(慈恩院)
今回、館山の再訪に際し、館山市立博物館のホームページ「たてやまフィールド・ミュージアム」を参考にさせていただいた。この情報を頼りに慈恩寺の墓地を再度歩いた。
高橋周行(ちかつら)翁之墓
館山藩士高橋周行は、稲葉正己・正善に仕えて、勘定方・公用人・江戸留守居役などを勤め、新政府との交渉にもあたった。通称文平。明治三十二年(1899)没。七十七歳。
代田蓊居士
代田蓊(しろたしげる)は、明治八年(1875)六月に没した。人物像は不明だが、天保十五年(1844)に在所詰郡奉行の代田隼登(はやと)がいる。
乙幡雲郭(おっぱばうんかく)墓
乙幡家は館山藩家老職の家柄。通称淳介といい、幕末に藩公用人として『武鑑』に名が見える。儒学者として知られ、慶応四年(1868)に隠居して手習師匠の養成のため私塾を開き、教育振興に尽した。
有無両縁群霊墓
慶応四年(1868)戊辰七月十日、当寺の二十世が建立。戊辰戦争に参戦した人々の供養塔のようである。ほとんど草に埋もれようとしている。
(上真倉)
上真倉と書いて「かみさなくら」と読む。上真倉の駐車場の一角に天狗党木村円次郎の墓がある。
妙法 蓮乗劔霊
元治二丑四月三日 木村円次郎
以下、館山市立博物館の歴史散策マップのコーナーより。
――― 上真倉の字宇和宿に下宿というところがあり、別にかあしんだい(川岸台)というそうですが、汐入川左岸に水戸藩士木村円次郎の墓があります。ここは下真倉からの道があったところで、汐入川を歩いて渡れる場所でした。墓のある場所は刑場だったと伝えられています。木村円次郎は元治元年(1864)の水戸藩尊攘派による筑波山挙兵、いわゆる天狗党の乱に加わった藩士の一人で、降伏後仲間十二人とともに、館山藩に預けられ、翌年四月木村は処刑されました。他の十二人は水戸藩へ引渡されています。
(館山陣屋跡)
館山陣屋跡
稲葉氏が館山藩主に任じられたのは天明元年(1781)のことで、寛政三年(1791)にこの地に陣屋が建てられた。
今回、館山の再訪に際し、館山市立博物館のホームページ「たてやまフィールド・ミュージアム」を参考にさせていただいた。この情報を頼りに慈恩寺の墓地を再度歩いた。
高橋周行(ちかつら)翁之墓
館山藩士高橋周行は、稲葉正己・正善に仕えて、勘定方・公用人・江戸留守居役などを勤め、新政府との交渉にもあたった。通称文平。明治三十二年(1899)没。七十七歳。
代田蓊居士
代田蓊(しろたしげる)は、明治八年(1875)六月に没した。人物像は不明だが、天保十五年(1844)に在所詰郡奉行の代田隼登(はやと)がいる。
乙幡雲郭(おっぱばうんかく)墓
乙幡家は館山藩家老職の家柄。通称淳介といい、幕末に藩公用人として『武鑑』に名が見える。儒学者として知られ、慶応四年(1868)に隠居して手習師匠の養成のため私塾を開き、教育振興に尽した。
有無両縁群霊墓
慶応四年(1868)戊辰七月十日、当寺の二十世が建立。戊辰戦争に参戦した人々の供養塔のようである。ほとんど草に埋もれようとしている。
(上真倉)
上真倉と書いて「かみさなくら」と読む。上真倉の駐車場の一角に天狗党木村円次郎の墓がある。
妙法 蓮乗劔霊
元治二丑四月三日 木村円次郎
以下、館山市立博物館の歴史散策マップのコーナーより。
――― 上真倉の字宇和宿に下宿というところがあり、別にかあしんだい(川岸台)というそうですが、汐入川左岸に水戸藩士木村円次郎の墓があります。ここは下真倉からの道があったところで、汐入川を歩いて渡れる場所でした。墓のある場所は刑場だったと伝えられています。木村円次郎は元治元年(1864)の水戸藩尊攘派による筑波山挙兵、いわゆる天狗党の乱に加わった藩士の一人で、降伏後仲間十二人とともに、館山藩に預けられ、翌年四月木村は処刑されました。他の十二人は水戸藩へ引渡されています。
(館山陣屋跡)
館山陣屋跡
稲葉氏が館山藩主に任じられたのは天明元年(1781)のことで、寛政三年(1791)にこの地に陣屋が建てられた。