかわってくる。自転車は道路交通法でも定められている通り、一応は「車両」の一種である軽車両なのだが、これを折りたたむか分解して運ぶ「輪行」であれば1999年秋からは手荷物料金なしで運べるようになって、環境・健康などの効果によって自転車の存在も認められつつある。今後も周りの人々の自転車への理解(市民権)を得られるようにするためにも、このような自転車乗りにとってはありがたい特例の効力が今後失われないようにするためにも、周りの人々のことをより気遣いながら行動したいものだ。
大きな荷物を持っている人はどう考えても荷物を持たずにふつうに歩いている人よりも移動速度は遅くなるのだから、列車の乗り換えなどでどうしても急がなければならない時以外は周りの人々との移動のタイミングをずらして、その人たちの後方を移動しよう。ただでさえ大荷物は周りから迷惑がられるのだから、列車もそうだが列車に限らず公共空間内ではやはり周りへの配慮は必要だよね。

あと、5に関連することとして、喋りではないのだが、日常と同様に列車やバスの車内での携帯電話の使用が気になる。しかも、全国的に比較的多く走っている基本的に自由席の普通列車のロングシートやボックス席であれば、かなりヘンな言動や行動、つまり携帯電話で延々と通話するかこれを病気にかかっているかのように一心不乱にいじくり倒しているような人が不意に近寄ってきてもすぐに他の座席や車両に移動することによって回避することもできる。だが、新幹線や特急列車や高速バスの2、3席横並びになっている指定席の場合は、ふつうは乗車から降車まで同じ座席にいるもので、そうなると他の場所への移動が難しく、隣にヘンな人が来ても自分が降車するかその人が降車していなくなるまで我慢せざるを得なくなる状況に陥る。
僕としては心穏やかに静かに車窓からの景色を堪能したり読書にいそしんだりしたくても、隣にそういうおバカな人が来て携帯電話をカチカチカチカチ……、と延々といじられると、うるさくて電磁波が周りに漏れまくって大変迷惑である。さらに、電話を一度操作し終わっても、その後ちょくちょくメールや通話の着信の確認をするために折りたたみ式の携帯電話を何回も開閉して、そのたびにノック式ボールペンの芯を出し入れするときのようにカチッカチッとヒンジ(液晶画面部とキー部のふたつの機体をつないで開閉させる関節というかちょうつがいのようなもの)の音が鳴るのもうるさい。現代風の若者言葉で言うと、超ウザイ(うざったい)。
さらにそれが夜行便に乗っている場合は、真夜中なのでより静かにゆっくりしたくても、隣で携帯電話のキー操作をすることによって、キーをいじる音とともに液晶画面がゆらゆらと揺れたり電話に付けているストラップの鈴が鳴ったりするのも目障りで耳障りでホントに頭にくる。こういう迷惑な輩はなんとかならないものかな。
日常・非日常を問わず、最近の列車内などの公共空間内での携帯電話の使い方についてはこの5倍以上物申したいことがあるのだが、またの機会に譲ることにする。後日詳述する予定。

灯油が高い!

2006-01-29 20:48:45 | 普段の生活(日常)
2006年1月18日、埼玉県白岡町のホームセンター内の灯油売り場。「カインズホーム」などの最近の郊外型ホームセンターはこのような専用の売り場が備わっているのね。クルマを所有していれば買い物のついでに給油できて便利ですな。


今更だけど、原油価格高騰ですねえ。
先週、久々に灯油を買いに行った。と言っても僕の家庭の場合、自己紹介にもあるようにクルマという便利な乗り物はないので、自転車(ママチャリ)の後部の荷台にポリタンクを積んでそれを100円ショップで販売しているような荷台用のゴムで縛って、1kmほど離れたガソリンスタンドまで走るのだが。

実は、家族の者がすべて忙しく働いていた4、5年前まではそのなかでも比較的時間のある僕がこの時期は自転車でよく買いに走らされていたのだが、最近はその人たちにも時間のゆとりができて、灯油の買い出しも任せていたため、僕自身はここ数年の灯油の価格変動はあまり気にしていなかった。だが、今回買いに行って、目玉が飛び出るくらいに驚いた。だって、当時18リットルで700円前後だったのが、今年はその2倍近い値段なのだから。
ニュースで報じていた、今月の東京都の灯油18リットルの平均価格は1396円だそうだが、僕が今回買いに行ったセルフ方式のガソリンスタンドは1350円だった。まあどちらにしても昔に比べたらかなり高いよ。今冬、大雪に見舞われた新潟県・長野県あたりの方々はもっと大変だろうなあ。

昨年あたりから、旅で飛行機やフェリーを利用するさいも、運賃に加えてまだ数百円程度ではあるけれども燃油サーチャージ(燃油特別付加運賃)も要求されるようになってきたし、この傾向は今後も続くのだろうか。普段クルマに乗っている家庭であれば日々のガソリン代の変動によってこういうことは常に気になるのだろうが、クルマはなく、比較的化石燃料の消費量の少ない僕の家庭のようなところでも最近の原油価格高騰の影響はかなり受けているのよね。それに、各種製造業や輸送業や漁業などでもレギュラーガソリンや軽油をかなり消費するため、それが食料品などの価格にも反映されてしまっているから、日常のあらゆる面で間接的に悪影響を受けているし。
20世紀後半の高度経済成長によって化石燃料をガブガブと消費してきたツケがそろそろ回ってきたという感じか。“ウォームビズ”ではないが、ガソリン・消費量を抑える努力はどの家庭でも必要ですな、と給油して18kgにまで重くなったポリタンクを運びながら改めて思った。とりあえず思うこととしては、クルマを所有して毎日のように乗り回している家庭の方々に、(たいした目的もなくクルマを趣味的に余計に走らせる)ドライブは控えていただきたい、ということ。

諏訪の旅

2006-01-21 12:57:10 | 自分の旅話(非日常)

19日から20日にかけて、長野県・諏訪湖周辺に行ってきた。
目的は、先週9日に例年よりも早い時期に出現した自然現象「御神渡り(おみわたり)」を見ることと、諏訪大社の上社・下社の計4つの社を見に行くことだった。
結果は、後者はまあふつうに回ることができたが、前者は見頃を1週間外してしまったため、残念ながらはっきり現れていたものは見られなかった。
凍った湖の氷同士がぶつかるというかひしめきあってて上方にググッと盛り上がる御神渡りは北海道の屈斜路湖や摩周湖などの気温はかなり下がるけれども降雪は比較的少ない地域で見られるそうだが、諏訪湖は標高759mの盆地にあり、北海道に似た気象条件になるために出現するのだろう。
19日に湖岸を5kmほど歩いてみると、大概の場所は凍っていて、20cm近い厚さの氷の塊が岸に乗り上げていた。今週は晴れの日が続いたようで氷が解けている場所もいくつかあり、市街地を歩いてみても積雪や雪かきをしたような跡はなく、同じ長野県内でも大雪に見舞われたここよりも北の飯山市や野沢温泉村に比べると、湖が凍っている以外は冬らしくないふつうの温泉観光地という感じだった。
そして諏訪大社は20日に巡った。上社(本宮・前宮)も下社(春宮・秋宮)も2004年春に、通常は寅年と申年(つまり6年ごと。しかし地元では「7年に1度」と言う)に開催される奇祭「御柱祭」を見に行ったさいにすべて行ったので、1年8、9か月ぶりの再訪になる。ちなみに、御柱祭の正式名称は「式年造営御柱大祭」と言う。
祭の時(里曳き)に社の四隅に立てた御柱のその後の様子が気になっていたのが、相変わらずの立派な屹立ぶりで、御柱(長さ10数mのモミの木)立てるさいに地面に深く穴を開けた場所の土もすっかりなじんでいた。
実は僕は2年前の御柱祭で、4~5月の一般向けの開催期間全日(合計12日間)、つまり御柱の曳行(えいこう。御柱を多くの人手によって山から里に下ろして、社まで引っ張って、その四隅に立てること)の起点から終点までの全行程をすべて歩きながら見届けていて、その模様を地元ケーブルテレビ局が中継した映像をまとめたDVDも所有しているくらいの“自称御柱祭マニア”なので、八ヶ岳への登山でもよく訪れる諏訪地方への思い入れはかなり深い。僕の地元から青春18きっぷ利用でなんとか日帰りできるし、何度来ても楽しい。
今の時期に旅するなんて、今冬は豪雪地帯で記録的な雪に耐えている方々のことを考えると不謹慎な気もするが、30代突入後の最初の旅は、思い入れの深い土地が妥当かなと思い、とりあえず行ってみた次第である。

上の写真は諏訪湖を訪れたときの湖岸の氷を写したものなのだが、このように氷が褶曲したり陸に乗り上げたりしている光景はよく見かけた。御神渡りよりはこぢんまりしているが、こういう湖の生の動きを見られただけでもまあ良かったかな。なお、写真奥の山の稜線の鞍部(凹部)あたりのさらに奥のほうに富士山が見える。

