からくの一人遊び

音楽、小説、映画、何でも紹介、あと雑文です。

Drop's 「かもめのBaby」 Music Video

2019-12-30 | 音楽
Drop's 「かもめのBaby」 Music Video



遠い願い 久保田麻琴  MakotoKubota



【LivePV】GIA RHYTHM「茜の空」



森田童子 - さよなら ぼくの ともだち(1975)




今日、半径500メートルほどの周りの距離をぐるりと歩いてみたが、しめ飾りとかしめ縄とかお神明とか、あとドアに貼る門松の絵さえも、ほとんど見なかった。飾ってあったのは2、3件?近くのちょっとした会社さえも何にも飾って無かった。

うちはいつも門松の絵を張って、あと神棚とか玄関とかトイレとかの入り口等にお神明を張っている。

そういえば、この場所に来た頃(子供のころ)は、祝日に日の丸をどこの家も掲げてなくてびっくりしたことがある。うちも目立つのでそのうちやめてしまったけれど。

今度は正月飾りの消滅か・・・・。特にバブル破裂以降、そういったものがどんどんなくなってきたような気がする。

年末に「緑のたぬき」の我が家もそうだけれど、みんなまだまだ不景気なんだよな。

なのに冬のボーナス増額?賃金アップ?

・・・・なんだそれって。
コメント (4)
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浜田省吾 『悲しみは雪のように (ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend")』

2019-12-29 | 小説
浜田省吾 『悲しみは雪のように (ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend")』













・・・・・・りこちゃんの話をしなければなるまい。













     6

あの頃の亮介たちにはひとつの目標があった。
 昔、「街の杜音楽会」と銘打ったライブ・コンサートが存在していた。簡単にいえば野音みたいなライブなのだが、例えばロックインジャパンフェスみたいに規模は大きくないし、開催時期も決まってないし、開催場所も確定されていない。ただ一年に一度、突然各音楽雑誌に、大きく日時と場所と募集要項が載った広告が掲載される。ここではじめていつ開催されるのか、どこでやるのか判明することになるのだが、夏であったり冬だったり、海岸沿いでやったかと思えば、大きな公園で開催したりと様々であった。参加アーチストはインディーズに限り、ただし、将来性があり相当数の集客力が見込めることが条件で、ライブハウス等の責任者の推薦がいる。
そもそもの始まりが或る大物音楽プロデューサーがほんの思いつきでお遊び程度にと企画されたコンサートなのだそうだ。
 持ち時間は三十分、参加者十組程度のライブであったが、それでも、千人近くは集客でき、これを契機に本格的にメジャーへと飛躍していったアーチストが多数存在したこともあり、彼らにとっては、そこで演ることは一つの大きな目標となっていたのだ。例え、大御所のお遊びであってもだ。
キンキー・ハウスの長谷さんから推薦の打診があったのは、美奈子がメンバーに加わって、一年が過ぎようとした時であり、彼らのライブが、中規模のハコならワンマンで、常に二、三百人は動員できるといった状況になっていた頃であった。
 その日、彼らの単独ライブが終わって、相当数の客が帰っていったあと、カウンター席に陣取り、彼らは彼らだけのささやかな打ち上げをしていた。本来なら、貸切にして人を集め、大規模な打ち上げをすれば店の売り上げに貢献できるのであろうが、亮介たちにその気はなかった。
「君らどう思う?」長谷さんは彼らに近づき、雑誌の広告ページを開いて志村の前のカウンター上に置いてみせた。
「街の杜って・・・、俺ら出れるの?」
 志村が目を見開いて起ちあがり、雑誌を手にして皆に見せまわった。公演場所は上野恩賜公園、日時を見ると三ヶ月後だった。
「推薦さ、推薦、出られるかどうかは、主催者側の選考次第、だね」
長谷さんは目尻を掻き、(どうだい、良いじゃないか)という仕草をしていた。
 志村のみならず、皆一様にこの申し出に驚いていた。勿論、彼らもいちアーチストである限りは、いつかは・・、と思っていないでもなかった。しかし、それが今だなんて、そのときが訪れるなんて夢にも思っていなかったのだ。
「君らのことは、他のハコからも聞いているよ。最近では、どこでも満員御礼だそうじゃないか。もうプロといってもいい」
 長谷さんはまるで我がことのように、満足げに両腕を胸の前で組み、背中をややそらし気味にしていた。
本当に?、と美奈子が機嫌を伺うように言うと、本当だ、と長谷さんは言った。
「他にもここで人気のバンドはいるよね」
 とっぺいが訊ねると、長谷さんは視線を落とし、少し考えるようなふりをした。
そして、ゆっくりと視線を戻すと、亮介たちそれぞれを見渡した。
「君らがいいんだ」
長谷さんははっきりと公言した。
「君らの音はぼくの好みなんだよ、そして君らの音はきっと選考委員の耳に止まる。そう信じているんだ」
 亮介はやや複雑な感は否めなかったが、初めて漏らした長谷さんのこの本音に、自分たちの音が本当に認められたようで素直に嬉しかった。
「お願いします、お願いいたします、うん、うん、みんないいよな」
 志村は、反論もしていない彼らを説き伏せるように、同意を求めた。お互い(どうする?)という顔をして見合わせてはいたが、勿論異論はなかった。
「お願いします」
 亮介が言うと、そうか、じゃあ店長にも許可をとってあるし、後の手続きはこっちでやるからさ、と長谷さんは腕組みを解き、カウンター席から離れていった。
「乾杯!」
 降って沸いたような幸運に亮介たちは祝った。(ともかく、階段に片足が掛かった)彼らはみなそう信じて疑わなかったからだった。
 
