史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

八幡 Ⅱ

2016年12月03日 | 京都府
(念佛寺)


念佛寺

 念佛寺門前には「戊辰史蹟念佛寺」と記された石碑がある。鳥羽伏見の際、この辺りも戦場となり、念佛寺も全焼したという(八幡市八幡山路29‐1)。


浄釼清雲居士位(名波常蔵の墓)

 墓地に鳥羽伏見の戦いで戦死した大垣藩士名波常蔵の墓がある。
 名波常蔵は、大垣藩、二番兼用隊卒。慶応四年(1867)一月五日、山城淀にて戦死。二十四歳。
 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、念佛寺には名波常蔵のほか、森国蔵、矢野才次郎、渡辺右一郎という大垣藩士(いずれも一月五日、淀もしくは鳥羽堤にて戦死)が葬られているらしいが、名波常蔵以外の墓は発見できず。

(安居橋)
 放生川に架かる安居橋(あんごばし)は、慶應四年(1868)一月の鳥羽伏見の戦いで焼失した。現在かけられている橋は、その後再建されたものである。


安居橋

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伏見 Ⅹ

2016年12月03日 | 京都府
 この日は、鞍馬に住むいとこの旦那さんが、鞍馬火祭り保存会の会長を務めている関係で、火祭りに招待を受けた。鞍馬の火祭りは、毎年十月二十二日に開かれるが、深夜に及ぶためサラリーマンはなかなか参観が難しい。今年はたまたまこの日が週末に当たったので、金曜日に仕事を終えて京都に移動することになった。祭りの当日、午前中は特に用事がなかったので、伏見から八幡を歩いた。


鞍馬の火祭り

(御香宮神社)
 御香宮神社の門を入って左手に「天明義民事蹟碑」が建てられている。これは、天明五年(1785)、時の伏見奉行小堀政方の悪政を幕府に直訴し、伏見町民の苦難を救い、自らは悲惨な最期を遂げた文殊九助ら七人を顕彰したものである。この結果、小堀政方は奉行を罷免されたが、九助らも投獄され、獄中で相次いで病死した。この碑は、明治二十年(1887)、撰文勝海舟、題字三條実美の書により建立されたものである。


伏見義民事蹟碑

(天田愚庵終焉の地碑)


愚庵終焉之地碑

 御香宮神社から西に十二~三分ほど歩いた住宅街の中に愚庵終焉の地碑がある(伏見区桃山町泰長老148)。
 天田愚庵は、安政元年(1854)に平藩士の子に生まれ、慶応四年(1868)の戊辰戦争に出陣した当時は十五歳であった。このとき両親・妹と生き別れとなり、以後二十年間肉親を探して全国を行脚した。その間、山岡鉄舟の知遇を得、清水次郎長の養子となったことが縁で「東海遊侠伝」を著わした。明治二十五年(1892)に京都清水に庵を結んで、愚庵と称し詩作に専念した。明治三十三年(1900)に桃山に移り、明治三十七年(1904)当地にて没。五十一歳。福島県いわき市に桃山の草庵が移築されている。
 京都は史跡の宝庫であるが、このような無名の人物の所縁の地にまで石碑が建てられている。まだまだ奥が深い。

(乃木神社)


乃木神社

 乃木神社は、明治天皇に殉死した陸軍大将乃木希典を祀り、伏見桃山御陵のそばに大正五年(1916)に有志の人々に手によって創建された(伏見区桃山町板倉周防32‐2)。表門は四脚入母屋造、門扉は樹齢三千年紅檜一幹という重厚なものである。境内には日露戦争の際に第三軍司令本部として用いたという中国風の民家や乃木希典の遺墨、遺品、ゆかりの品々を陳列した宝物館、そして長府の生家を模した建物などがある。


乃木将軍景仰之碑


学習院長時代の乃木将軍


乃木将軍長府舊邸

(料亭「清和荘」)
 平成二十一年(2009)、墨染の料亭清和荘の前に「近藤勇遭難の地」碑が建てられた(伏見区深草越後屋敷町8)。


近藤勇遭難の地

 慶應三年(1867)十二月十八日、伏見奉行所に陣を移した新選組局長近藤勇は、京都町奉行所の若年寄永井玄蕃頭(尚志)との軍議のため、二条城に赴いた。近藤は護衛約二十を伴っての帰り道、伏見街道が屈曲する墨染通り付近で狙撃された。襲撃したのは、御陵衛士の残党、阿部十郎、当時薩摩の伏見藩邸にいた篠原泰之進、加納道之助、富山弥兵衛らであった。銃弾は近藤勇の左肩に命中したが、致命傷には至らず、近藤はそのまま馬を駆って伏見奉行所に逃げ込んだ。近藤は治療のために大阪に退き、鳥羽伏見の戦いに参戦することができなかった。

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