(大塚先儒墓所)
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吹上稲荷神社
豊島ヶ岡墓地の東隣に大塚先儒墓地がある(文京区大塚5‐23‐1)。この墓地は、徳川秀忠らに仕えた人見道生の邸宅跡で、寛文十年(1670)に道生が没したときに邸宅内に埋葬したのがその始まりといわれる。寛政の三博士と称される柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里を始めとして、室鳩巣や木下順庵ら、高名な儒学者が眠る。その数六十四基を数える。
大塚先儒墓所は施錠されており、近くの吹上稲荷神社で記名して鍵を受け取らなくてはならない。
大塚先儒墓所
大塚先儒墓所に入ると、入口近くに墓の配置図が掲示されている。先ずそれを確認して、屋へ進む。
修築大塚先儒墓記
鳩巣室先生之墓
室鳩巣(1658~1734)は、江戸中期の儒学者。武蔵谷中村の医者の家に生まれた。加賀藩に出仕後、木下順庵に学び、「木門の五先生」の一人に数えられた。同門の新井白石の推挙で幕府儒官となり、将軍の侍講、朝鮮信使応接、高倉屋敷での講釈などに従事した。伊藤仁斎や荻生徂徠ら、古学派の台頭期に、あくまで朱子学の立場を堅持し、幕府に二十年仕えた。
征夷府故判読栗山先生之墓
柴野栗山(1736~1807)は、江戸中後期の儒者。讃岐の農民の出身である。江戸で林家に学び、徳島藩儒となる。のち松平定信に登用され、寛政異学の禁(朱子学を正学とし、昌平黌での異学の教授を禁じた政策)を推進した。尾藤二洲、古賀精里とともに「寛政三博士」と称された。
江戸故掌教官二洲藤先生墓
尾藤二洲(1747~1813)は、伊予川之江の廻船業者の子。大阪で徂徠学を学んだが、頼春水や中井竹山と交わり、朱子学に転じた。昌平黌の儒官に登用され、幕府教学に尽力した。
侗庵古賀先生之墓
古賀侗庵(1788~1847)は、古賀精里の三男。父とともに昌平黌の儒官を務めた。
精里古賀先生之墓
古賀精里(1750~1817)は、江戸中後期の儒者。佐賀藩士の子で、はじめ陽明学を好んだが、京阪に出て朱子学に転じた。藩校弘道館の教授を経て、昌平黌儒官。寛政の三博士に加え称された。佐賀藩の儒者として、藩主直正にも強い影響を与えた古賀穀堂は、精里の長男である。
茶渓古賀先生之墓
古賀茶渓は、文化十三年(1816)、古賀侗庵の子に生まれた。幼少より儒学を学び、十七歳で二十一史に通じたといわれた。弘化三年(1846)、小姓組より儒役見習になり、翌年本役に進んだ。そのとき既に儒学のみならず蘭学も志し、両学に通じた。嘉永六年(1853)、ロシアのプチャーチンが長崎に来航すると、その国書の返翰の作成に関与し、また露使応接掛に命じられ、川路聖謨らに随行して長崎に赴いた。安政二年(1855)、二ノ丸留守居に転じ、番所調所頭取を兼ね、文久二年(1862)には留守居番に転じて、さらに元治元年(1864)には大阪町奉行に抜擢されたが、病のため赴任できず。慶応二年(1866)、製鉄奉行並、翌年には目付となり、従五位下筑後守に叙任された。外交に関係することが多く、朝鮮がフランス人宣教師、アメリカ人船員を殺害し、朝鮮と各国との関係が緊張した際にも、幕府は茶渓を調停役とさせることを計画した。大政奉還に憤激し、老中格大給恒とともに軍艦順動丸に乗って、西上中の将軍慶喜のもとへ赴いたが、諭されて東帰した。明治元年(1868)目付を辞して以降、世に出ず、一時駿河に移ったが、明治六年(1873)東京に出て、浅草向柳原の自宅で病死。六十九歳。
故博士寒泉岡田先生之墓
岡田寒泉(1740~1816)は、やはり寛政期に活躍した儒学者。幕府旗本の二男に生まれた。崎門学派に学び、松平定信政権下で寛政異学の禁を画策した。古賀精里の代わりに寒泉を以って寛政の三博士と称することもある。のちに幕府の代官に転じ、名代官と称えられた。
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吹上稲荷神社
豊島ヶ岡墓地の東隣に大塚先儒墓地がある(文京区大塚5‐23‐1)。この墓地は、徳川秀忠らに仕えた人見道生の邸宅跡で、寛文十年(1670)に道生が没したときに邸宅内に埋葬したのがその始まりといわれる。寛政の三博士と称される柴野栗山、尾藤二洲、古賀精里を始めとして、室鳩巣や木下順庵ら、高名な儒学者が眠る。その数六十四基を数える。