東池袋の猫

2006-01-16 19:00:54 | 徒歩

昨日の歩きの後半、東池袋の住宅地で出会った飼い猫が人懐こくて、人相というか猫相もチョビヒゲで面白かったので、これもアップする。

僕は基本的に犬よりも猫派で、猫が主題の写真集を数冊出版している写真家・岩合光昭ほどではないが、普段の生活も旅先も問わず屋外で偶然出会った猫の写真を撮るのが好き。自宅で飼ったことはないが(それ以前にウチの家庭は愛玩動物を飼わない主義)、野良猫・飼い猫問わず、犬よりも人間に媚びずに一匹狼的に自立している感じが好き。
人間のほうもいつでもどこでも他人に媚びたり大勢で戯れたりせずに、「自分らしさ」を大事にした個性的で自立した行動をしたいもんだよな、と猫を見るたびに思う。でもコイツはすりすり擦り寄ってきてしばらく離れなかったな。飼い主に似た性格になったのかな。おかげで穿いていたジーパンに毛が付きまくってしまったよ。

都電荒川線沿いを歩く

2006-01-16 18:30:14 | 交通・地理

昨日(1月15日)、所用で東京都北区の王子に行く機会があったので、そのついでに都電荒川線沿いを散歩してみた。今年一発目の旅と言えば旅だが、そう言うには小さすぎるので、とりあえずは小旅というか散歩だな。それにここまでブログをやってきて、使っている写真がすべて2005年のものというのもなんだかなあ、最近の新しい写真も載せたいなあ、ということもあり、アップすることにした。

歩いたのは都電荒川線の王子駅から東池袋四丁目駅までの区間。特に王子駅から飛鳥山駅までの間は結構交通量の多い幹線道路に線路が延びていて、全国でも特にクルマの多い東京23区内でクルマと路面電車はちゃんと共存できているのか? ということが以前から気になっていた。まあ結果は、信号のタイミングでもクルマのドライバーの運転でも特に問題はなく、堂々と走行していた。鉄道好きを公言している原田芳雄やタモリや前原誠司(民主党代表)よりも、路面電車好きが高じてそれをバンド名にも採り入れた最近人気のレミオロメンよりも、人一倍路面電車が好きな僕としては、それ専用のレールがあるところも車道上にレールが敷設されているところの交通も含めて、とにかく全国各地の路面電車の運行状況が気になる。

路面電車は都電荒川線のほかにこれまでに、札幌、富山、豊橋、岡山、広島、高知、松山、長崎、熊本、鹿児島でも乗っているが(特に松山と長崎のが好き。江ノ島電鉄、略して「江ノ電」も好きなのだか、この類に含まれるのか?)、停車駅を専用のレールを敷いた一般的な列車よりもきめ細かく(200~300mおきに)設定でき、しかも建設・維持費用も車道のアスファルトをちょっといじるくらいで済むからそれよりも安く上げられるということで、環境問題云々がよく叫ばれるようになった今の時代だからこそもっと普及すべき乗り物である、と各地で路面電車に乗るたびによく思う。昔のように路面電車ができないもんかね、鉄道網が比較的発達している都市部ではクルマはそんなに必要なもんなのかな? と線路沿いを歩きながら思った。

飛鳥山駅より南のほうは専用レールが続くのだが(このへんの専門用語がよくわからん。その筋に詳しい鉄ちゃん=鉄道マニアに指摘してもらいたい)、このへんの区間の線路沿いには、JR山手線と接続する大塚駅前を除けば多くの住宅が建ち並んでいて、人同士がなんとかすれ違える程度の小道もあり、住環境の良し悪しを考えるさいにふつうはマイナス要素になる列車の走行音も路面電車であれば数段小さく、そんなに気にならない(と思う)。列車が住宅地のなかを5、6分おきに駆け抜けていても景色を見るうえてでも違和感なく溶け込んでいて、なごむ。

東池袋四丁目駅から南の終着駅・早稲田駅の間は毎年数回は歩いているので、今度は王子駅から東のほうの始発駅・三ノ輪橋駅の区間も歩いてみよう。

カレー好き宣言

2006-01-16 17:55:53 | カレー

僕は幼少時から自他ともに認める無類のカレー好きなのだが(小学生・中学生時の学校給食ではほぼ毎回1~2回はおかわりをしたり、朝昼晩9食連続でカレーを食べた記録も数回あったり)、21世紀に入ってから余暇時間に楽しむ趣味として何か新しいことをひとつやってみよう、と思った時に、近年のラーメンブームの影響で? 各種媒体でカレー店の特集も頻繁に見かけるようになってきたことや、2001年から「週刊ヤングジャンプ」で連載しているカレーを主題にしたマンガ『華麗なる食卓』の影響も受けて、元々大好きだったカレーという食べ物についてもっともっと追求していこうと思い、全国各地のカレー店を巡っていくことにした。

新宿中村屋本店の常連である関根勤や水野仁輔(東京カリ~番長)や黒沢薫(ゴスペラーズ)のように、僕もかなりのカレー好きなのだ! ということをここに宣言したい。とにかく、世間一般で特に流行っているラーメン・焼肉・寿司なんかよりも断然カレーが好きで、健康と経済(懐具合)の制約がなければホントに毎日食べてもよいくらいだ。
それに僕自身は料理はあまりできるほうではないが、自分でなんとか作れるいくつかの料理のなかでもやはりカレーを作るのが得意である(ふつうは家の内部で作るということで、以下、内カレー)。でもまあこれは市販のカレールウを使っていくつかの食材を煮込めば比較的容易に作れるため、家庭の普段の食事や誕生会などの複数人が集まる催しでも、野外でのキャンプや林間学校のような催しでも、大人数でも小人数でもカレーを作る人は多く、大多数の人が「失敗する確率は低く、一応は作れる料理」として挙げているのと同様の感覚だけど。
そんなわけで、とりあえず2001年から始めたカレー店巡りで巡った店舗数が昨年末で300店を超え(2005年12月末現在で309軒)、各店で外食として食べたカレー(以下、外カレー)の数もこのくらいをこなしていればカレーについてそろそろ物申してもよい資格は備わったかな、と思い、現代のカレー事情についてもこのブログで示していくことにした。

カレー専門店か否かを問わずとにかくカレーをイチ押し料理として提供する店を巡ることによって、日本の一般家庭のおふくろの味的な粘度があってじゃがいもやにんじんや玉ねぎがゴロゴロ入った日本風カレー以外にも、インド風、スリランカ風、パキスタン風、タイ風、欧風、それに最近の北海道で流行っているスープカレーなど、諸外国および各地域のこだわりの食材や調理法を駆使した様々なカレーの姿があることを日々知ることが楽しい。また、国籍を問わずあらゆる種類のカレーとの出合いを重ねて、カレーを作るさいの基本としている外国のことやその店舗を構えている地方の背景やその土地の文化も垣間見ることによって、日々勉強にもなっている。
これまでと同様に今後も全国各地の店を巡って新しい店を開拓して行動範囲広げていくなかで、特筆すべき店や何か面白い事柄があれば、その都度報告していくことにする。

僕はこれまでに訪れたカレー店の簡単な記録を取っていて、それをもとに大雑把にだが評価してもいる。各店ともに細かな特徴や見所があり、学校の通知表のように何段階かの数字でそれぞれ個性のある店を採点するのはなんとなく心許ない気もするが、基本的にカレーを好む人が多い日本で、カレーという料理が「文化」とまではいかなくても「習慣」として多くの地域で根付いてほしいな、という願いもあって、それを助長させていけるような店を発掘して、今後のためにも評価している。とはいえ、カレーはもうすでに一般家庭に浸透しているか。でもまだラーメンなんかと比べるとまだまだカレー人口は少なく、「家で作るもので充分じゃん」「わざわざ外で食べるものぢゃないよ」という感じで見下され、星の数ほどある料理のひとつとしてのカレーの存在はきちんと評価されていないように思う。そんな現代のカレー環境をより充実させるための一助となる記述・報告を目指したい。
ちなみに僕は埼玉県在住なので、これまでに訪れた店はどうしても埼玉県内と近場の東京都・千葉県・神奈川県の店が中心になってしまっているが、全国各地に旅に出たさいに関東地方に偏らずに各地域の店を巡ろうとは意識している。時間があれば常に面白そうな店はないか、と各種媒体やインターネットで情報収集している。ということで僕は以下のような基準でカレー店とカレーを評価している。


カレー店とカレーの判断基準

・店

店舗の立地(都会の駅前か田舎の郊外か、一軒家かビルのテナントか、店前の道路のクルマや人の交通量など)、店の内外装(壁・床のみならず換気扇や照明や展示物も含む)、もし厨房が見えるようであればシンクや調理道具の手入れの行き届き具合、メニュー表や机・椅子の質、調味料・福神漬けなどの付け合わせや水差しの水の味と補充具合、料理人の調理中の所作や食材の扱い方、目当てにしている客層などの複数の事柄を見て、総合的に判断している。
僕個人的には、各種媒体でカレーのみならずあらゆる食べ物を取り上げるさいに、その料理の(万人にウケそうな)味ばかりが取り沙汰されるように「味さえ良ければそれでよい」という風潮は嫌いで、カレーを作る・食べる環境や、料理人の店を続けるうえでの心意気や店に訪れる客層なんかもかなり気にする。
あと、これはラーメン店の良し悪しを見極める人もよくやることだが、時には店の裏側に回って野菜などのダンボール箱で食材の産地と質を調べるというか見極めたり、調理後のゴミ出しの状況を見ることもある。ただこれは端から見るとかなり怪しい行為なので、ホントにたまにやる程度だけど。

