史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

館山 Ⅳ

2017年07月01日 | 千葉県
(慈恩院)

 今回、館山の再訪に際し、館山市立博物館のホームページ「たてやまフィールド・ミュージアム」を参考にさせていただいた。この情報を頼りに慈恩寺の墓地を再度歩いた。


高橋周行(ちかつら)翁之墓

 館山藩士高橋周行は、稲葉正己・正善に仕えて、勘定方・公用人・江戸留守居役などを勤め、新政府との交渉にもあたった。通称文平。明治三十二年(1899)没。七十七歳。


代田蓊居士

 代田蓊(しろたしげる)は、明治八年(1875)六月に没した。人物像は不明だが、天保十五年(1844)に在所詰郡奉行の代田隼登(はやと)がいる。


乙幡雲郭(おっぱばうんかく)墓

 乙幡家は館山藩家老職の家柄。通称淳介といい、幕末に藩公用人として『武鑑』に名が見える。儒学者として知られ、慶応四年(1868)に隠居して手習師匠の養成のため私塾を開き、教育振興に尽した。


有無両縁群霊墓

 慶応四年(1868)戊辰七月十日、当寺の二十世が建立。戊辰戦争に参戦した人々の供養塔のようである。ほとんど草に埋もれようとしている。

(上真倉)
 上真倉と書いて「かみさなくら」と読む。上真倉の駐車場の一角に天狗党木村円次郎の墓がある。


妙法 蓮乗劔霊 
元治二丑四月三日 木村円次郎

以下、館山市立博物館の歴史散策マップのコーナーより。
――― 上真倉の字宇和宿に下宿というところがあり、別にかあしんだい(川岸台)というそうですが、汐入川左岸に水戸藩士木村円次郎の墓があります。ここは下真倉からの道があったところで、汐入川を歩いて渡れる場所でした。墓のある場所は刑場だったと伝えられています。木村円次郎は元治元年(1864)の水戸藩尊攘派による筑波山挙兵、いわゆる天狗党の乱に加わった藩士の一人で、降伏後仲間十二人とともに、館山藩に預けられ、翌年四月木村は処刑されました。他の十二人は水戸藩へ引渡されています。

(館山陣屋跡)


館山陣屋跡

 稲葉氏が館山藩主に任じられたのは天明元年(1781)のことで、寛政三年(1791)にこの地に陣屋が建てられた。

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君津 Ⅱ

2017年07月01日 | 千葉県
(招魂之碑)


招魂之碑

 君津の鹿野山を訪ねたのはこれで四回目か、五回目になる。ブログに榎本武揚書の招魂碑を探しあぐねていることを書いたところ、「よなるで」様より「こちらの碑は、神野寺を背に前の道を右に少し進みますと、左手に墓地に続く未舗装の道がございます。その道を入ってすぐ、右側の丘の上にございます。案内板が出来たのでわかりやすいかとは思いますが、登りづらいので行かれる際はお気をつけ下さいませ。」との情報をいただいた。
 その通り神野寺の前を西へ数百メートル行ったところに霊園入口の案内板があり、そこを入ると直ぐに見付けることができた。
 この招魂碑は、戊辰戦争で旧幕府側について敗れた上総請西藩士の英霊を慰めるために、明治三十年(1897)に建てられたもので、江戸城のあった方向を向いているそうである。碑の右側面には請西藩の従軍者、戦病没者の氏名が刻まれている。左側面には、三十年祭の当事者の一人として祭主林忠崇の名前が見える。

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大多喜 Ⅲ

2017年07月01日 | 千葉県
(東長寺)


東長寺

 東長寺は、寺に伝えられた由緒書によると、永正十一年(1514)の建立とあるが、天文元年(1532)であるという説もある。武田氏、正木氏など戦国期城主の菩提所となった。その後、本多忠勝の長男忠政夫人熊(ゆう)姫の信仰厚く位牌所となった。熊姫は、徳川家康の長男信康の次女である。
 戊辰戦争後、藩主大河内家の家臣がこの寺で謹慎した。

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匝瑳 Ⅲ

2017年07月01日 | 千葉県
(龍性院)


龍性院

 龍性院は、脱走塚の北に位置している。一見すると寺というより公民館のような建物であるが、同じ敷地内に公民館もある。水戸諸生党と新政府の追討軍との戦闘(松山戦争)で水戸諸生党が前線基地とした場所である。朝比奈弥太郎の甥朝比奈靱負がこの地で戦死した。

(見徳寺)


見徳寺

 八日市場の市街地にある見徳寺は、水戸諸生党が休息をとった寺である。境内には享保五年(1720)に建立されたという鋳銅製の地蔵菩薩像がある。


鋳銅製地蔵菩薩坐像

(長泉寺)


長泉寺


水戸浪士之墓

 今泉の長泉寺には、平成二十一年(2009)に建立された水戸浪士の墓がある。戦死した水戸諸生党を弔うものである。

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旭 Ⅱ

2017年07月01日 | 千葉県
(大原幽学記念館)