大塚先儒墓所は施錠されており、近くの吹上稲荷神社で記名して鍵を受け取らなくてはならない。
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大塚先儒墓所
大塚先儒墓所に入ると、入口近くに墓の配置図が掲示されている。先ずそれを確認して、屋へ進む。
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修築大塚先儒墓記
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鳩巣室先生之墓
室鳩巣(1658~1734)は、江戸中期の儒学者。武蔵谷中村の医者の家に生まれた。加賀藩に出仕後、木下順庵に学び、「木門の五先生」の一人に数えられた。同門の新井白石の推挙で幕府儒官となり、将軍の侍講、朝鮮信使応接、高倉屋敷での講釈などに従事した。伊藤仁斎や荻生徂徠ら、古学派の台頭期に、あくまで朱子学の立場を堅持し、幕府に二十年仕えた。
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征夷府故判読栗山先生之墓
柴野栗山(1736~1807)は、江戸中後期の儒者。讃岐の農民の出身である。江戸で林家に学び、徳島藩儒となる。のち松平定信に登用され、寛政異学の禁(朱子学を正学とし、昌平黌での異学の教授を禁じた政策)を推進した。尾藤二洲、古賀精里とともに「寛政三博士」と称された。
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江戸故掌教官二洲藤先生墓
尾藤二洲(1747~1813)は、伊予川之江の廻船業者の子。大阪で徂徠学を学んだが、頼春水や中井竹山と交わり、朱子学に転じた。昌平黌の儒官に登用され、幕府教学に尽力した。
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侗庵古賀先生之墓
古賀侗庵(1788~1847)は、古賀精里の三男。父とともに昌平黌の儒官を務めた。
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精里古賀先生之墓
古賀精里(1750~1817)は、江戸中後期の儒者。佐賀藩士の子で、はじめ陽明学を好んだが、京阪に出て朱子学に転じた。藩校弘道館の教授を経て、昌平黌儒官。寛政の三博士に加え称された。佐賀藩の儒者として、藩主直正にも強い影響を与えた古賀穀堂は、精里の長男である。
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茶渓古賀先生之墓
古賀茶渓は、文化十三年(1816)、古賀侗庵の子に生まれた。幼少より儒学を学び、十七歳で二十一史に通じたといわれた。弘化三年(1846)、小姓組より儒役見習になり、翌年本役に進んだ。そのとき既に儒学のみならず蘭学も志し、両学に通じた。嘉永六年(1853)、ロシアのプチャーチンが長崎に来航すると、その国書の返翰の作成に関与し、また露使応接掛に命じられ、川路聖謨らに随行して長崎に赴いた。安政二年(1855)、二ノ丸留守居に転じ、番所調所頭取を兼ね、文久二年(1862)には留守居番に転じて、さらに元治元年(1864)には大阪町奉行に抜擢されたが、病のため赴任できず。慶応二年(1866)、製鉄奉行並、翌年には目付となり、従五位下筑後守に叙任された。外交に関係することが多く、朝鮮がフランス人宣教師、アメリカ人船員を殺害し、朝鮮と各国との関係が緊張した際にも、幕府は茶渓を調停役とさせることを計画した。大政奉還に憤激し、老中格大給恒とともに軍艦順動丸に乗って、西上中の将軍慶喜のもとへ赴いたが、諭されて東帰した。明治元年(1868)目付を辞して以降、世に出ず、一時駿河に移ったが、明治六年(1873)東京に出て、浅草向柳原の自宅で病死。六十九歳。
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故博士寒泉岡田先生之墓
岡田寒泉(1740~1816)は、やはり寛政期に活躍した儒学者。幕府旗本の二男に生まれた。崎門学派に学び、松平定信政権下で寛政異学の禁を画策した。古賀精里の代わりに寒泉を以って寛政の三博士と称することもある。のちに幕府の代官に転じ、名代官と称えられた。
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