村上華岳 『裸婦図』 1920年
キリスト教では、先祖を祭る習わしは無いのだろうか。
「天国へ逝ったら、行っちゃったきり。」なのか
だれか教えてくれたらありがたい。
日本の「お盆」は仏式のように思われているが、どうも それより以前の神道における、先祖供養の習わしが 仏式檀家制度と習合して、現在のような行事になったらしい。ならばキリスト教とも習合して、新たな 耶蘇の盆ができても 良さそうなものだが。
しかし、日本でのキリスト教の信者は、人口の 1%くらいらしいから……。それと先祖を敬う習慣は あまり聞かない。彼らに 絶対的影響を与えるのは、「唯一神」だけなのか。
蓮のうてな で瞑目する仏様がたと、磔刑のお姿のキリスト様とでは、
その子達の世界観もずいぶんと、別のものとなるのでは
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里帰り
都会から 田舎への里帰りは、若い夫婦が 孫の顔を 見せに帰ったりするもの。ご先祖様も、あの世から里帰りで、お里は賑やか。
そして今日は、たいがいは送り盆で ご先祖様は、蓮のうてなに お戻りになられる。若いもの達は昨日の日曜で返ってしまった。
わがさとでも、今日は月曜でおつとめの者もいる。それで早めに帰宅して、送り盆である。
静かな夏 「靖国」薄れ 【毎日】
新聞各紙が伝えるには、菅政権の閣僚はだれ ひとり として、靖国神社に参拝するものは無いという。「A級戦犯」の世迷い言を信じるが故なのだろうか。それとも只の無神論者で、先祖や先達の苦労を偲ぶ心根のうすい、無信心ゆえなのだろうか。
一般的日本人、とくに わが里あたりでは、先祖の徳に護られて暮らしている。冒頭に掲げた華岳の 『裸婦図』は、ヌード図ではなく 『観音』の趣が強い作品である。紗のヒダは仏画然として、単純に様式化されている。お顔の輪郭や、肩、腕そして脚の輪郭線も、なだらかな円弧に収められている。艶っぽさもあるにはあるが、この絵から感じられる「救い」は、慈母の趣。実母は若く、村上少年を残して再婚してしまった。この不幸を昇華させたもの。それが華岳の精神の気高さ。幸いなことに叔母の徳に恵まれて、京都市立絵画専門学校 (いまの京都市立芸術大学) に進むことが出来た。これから彼は天賦の才を顕すことになる。われら平成の御代に生きる者にとって、ご先祖の徳あればこそ人としてありがたい人生を歩んでいる。足らぬを見つければきりがない。わが日本人は御先祖の徳をひとつ、ひとつと数えて 「ご供養」 とした。日本人の心の豊かさは、ご先祖あってのたまもの。自らの尊い命を捧げて戦った御魂を恥ずかしむるを、外つ国の奴バラと共になすとは、恥知らずである。
アジアの人々に耐え難い苦痛を我が国が与えたと云うが、本当か。朝鮮は帝國の一部であったときには、戦禍には遭っていない。半島がコミンテルンと資本主義の口車に乗って、利にはしり、李朝の徳を忘れたからこそ、民心は分裂し朝鮮戦争を引きおこした。支那は毛沢東の「夜盗政権」によって、徳の蓄積つまり財と富の蓄積が阻まれた。いまの胡錦涛政権にあっても、その人民を簒奪する、強奪性は変わらない。ありもしない「アジアに与えた日本国の罪科」を信じれば、奪われるだけである。、『朝鮮王室儀軌返還問題』は、民主主導のサヨク政権が日本国の徳を守る政権ではないことを象徴的に示した。小沢元幹事長が支那狂惨の「野戦軍司令官」であるのと同じく、菅直人もサヨク・コミンテルンのなりすまし政権に過ぎぬことが露見した。
自民とりわけ、改革派はアメポチで、民主政権はシナポチである。これからも ご先祖の徳を護るべく、この狗たちを叩かねばならぬ。
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アクセスの記録 2010.08.15 (日) 803 PV 317 IP 2201 位 / 1451728ブログ