(総泉寺)
総泉寺
総泉寺は、もと浅草にあったが、関東大震災で被災して昭和三年(1928)に現在地に移転した。創立は、建仁元年(1201)という長い歴史を持つ寺で、江戸期には江戸三刹の一つとして幕府の庇護を受けることになり、秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となった。
先のゴールデン・ウィークに秋田を回ってきたこともあり、東京に在るという佐竹藩の菩提寺を訪ねることにした。
従四位勲六等男爵佐竹義脩墓
いくら墓地を歩いても、佐竹義尭の墓は見つけられなかった。恐らく移転したのであろう。墓地には、義尭の跡を継いで佐竹氏三十一代当主となった佐竹義脩のほか、秋田藩に所縁のある墓が散見される。
佐竹義脩(よしなお)は、中村藩の重臣熊川家に生まれ、のちに秋田藩義尭の養子となった。明治五年(1872)、義尭の隠居に伴い家督を継いだ。明治十四年(1881)、隠居して養父佐竹義尭に譲り、自らは岩崎藩(旧秋田新田藩)佐竹氏に復籍した。明治二十六年(1893)四十歳にて死去。
秋田 佐藤時之助忠正墓
戊辰戦争で官軍の一員として参戦した秋田藩には、戦後五十万両という多額の借金が残った。困った秋田藩では、ニセ金を造って苦境と切り抜けたが、明治三年(1870)八月に発覚し、翌年十二月に首謀者として会計幹事であった佐藤時之助が逮捕された。佐藤時之助は、その後刑務所で死亡するが、責任を取って自殺したといわれる。五十一歳であった。
秋田 大縄織衛之墓
大縄織衛は、秋田藩士。江戸詰勘定奉行に任じられ、藩財政の立て直しに取り組むが失敗。維新後は、旧藩士の救済に尽し、石油採掘事業にも手を出したが、これもうまくいかなかった。明治十五年(1882)死去。七十一歳。
総泉寺
総泉寺は、もと浅草にあったが、関東大震災で被災して昭和三年(1928)に現在地に移転した。創立は、建仁元年(1201)という長い歴史を持つ寺で、江戸期には江戸三刹の一つとして幕府の庇護を受けることになり、秋田藩主佐竹氏の江戸での菩提寺となった。
先のゴールデン・ウィークに秋田を回ってきたこともあり、東京に在るという佐竹藩の菩提寺を訪ねることにした。
従四位勲六等男爵佐竹義脩墓
いくら墓地を歩いても、佐竹義尭の墓は見つけられなかった。恐らく移転したのであろう。墓地には、義尭の跡を継いで佐竹氏三十一代当主となった佐竹義脩のほか、秋田藩に所縁のある墓が散見される。
佐竹義脩(よしなお)は、中村藩の重臣熊川家に生まれ、のちに秋田藩義尭の養子となった。明治五年(1872)、義尭の隠居に伴い家督を継いだ。明治十四年(1881)、隠居して養父佐竹義尭に譲り、自らは岩崎藩(旧秋田新田藩)佐竹氏に復籍した。明治二十六年(1893)四十歳にて死去。
秋田 佐藤時之助忠正墓
戊辰戦争で官軍の一員として参戦した秋田藩には、戦後五十万両という多額の借金が残った。困った秋田藩では、ニセ金を造って苦境と切り抜けたが、明治三年(1870)八月に発覚し、翌年十二月に首謀者として会計幹事であった佐藤時之助が逮捕された。佐藤時之助は、その後刑務所で死亡するが、責任を取って自殺したといわれる。五十一歳であった。
秋田 大縄織衛之墓
大縄織衛は、秋田藩士。江戸詰勘定奉行に任じられ、藩財政の立て直しに取り組むが失敗。維新後は、旧藩士の救済に尽し、石油採掘事業にも手を出したが、これもうまくいかなかった。明治十五年(1882)死去。七十一歳。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます