史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

石岡 Ⅳ

2017年11月17日 | 茨城県
(本浄寺)


本浄寺

 本浄寺は、藤田小四郎らを支援した紀伊國屋の女主人大久保幾子の墓がある(府中2‐4‐39)。墓地には紀伊國屋大久保家の墓所が二つあって、どちらが幾子の墓か特定できなかった。参考記録として、そのうちの一つの写真を掲載しておく。


大久保家之墓(紀伊國屋)
大久保幾子墓?

 府中新地の妓楼紀伊國屋は、藤田小四郎らが同志と密議を重ねた場所である。幾子は、世話好きで気さくな性格で、年も五十を越えた女丈夫であった。人なつっこい小四郎を自分の子のように可愛がり、親身になって世話を焼いたといわれる。

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ひたちなか Ⅶ

2017年11月17日 | 茨城県
(光明寺)


光明寺

 光明寺周辺も元治甲子の騒乱で激戦地となり、光明寺は堂宇を焼失した。本堂前には大発勢に参加して戦死した梶又左衛門の下僕平八の墓がある(ひたちなか市湊泉町6‐25)。


梶氏義僕 平八墓

 光明寺の墓地を歩いていて面白い墓碑を見付けた。新選組の初期メンバーに名を連ね、当時副長助勤をつとめた平間重助の子孫の方の墓だという。
 墓碑によれば、平間家の祖先は筑前(現福岡県)の平間蔵人入道の子孫で、東国相模の国平間村(現・川崎市)に居住し、その一族が玉造町芹沢の筑前塚に居住したものである。その後、重助の孫が湊町(ひたちなか市)明神町、さらに日立市助川に転居して、今もその血脈は続いているという。


平間家墓

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那珂 Ⅱ

2017年11月17日 | 茨城県
(常福寺)
 元治元年(1864)九月九日、元治甲子の乱の際、当時向山にあった常福寺は天狗党により放火され全焼した。常福寺は、その後再建されることはなく、寺格全てが瓜連常福寺に吸収された(那珂市瓜連1222)。


常福寺

(阿弥陀寺)
 阿弥陀寺は、親鸞上人が建保四年(1214)にこの地に念佛道場を開き、法然上人の追悼法要を行ったことで知られる。親鸞上人は、この地に約十年滞在し、念仏弘通に精進した。今も親鸞上人所縁の宝物を数多く伝承している(那珂市額田南郷375)。


阿弥陀寺

 元治元年(1864)の騒乱では、天狗党により放火され全焼している。

(麟勝院)
 同じく額田南郷559の麟勝院も天狗党により放火焼失した寺院の一つである。


麟勝院

(上宮寺)


上宮寺

 上宮寺(本米崎2270)も天狗党の放火により焼失した。

(本米崎三嶋神社)


本米崎三嶋神社

 本米崎の三島神社の社家から海後瑳璣ノ介が出た。同地は海後瑳璣ノ介の生誕地でもある(本米崎2766)。瑳璣ノ介は、文政十一年(1828)、父宗邦の四男に生まれた。二十歳のとき、水戸に出て剣術、砲術を研究した。万延元年(1860)三月三日、桜田門外の変に加わった十八名中の一人であり、その後潜伏して維新後まで生き延びた。
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城里 Ⅲ

2017年11月17日 | 茨城県
(小松寺)
小松寺は、天平十七年(745)行基菩薩の開基と伝えられる。養和二年(1182)、平貞能が平重盛の遺骨を抱いてこの地に落ちのび、出家して小松房以典と称し、重盛の菩提を弔ったとされる。裏山の中腹には平重盛、重盛夫人、平貞能の墓がある。第二代水戸藩主徳川光圀は度々この寺を訪れ、境内にはお手植えの枝垂れ桜がある。また九代藩主斉昭の歌碑も境内に残されている。天狗党に参加し、和田峠で戦死した不動院全海は、幕末時の小松寺住職の弟弟子だったという(城里町大字上入野3912)


小松寺


斉昭歌碑

 天保十四年(1843)、当寺を訪れた際に斉昭が詠んだ歌が刻まれている。

 みやこより引きし小松の墓なれば
 千歳の末ものこるとぞ見ゆ

(宝幡院)
那珂西の宝幡院は、その昔(南北朝時代)那珂西(なかさい)城という城郭があった場所で、今も空堀や土塁の跡を見ることができる(城里町那珂西1958)。


宝幡院

 度々過激な言動をとったことにより、田中愿蔵隊が除名処分を受けたのは元治元年(1864)七月三日のことであった。愿蔵隊は一時野口の時雍館に拠っていたが、村民の包囲を受け、七月二十五日に那珂川を渡って石塚宝幡院(ほうどういん)に入った。
 ほどなく愿蔵隊は、宝幡院も追われ宍戸に出、八月一日には茨城郡土師村へ進出。そこでも民兵と衝突して放火し、その夕方には府中に走った。同月十五日、水戸郊外小吹、平須で鯉淵勢と戦った。その後、愿蔵隊は二本松藩兵を撃破し、一時助川城を占拠するなど勢いを示したが、所詮四百余という寡兵であった。幕府軍および市川勢に次第に追い詰められて、悲劇の道をたどることになる。