大原幽学記念館

 旭市長部(ながぺ)という田圃に囲まれた場所に大原幽学記念館という不似合なほど立派な施設がある。入園料三百円。建物の外には、大原幽学の旧宅や大原聖殿などが保存されていて、史跡公園となっている。


大原幽学座像

 大原幽学は、先祖株組合と呼ばれる世界初の農業協同組合をつくった人物である。近畿、信州、房総の各地を放浪し、道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)を説き、主に長部村を中心に農村改革の指導にあたった。先祖株組合の結成、耕地整理、農業技術の指導といった農業改革のほか、独自の思想に基づいた生活改善や教育仕法なども実践し、村は領主から表彰を受けるほどの復興を果たした。しかし、農民が村を越えて活動したこと、大規模な教導所を建設したことなどから、幕府の嫌疑を受け、失意のうちに安政五年(1858)三月八日、自害した。六十二歳。幽学は、二宮尊徳と並んで、この時代を代表する農村指導者であった。小作人を集めて農地を整理し、大規模化によって生産性を向上させようという発想は、時代が少し違えば画期的な考え方であったが、生まれた時代が早過ぎたのが幽学の不幸だったのであろうか。


教会所跡

 慶応三年(1867)頃、幽学の跡を継いだ二代目の教主遠藤良左衛門時代に建てられた教場の跡地である。八畳二間に炊事場、厠をつけた家屋が三棟建てられ、庭には四本の樹木と生垣が植えられ、池が配された。西側の広場には各村の畑が二畝歩ずつ設けられ、門人たちの宿泊時に食用に供された。教会所の建物は、明治三十六年(1903)五月に火災により焼失した。


大原幽学の旧宅

 この建物は、幽学の設計により有志の出資により天保十三年(1842)に完成した。素朴で堅固な材料を用い、簡素であるが、高雅な書院造りである。屋根は萱葺き、庇は木羽葺きであったが、大正の末に銅板葺きに改修した。当時使用されていた行燈や夜具等もよく保存されている。


改心樓


大原聖殿

 旧宅から一段上ったところに大原聖殿がある。一見すると神社風であるが、鳥居らしきものは見当たらない。この建物は、幽学没後、八年忌にあたる昭和十二年(1937)に建立されたものである。当初、大原神社として計画され、本殿の後方には奥殿もつくられたが、神社としての許可がおりず、大原聖殿という名称に落ち着いたという。
 この場所には、かつて幽学の教導所「改心楼」があった。間口七間、奥行き五間の茅葺期の建物で、建設の費用、資材の提供、人足に至るまで、そのほとんどが門人たちの協力によってまかなわれた。しかし、嘉永五年(1852)、博徒の乱入の舞台となり、この事件の裁判により取り壊された。
 「天保水滸伝」の舞台として知られるように、この地域は主要交通路であった利根川流域の発展にともない、博徒が横行し、抗争を繰り返していた。関東取締出役の手先を務める博徒五名が、改心楼に押し入った。この事件は幽学の教えに反感を抱いた役人と博徒が企んだもので、これをきっかけに幽学は幕府の取調を受けることになった。
 改心楼の文字は、幕臣戸川安清(やすずみ)の書。戸川安清は、長崎奉行や勘定奉行をつとめるとともに、隷書の名手と謳われ、十四代将軍家茂の習字の師匠でもあった人物である。


旧林家住宅

 林家住宅は、旭市内の別の場所にあったものを、昭和六十三年(1988)、移築復元したものである。
 林家六代目伊兵衛は、大原幽学の指導を受けて、天保年間に建築したもので、採光、通風を考えた開放的な構造となっている。

(大原幽学の墓)


大原幽学翁墓

 大原幽学記念館から近い共同墓地に大原幽学の墓がある。「墓地入口」と書かれた大きな標識があり、そこから枯葉でおおわれた細い道を上って行く。自動車一台が辛うじて通れるような細い道で、途中で不安になって引き返してしまった。記念館の受付の女性に確認すると、その道を真っ直ぐ行くと墓地に行き当たるという。再度、同じ道を進んで、大原幽学の墓に出会うことができた。自動車は墓地前の空間で向きを変えることができる。
 墓の背後には、死に臨んで幽学が残した「難舎者義也」(捨て難きは義なり)の言葉を刻んだ石碑も建てられている。

 合田一道著「幕末群像の墓を巡る」(青弓社)によれば、この地域には「男墓」と「女墓」があるのだそうだ。幽学の説いた性学の教えが、その跡を継いだ二代教主遠藤良左衛門、三代石毛源五郎らによって継承された。この墓地も男性用と女性用が明確に分れている。

(鏑木)


開拓記念碑

 鏑木の集落も大原幽学の指導により開墾され造成された場所である。嘉永三年(1850)から四年(1851)にかけて開拓されたといわれ、当時九軒の農家により構成されていた。