・濃さ   

ルウの粘度のこと。ただ単純にドロドロ(濃い)か、トロトロ(並)か、サラサラ(薄い、スープ状)か、ということ。
市販のカレールウのように小麦粉を大量に使っていて、おたまでルウをすくうとずっしりと重みがあるようなものが「濃い」もので、(ラーメンのスープをヒントに作られるようになった)ここ数年北海道で大流行しているスープカレーのようなスープ状のルウは「薄い」ということになる。

・辛さ

単純にルウの辛さのこと。ただし、これは個人差がかなりあるので一概には言えないが、僕なりに辛いか否か、ということ。
ちなみに、辛さは、一般家庭で使われるカレールウで言うところのグリコ『ワンタッチカレー』とハウス『こくまろカレー』の中辛を基準にしている。各店で注文するさいに、辛さが何段階かあって自分で選択できる場合は、ちょうど真ん中あたりの辛さを選択したうえで判断している。そのくらいがルウに使用されたスパイスやコクを判断するのにちょうどよい辛さのように思う。
でもまあある程度の辛さはあったほうがカレーらしいが、舌がしびれて、汗が額のみならず首筋や背中からも噴出して、ハンカチと水が手放せないくらいの激辛のものだと、ルウの旨みを味わうどころではない。より辛いほうがウマイ、とは思っていない。

・味

ルウの(辛さも具財も含めた)中身のことだが、これも、辛すぎるのはダメ、脂っこいのがダメ、香草やココナッツミルクが苦手、肉類は食べないベジタリアン(菜食主義者)だ、などの個人差があるので一概には言えないが、最も重視しているのは「客に提供する一皿にどのくらい料理人のカレーへの想いが詰まっているか、カレーにどのくらいの情熱を注いでいるか(手間がかかっているか)」ということだ。これを見極めるのは困難だが、店の内外の雰囲気と照らし合わせながらなんとなくは判断できる。僕は特に苦手な食べ物はないので、基本的にはなんでも食べる。明治時代にインド発イギリス経由でカレーが日本に伝わってきた当時は具材のひとつとして蛙の肉が使われていたそうだが、今後もしそんな一風変わったカレーに出合ったとしても、どんなものでも残さず食べるつもり。
また、ファミリーレストランなどで使用される業務用のカレールーだけを使って、来店客を単調に捌くやっつけ仕事という感じで済ませているだけでは良い店とは言えない(僕は過去にファミリーレストランでのアルバイト経験があるので、そういう大量生産している感じの味はなんとなくわかる)。とにかく店主のカレーへの思い入れの度合いを見る。ただ、業務用のルウを使っていても、それと合わせる他の具財や店内外の雰囲気にかなり気を遣っていることがわかる場合は、それなりに評価する気はある。

・効果

簡単に言うと「費用対効果」である。「店」「味」の判断をもとに、カレーの価格がそれに見合ったものとして設定されているかどうか、ということ。
まあ懐具合が常に寂しい僕個人的には一皿1000円未満で食べられるのが理想ではあるが、例えばブランドものの牛肉や伊勢海老などの、そんな金額では収まりきらない食材を使用している店もあるのは承知しているため、多少値が張ってもそのぶん納得できるものであれば、それなりの評価はする。逆に、「この味でこの値段かよ。ちょっと高いんじゃないの?」というマイナスの評価もする。
また、ここでのもうひとつの基準に「ぜひとも再び食べに来たいか否か」ということもある。とにかくいつの日かはこの店に必ず再訪して、他のメニューもあればそれらもぜひ試してみたい、というふうにその店全体を、カレーを一皿食べる時間だけで一発で気に入ることかできて深く印象に残る店かどうか、という見方でも判断もする。食に限らず人でもモノでもなんでもそうだが、自分が心底気に入ったものであれば、いつでもどこでも何度でも楽しみたいというか愛したいもんだよね。カレーを食べるときはそういう感覚も大事にしている。

ただ、2006年は僕個人的な事情では金銭面でやや厳しくなりそうな1年になりそうで、カレー店への訪問回数も例年に比べるとやや少なめになるかもしれない。でもまあできるだけ僕にとっての(新規店舗)を開拓していこうとは思っている。
ちなみに上の写真は、東京都・池袋の「サンシャイン」のカツレツカレー(620円)。このカレーを今年のカレー始めとした(僕は年始に三十路を迎えたので、ひとりでこぢんまりとそれを祝った、という意味合いもあるが)。ここは以前訪れたことがあり、再食になる。安価で、ひと昔前のキャバレーのような店内の雰囲気が好きで、過去にタイムスリップしたような気分になるのが面白い。カレーの味以外のそういうことも楽しめる店である。

名言

2006-01-16 17:00:55 | 良識

前回の日常腹立ち度チェックに関連する写真を載せておく。
これは2005年2月に長野県・北八ヶ岳に登山に行ったさいに、高見石小屋のそばで見つけた周辺の地図を記した案内板である。現在地等の情報よりも先にこの言葉のほうが目に入った。まさに名言である。
モノの大小を問わず、場所の雰囲気も気にせずにあちこちにゴミを放っていって、あちこちにゴミが散乱した醜い状態を見たくないと思っている大多数の正常な人たちを不愉快にさせる行為は、世界各地で起こってしまっている無差別テロと同様に、地球上に多くの人が暮らしている現代を生きていくうえで解せない行為である、と僕は思っている。
だから、タバコの吸い殻やらガムの包み紙やら空き缶やら何やらをゴミ箱にきちんと片付けずに無責任に適当に置き去りにしていく「子ども」もしくは「幼稚」な人たちには、そんな大規模のテロ行為を非難する資格はない! といつも思う。事件の大小にかかわらず、やって良いことと悪いことの分別がつく「大人」になってもらいたいものだ。

挨拶代わりの日常腹立ち度チェック30

2006-01-11 21:42:42 | 普段の生活(日常)

本ブログを今後進めていくうえでの「指針」という意味合いで、僕が旅でも普段の生活でも見られる周りの人の行動や道徳観念について考えていることを、僕が最近よく見かける以下の代表的な事例にまとめてみた。
僕もこういう「自分がされたくないこと」を他人にしないように気をつけないとな、と戒めつつ、以下のことをこのブログの(僕の)判断基準としたい。
これを読んだ方は以下の項目のなかで、いくつのことについて違和感を覚えるというか気になる(該当する)のかな? 僕のブログ序盤の挨拶代わりの以下のネタをどうぞ。

●明らかな犯罪、より厳罰に処してほしい犯罪的行為をやっている人

1.歩きタバコをする人
2.吸い終わったタバコをそこらじゅうにポイポイ捨てる人
3.公衆トイレのなかで喫煙する人
4.看板や陳列物を、道路使用許可もなく歩道の中央部あたりまではみ出させている店
5.歩道上を、対向する歩行者の通る隙間がないくらいに複数人で横に広がって歩く人々
6.歩道上で警音を鳴らして歩行者を除けさせながら(脅かしながら)爆走する自転車
7.携帯電話の画面を見ながら、キー操作しながら走行しているクルマ・自転車
8.電車内で、優先席付近か否かにかかわらず携帯電話の電源を入れて、カチカチカチカチ……と延々とうるさく使用する人  
9.道路の横断歩道を青信号で横断中の歩行者めがけて、ブレーキを踏んでピタッと一時停止せずに右左折のためにゆるゆると進入し続けてくるクルマ
10.クルマを路肩に停車させているときに、比較的交通量のある側のサイドミラーを畳んでいないクルマ 

●法には触れないが、周り(他人)の空気を乱している明らかに迷惑な人

11.電車やバスの車内で、先に乗っている他の乗客を促してまでして複数人で隣同士の座席を取ろうとする人々
12.電車やバスの車内で、手持ち無沙汰という感じで理由もなく折りたたみ式携帯電話をカチカチとうるさく延々と開閉する人
13.電車内や図書館などの静寂であるべき公共の場で、ビニール製の買い物袋や紙袋をガサガサと延々といじっている人
14.電車が駅に停車したさい、降りる乗客がひと通り降りるよりも先に乗ってくる乗客
15.電車内などの公共の空間で化粧道具を広げて化粧する女性
16.スーパーマーケットやコンビニエンスストア(以下、コンビニ)で買うのをやめた商品を元の位置に戻さずに立ち去る人(特に生肉や魚介類や豆腐のような生もの)
17.各種行列に割り込んで入ってくる人
18.コンビニや書店で、書籍・雑誌を定位置に戻さずに方々に乱雑に放っていく人
19.店のレジで、携帯電話で通話しながら会計を済ませようとする客
20.コンビニなどの店前で、複数人で理由もなく床に座ってたむろする子ども

●他人は気にならないかもしれないが、僕個人的にはとても不愉快な行為をやっている人

21.鉄道駅や商店街や祭事などの雑踏や行列のなかで、背後からグイグイとわざと身体を押しつけてくる人
22.都市部の大きな鉄道駅や街なかで、直進歩行している歩行者の斜め前方や後方から割って入ってきてわざとぶつかっていく、明らかな進路妨害の歩行者
23.書店で、平積みの書籍・雑誌の上に荷物を置く人(特に床面が汚れている鞄)
24.飲食店やDPE店などで、客が大事に持っていた注文伝票や引換券を客の目の前でクシャクシャと丸めて下に捨てる店員
25.エスカレーターを駆け上がったり駆け下がったりする人
26.飲食店のカウンター席で、食べるさいに隣の客の腕に肘をガシガシとぶつけて食べる脇の甘い客
27.(回転率が命の)カウンター席のみの飲食店で昼間の混雑時に、片手で延々と携帯電話をいじったり新聞・雑誌を読んだりしながらゆっくりものを食べている客
28.歌番組『ミュージックステーション』で、(芸能界においてはかなりの経験のある)司会のタモリとの歌う前後のトークで、芸能界の先輩相手に足を組みながら話す若手歌手
29.手紙やメールで送信者の引用をやたらと多用して、自分の言葉をあまり使っていない人
30.寺社仏閣・御嶽などの霊験あらたかな場所や室内、そして目上の人の前で被っている帽子を取らない(脱帽しない)人


