自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

日本人とは何者なのか~この国の始まりの頃、そして今

2016-01-06 22:23:16 | 憲法を考える

 この国の始まりの頃、聖徳太子は「17条の憲法」を発布した。蘇我氏に代表される仏教信仰は物部氏に代表される日本古来の神道派を討って仏の教えを国の柱にした。そう教えられてきた。しかし、そもそも八百万の神は自然界にいたので教理の点で仏教と対立するものではない。それに、古代の有力氏族は渡来人であり、我々の考える古来からいる縄文人の可能性は限りなく低い。蘇我物部はいずれも渡来人であるが、政治的力を求めて争ったのだろう。それよりも支配者層が渡来人であった当時は、渡来人と言う言葉も必要とされなかったはずだ。歴史は勝者により語られるので真偽を確かめるすべを知らないが、平安時代に権勢を誇り「この世をばわが世とぞ思ふ」と詠った藤原氏出自も渡来人かも知れない。それにしても誰が、いつから渡来人という言葉を必要として使い始めたのだろうか。

 我々は日本史でも世界史でも支配者の歴史を教えられているので、日本人の祖先は縄文人なのか弥生人かという視点は持ち合わせていない。アイヌ人は先住民だという人権宣言をしているので、縄文人も先住民なのだろう。ならば日本国の始まりは農耕民族の弥生人、すなわち渡来人が祖先だと思うが、それでは誇り高き日本の歴史を語れない。だから古墳時代は考古学的に空白にされているのかも知れない。

 日本人の誇りを持てと言うけど、人類皆アフリカから旅した兄弟であることは遺伝子解析から証明されている。歴史を学ぶことは人類皆兄弟だということを学ぶこと。皆がこの地球に生まれた奇跡を喜び仲良く暮らすこと。歴史から学ぶことは、せっかく与えられた人生を、差別したりされたり、支配したりされたりして暮らすことではない。競争ではなく共創と協走を目指す人生を歩むべきだ。私は1万年以上も里山でクリの栽培等で平和に暮らし、大陸から移住してきて平野で稲作で暮らした弥生人と共住し、我々の遺伝子に受け継がれている縄文人を誇りにしたい。農耕民族の弥生人はモミの保存性が優れ、集団で水の管理をする必要から有力氏族が生まれたが、縄文人が絶滅しなかったことは戦争より交遊を好んだことを暗示しているのではなかろうか。

 戦前はマスメディア仏教界までが戦争に協力した。戦争は国の支配者が国益を理由に始めて、国民の自由を奪う絶対悪である。国が平和のため、国民の命を守るためと称して集団的自衛権を持つことを憲法は禁止している。日本が美しい国であるということは、政治家が世界に誇る憲法を守り充実させることで、国民からも世界からも尊敬されること。日本は万が一、他国から攻められたら国民が自発的に総動員で守る誇り高き国を目指すのか。しかし自発的に国と関わるには、あまりに国が国民から離れてしまっている。本日のニュースでは北朝鮮が水爆実験をしたことをトップで取り上げている。北朝鮮でも「国民の命と暮らしを守るため」と説明されているのだろうが、そのためにならやることは一杯あるはず。支配者の延命を考えての愚行が世界からの孤立を生み、日本では集団的自衛権の格好の理由とされよう。資源もなく戦争を放棄した誇り高き国を水素爆弾で攻めてくる理由は私には見つからない。軍事力による抑止力への期待は軍備拡大の連鎖を生む。相手と信頼して付き合うためには武器をを放棄した誇り高き国こそ、戦争の真の抑止力になる。それとも北朝鮮も日本も、抑圧され生きる意味も目的も失い、絶望した若い人たちがイスラム国のように国ではなく戦争に命をささげる国となってしまうのか。

 教祖がこの国に絶望したオウム真理教はこの国の統治に関わろうとして総選挙に出馬して惨敗し、テロで国家転覆をはかろうとしたことはよく知られている。しかし、彼らの想定した省庁制(仮想国家?)には食糧生産部門がなかった。自然を愛することを知らない彼らは、この国に疑問や不満を持ち、盲目的に支配者に従い、被害者まで出して生きる意味と目的を失う悲しい人生となったと思う。自然を愛すること、人を愛することが生きる原点。それなのに今、神社界が憲法改正の後押しをしているという。オウム真理教は絶望の教祖に従い、神社界はアメリカに従うしか道が見えていないのに、日本の美と伝統を守るとうそぶく(本人は信じているかもしれないが)、日本の認知症的支配者に従う。日本人の個人と組織の関係がそうさせるのだろうが、それにしても日本の神様は、個人の幸せは他者と生きることにあることを大切にしないで、どうして独裁者になるための戦争準備の気配、空気に手を貸すのであろう。

 一方、キリスト教の「創造物語」では、自然は人間に仕えるために創られたとされている。西洋のキリスト教は個人と科学を生んだが、流転する万物から人間を分離したのは人間のおごりであり、科学的にも真実ではない。私は自然を大切にしない宗教は信用しない。私の尊敬するアーミッシュの人々は近代化を拒否した質素な宗教的生活をしている。愚かな人間社会の悲劇を報道写真で世界に摘発し続けて、セバスチャン・サルガドが辿り着いた「創造物語(ジェネシス)」は地球であり、自然だった。

 国民の基本的人権を守るために憲法はある。特定秘密保護法がある限り、国民の命を守るため、平和を守るため等、なんとでも自衛隊派遣の理由は作られる。個人情報保護法で各種委員会の議事録さえ公開されない日本だ。しかも委員は現場を知らず、国民の代表という意識よりは学会代表という特権意識があり、現場に責任を持とうとしない悔しい思いがこのブログの原動力の一つだ。

 農業は産業ではなく生活なのだ。コスト競争とグローバル化で洗脳された国民には自然も「共創」「協走」も見えなくなっている。普通に見えている世界や考え方が我々の判断を狂わせる。そういう危ない時代になっている。今回は少し長くなりすぎた。もう少し「共創」と「協走」については別の機会に考えてみたい。

初稿 2016.1.6




最新の画像もっと見る

コメントを投稿