鏑木

 明治四十三年(1910)に集落に開拓記念碑が建てられた。この場所も記念館の受付で確認して、行き着くことができた。ちょっと分かりにくい場所である。
 今も鏑木地区では整然と区画された風景を見ることができる。


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銚子 Ⅲ

2017年07月01日 | 千葉県
(ヤマサ醤油)


ヤマサ醤油

 門前にはためく「しょうゆソフトクリーム」が気になったが、工場見学には事前予約が必要である。


梧陵濱口君紀徳碑

 この日は梅雨入り前の週末、好天に恵まれ、本来冬の間に計画していた千葉県内の史跡探訪に出かけることにした。早朝五時に起床。銚子から東庄、旭、匝瑳、大多喜、君津、館山と予定していたスポットを全て回ることができた。帰路、海ほたるで渋滞に巻き込まれたが、これも予定とおり夕食までに帰宅することができた。

 銚子ではヤマサ醤油前の濱口梧陵紀徳碑を訪ねた。
 濱口梧陵は、文政三年(1820)紀伊の有田郡廣村(現・広川町)に生まれた。ヤマサ醤油濱口家の第七代当主。儀兵衛を襲名したが、隠居後は梧陵と名乗った。ヤマサ醤油当主としての経済的な活動にとどまらず、明治維新前後、開明家、慈善家、政治家として幅広く活動した。司馬遼太郎は「胡蝶の夢」の中で、「紳商」という言葉を用いて称賛している。
 勝海舟、福沢諭吉ら当時の先覚者と交遊し、蘭医関寛斎への援助、東大医学部の前身である神田お玉ヶ池種痘所のために寄附を行った。特に安政元年(1854)、郷里廣村が津波に襲われたとき、稲むらに火を点けて村民を高台に誘導し、危難を救った。津波のあと、梧陵は私財を投じて海岸に堤防を築いた。この堤防は今も現存しており、津波から町を守っている。
 紀州藩の参政として藩の政治に参画し、廃藩置県とともに明治政府に召されて初代駅逓頭(郵政大臣)、転じて和歌山県の初代県会議長としても声望を集めた。明治十八年(1885)、ニューヨークにて客死。
 この石碑は、生前交友のあった勝海舟の題額。重野安繹の撰文。日下部東作の書。明治三十年(1897)一月に建立されたものである。

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東庄 Ⅱ

2017年07月01日 | 千葉県
(東庄県民の森)


福聚寺

 先日、東庄町諏訪神社の天保水滸伝遺品館で勢力富五郎の墓が町内の金毘羅山にあることを知った。その時は時間の都合で諦めたが、今回ようやく訪ねることができた。
 東庄県民の森は運動施設や芝生広場などを備え、百ヘクタールを越える広大な施設である。この場所で当てもなく勢力(せいりき)富五郎の墓を探すのは無茶というものである。
 駐車場は第二駐車場を利用すると良い。あるいは福聚寺に自動車を停めて、そこから遊歩道を進む。
 福聚寺前から勢力富五郎の墓へは、片道四百メートル程の遊歩道が整備されている。行き当たったところに勢力富五郎の墓碑と歌碑が並べて建てられている。


勢力霊神(勢力富五郎の碑)と歌碑

 笹川繁蔵が飯岡一家の手によって暗殺されたのが、弘化四年(1847)のことである。繁蔵亡きあと、一家の中心は勢力富五郎が担ったが、繁蔵の仇を討とうとして、関八州の手勢に追われ、金毘羅山に逃げ込み、嘉永二年(1849)四月二十八日、この地で自刃した。
 明治七年(1874)、里人によって「勢力霊神」と刻んだ小碑が建てられ、以来金毘羅山は勢力山と呼ばれるようになった。その左手の歌碑は、富五郎の霊を慰めるために繁蔵一家の一族によって建てられたものである。

ほととぎす 金毘羅山の一声は
関八洲に響く勢力

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蒲原

2017年07月01日 | 静岡県
(蒲原宿)
 蒲原宿は東海道十五番目の宿場。安藤広重の東海道五十三次の浮世絵の中でもとりわけ印象的な「蒲原夜之雪」が残されている。温暖化の進んだ現在、この地域で積雪があるのは三十年に一度あるかどうかという頻度という。
 新蒲原駅を出て数分の場所に、広重の「蒲原夜之雪」を記念した石碑がある。


蒲原宿


蒲原宿本陣

 旧街道沿いには、本陣や旅籠和泉屋、旧五十嵐歯科医院、志田家住宅など、江戸期から大正にかけての古い建物が残されている。本陣は勅使、大名、公家などの貴人が宿泊した大旅籠である。現在残る建物は、蒲原宿の西本陣(平岡本陣)で、ここから東に百メートルほど行ったところに東本陣(多芸本陣)もあった。本陣の当主は名主、宿役人などを兼務し、苗字帯刀を許されていた。


志田家住宅主屋

 志田家住宅は、「ヤマロク」という商号で、味噌や醸造を営む商家であった。現在残る建物は、安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたものである。

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