史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

笛吹

2012年09月08日 | 山梨県
(黒駒)


黒駒勝蔵之碑

 この日は、人間ドックを受診するために一日休みをもらった。思いのほかスムースにいって、十時前には終わった。このまま家に帰ってしまってはもったいないので、山梨県笛吹市御坂黒駒周辺を歩いてみることにした。
 中央高速道路を一宮御坂ICで降りて南に進む。十分も走れば、黒駒に到着する。周囲には、ぶどうや桃畑が際限なく広がっている。
上黒駒郵便局の向かい側に黒駒勝蔵の顕彰碑がある。

 黒駒勝蔵は、本名を小池勝蔵といい、天保三年(1832)上黒駒若宮の名主、小池嘉兵衛の次男に生まれた。成人すると武士を志して、同村の仲間二人を誘って江戸に行き、町道場で修業して目録の腕前になったが、身分階級の差の厳しさに嫌気がさし、黒駒村に帰った。
 黒駒勝蔵というと、大衆演劇や講談の世界では清水次郎長のライバルであり、悪役と相場が決まっているが、事実としてはどうなのだろう。文久年間には、清水次郎長と抗争を繰り広げたが、両者が実際に衝突したのは頻度にすれば数回ともいわれる。

(御坂路農場)


御坂路農場

 若宮交差点に近い御坂路農場は、黒駒勝蔵の生家である。店番をしていた老婆によれば、勝蔵から数えて四代目なのだそうである。御坂路農場の一角には、黒駒勝蔵の墓が建てられている。


黒駒勝蔵之墓

 御坂路農場で桃を一ケース購入。黒駒勝蔵の墓の写真を撮っていると、先ほどの老婆が「黒駒の勝蔵小伝」と書いた一枚のコピーをくれた。黒駒勝蔵の生涯が端的に記載されている。

(若宮観音堂)


若宮観音堂

 御坂東小学校の裏手にある若宮観音堂にも黒駒勝蔵の墓がある。手を合わせた人形型の墓がそれだという。


黒駒勝蔵の墓

(称願寺)


称願寺

 称願寺の境内にも黒駒勝蔵の墓がある。両側には、子分である大岩(左)、小岩の墓が置かれている。


黒駒勝蔵之墓(中)
大岩之墓(右) 小岩之墓(左)

 文久元年(1861)、石和代官所の牢に入れられ、毒殺された竹居の吃安(本名、中村安五郎)の敵を討つため、黒駒勝蔵は甲州万福寺(勝沼町)に潜伏していた犬上郡次郎を殺害した。その後、慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦争が起こると、名前を池田勝蔵と改め官軍の赤報隊に加盟した。赤報隊が解体された後、四条隆謌の徴兵七番隊へ配属され、奥羽を転戦した。会津藩の降伏を見届けて、京都に戻った。明治二年(1869)三月、東京遷都とともに、徴兵七番隊にも供奉の命が下り、勝蔵も第一遊軍隊の小隊長として明治天皇に従った。間もなく兵制改革により解隊命令が出たが、勝蔵は兵籍のまま黒川金山(現・塩山市)に入って金鉱探しに手を染めたが、うまくいかなかった。このとき休暇手続きを取らなかったため、「脱走」という扱いになり、新政府に追われることになった。勝蔵は伊豆下田の蓮台寺温泉に逃れたが、明治四年(1871)身の潔白を申し立てるため伊豆畑毛温泉(函南)に移動したところを捕らえられ、甲府に送られた。取調べの結果、博徒時代の犬上群次郎殺しや余罪を問われて、斬に処された。天寿を全うした清水次郎長とは対照的な非業の死であった。享年四十。

(檜峯神社)


檜峯神社

 檜峯神社への参道は、大栃山(標高1415)、釈迦ヶ岳(標高1641)への登山道を兼ねている。参道入口から檜峯神社まで、私の脚で片道五十分余り。登山が趣味という方には、登山のうちに入らない距離であろうが、私にとって登山と呼ぶに十分な難易度であった。


檜峯神社への参道

 檜峯神社は、鬱蒼とした杉林の奥に鎮座する。標高は千九十メートルに達する。若き黒駒勝蔵は、檜峯神社の神官、梶原外記の私塾に学んだといわれ、長じて官軍に身を投じたのは、梶原外記の国学思想の影響を受けたからともいわれる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 飯能 Ⅲ | トップ | 東中野 Ⅱ »

コメントを投稿

山梨県」カテゴリの最新記事