以上のことを(無意識のうちに)平気でやっているかどうか、自分以外の周りの人や物事にどのくらい気を配れるかどうかを、僕が他人と接するさいにその人が精神的に大人なのか子どもなのか、「社会人」と呼べるか否かを見極める基準にしている。まあこれはほんの一例で、現代社会を生きていくうえでもっと気にしたほうがいいんじゃないの? という事象について、今後も積極的に触れていく予定。
ちなみに、僕はこの30項目の行為や態度すべてに虫唾が走るとまではいかないが、他人の良識がいちいち気になってしまう。初対面の方と接するさいも、例えば食事においての食べる格好(特に脇と肘の位置)や、会社や各種施設でのエレベーターの乗り方(乗る人の順序)や、クルマの運転の仕方(ハンドルの持ち方やアクセル・ブレーキの踏み込み方)などを見て、「ふーん。こういう人なんだ」と他人の行動をついつい見てしまう。他人からの視線を意識したパッと見や喋りの巧さもある程度は大事なのだろうが、僕はそういううわべの良さよりはその人の内面を如実に表す仕草のほうが気になる。
男子の僕がこのくらい気になるのだから、一般的には繊細と言われる女子はもっと気に病んでいることがあるのだろうな、とよく思う。でもこれって神経質すぎるのだろうか? 他の方はこのうちどのくらいの項目が気になっている(該当する)のだろうか? 

僕個人的には、僕のようにこの30項目すべてとまではいかなくても、最低でもこのうち10項目以上のことについては直感的に違和感を覚えるというか腹を立てるようでないと、多くの人と接する社会で生きるうえで「社会人」とは呼べない、もしくは自分でそう名乗るべきではない、また今後生活するうえで他人とのかかわり方や所作などの何らかのことを矯正というか改善する必要がある人ではないか、と思っている。
正社員や公務員でも“フリーター”や“ニート”でも、家庭持ちでも独身でも、有名でも無名でも、現代社会での立場や育ってきた生活環境がどうであれ、教育の現場では「(ゆとり教育で)一人一人の個性を尊重しましょう」と声高に叫ばれる現在でも、細木数子や黒板五郎(テレビドラマ『北の国から』シリーズ)や坂本金八(テレビドラマ『3年B組金八先生』シリーズ)ではないが、人としての道徳観念ほぼ同じであるべきだ、性善説で世の中は回っていくべきだ、と僕は思っている。

上記の30項目のようなことに感情的になってしまうのは大人気ない、なんでそんなに上からの目線でものを言っているの? 外国ではそんなことをいちいち気にしている人なんかいないよ、と思う人もいるかもしれない。だがそんな言い分には、他人に余計に迷惑をかけていることに気づく能力が備わっていないほうが幼稚だ、(客観的に見て)間違った行為を肯定しようとするほうが偉そうでわがままなことだ、「日本の常識は世界の非常識」で外国であれば仕方がないことであっても、ここは日本でこの国らしい文化や所作もあるのだ、そんなことを言い出すんだったら外国に移住すればよいのでは? と反論したい。
僕としてはこのような感覚を大事しながら、本ブログを進めていくことにする。これまでも、うぬぼれた状態で上から目線で物事を指摘したとは一度も思っていないのだが、扱う問題が問題だけにやや感情的になるとそう思われてしまうのも仕方がない、という覚悟で今後は基本的にはこの日本国での事象を中心に自己主張することにする。

で、上の写真の説明だが、これは上記に挙げた30項目のうち、2に関連するもの。
2005年11月の東京都江東区のりんかい線・国際展示場駅そばのベンチを写したもので、ポイ捨てではないがベンチの隙間にタバコの吸い殻がいくつかねじ込んであった。
おそらく、この200mほど奥にある東京ビッグサイトに展示会の出展か商談か何かの用件で訪れたサラリーマン風情の男が残していったものと推測するが(もし女であれば大概は口をつけたところに口紅の跡が残っているから)、もしそうだったら、こんなことをする輩はどう考えても「社会人」とは言えないよね。しかも、この写真では写っていないが、このベンチの左前方10mほどのところにちゃんとした吸い殻入れ(とゴミ箱)があるのよね。なんでそれが間近にあるのにこういうタバコの捨て方をするのかね。理解不能である。あとからここに来てこのベンチに座る人がその様子を見て不快に思うことを想像できないのかね。
この写真の撮影後、写真の題材として取り上げておいて放ったままにしておくのもヘンなので、僕がこの吸い殻たちを携帯していたボールペンを使ってほじくり出してその吸い殻入れに片付けたのだが、こういうのを見ると無性に腹が立つ。これは東京のような都会に限らず、全国的によく見かける光景で、旅先でも方々に捨てられたタバコを見て落胆することはよくある。
とにかく、こういった愚行を減らすためにも、早急のタバコ税増税を切望する。

名前についてのあれこれと、ブログは実名で、の真意

2006-01-07 17:31:48 | 本ブログの能書きと自己紹介

●これまでに呼ばれたあだ名とその理由

僕はこれまでにいろいろなあだ名を他人からいただいている。他人が僕を見て、何も感じない(無反応)よりは何かを感じて、なおかつ親しみも抱いてもらえるほうがそりゃあ嬉しいことは嬉しい。自己紹介の補足として、僕がこれまでに呼ばれたあだ名を以下に挙げてみた。


・アブドーラ・ザ・ブッチャー(プロレスラー)
・グレート義太夫(たけし軍団)
・朝潮(元大関。現高砂親方)
・小錦(元大関。現KONISHIKI)
・武双山(元大関。現藤島親方)
・猪八戒(中国の物語『西遊記』)
・プーさん(ディズニーの物語『くまのプーさん』)
・R2-D2(映画『スターウォーズ』)
・マシュマロマン(映画『ゴーストバスターズ』)
・ガチャピン(テレビ、旧『ひらけ! ポンキッキ』→現『ポンキッキーズ』)
・ゴン太くん(テレビ『できるかな』)
・ガンタンク(アニメ『機動戦士ガンダム』)
・魔人ブウ(マンガ『DRAGON BALL』)
・安西先生(マンガ『SLAM DUNK』)
・ネコバス(映画『となりのトトロ』)
・ポルコ・ロッソ(映画『紅の豚』)
・ベイブ(映画『ベイブ』)
・ビバンダム(フランスのタイヤメーカー『ミシュラン』のマスコットキャラクター)
・ヘルメット(髪質が硬くて、髪型がふかわりょうのような球形になるため)
・わとそん(本来はアメリカ・イギリスの人名に多い「ワトソン」。小説『シャーロックホームズ』シリーズより。僕の名前の「亘(わたる)」に掛けたものと思われる」)
 などなど

以上のものを見てすぐに気づいた方もいるだろうが、僕は幼い頃から肥満体型で、そのため太めの人物やキャラクターで呼ばれることが多い。現在も体脂肪率は20パーセントを超えるし、ズボン(この表現はちょっと古いか?)のサイズは36インチもしくは91センチ以上でないとやや苦しい。体重は一応0.1トン以下ではあるが、食べれば食べたぶんだけ太る体質なので、痩せの大食いの人を見ると羨ましい。
他にも「デブ」「ブタ」という簡単な言葉は数千回は言われていて、特に小学生頃は太っていることが嫌で嫌で仕方なかったのだが、これまでのあだ名を改めて振り返ると、あまり会話しなくても外見だけで親しみを持ってもらえる太めの体型は、思春期のみならず人生全体の枠で考えると得なことなのかな? と、テレビ『元祖! でぶや』などで僕よりもかなり太めの方々が明るくのびのびと生きている様子を見ると、太っているのも悪くないかも、と今は思う。
でも、徒歩による旅や登山では体重が過剰にあることは思いっきりマイナスの要因なので、当然減量したい。以前、今もたまに一緒に登山やスキーに行くある知人に、

「仮に体重が80kgあるとすると、本来は体重60kgの人が登る前にすでに20kgの荷物を背負っているようなものだよ」

という痛い一言をいただいたことがあるが、その意見には悔しいが僕も納得した。あだ名は今後も増えてもいいけど、体重は積極的に減らさないとな、といつも気にしている。

ちなみに、現在のネット上の掲示板やブログなどでは、いちばん最後に挙げた「わとそん」をハンドルネームにしてお邪魔させてもらっている。ワトソンは主役であるホームズの助手という感じの役回りなのだが、僕自身も何事においても主役を張って目立つのは苦手で脇役が適任だと思っているため、とても気に入っているのだ。

●名字の言い間違いがよくあるんですよ

この項は藤本性を持つ方以外の方にとってはどうでもよい話かもしれないが、僕のあだ名の話ではなく実名の話。

僕の「藤本(ふじもと)」という名字はなぜか言い間違いをされることが多く、7、8人に1人の割合で「藤井」「藤木」「藤田」「藤原」などと間違えて呼ばれてしまう。
僕は旅やアルバイトなどで多くの人と短期間のあいだに出会うことが多く、これまでに会った人の数とその年齢層を単純に考えると、ふつうに大学を卒業して企業に就社した人よりはその人数は圧倒的に多く、かつ幅広い年齢層の人と会っている、という自負はある。
ただ、単純労働のアルバイトの場合、名前があることや一人一人の個性などの個人的な事情は重要なことではなく、単に業務がきちんと遂行される頭数が揃っていることと、その作業を滞りなくこなせる身体能力と適応力があるか否かが重要なので、そんな場でのいち労働者の名前の存在なんて紙のように軽いものになる。だから仮に名前を呼ばれた場合に言い間違えられたとしても、その時は"使い捨て労働者”の状態である自分にとってはそれは仕方ないことだ、ということもわかっている。
でも当初は言い間違いが気になり、「藤本です!」と少しムキになっていちいち訂正を求めたりもしたが、その回数が意外と多く、訂正する手間が徐々に面倒に思うようになった。

Mr.Childrenの歌ではないが、そのたびに心を痛めていても仕方ないよな、と最近は割り切るようにして、藤木! 藤原! などと呼ばれても、藤本だ! と訂正せずにそのまま返事している。少し大人になったということか。でもホントは今も間違えられると少しイラッとして、「またかよ」と落胆しつつ気のない返事になることもある。
おそらく、藤本性の言い間違いの主な原因としては、藤井(ふじい)・藤木(ふじき)・藤田(ふじた)は、本来の藤本(ふじもと)よりも一文字だけ発音が減ってそのほうが呼びやすいためだろう、と僕は推測している。それに、名字の頭に「藤」がつく人はすべて9世紀頃に栄えた藤原氏の末裔ではないか、という説を聞いたことがあるが、その力が隔世遺伝みたいな感じで現代にも影響して、頭の藤(ふじ)の字の印象が強いことによってその後に続く字の印象が薄まってしまうからなのだろうか。

僕の名字は言い間違いが多いため、佐藤・鈴木・田中・山田・山本などのよくある性の人をちょっと羨ましく思う。多いぶんわかりやすいからね。それに、全国的にはとても珍しい性の人も、珍しいがゆえに一発で覚えられやすいと思う(最近の例で言うと、姉歯・世耕・堂珍など)。藤本は、そこそこの人数がいてそのどちらでもないから中途半端だな。
僕の藤本性の他にも、榎本・坂本・松本などの名字の後のほうに「本(もと)」がつく人は、僕と同様の言い間違われ方(榎木・坂木・松木)をされて、そのたびに落胆している人は結構多いと思う。またその事例とは質が違うが、「萩原(はぎわら)」と「荻原(おぎわら)」のように漢字の書きの一部が違うだけで読みを間違われる人もいるだろうし、「澤田」と「沢田」のように読みは同じでも正字と略字の書きを間違われる例もある。

人権侵害とまではいかないが、(多くの場合は事前に名前が知らされているのにもかかわらず)他人の名前を間違えるのは大変失礼なことである。それに、売名行為とまではいかないまでも、他人に自分の存在をきちんと認識してもらうために自分の名前を主張する努力も必要なのかな、と最近よく思うため、本ブログは実名でやる気になった。

●ブログを実名でやることについて

ウェブサイトやブログでは主に安全面を考えて匿名でもやっていけるし、そうしている人が大半を占めている昨今なのだが、あらゆるサイトやその掲示板を見ると、匿名で書き込むことによって言い逃れというか責任逃れが簡単にできてしまう風潮がある。
意見でも批判でもなんでもそうだが、名無しさん状態で自分の発した言葉や表現にきっちり責任が持てない、つまり安全な退路が残っている状態で公衆トイレの落書きのようにああだこうだと言いたい放題言っていて、しかもそういう守られた立場から他者の揚げ足ばかり取っているのは卑怯だな、不特定多数の人から見られているという意識というか緊張感は持っているのかな? そういう人たちは自分自身のことを現代社会に生きる「社会人」と言いきれるのだろうか? と前々から思っていた。
だから僕はウェブ上で何かをやることになったとしたら退路を断って実名でやるべきだよな、と考えていて、今回、僕がブログを開設するにあたってはそうすることにした。

まあ企業や官公庁などの内部告発のように、これは匿名にしないと辛いよね、人間関係や個人情報など守るべきものもあるからね、という場合もあるが、そういう枠組みから外れたごく個人的なことを書く場合は、匿名のままだと説得力がないように思う。
日本ではアメリカでブログが発生した大元の目的である個人レベルの情報媒体という感じではなく、公開型の日記として利用する人が多いが、内容は何であれ匿名で書いたものは安全ではあっても責任の所在が曖昧になって内容が薄っぺらい感じがするし、これはネタ(作り話)でしょ? と疑われても仕方がない記述もよく見かける。
自分が本気で書こう、伝えようとするものが他人からそう思われたくない! ということもあり、実名でやることにした。もちろん公にするか否かの兼ね合いは常に考えている。
普段は定住地を離れてよその土地をほっつき歩く旅ばかりしているため、ひとつの居場所(例えば終身雇用制の企業や会員制の社交場)やひとつの道筋(例えば親が用意したある程度決められた進路や通勤経路)に固執することはない僕の場合、社会的な地位や名誉や大金を得ることにはたいして興味はなく、家族や役職を持っている人のように失うと大変困るものは今のところは特にないから実名でもできる、ということもあるけどね。

ちなみに、昨年末に話題になった犯罪被害者報道の実名公表の問題は、埼玉県・桶川のストーカー殺人事件の警察側の怠慢の事例もあるし(この事件で殺害された女子大生は僕の地元にある大学に通っていたため、かなり気になった事件だ)、僕もやはり報道機関で判断すべきことだと思っている。僕も本ブログでは自分の価値判断に自信を持って書いていきたい。
僕は「これは売名行為なんだろ?」と言われるほどの有名人でもないので、実名でも特に問題はなく、“炎上”することもないでしょう。とにかく、他人にも自分にもウソはつきたくないしね。
以上のことから、このブログでも人名の間違いには気をつけよう、と今から肝に銘じているし、(まだ実務経験は少ないけど)僕が携わる出版校正の業務においても、特に人名の扱いには細心の注意を払っている。

それから、僕は旅先で僕と同じ名字の地名や店を探すのがちょっとした趣味になっている。上の写真は2005年8月に長崎県の長崎市街を歩いているときに見つけた整骨院なのだが、特に各種商売を営んでいるところを発見したさいは、やはり嬉しい。同じ名字ということで親しみを込めて、「頑張ってね!」とつい心のなかで応援してしまう。
この他にも、北海道剣淵町や熊本県坂本村(現八代市)に「藤本」という地名があって、その両方にも実際に足を運んでいる(全国各地、この他にも同様の地名があるかどうかを鋭意探索中)。地名に限らず山名や河川名でもなんでもよいのだが、旅先でのこういう発見って、嬉しいものですよね?

旅でよく受ける質問に答える感じで自己紹介

2006-01-07 16:05:58 | 本ブログの能書きと自己紹介
2005年6月23日、沖縄県糸満市・平和祈念公園の夕方の「平和の礎」。この日は沖縄県の60回目の「慰霊の日」。広島・長崎よりも先に行なわれたここでの沖縄戦戦没者慰霊式をどうしても見ておきたくて、行った。とにかく興味・関心のあることは日常の複雑なしがらみを突破してでも旅して追求したいタチなのだ。


これまでに旅の道中で出会った人から訊かれた質問に回答する感じで、一問一答形式で以下に記してみた。これを自己紹介としたい。このうち約半分は実際によく聞かれる。

1.名前は?(※1)
   藤本 亘(ふじもと・わたる)

2.性別は? 
   男。

3.年齢は?(生年月日について)
   30歳(2006年1月5日現在)。1976年(昭和51年)1月5日生まれ。

4.血液型は?
   A型。自分でも典型的なA型気質であると思っている。

5.どこから来たの?(出身地について)
   生まれも育ちも埼玉県新座市。「ダサイタマ」「埼玉都民」「海なし県」とわれようが、たとえ今後埼玉県外に引っ越そうが、最期まで埼玉県人を名乗る。

6.あんた学生?(※2)
   いいえ。1999年に学生生活は卒業済み。

7.学生のときの専攻は?(※3)
   地理、特に理系科目が苦手なので都市・交通・人口などの人文系の地理。大学は立正大学夜間主文学部地理学科(現在の地理学科は地球環境科学部付)を卒業。幼少時から地理と地図が好きで、国公立大学や東京六大学などの一般的に有名な大学には全然興味がなかった。

8.職業は?(※4)
   自分では最近は出版業界、特に校正の業務の割合を増やしていきたいのだが、それ以外の一般的なアルバイトが主な収入源なので、基本的には「無職」と名乗っている。もう少し経験を積めば、「校正者」か「ライター」と名乗れるかな。

9.家族構成は?
   父母ともに健在。いわゆる「団塊の世代」よりはやや上の世代。兄弟は兄が二人。数年前のヒット曲『だんご三兄弟』のように、兄さん想いの三男というわけではなく、三者、というか両親も含めて5人それぞれが自由奔放に生きている。