十一時を相当過ぎ、スタンディングの客の邪魔にならないようにと、ホールの後方に寄せられた二十席程ある小型のテーブル席もほとんどが空席だった。ライブが終われば、貸切でない限り、ここはフリーのカフェ&バーと化すのであるが、一部の席では、女の子たちが、時々亮介たちのほうに目を向けながら、異様に騒いでいた。
「なあ、ふたり、帰ったのか?」
 先ほどまで左頬をカウンターテーブルの上に押し潰すようにして、酔い潰れ、おまけにいびきまでかきだしていたはずの志村は、ムックと起きだして、はああ、と両腕を後方へ大きく反らすようにして、眠たそうな涙目で隣にいる亮介を見つめた。
「ああ、ほんの二十分程前かな、美奈子もとっぺいも、門限があるってそそくさと帰っていったよ、時計を気にしてさ」
「門限?美奈ちゃんは分からないでもないけど、とっぺいが、か?」
「はは、冗談さ、本当はバイトだ。音楽出版社のね」
 こんな時間にかあ、出版社って不規則なんだな、と志村は自ら勝手に納得し、神妙な顔つきで転がっていたグラスを片手にし、生温くなってしまったビールを注ぎ込み、ご苦労様と杯を掲げ、一気に飲み干した。
「美奈ちゃん、送ってかなくてよかったのか?もしかして、今頃とっぺいと乳くりあってるかもしれないぜ」
 小馬鹿にしたような志村の言葉が心臓にキリきりと突き刺さった。そしてすぐに、知っていたのかと思った。亮介は少なからず動揺した。
「いつから・・・」
「うん?」
「いつから気づいていたんだ?」
 亮介の顔に戸惑いが表れていたのか、志村はぷっと吹き出しそうになり、くっくっくと必死に笑いを堪えていた。
「そりゃわかるさ、ライブでの美奈ちゃんの視線、頼るような安心しきった視線の先にはいつもいたのだよ、亮介君がさ」
「・・・・・」
「まあ、もっとも最初に気づいたのはドラムのとっぺいだがな。三ヶ月程前だったか、美奈ちゃんのお前を見る目がどうもヤバイ、あれは恋する女の目だときやがった。奴は一番後ろで俺らをいつも観察しているんだ、いち早く気づいて当然さ。で、悪いが、ライブの最中俺もそれとなく観察してみた。結果はクロだ」
 クロか・・・、確かに亮介は彼女のその視線に気づいていた。観客には分からないように彼女は、まるでベッドの中で男に腕枕をされている最中の女のような、そんな頼りきった視線を亮介に向けていた。亮介はその都度、微かに笑みを返し、彼女に近づき、彼女の耳元で最高だ、と囁いていた。すると、彼女は本当に最高なパフォーマンスをしてみせた。二人のそんなやりとりに、特別な匂いを志村達が嗅ぎ取るも当り前だった。きっと自分たちは頭足らずの恋人のようになっていたのかもしれない。
「で、どこまでの関係なのさ、あんた達は」
 まるでオカマのような志村の口ぶりに亮介は破顔した。
「どこまでっていっても、まだ個人的には、手も握ってない」
「オー・ノー、本当かよ、例えば肩を抱き寄せ合ったり、思わずキッスをしちまったりとかないのかよ」
「うん、まるっきりない」
 亮介は変にいばるような調子で言った。
「ないって、そんなお前なあ、中坊かよ、お前らは!」
志村は仕方がないなといったように顔を左右に振った。そして、考えをめぐらすように首を傾け、すると、こりゃ俺が骨を折ってやるしかないかなと、微かに呟いた。
「明日夕方、そうだな五時ごろがいいかな、俺のとこ来い、いいか二人でだぞ、明日は日曜だから彼女も空いているだろう?いいか、必ずだぞ」
 志村はそう言い切ると、腕を組み、うーんと何やら考え込み、それから思い出したように、カウンター上の小皿に残されていたアタリメをくちゃくちゃと口に放張りはじめた。


