からくの一人遊び

音楽、小説、映画、何でも紹介、あと雑文です。

八星 LUCA + haruka nakamura

2018-12-11 | 音楽
八星 LUCA + haruka nakamura



Tahiti 80-Cecilia



つまらないものですが / 片桐麻美



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「しょうがないわよね」という顔が、何分とかからないうちに「アンビリーバブル」になるところが痛快。

こうやって同じ時代の息を吸って、評価を受ける日本人、評価を受けていなくても今、この時代にあくまでも前を向いている日本人は誇りに思えるけれど、過去のことを「真実は」などとほじくり返し(いや、ほじくり返すことも必要であるけれど)、そのことで日本人は素晴らしい民族だと言われても誇りは持てないんだよね。

だって、同じ時代の空気を吸っていないし、歴史の中の「真相」を知ったところで何故「誇り」に思わなければならないのか分からないからだ。

「誇り」は自分が生きてきた時代の中で、その時々に目で見て、聞いたことに対して持てばいいと思う。自分の誇りは一生を終える時に判断すればいい。


歴史を否定する訳ではない。

偉人はどんどん尊敬すればいいし、悪人とされる人物だって「真実」を推測するのもいい。学者の目で分析するのもいい。

ただ、現代のなんらかの思想と宗教などが歴史に関わりあってくるとややこしいことになる恐れがある。

それは「再洗脳」に繋がる。

つまり今まで洗脳されていたと真実を追い求めていたのに、今度は異なる「洗脳」を受けてしまう訳だ。


話は変な方向に行ってしまったけれど、日本人としての誇りを持ちたいのならば、今の日本人あるいは国が世界に向けてどういうことをしているのか

勿論国内に於いてもどういうことが行われているのか、そしてそれらを世界がどう評価しているのかをよく考え、行動していく必要があるのではないかと思う。

いつまでも「昔の栄光」にばかり目をむけ、ましてや「新たな栄光」をほじくりかえし、それを「誇り」に置き換える時代ではないし、そんな暇なんてないのではないだろうかと思う。





片桐麻美さんのことを書きたかったのだけれど、変な回り道をしてしまった。失礼。

彼女はポプコン出身者で、恐らくデビューが1986,7年だったと思うのだけれど、それ迄のポプコン出身者とは明らかに違う。

良きにつけ悪きにつけ、それ迄のポプコン出身者の曲というのは時代の流れに沿った形のものが主流だった。

それが、この人の曲は時代に逆行している。


私は初めてこの人のアルバムを聴いた時に「ヤバイ」と思った。

せっかく洋楽を聴き続けてそれなりの耳を持ち、邦楽も洗練されてきたなと思ってきた時期で、この人の曲を聴いた時また昔に引き戻されると感じたからだった。

昔に引き戻されることはただの感傷でしかない。

今では「それもいいじゃないか」と思えるようになったのだけれど、その当時の私にとってそれは許されないことであった。

結局一枚だけアルバムを聴いて、私は彼女を諦めた。


そして今日、偶然に彼女の曲に出会い、その歌詞の素晴らしさに気付いた。

情景が一編の小説のようにすっと浮かぶのだ。

これは後ろ向きとか感傷とかではなく、一人の女性の人生における私小説を読んでいるような感じと言ったらいいのだろうか?


そう感じたのは、私の音楽に対しての受け入れる範囲が広くなったせいかもしれないけれど、一方で当時受け入れられなかったのはもしかして私にとって「時が必要な音楽」だったからではないのか?とも思う。


多分、明日も彼女の曲を聴くことになると思う。

聴きたい。

今は素直にそう思える。

コメント
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