ドラクエ9☆天使ツアーズ

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北風と太陽1

2020年03月18日 | ツアーズ SS
「教え子は、かつての自分だと思いなさい」
それが、師の最終の教えだった。
師は、ガンコール・マナーコレット。マナーコレット家の家長であり、自分にとっては大叔父にあたる。
彼は長年、侯爵家の礼儀作法を取り仕切る最高顧問の務めを引退し、その跡目を「姪孫のオシエルに引き継がせる」と宣言したのだ。
威厳ある家長の一言は絶対。
オシエルは三十半ばにして、直系の叔父や従兄弟らを押し除けてその位格を継いだ。
その時から十年余り、レネーゼ侯爵家の礼儀作法に関わる全ての教育を担い、信頼と実績を築き上げてきたと自負している。
その誇りを支えるものはやはり、正統後継者の専任教師、という肩書きに他ならない。
オシエルは、レネーゼの後継者、ミカヅキが僅か五歳の時より彼の礼儀作法の教師としての成果を上げてきた。
幼く拙い時分から成長する過程においてわずかも乱れる事なく、レネーゼの家憲にあるが如く美しい礼儀と研ぎ澄まされた作法を身につけたミカヅキを誰もが称賛する。その称賛は等しくオシエルの元へも向けられる。
ミカヅキが認められれば認められるほど、オシエルの教師としての地位は盤石となって行ったのだ。

(だがそれは、自分の誤想だった)

オシエルは残酷な現実を突きつけられ、己の深淵に目を向ける。


■ ■ ■


レネーゼの正当後継者、ミカヅキはオシエルにとって、初めての専属となる生徒だった。
それまでレネーゼにあって多くの立場の人間に礼儀作法を説き、指導を行ってきていたが、専任顧問を継いだと同時に、正当後継者の礼儀作法の教育係をも任された。
これほどの大役を同時に頂く事も、また未成年の、それも学校へも上がっていない生徒を指導する事も初めての事であった為に、狼狽と困惑は計り知れないものであったが。
オシエルの不安を他所に、ミカヅキは優秀な生徒だった。

(そうだ。思えば、彼の君は初めから優秀であった)

ミカヅキはわずか5歳にして、オシエルの指導をよく理解した。理解した上で納得がいかぬ所は物怖じせず指摘してくる。それにつきあい問答し、礼儀作法の真髄とは何であるのかと考え抜く時間は、あの頃のオシエルにとって全く何ものにも変えがたい研鑽の積み重ねであった。
その研鑽は時と共に極限を求め、結果、ミカヅキは、レネーゼの家憲を熟知し、礼儀とは、作法とはこうあるべき、というオシエルの理想を寸分違える事なく体現した存在となった。

(それは、己の手腕などではなかった)

ミカヅキは、オシエルの理想ではない。
過ちも犯せば、興味本位で道をはずれもする。己の意思で行動し、その結果としてオシエルの意に添わぬ事態をも引き起こす。
そんな当たり前のことを考えた事もなかった自分に気づかされる。
確かに自分は、指導に置ける場と公式の場での振る舞いでしか、ミカヅキという存在を知り得ない。
時に耳にする彼の孤立した噂など、ミカヅキの身につけた究極の美意識の前では然もありなん、とまで悦に入っていた事は否めない。
それほどまでに、完璧だった。完璧であればあるほど良いと思っていた。
究極の美意識の完全体、それを目指し、追求した末の齟齬などは些細な事だ。なぜならば、オシエル・マナーコレットは礼儀作法の教師であるが故に。
礼儀作法より他の分野においてのミカヅキの教育には任を持たないが故に。

「あの子を一人の少年として見てやってくれませんか」

その様に老侯爵に言われ、オシエルは自分の中に潜む愚かさを見たのだ。
レネーゼ最高峰と謳われた教育は、その美しさの影に、人一人の人間の歪さを隠してしまったのか。



■ ■ ■



ミカヅキの友人に上流社会の礼儀作法を身につけさせる事。
期間はおよそ一月。
それを命じられた事は、さほど重荷だとは感じなかった。
オシエルはレネーゼの専任教師ではあるから、レネーゼに関わるいかなる人材の教育にも携わる。地位、部署、年齢のいかほどにも合わせて指導要領を作成し、他の教師に授業を任せる事もあれば、自ら受け持つ事もある。
要請があれば城の外にも出向く。貴族らの家に招かれ、子息たちが通う学園関係にも招かれる。
最高顧問としての多忙な十数年の実績が、この風変わりな要請であっても、オシエルを動じさせないものとなっていた。
侯爵家ではなく城下にある別宅での授業を希望、というのもミカヅキ本人の意向であり、それを許されるほどには、侯爵家の当主である御館様に目をかけられているのだろう。

「御館様は、御子息を亡くされてから怯懦になられた様だ」

暗に、孫には甘い、という非難めいた嘆きが時折囁かれているのも承知。
だから、ミカヅキが友人の教育場に同席する為に別宅を選んだ事も、甘やかされているが故の増長だと割り切る事ができた。
気に入りのおもちゃに大人から難癖つけられるのが我慢ならないのは、子供なら誰しも経験のある事だ。
ミカヅキにもそういった一面があったという事は多少の驚きではあったものの、注意すべきほどの事ではないと受け流し、館に赴いたのだ。
果たしてそこで、オシエルの想定通り、ミカヅキからは授業に同席したいとの申し出があり。
想定通りであったから、というのもあるが、同席する理由として「指導する立場から礼儀作法を考えたい」という主張には、やや興味を惹かれ、全面的にミカヅキの要求を受け入れた。
それは子供の、己の意を通す為に体裁を整えたばかりの主張、である事も解ってはいたのだ。解っていてなお、「さすがは美意識を極めさせただけはある」「体裁の整え方も申し分なく見事」と満悦してしまった。

