史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

益子

2012年04月03日 | 栃木県
(亀岡八幡宮)


亀岡八幡宮

 益子町の亀岡八幡宮の創建は、康平七年(1064)というから、千年以上の歴史を有する神社である。日本には長い歴史を持つ神社が、あちこちにさりげなく存在している。
 戊辰戦争の際、新政府軍はこの神社で戦勝祈願を行った。




 境内には、大小様々の石造りの亀がたくさん置かれている。

(鶏足寺)


鶏足寺


長棹速水之墓

 長棹速水は、黒羽藩士。斥候に出て官軍に捕えられ、蓼沼村で斬首された。

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那珂川

2012年04月03日 | 栃木県
(乾徳寺)


乾徳寺


北條重春(斧四郎)之墓

 馬頭の街並みから、さほど離れていないにも関わらず、乾徳寺の境内は深い森に覆われている。かつてこの裏手の山は、武茂城があって、宇都宮氏の有力な豪族であった武茂氏の本拠地であった。乾徳寺には武茂氏歴代の墓があるが、その直ぐ横に北條重春の墓がある。
 『下野の戊辰戦争(大嶽浩良著)』では、北條重参(しげみつ)と表記されているが、墓碑では「重春」と読める。北條重春は、水戸藩諸生党郷士であり、市川三左衛門のもとで北越、会津を転戦した。会津落城前に脱出し宇都宮に至ったが、敵兵に見つかり自刃した。当初、宇都宮の桂林寺に埋葬されたが、門弟たちにより明治十六年(1883)に乾徳寺に改葬された。

(大森元徳碑)


大森元茂碑

 小口村(現那珂川町馬頭)の大森家は、水戸藩の郷士であり、天狗党に属した。市川三佐衛門の率いる諸生党が、水戸帰還のために馬頭を通過した際、小勢のために敵せずその後を追って水戸に進んだ。十月に入って弘道館の戦いで天狗党は勝利を収めたが、大森元茂は戦没した。三十四歳。道路沿いに建てられた顕彰碑は、明治三十五年(1902)に建立されたものである。

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塩谷

2012年04月03日 | 栃木県
(斉藤家)


斉藤家四脚門

 慶應四年(1868)八月七日、鬼怒川東岸の舟生村(現塩谷町舟生)を旧幕軍が襲った。舟生には新政府軍が駐屯していたが、たびたび旧幕軍の襲撃を受けたため、西舟生と熊ノ木に陣所を設けていた。主力は宇都宮藩と壬生藩。戦闘は小一時間で終了し、この間に三集落三十三戸が略奪、放火された。


土塁

 舟生の戦いで西舟生村の名主斉藤平作方は、二度にわたって兵火にあい、母屋や蔵などを焼き払われた。四脚門は焼失を逃れた。門前には土塁も往時のまま残されている。

(西古屋霊園)


大島利平(右)
大島治郎左衛門

 慶應四年(1868)八月七日の舟生での戦闘で戦死した軍夫大島利平(五十三歳)と大島治郎左衛門(三十八歳)の墓である。二人は西古屋の出身で新政府軍に徴発されて道谷原地内に設けられた見張り小屋で見張りをしているところを旧幕軍の急襲を受けて戦死した。後年、二人の霊を弔うために明治政府が建てたものである。

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今市 Ⅱ

2012年04月03日 | 栃木県
(和尚塚)


無名戦士の墓

 今市市役所の駐車場に車を置いて、歩いて日光街道に出る。案内などはないが、杉並木の中に戊辰戦争の無名戦死者を弔うために建てられた墓がある。今市攻防戦における旧幕軍の戦死者二十数名を、付近の住民がここに埋葬したものという。
 目印は「小林歯科医院」である。歯医者さんの前の道を渡った木立の中にある。

(法蔵寺)


法蔵寺

 法蔵寺の所在する大桑村は日光社参のための本陣や宿屋、茶屋などを備えた宿駅の機能を持った村であった。慶応四年(1868)、閏四月十九日、五月七日およびその翌日の三回にわたって、戦火に襲われた。法蔵寺も山門を残して堂宇は全て焼失した。


山門

 赤門と呼ばれる山門は、唯一焼け残った。


樫の木

 境内に残る大きな樫の木には、上部の幹に戦火の焼け跡が残っている。

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