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常陸大宮 Ⅴ

2017年11月17日 | 茨城県
(寿命寺)


寿命寺


彰義隊之墓

 常陸大宮市野口3042の寿命寺に彰義隊士の墓がある。ただし、戦死した日付は明治元年(1868)四月十三日となっている。上野戦争は同年五月十五日のことであり、それより前に江戸から遠く離れたこの場所に瀕死の彰義隊士が逃げ込んでくるというのは、いかにも不自然である。一説には彰義隊ではなく、撤兵隊ではないかともいわれる。
 この墓を建立したのは合葬されている徳田米太郎の親族。戦死した徳田米太郎は十七歳だったという。墓が建てられたのは昭和十五年(1940)。

 寿命寺はもう何年も前に廃寺となったようで、わずか数十メートルの参道は、雑草が生い茂り倒木が行く手を阻み、簡単に前に進むことができない。しかも、湧き水で道はぬかるんで、蜘蛛の巣だらけである。個人的にはこれほど手入れされていない寺を見たことがない。寺の本堂も襖は破られ、木は朽ちて、周囲は雑草だらけ。まさに肝試しの舞台さながらである。寿命寺には市指定文化財聖徳太子立像が安置されているそうだが…

(戦死十七士合葬墓)


戦死十七士合葬墓

 常陸大宮市野口の高台に戦死十七士合葬墓が建てられている(常陸大宮市野口1543付近)。
 旧幕軍とそれを追う新政府軍の戦いは、市川・船橋、流山、結城、宇都宮などを戦場としたことから、茨城県を南北に通る幾筋かの街道へも諸軍が通過し、戦禍を残すことになった。
 慶応四年(1868)四月一日、江戸城が明け渡された後も幕府軍は各地で抵抗して蜂起を続けていた。同月十三日、その中の一隊約百三十名が野口宿に宿営し、翌朝、那珂川を船で渡ろうとしていたところを新政府軍に急襲され、十七名の犠牲者を出すことになった。恐らく上総・下総の各地を転戦してきた撤兵隊と考えられる。
 この墓碑に葬られているのは、仙石義正、秋山善保、榎本桂次郎、山口藤吉、坂巻錠介、徳田米太郎と氏名不明の十一名、計十七名である。
 彼らのために野口の渡しを臨む高台にこの供養塔が建てられたのは明治二十二年(1889)。題字は大鳥圭介、撰文は水戸の佐久間謙、書は野口勝一(県議。野口雨情の叔父)による。


(関澤家)


関澤家

 関澤家は野口宿の有力者であった。天保十一年(1840)には、徳川斉昭が当家を訪れ、別邸を楽寿亭と命名している。
 慶応四年(1868)四月十三日、重傷を負った坂巻錠介(十五歳)を、当家当主関澤源次衛門は手厚く施療し、親元へも連絡するなど手を尽くしたが、錠介は数日後に亡くなった。関澤家では錠介の遺骸を当家の墓地に埋葬した。
 ということで関澤家の周辺を汗まみれになって探し回った。その結果、関澤家の墓地を発見することはできたが、坂巻錠介の墓は見つけることができなかった。
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大子 Ⅲ

2017年11月17日 | 茨城県
(高徳寺)


高徳寺山門

 高徳寺山門は、室町末期の木造茅葺建築であるが、見るからにか細い四本の柱で支えられている(大子町上郷2056)。
 元治甲子の乱で天狗党がこの山門の柱を傷つけたといわれる。見れば、四本のうちの一本はその半分が削り取られている。ただ、これが本当に天狗党の手によるものか確証はない。


天狗党による刀痕?

(八溝山)
 追い込まれた田中愿蔵が逃げ込んだのが、八溝山(やみぞさん)である。標高一〇二二メートル。この日、早朝五時半に八王子の自宅を出て、カーナビの命じるまま東北自動車道を北上、福島県の棚倉から山頂を目指した。道は途中未舗装道路もあり、路肩は崩れ、時に大きな穴ぼこが開いている。油断のできない道であった。八溝山頂に到着したのは、午後八時半を過ぎていた。
 下りは茨城県の大子町へ下りる道を選んだが、こちらの方は安心して走ることができた。自動車で八溝山頂を目指すのであれば、断然大子町からの道をお勧めしたい。


霊峰八溝山

 山頂には展望台が設けられ、山頂を見下ろすことができる。つまり山頂より高い位置に展望台があるというわけである。天気が良ければ、三百六十度の眺望を楽しむことができただろうが、この日は霧がたち込めており、残念ながら見晴らしは悪かった。


八溝山頂 海抜一〇二二m


八溝嶺神社


八溝嶺神社

 山頂に逃げ込んだ田中愿蔵であったが、食糧も尽き、これ以上戦うことの不可能を悟った。愿蔵は隊員三百余を八溝嶺神社前に集め、解隊を宣言した。愿蔵自身も転げるようにして下山し、真名畑村(現・福島県塙町)の民家に逃げ込み、そこで縛についた。

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