(そこに傲りはなかったか)

あの日から今までを詳細に思い起こしての、自問自答。
まさか、オシエルに下された命は半月ほどで崩壊を迎えた。
人一人に礼儀作法を仕込むことなど、この自分にとっては容易い。究極の美を完成させた今、迷いも、惑いもあり得ない。
あり得ないはずのことが起こった、その始まりはなんであったのかと問われれば、傲りとしか言いようがない。
ミカヅキと、その友人であるヒイロは、あろうことか授業をゲームに準え、教師であるオシエルに秘匿して報酬のやり取りを行なっていた。
そんな愚行を、正統後継者の立場ともあろう人物に許してしまったのは、おそらくは教師であるオシエルの怠慢。

(怠慢である、と、今なら言える)

教え子二人の動向を、しっかりと見ていなかった。
一人は、友という立場を利用している現状を、利己心ではないかとの、迷い。
一人は、友という関係に利己は生まれるはずがないとの、惑い。

「なぜあの二人がこれを、作成せねばならなかったか、を聞いてやってくださらんか」

オシエルが教え子二人の暴挙を報告しに行ったその日に、御館様との面会が通った。
これは異例の速さだ。
オシエルとしては、まず我が師へ事の次第を報告し、この先の助言をいただくつもりでいたのだが。
顧問の座を引退し、今は政に関わらない立場でご意見番として御館様の側支えをしているオシエルの師、ガンコールは「助言ならば御館様にお伺いした方が早い」と言い、難なく面会を取り付けた。
その速さから言えば、これは遅かれ早かれ起こりうるものだと、想定されていたのではないかと思える。
少なくとも、師と御館様との間では、この一月にはいつでも対応できるよう心構えがなされていたのだと考えてもおかしくない。

(私が役目を受けた時からずっと、この時を準備していたのだ)

なんのためにか?もちろん、ミカヅキのために。
還暦をすぎた老侯爵にとって孫は可愛いものだろう。
そして彼からすれば、オシエルもまた、子供の様な年齢だ。
御館様は始終穏やかにオシエルの訴えを聞き、言葉全てに深く同意し、時折考え込む様に俯いた。
そうして告げられた「助言」は、ミカヅキのためのものではなく、オシエル自身に向けられたものだった。
レネーゼの礼儀作法において、それを任せられるのはオシエル・マナーコレットであることには間違いない。それだけの実績は誰もが認めるところである、と言ったレネーゼの老侯爵は、「それに意を唱える事は私が許さないだろう」と微笑む。
絶対の自信。絶対の信頼。それをオシエルに判らせるように、続けられる言葉。
「今先生があの二人に対し適正な教育が施せない、とおっしゃるのはレネーゼの家憲に縛られておるからではないですかな」
レネーゼの民は斯くあるべき、と遥か昔よりこの地を収める主が、人々のあり様を望んだ美意識。それがオシエルの教育に限界を突きつけているのではないかと、美意識を受け継ぐ現主が問いかける。
「あの子たちを叱るのは私の役目と心得た上で、先生にお願い申し上げる」
決してそこを許す事はしない、と前おいてオシエルに向けられた助言。
「家憲に縛られる事なく、今あの二人に向き合った先生が考える礼儀とは何か、新たに生み出される作法とはどうあるべきか、それを私は期待しておるのです」
だから自由に。
自由に、あの子たちを導いてみてはくれないか。
今一度の猶予を、と頼みにされて引く事はできない。
何より、自分にかけられた期待の重みに胸が震えた。
生涯を投げ打って、レネーゼの名の下に礼儀作法を極める者にとっては最高の栄誉。
「それを誰も分からずとも、御館様は解っておられる」
と、師に言われ覚悟を決めた。
今一度、彼らに向き合う。

人と向き合う事は、人を通して自分に向き合うことに他ならない。

師の言葉だ。
教え子は、かつての自分だと思いなさい。
教育者として自立するお前に最後に教える事だ、と師ガンコールは言った。
それを忘れた事はない。どの立場の教え子らにも、成熟した今の自分から、未熟だったかつての自分を指導するのだ、と心がけてきた。
その経験がまるで活かせないことがあろうとは、思いもしなかった。
慢心。
己の目を曇らせるもの。
今から相対するのは、かつての自分ではない。
かつての自分から見た、今の自分自身だ。

未熟な自分は問いかける。
大人になった私は、私の希望通りの私になれているであろうか。
大人になった私の言動は、私が目指した理想を歪めていないだろうか。
大人になった私の世界は、私が私であるために存在しているだろうか。

教え子は、かつての自分。
かつての自分に恥じる事なく、教えを施せるか否かが問われる。
師匠の言葉が今やっと、この身に染む。

目の曇りは晴らされた。

そして何よりも厳しい目が判断を下す。

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