10.結婚しているの?(※5)
   独身。一応、異性に興味はあるが、旅ばかりで出会いはあまりない。今後も何かあったとしても旅を最優先するだろう。ただ、他人の色恋沙汰を聞くのは好き。

11.普段、クルマには乗るの?
   乗らない。運転免許は自動車・二輪車ともに所有していない。というか、埼玉県在住の現状では取得する必要性がまったくない。それに様々な理由により、徒歩・自転車・バックカントリースキーなどの人力による移動を好んでいる。

12.どんな性格?
   神経質、無口、あまのじゃく。重箱の隅をつつくような性質で、原田泰造(ネプチューン)ではないが曲がったことが大嫌い。他人と会うさいは他人と自分の言葉を慎重に扱うからこそ物静かになる。大人数よりは単独で行動するほうが好き。

13.趣味は何?
   スポーツ観戦(特にサッカーと野球)、野外遊び関連の情報収集、散歩、献血、書店巡り、名水巡り、カレー店巡り。
   特筆できるところでは、1998年の長野冬季五輪で、ジャンプ団体金メダル獲得シーンを吹雪のなかで生観戦したことが自慢。

14.スポーツや課外活動は何かやっていた?(※6)
   特になし。スポーツには括れないが、登山を好み、自転車(MTB)によく乗る。兄の影響で、小学生から高校生頃までボーイスカウト活動に参加していた。

15.特技は?
   文字どおりどこでも寝られること。野外でもテントを張らなくても、比較的平らな場所で自分の身体くらいの面積があれば寝袋ひとつで寝られる。
   
16.タバコと酒は?
   タバコは、健康を害してゴミが余計に増えて空気が汚れるという理由により、吸わない。酒類は、飲む量は人並みで、基本的にビールと焼酎・泡盛が好き。

17.ギャンブルは?
   パチンコやスロットは年に1、2回だけやる。あとは競馬(GⅠ)か競輪で年に2、3回遊ぶくらい。一応、スポーツとしてのオートレースや競艇にも興味あり。

18.好きなものは?    
   カレー、豚肉を使った料理、山や森の天然水、図書館、地図。

19.嫌いなものは?
   タバコ、スズメバチ、雷、大手百貨店1階によくある女性化粧品売場の匂い、「リスペクト」などの横文字を嬉々として多用する生意気な若者や評論家。

20 座右の銘は?
   「中途半端」。この言葉を心に強く留めているのもヘンな感じだが、神経質で完璧主義で、一度物事に取り組むと没頭してしまう体質のため、もう少し肩の力を抜いたほうがいいのかな? 時には諦めることも必要かな? と意識している。
   ただ、これだけだとやはりヘンなので、世間一般でも通じやすいものとして、「不言実行」というのもある。基本的に、男は高倉健のように口数が少ないほうがカッコイイ、人間関係を築くうえでは喋りの巧さもそこそこ大事なのだろうが、不器用であっても自らの行動や態度で示すほうがもっと大事、と思っている。

21.有名人では誰に似ていると言われるの?(※7)
   武双山(元大関。現藤島親方)。

22.好きな芸能人は?
   代表的なところでは、男性ではタモリ(森田一義)、関根勤、岡村隆史(ナインティナイン)。女性では渡辺満里奈、はしのえみ、乙葉。

23.好きな映画は?
   『ガクの冒険』『紅の豚』『踊る大捜査線THE MOVIE』。基本的に邦画が好き、というか日本人スタッフに頑張ってほしいと願っている。 

24.よく観るテレビ番組は?
   『クローズアップ現代』『ミュージックステーション』『出没! アド街ック天国』『噂の! 東京マガジン』『情熱大陸』。旅で家を離れているさいはテレビが観られなくても苦にはならないが、普段の生活ではその反動でかなり観る。

25.よく読む雑誌は?
   『BE-PAL』『山と溪谷』『CYCLE SPORTS』『AERA』『週刊SPA!』。一応、出版業界に携わっているため、基本的に雑誌好き。

26.過去に旅したなかで特に良かった場所は?
   毎年変動するのだが、2001年以降に行った場所で良かったというか特に印象的なのは、六郷湧水群(秋田県、2001年)、与那国島・西崎(沖縄県、2002年)、小坂志川本流(東京都、2003年)、ちほく高原鉄道沿線(北海道、2004年)、知覧町(鹿児島県、2005年)。

27.旅をするうえで特に影響を受けた人物は?
   これまでに僕の旅の手法が形成される過程でかなり参考になった人物は、
   野田知佑、椎名誠、加藤則芳、シェルパ斉藤(斉藤政喜)、九里徳泰の5人。

28.今現在、旅するうえで影響を受けている人物は?
   有名無名を問わず両手両足の指で数えきれないくらいいるのだが、代表的なところでは、
   山野井泰史、田中幹也、安東浩正、田嶋直樹、石川直樹の5人。

29.最近、特に動向が気になる人物は?
   これもまたたくさん数えられるのだが、やはり旅関連の人物が多い。代表的なところでは、
   疋田智、大久保由美子、芳地直美、本多有香、多胡光純の5人。
   
27、28、29で存命している15人の名前を挙げたが(すでに亡くなっているけど尊敬している方も多くいるのだが、ここでは挙げないでおく)、このすべての人物を知っている方って全国にどのくらいいるのだろう? ちなみに、僕はこの15人全員、過去に1度以上お会いしている。

30.将来は何になりたいの?(※8)
   スナフキン(フィンランドの物語『ムーミン』)のような孤高の旅人。


注釈・補足

※1 これは本項のために追加した。実際には旅の最中に自分の名前を名乗る機会はめったになく、あったとしても宿の予約をするとき、旅先で出会った人の家にお邪魔するとき、警察の職務質問(僕は3回経験している)に渋々答えるときくらい。

※2 これは特にヒッチハイクをしたさいによく聞かれる。野田知佑やシェルパ斉藤の旅の本でも触れられているが、旅先で出会う人にとって、平日の日中から人里をほっつき歩く他所者(旅人)は比較的時間に余裕のある暇な人=学生として見られるらしい。
これはおそらく、地域を問わず一般的にはそれなりの年齢の人はふつうは労働に従事しているものだという固定観念があり、その枠から外れた働いていない人はすべて学生だろうな、という決めつけ感が広まっているため、ひと括りにされるのだろう。学生の全員が全員暇なわけではないのだが、そういう勝手な印象が全国的に浸透しているようだ。

※3 夜間主コースのこと。ひと昔前で言うところのⅡ部(夜間部。2部、第二部と言うところもある)と違うのは、これは基本的にはⅡ部と同様に夜間部に講義を受講するのだが、それに加えてⅠ部(昼間部。こちらの呼称のほうが一般的か)の講義も受講できるようになったということ。立正大学では1994年から実施されていて、僕はその夜間主コースの1期生ということになる。僕のところだけでなく、1994年か95年あたりから元々Ⅱ部があった大学の大半はⅡ部から夜間主に切り替わっているようだ。またその逆に、昼間部のほうもⅠ部から昼間主コースに切り替わり、夜間主の一部の講義も受講できるようになった。
他大学の状況がわからないので僕の通っていた立正大学の具体例で言うと、ふつうは昼間部は講義が割り振られるコマ数は平日に1~5限の5コマずつあり、Ⅱ部は6~8限の3コマずつある(大学によっては2コマずつだったりするのか?)。で、夜間主は通常の6~8限に加え、昼間部の平日の5限と土曜日は1限以降すべての講義が受講でき、時間があるようであればⅡ部のみのコマ数よりも受講できる選択肢が増え、しかもそのぶん単位が取得しやすくなったということ。ただ、僕が通っていた当時はまだ夜間主に仕組みが切り替わったばかりで学生にも教授・講師陣にもやや混乱が見られた。まあ現在は夜間主に移行して12年も経過しているのだから大丈夫だろうけど。
当時は昼間部のほうはそのくらいのコマ数しか受講できなかったのだが、現在は3、4限も受講できるらしい。現状をはっきり把握していないので、今度確認してみる。

※4 今の僕の定職が固定されていない状態は、いわゆる「フリーター」に当てはまるのだろう。だが僕は若い女子の肩書きでよく使われる「家事手伝い」という、実は収入を得ていない状態なのに、それよりはまし、と世間体の良さを繕った見せかけだけのこの表現が嫌いで、フリーターもこれと同義の表現だと思っている。よって、そんな軟派な言葉よりは、無職である、と言うほうが潔いと思い、僕はあえてそう名乗っている。

※5 周りでは旅で出会って結ばれた、という人の話もよく聞くが、僕自身はそんな劇的な出会いはなく、それを求めて旅しているわけでもないので、特に気にしていない。
僕は人の少ない時期・時間帯・場所を旅することを好み、泊まるのも宿ではなくテントや軒下で寝袋で寝ることが多い。そのため、人との出会いをやたらと強調している旅行記ほどの出会いはなく、旅は意外と淡々とほぼ無口のままで進むものだと思っている。特に人力移動のひとり旅では、その傾向はより顕著である、とも思う。

※6 僕は身長は約171cm(四捨五入すると。厳密には170.6cm)なのに体重はいつも80kg超の肥満体型のため、初対面の方にはひととおりの挨拶の次に、
「相撲か柔道をやっていたでしょう?」
とよく言われる。僕は格闘技やケンカは好まない、基本的に平和主義の人なので実際には高校の体育の授業以外ではやっていないのだが、「やっていない」と返答すると、
「なんで? その体型なのにもったいない。今からでも遅くないから始めたほうがいいよ」
と言われる。しかも、スポーツではないが登山が好きだ、と返答すると、
「えーっ。そうは見えないなあ。(そんなに太っているのに)登れるの?」
と驚かれる。他人が何をやろうが大きなお世話だっちゅーの、とムッとすることもあるが、痩せていない自分が悪いんだからそういう反応でも仕方ないか、と最近は半ば諦めている。

※7 近年の世間一般での著名な人物の場合では、ということ。実在の人物よりはアニメなどのキャラクターで言われることのほうが多い。

※8 これはギャグではなく、今でも半ば本気でそう思っている。旅しながら暮らしていけないものか? ということを特に中学生頃は真剣に考えていた。まあ最近は、この現実世界ではある程度働かないと食べていけないし、他人との付き合いもそこそこは必要で、当然ながらそんな生き方はほぼ不可能であることは悟っている。普段の生活をこなしつつ、特に旅を重視した生き方にはなっているけど。スナフキンのような体(てい)を人生の理想形として言う(旅好きな)人って実は結構いるはず。何回か聞いたことはある。

タイトルのとおり、基本的に極度? の旅好き

2006-01-05 13:30:37 | 本ブログの能書きと自己紹介

この項では、本ブログのタイトルをつけた理由と旅に関連することについて触れておきたい。これらが僕の持っている価値観のような「旅観」の説明にもなると思う。

●旅に思考の7割と収入の3割を充てている実情

これまでの僕の生き方を振り返ると(まだ振り返るほどのたいした人生ではないが)、平均的にはこの割合で、主に旅や野遊びについて考えながら生きてきた。

思考については、税金・保険や日々の健康状態や人間関係などの普段の生活においての雑多な物事よりも、「ここに行きたいなあ」「あそこには何があるのだろうか?」などとあらゆる土地を自分が旅する場面を想像している時間のほうが圧倒的に長い(妄想に近いかも)。起きている時間の約7割はそういうことをほぼ無意識のうちに考えている。書店や図書館に行っても、まずは旅関連の書籍・雑誌がある場所についつい足が向いてしまう。
ちなみに、実際に旅している最中はその割合は当然9割以上になる。ただ、10割、つまり100パーセント頭が旅に向いていることは、移動することに力が入りまくっていわゆるナチュラル・ハイ状態になるとき以外はなく、頭の片隅では「○月×日の予定は外したらマズイよな」とか「旅が終わって帰ったらちゃんと働かないと食べていけないよなあ」などと普段の生活に戻ったときのことを冷静に考えたり憂慮したりする心の余裕は一応ある。
収入については、いわゆる「正社員」や「職員」として働くとなると、自分のための自由な時間が取りにくくなるため、それよりは時間の融通が利くアルバイトで生計を立てている。そうなると世間一般の想像通り、労働の単価(や福利厚生)は正社員・職員よりは低くなり、しかも旅している期間は当然無収入状態にもなるため、必然的に収入は少なくなるが、そのぶん旅に時間もお金もかけられるようになる。
総支出における食費の占める割合を示す「エンゲル係数」というものがあるが、その食費の部分を旅の費用に置き換えた場合の「旅係数」は、旅に出る頻度が高くなるにつれて係数も当然高くなる。賃貸住宅に住む場合の家賃は月収の三分の一が目安だというのが通説だが、僕の場合、平均的にそのぶんの金額を旅費、旅関連の出版物や道具の購入・維持費用、それに関する催しへの参加費用などに充てている。また、旅によって働かなくなる日数が長くなって収入が少なくなると、その割合が4割か5割近くに増える年もある。ふつうに一般企業や官公庁で毎日働いていたらありえない数字かもしれない。

●「日常」と「非日常」について

今後、「日常」と「非日常」という言葉を多用することになるのであらかじめ解説すると、僕のなかでは「日常」は自分が定住する家を中心とした普段の生活とその範囲、「非日常」はそれを離れての旅(野外活動)と自分にとっての他所の土地、と定義している。
最近の旅関連の雑誌『Coyote No.9』で石川直樹(※1)が「普段の日常と旅における非日常の区別はない」と書いているように、「旅も日常だよ」と非日常的な旅の時間も日常の時間の一部である、という感覚の旅人もいるが(特に世界各地を身軽に旅する、いわゆる「バックパッカー」に多いように思う)、僕はそうは思わない。
衣食住が過不足なくあって、自分の思い通りの生活ができて、(ヘンな言い方になるが極端に言うと)素っ裸になった状態であっても平静でいられるような自分の居場所があり、また会話したり頼れたりする友人知人が多くいる普段の生活からわざわざ離れて、その場から離れた開放感と自分にとって不慣れな環境に身を置くことによる不安感・緊張感を抱きながら進む。僕がそんな状態で野外の自然の有様や様々な土地に根付いている人々の暮らしぶりを見ると、僕が育った「日常」の地元の環境とは異質の場所であると感じ、僕が育っていないそういう場所を巡る旅は「非日常」の行為だと思う。よって、食いしん坊が「甘いものは別腹」とよく言うように、僕は日常と非日常は別物と考えている。

もちろん、僕にとっての日常の場所と非日常の場所は物理的には陸と海でつながっているし、遠く離れた場所でも多くの生物や人々が日常を生きていることは頭ではわかっているが、僕にとって不慣れな場所はどうしても「他所の土地」という、日常の場所とは精神的に切り離された感覚になる。でもそれが悪いことだとは思っていない。良い意味で違和感があって、ときにはそれをもとに日常と非日常の様子を比較したり、各々の異なった立場から指摘して刺激を与え合うことによって何かを再発見することも大切なことだから。
他所者が見ず知らずの土地の状況や問題についてああだこうだと口を挟むべきではない、という考え方もあるが、自分にとって縁遠い地域であっても気になる事象については物申すべきだと思う。過去に旅で訪れたことがあって少しは土地勘のある場所であれば、なお言いやすい。

ちなみに参考までに僕の「日常」の実際の範囲をおおまかに考えると、地元・埼玉県を中心に半径50km圏内、つまり自宅に自転車で1日あれば余裕で帰れる範囲になる。
また、僕が行動するさいに「日常」と「非日常」を精神的に分ける基準に、持ち物がある。前者では使わないが後者で、特に徒歩による旅や登山で必ず携行するものがある。気温や気圧や高度が計測できる腕時計(カシオ計算機・プロトレック)、ヘッドライト(※2、ペツル・ティカ)、コンパクトカメラ、の3点で、「旅に出るぞ!」と意気込んで外出するときはこれらを携行する。ただ、カメラについては日常でも持ち歩くことはあるが、非日常の場合はフィルムやメモリーカード(僕はSDカード対応のデジタルカメラも使用する。安物)を、旅するさいはお金をかけてやや上質もしくは大容量のものを用意する。

●なぜ、旅も「仕事」である、と言うのか

僕としては、旅先でいつも(日常)とは違う非日常的な感覚で出合う自然や物事と出会う人々は、ずっと家に引きこもっていわゆる“ニート”のような状態になっていたり、そうでなくてもふつうに定住する家と働くための会社や学ぶための学校をほぼ毎日往復するだの単調な日常だけでは絶対に知り得ることのない大事なものだ、という思いがある。また、旅する以前は僕が異質に思っていた非日常的な物事を、各地を巡ってつぶさに見ることによって自分のなかにそれを取り込んで他所の土地を身近に感じていく過程とその結果も得ることも、僕がこの世を生きていくうえでかなり重要な行為だと思っている。
余所の土地の様子を見て聞いて感じて、自分の育った環境とは異なる生活や価値観を知りながらも受け入れていく。それによって視野が広まって知識が深まって、つまり物事を見極めるうえでの選択肢が増えていくことが、社会問題に取り組んだり会社で働いたりなど何でもよいが、旅のあとの生き方に役立つかもしれない。例えば、旅行業界に携わる場合に各地の地理や文化に詳しくなってテレビ・雑誌やインターネットで発信される情報よりも詳細で信頼できる口コミレベルの予備知識があれば、よりその業務がはかどるだろう。

「仕事」と言うと世間一般では、日常を生きていくうえで必要な金銭を得るための労働・業務という意味でよく使われているが、旅したあとの人生の歩み方へのつながりの可能性もあると思うため、旅も日常の労働などと同様に生きていくうえでやるべきこと、つまり「仕事」であると思っている。
一般的には旅は余暇時間にたしなむ「趣味」なのよ、と言う人が多いが、僕にとってはこれまでに僕の自我が形成されるうえで大きな影響を与え、今後の人生においてもそれを維持していくうえでとても重要な、趣味という枠には収められない大切な行為である。僕にとって旅とは、趣味的に「(たまには)やりたいこと」ではなく、自分の人生のなかでの大命題という感じの「仕事」として「(必ず)やるべきこと」なのだ。

