史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「明治維新を読みなおす 同時代の視点から」 青山忠正著 清文堂

2017年06月24日 | 書評
歴史学の泰斗、現佛教大学教授の青山忠正先生の近著である。学術雑誌や一般読者向けの商業誌に掲載された文章ばかりであり、本格的な論文と比較すれば、ずっと読み易い印象である。
取り上げられるテーマはまちまちであるが、「昭和戦前期の国家が、自らの正統性を主張するために創作した物語を修正しながら、明治維新を読み直す」という姿勢は一貫している。副題にあるとおり、同時代の視点を大事にしながら、幕末の事象を丹念に読み直している。
その顕著な例が、坂本龍馬が重要な役割を果たした薩長同盟や船中八策にかかわる記述である。
坂本龍馬といえば、一介の浪士の身でありながら、犬猿の仲にあった薩長の間を仲介し、討幕派の成立を決定付けた。船中八策と呼ばれる政治構想を立案し、さらには土佐藩の重役である後藤象二郎に提案して大政奉還を実現させ、その結果、将軍徳川慶喜による大政奉還が成った ――― と小説やドラマで描かれていて、我々の頭にもそのように刷り込まれている。青山先生は作り上げられた龍馬の虚像を暴いてみせる。
薩長同盟の大前提として、当時毛利家が受けていた官位停止(かんいちょうじ)措置がある。この時点の木戸孝允の最大の関心は、官位停止の解除にあり、この冤罪を晴らすために薩摩の「周旋尽力」を期待していたというのである。青山先生によれば、木戸が書簡で一切官位停止という言葉を用いていないのは、明治になってから長州はひたすら朝敵の前科を隠し、その事実を口にすることを憚ったため、この大前提が曖昧になってしまったというのである。
小説では、木戸は薩摩藩邸に入ったものの、国事にわたるような話題は何も出ず、いたずらに日が過ぎるばかりであった。それが十日以上も続くので、もはや帰国しようと決心したところに龍馬が登場し、西郷を説得し、急転直下薩長盟約が結ばれることになったと描かれる。これは木戸の回想録に叙述されたものに拠っているが、肝心のことが記述されていないという。つまり毛利父子の官位復旧問題について、間もなく伝達されるはずの処分の受け入れをめぐり、木戸と西郷は押し問答を繰り返していたのである。処分案は、将軍・老中・一会桑・天子との間で最終調整中であった。この決着がついたのが、将軍から天子へ処分案が正式に奏聞された正月二十日のことであり、ちょうど龍馬が京都の薩摩藩邸に入った日であった。木戸は敢えて長州藩にとって屈辱的な毛利父子の官位停止に触れずに、あたかも龍馬の登場に拠って事態が解決したかのように記述したというのである。
龍馬の「船中八策」に至っては「創作された偽文書」と断定する。この問題に関して、知野文哉氏が『「坂本龍馬」の誕生 ― 船中八策と坂崎紫瀾』(二〇一三)という研究で、その過程を明らかにした。
明治二十九年(1896)、弘松宣枝が「阪本龍馬」において、「建議案十一箇条」を取り上げた。これが「船中八策」の初出原型にあたるという。著者弘松は、生存する関係者からの伝承を基にこれを書いたと見られる。その後、坂崎紫瀾「少年読本・坂本龍馬」(博文館 一九〇〇)などで手を加えられ、明治四十年(1907)、宮内省編纂による「殉難録稿 巻之五十四 坂本直柔」において形式と内容が整えられた「建議案八條」として掲載された。これが「船中八策」の確定版という。つまり「船中八策」はもともと存在しないものであり、弘松、坂崎そして岩崎鏡川(「坂本龍馬関係文書」の文部省維新史料編纂官)という、いずれも土佐出身者が、土佐の事績を顕彰しようという意図をもって作り上げたものだというのである。
青山先生は有名な「龍馬暗殺」について言及している。ここでは詳細は省くが、「学問研究のレベルではなく、もはや政治的な言説の世界」と結論付けている。
本書では安政の大獄から大日本憲法の制定まで論じ、井伊直弼から高杉晋作、赤松小三郎、伴林光平、横井小楠、大村益次郎まで幅広い人物を取り上げる。西南戦争について「西郷は、みずからの最期を承知のうえで、鹿児島士族のために身命を預けた」と総括するが、詳しい論証は省かれている。その論拠を知りたいものである。

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