史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

銀座 Ⅲ

2015年10月17日 | 東京都
(銀座八丁目)
 明治時代、日本には丸の内と銀座の二か所しか煉瓦街がなかった。明治五年(1872)から十年(1877)にかけて、当時の国家予算の四%弱を費やし、銀座に煉瓦街が築かれた。この石碑に使われている煉瓦は、銀座八丁目で発掘されたものである(中央区銀座8‐7‐11)。


煉瓦遺構の碑

(東京銀座平野園)
 この日も三澤敏博著「江戸東京幕末維新グルメ」を片手に、銀座を歩いた。少し見ぬまに銀座は中国人観光客だらけの街になってしまった。次々と大型観光バスが横付けされ、吐き出されるように中国人が銀座の街に繰り出す。彼らはそろって大きなスーツケースを転がして、銀座でも今や中国人の代名詞となった“爆買い”を平然とやってのける。何だか中国人に銀座を乗っ取られたようで、決して気持ちの良い光景ではない。
 この一か月で二回も上海に出張することになったが、最初の中国出張時には一元が13円~14円程度だった為替が、今や20円を超えている。非常に割高な感じを受けるが、今、日本を訪れている中国人は、その反対の割安感を謳歌しているのに違いない。


東京銀座 平野園

 平野園(中央区銀座7‐15‐11)の創業は明治十六年(1883)。銀座最古の茶屋である。明治四十五年(1912)の夏、明治天皇の病状が悪化すると、アイスクリームが献上されたという。そのとき平野園は抹茶のアイスクリームを用意した。今でも平野園では、皇室に献上された「御園の白」と名付けられた濃茶や、抹茶アイスクリームを楽しむことができる。ただし、予約が必要。

(資生堂パーラー)


資生堂パーラー

 資生堂といえば、化粧品のイメージが強いが、その起源は西洋の医薬品を取り扱う調剤薬局であった。創業者は福原有信。福原は嘉永元年(1848)、漢学者の家に生まれ、漢方医の祖父・有斎の影響を受けて、若い頃から薬剤に関心を示した。慶応元年(1865)、幕府医学所頭取の松本良順に認められて、医学所に出仕。明治二年(1869)、再び東京に出た福原は医学所を引き継いだ大学東校に学び、その二年後には海軍病院薬局長に任命された。さらにその翌年、矢野義徹、前田清則とともに西洋薬舗会社「三精社」を設立し、続いて銀座に民間薬局を開業した。これが資生堂の前身である。明治三十五年(1902)には、福原は資生堂薬局内にソーダファウンテンを開設。日本初のソーダ水のほか、アイスクリームなどが提供された。後には本格的フランス料理やデザートを提供する資生堂パーラー(中央区銀座8‐8‐3)へと発展していった。(以上、三澤敏博「江戸東京幕末維新グルメ」より)

(カフェ・パウリスタ)
 カフェ・パウリスタは土佐藩士水野龍が創業した老舗カフェである(中央区銀座8‐9)。


カフェ・パウリスタ

 水野龍は、九歳で戊辰戦争に参加後、維新後は教師となったが、同郷の板垣退助らが中心となった自由民権運動に参加し、後藤象二郎を頼って上京を果たした。明治三十八年(1905)、ブラジル移民政策に同調し、この実現に尽力した。この功績により、ブラジル政府から年間一千俵の珈琲豆の無償供与と東洋での宣伝販売権が与えられ、日本におけるブラジル珈琲の普及事業を委託されることになった。しかし、珈琲の輸入がなかなか認められず、開業まで時間を要したが、明治四十四年(1911)に至って、ようやくカフェ・パウリスタが開業されたのである。

(竹葉亭)


竹葉亭

 竹葉亭(中央区銀座8‐14‐7)は、かつて京橋の浅蜊河岸にあり、桃井春蔵の士学館の刀預かり所として創業された留守居茶屋であった。恐らく当時は、中岡慎太郎や武市瑞山ら、土佐勤王党の連中が出入したことであろう。しかし、竹葉亭は早々に刀預かり業から鰻屋に転じ、慶応二年(1866)には現在の屋号を定めている。維新後には山岡鉄舟も常連客の一人だったという。日曜日は定休日で評判の鰻を食べることはできなかったが、次回には是非試してみたい。

(空也)


空也

 「空也もなか」で有名な和菓子店空也は、明治十七年(1878)の創業。当時は上野池ノ端にあったが、昭和二十四年(1935)に銀座に移転してきた(中央区銀座6‐7‐19)。福地源一郎らとともに演劇改良運動に尽力した市川團十郎が、空也もなかの誕生に一役買っているという。
 人気の空也もなかは、毎日売り切れるほどで、予約を入れないと購入は困難。そう言われると、一度食べないわけにはいかない(後日、再度訪れたが、やはり正午前に売り切れていた)。

(狩野画塾跡)


狩野画塾跡

 銀座東五丁目交差点の東辺りが、狩野画塾跡である(中央区銀座5‐13‐11)。
 江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれも狩野探幽、尚信、安信の三兄弟を祖とした。木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永七年(1630)に江戸に召し出され、竹川町(現・銀座七丁目)に屋敷を拝領して奥絵師となった。のち、六代典信の時に、老中田沼意次の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移り、画塾を開いた。狩野奥絵師四家の中でもっとも繁栄したといわれる。
 この狩野画塾からは、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出している。

(佐久間象山塾跡)


佐久間象山塾跡

 嘉永六年(1853)の古地図によれば、狩野勝川の画塾に向い合う場所に佐久間象山の名が見られる(中央区銀座6‐15)。
 象山は初め儒学を修め、天保十年(1839)、神田お玉が池付近に塾を開き、のちに海防の問題に専心して西洋砲術や蘭学を学び、嘉永四年(1851)この地に塾を開いた。象山は、兵学および砲術を教授し、海防方策の講義を行った。二十坪ほどの塾に、常時三十~四十人が学んでいたという。
 門下には、勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助など多くの有能な人材が集まった。土佐の坂本龍馬も嘉永六年(1853)に最初の剣術修行に出て、その年の十二月一日に入門している。
 この塾には、諸藩から砲術稽古の門下生が集まったが、嘉永七年(1854)門人の一人吉田松陰がアメリカ密航に失敗した事件に連坐して、象山も国許での蟄居を命じられ、塾も閉鎖された。

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