まあ僕の場合、今後も旅ばかりで納税や地域活動などによる地元への貢献度はかなり低くなるだろう。でも、井の中の蛙大海を知らず状態でお気に入りの場所にずっと引きこもったままでいるよりは、方々を旅して自分の住む地元以外にも様々な土地があることを頭のみならず全身で知っておいているほうが、今後役立つか否か以前に、普段の生活以上に想像力が養われて心が豊かになって人生がより充実するはずだ。旅しておいて損はない。
僕はとにかくそんな思いを常に抱きながら、今後も自分の興味のおもむくままに、旅という行為に「他所の土地の日常を見に行く」という意味合いも含めながら、様々な土地を巡っていきたい。ちなみに、他人からよく聞かれる質問に「なぜ旅に出るのか?」というのがあるが、その答えは簡単で、「他所の土地(自分にとっての非日常の場所)の様子を見てみたいから」ということになる。人生を賭けている、とまではいかないが、ときには身体も張りながら旅に本気で取り組んでいる、という感覚を今後、本ブログで示していきたい。


注釈

※1 世界七大陸最高峰登頂や南太平洋の伝統航海術の探究などで知られ、5年前に朝日新聞の「天声人語」に紹介されたくらいに最近特に活きの良い表現者。ただ、僕との引き合いにわざわざ出すのだから嫌いなのかと誤解されそうなので補足すると、彼の著書や新聞・雑誌などの媒体への露出はほとんどチェックしているくらい好き。彼は「冒険家」や「写真家」ではなく、「物書き」や「旅人」と呼ぶほうがふさわしいと思う。
たまに「地平線会議」などの旅関連の催しで見かけるが、洗練された旅の表現と本人の風体の印象が合致しない、見た目はGパンを穿いた冷静な松岡修造という感じのふつうの兄ちゃんなんだけどなあ。

※2 登山や洞窟探検などの野外活動をする人にはお馴染みの道具だが、最近はLEDの普及によって小型軽量化が進み、現在はコンパクトフィルムカメラでも使われるリチウム電池1本か単4電池3本で100時間以上駆動して、重量は100g以下、価格は2000~4000円程度の商品が主流である。僕が重用しているぺツルのティカ(2000年発売の初期型、上の写真参照)も80gと軽く、白色LEDが3灯あって明るく、山(標高問わず)や外灯の少ない里を歩く場合は必ず携行している。
ちなみに僕は、登山に興味があって始めてみようかな? と考えている人が最初に買うべきものの第一にヘッドライトを勧めている。もちろん、登山靴や雨具やザック(バックパックとも言う)も撥水機能が充実していて軽量化された野遊び専用のものがあればあったほうが良いが、靴や衣類は一般的なメーカー名で言うとアディダス・ナイキ・アシックス・ミズノ・ユニクロなどの商品でもとりあえず使える。だが、両手が空けられるヘッドライトは代用できるものがない。懐中電灯だと片手がふさがって不整地の行動では何かと不便になる。野遊びには興味のない人でも大地震のような自然災害対策にも有効で、今の時代、ひとり1個は所有しておくべき道具である、と僕は思っている。

旅人がブログを開設した理由と趣意

2006-01-05 12:18:45 | 本ブログの能書きと自己紹介
2005年9月23日、北海道利尻島・利尻富士利尻自転車道を散歩した。こういう眺望の素晴らしい道を好き放題歩くことが楽しく、幸せ。ちなみにここを歩くのは6年ぶり2回目。


はじめまして。
タイトルのとおり、基本的に旅が好きな“自称”旅人のブログです。
僕がこれまでの旅で経験したなかからすくい上げた旅や各地にまつわるネタや持論の主張と、現在から今後にかけてのほぼリアルタイムの旅の報告を主にやっていくつもりで、内容も約7割は旅にまつわること、残りがそれ以外の普段の生活のことになると思います。

このブログは旅のことが主になりますが、実は普段の生活について触れておきたいことも多々あります。
僕は基本的に現代のあらゆる物事に疑問を抱くところから入ることが多く、人間の道徳観念についてよく考えます。10人いれば10通りの正義がある、という言葉もありますが、やはり善悪の区別はある程度成長したらできてほしいよな、と思います。

しかし最近、その判断が僕よりも的確にできていない人、自分のことばかりかわいがりすぎることによって、それが時には他人に悪影響が及ぶことに気づいていない、というかそういう感覚を元々持ち合わせていない、神経が麻痺したような感じの人が年齢や立場を問わず、ひと昔前よりもやたらと増えてきたように思います。
例えば、火の点いたタバコを持ちながらそこそこ歩行者の通行量のある街地を闊歩し、それを持つ手、つまりタバコの火が対向してくる人と接近するさいにその人への配慮もなくタバコのある手を堂々と振り続けながら歩き続け、吸い終わったら備え付けの灰皿や携帯灰皿に片付けるのではなく道端に火が点いたままのものをポイッと捨てる人をよく見かけます。以前、東京都内で喫煙者を丸一日観察したさい、100人中約30人がそれをやっていました(タバコをポイッとそこらへんに捨てるけれども、一応火は靴底で揉み消す人は65人)。
この人たちは自分の行為が正しいことだと思っているのかな? この人たちはなぜもっと厳しく罰せられないのかな? この人たちにとっての「正義」って何なのかな? と街で700度の裸の火を見るたびに、何事にも好奇心旺盛な小学生のように考えてしまいます。

このブログは僕の大好きな旅話ばかりで埋め尽くしたいところですが、多くの人が生きる現代のあらゆる社会問題にも触れていかないと、現代人が旅に出るきっかけとしてよく言われる「現実逃避」ばかりしていて、責任逃れをしているように思います。
しかも、実はそういう問題とは無関係そうな旅にも問題が直結していることがよくあります。よって、普段の生活が少しでも快適になるためにも、僕が今後より旅しやすくなるためにも、場合によってはいわゆる「毒舌」になるかもしれませんが各種問題にも積極的に触れていくつもりです。普段の生活がきちんと成り立っていなければ旅も楽しめないよな、と僕は常々思っているため、自分の身の回りのこともかなり気になります。
ただ、物申す姿勢としては、「世のため人のためになるから」というおこがましい感じではなく、あくまで「自分が現代を生きやすくなるため」という自己満足をもとに発信するつもりです。まあ僕の言い分や行ないが世間に良いように影響すれば幸いと思います。

再び旅のことに戻りますが、実は僕はここ数年、普段の生活では各種団体の後輩にあたる人たちや勤め先で一緒になった人たちに、また旅をしている最中に各地で出会った人々からも、旅や僕が特に好んでやっている登山・自転車旅のような野遊びの始め方やその面白味について質問されたり助言を求められたりする機会が年々増えてきました。
ただ、僕自身は基本的にそういうことをひとりで、自分の好奇心をもとに好き勝手に自己責任で楽しんでいて、他人様に講釈するような偉そうな身分ではない、と常に思っています。
でも、何かを尋ねられる機会が増えたために、自分のこれまでの経験則でそれらについて話すと、「面白いよ」とか「ふーん、そういう人もいるのね」という、珍しさとともに新しい知識を得ることがてきて良かった、という良い反応がよく返ってきます。まあそれは定職に就かずに各地をふらふらほっつき歩いている人間の珍しさに感心し、出会った方としては珍獣を発見したような心境なのかもしれませんが、自分がわがままさを他人よりも数段強く発揮しながら、日本国民の三大義務をおろそかにしながらやってきたことが(一応働くこともあるので、それらを完全に無視しているわけではありません)、他人に意外と好意的に受け入れられるのはそこそこ嬉しいものです。
だったら、今後は自分が持っている情報をより多くの方に、その対象をこれまで以上に広げて伝えることが何かの役に立つのかな? という思いが3、4年前から強まり、僕の旅を重視した生き方を幾多の旅好きの人の一例として示すことにしました。

当初はそれを比較的安価でできるウェブサイトでやろうと思って準備を進めてきました。ところがその作業は難航して理想の完成形の約3割しか完成せず、頓挫しかけました。
しかし最近はウェブサイトと日記の機能を組み合わせたような「ウェブログ」、略してブログが流行り、特に2005年は利用者が大増加したということは度々聞きました。最近何かと注目される”ホリエモン”こと堀江貴文氏(株式会社ライブドア代表取締役)も、ブログを「オレメディア」、つまり自分の持っている情報を手軽に発信できる媒体だ、とテレビ番組で評していましたが(たしか『王様のブランチ』だったような)、それでウェブサイトからブログに変更して、とりあえずこちらでやってみることにしました。
ウェブサイトよりは書き込みと更新がラクに行なえて便利だな、でもその掲示板のようにあらゆる読者のあらゆる反応も瞬時に返ってきやすいので、気をつけるべきことも多々あるな、と数多くのブログをこの半年ほど研究したうえで今日の開設に至りました。
現状では、日々の出来事を綴った日記としてブログを活用する人が多いのですが、僕は基本的には旅の種明かしやそれについての主義主張と日々の近況報告に使い、自分でボケとツッコミをやるような自分および身内ネタ的な安直な日記にするつもりはありませんし、作り話は一切書かないつもりです。

このブログは基本的に「だ、である」調で書くつもりなので、次回からはだ、である調にして、もう少し砕けた感じにします。人名の敬称も省略するつもりです。まあとにかく、正直に僕の手の内を明かしていきます。猫被りな言い回しはここまでにして、次回からは飛ばしていきます。あと、とりあえずこの後数回は長くくどくなるかもしれませんが、ブログを進めていくうえでの僕の意気込みをお伝えします。よろしく。