 次の日の朝、亮介はいつもより早い時間に目覚め、起きた。志村のところを訪問するのは夕方だし、美奈子に電話するにしても相当早い時間だったので、もう一眠りしてもよかったのだが、妙に頭が冴えてしまって眠ることができなかった。昨日、志村と亮介は、十二時前にライブハウスを後にし、池袋駅で別れた。別れ際、じゃあ、明日ぜったいだぞと志村は亮介に再度念を押した。やつのところに二人で行くことに何の意味があるのだろうと勘繰ったが、亮介はいやな顔も見せず、ああといって彼と別れた。
 朝飯もそこそこに、亮介はそこらへんに放ってあった情報雑誌を手にした。四畳半、テレビもない狭いこの部屋の大きな利点は、何処にいても手を伸ばせば望みのものを手にすることができる、ということだけだった。一度、美奈子をこの部屋に招待しようかと迷ったことがあったが、狭く男の匂いが充満しているであろうこの部屋に、彼女を招き入れるのは憚れた。結局亮介は諦め、ああ金があったらなあと自分の境遇に誰に対してもでもなく恨んだ。
 亮介の部屋にも入れたことがない彼女を志村の部屋に連れて行くことに、順序が逆だろと変な違和感を感じながら、亮介は情報雑誌のページを捲った。上板橋の駅近くには上板シネマという小さく古びた映画館があった。きっと百人も入らないだろうと思われるその映画館の上映予定を探し当てると、丁度、亮介の好みの監督の作品が上映されていることに気づき、これがいいかなと思った。
 その映画の名前は「さびしんぼう」、亮介は志村の部屋を訪れる前に、美奈子とささやかなデートを目論むことにした。

 映画館は異常なほど空いていた。日曜日だというのに、空いている席のほうが多い位で恐らく、この映画館もそう長くはないのかなと思った。
 映画の内容は、ドタバタのコメディーのようで、所々で感動させられる場面が散りばめられていた。簡単に説明すると、尾道を舞台にした少年ヒロキの淡い恋、そしてそれに絡めて、彼の前に突然現れた白塗りの少女(さびしんぼう)とヒロキとの交流を描いたファンタジーといったところか。ショパンの「別れの曲」が効果的に流れていた。亮介の右隣に座っていた美奈子は「別れの曲」が流れるたびに、今まで耐えていたといったように涙があふれだし、「さびしんぼう」とヒロキの母親とのやり取りにはケラケラと笑っていた。
亮介はそんな彼女を愛おしく感じ、何度も彼女の左手を握ろうと目論んだが、何度も躊躇し、やっと握れたころには映画はラストシーンを迎えようとしていた。 
亮介に手を握られた美奈子は少し驚いたように亮介のほうを振り向いたが、すぐに前に向き直った。彼女は心なしか肩を亮介のほうに傾け、いい映画ねと小声で囁いた。彼女の掌はあたたかく、そして柔らかかった。
 志村の住んでいる高島平のアパートまでは、映画館から歩くと三十分以上はかかる。電車でいったほうが楽ではあったが、一度池袋を経由しなければならなく、時間もかかる。時計をみると四時過ぎだ。彼らは相談した結果、歩いていくことに決めた。
 アパートに着く間、美奈子は映画の感想を、よかった、よかったと繰り返し、亮介が、何処がよかったんだい、と聞くと、全部よと答えた。彼女は白のTシャツにチャコールグレーのスリムジーンズという井出達で、亮介は改めて彼女のスタイルの良さに気づき、歩きながら彼女の左手を握った。彼女は私たち中学生みたいねと笑い、亮介はそれでいいんだと腕を振った。亮介はそれまで、女性と付き合った経験がない訳ではなかった。キスの経験もそれ以上の経験もしている。でもこれでいいんだと思った。俺たちの場合はゆっくりと急がず、愛がそれについて行けばいいんだと考えていたのだ。亮介は幸せだった。それはきっと美奈子も同じことだと信じていた。
 四十分程歩き、亮介たちは志村の住んでいるアパートに辿り着いた。築十年という白い壁のアパートは亮介の住んでいる下宿先に比べれば、相当立派な建物だった。時計をみると五時十分前だ。二階の東端にあるはずの志村の部屋を目指して階段を昇り、彼の部屋の前のドアまで来て、呼び鈴を鳴らした。ガタンという何かにぶつかる音がして、続けてはーいという女の声がした。部屋間違えたかなと亮介は訝り、でもすぐにドアは開けられた。
 姿を現したのはやはり女性だった。すいません、部屋間違えちゃったようでと、立ち去ろうとする彼らを制して、彼女は亮介君と美奈子さんでしょう、お待ちしてました、と言った。きっと相当変な顔をして驚いていたのだろう、彼女は、ふふと含み笑いをしてから、シムちゃーんと奥にいるらしい志村を呼んだ。
 それが「りこちゃん」との最初の(もっともそれが違っていたことに後で気づくのだが)出会いだった。

六畳と四畳半、1Kトイレ付の部屋は清潔感に溢れ、見事なまでにきっちりと片付けられていた。六畳の部屋には隅に最新型のテレビが台の上に設置され、その横には白い花瓶に正体不明の黄色く小さい花が適度に生けられていた。向かいの隅には志村が中古で買ったレスポールが立てかけてある。辺りの空気は、亮介の部屋と違って男臭さの欠片もなかった。

「さあさ、飲みなさいよ」
 りこちゃんは冷蔵庫から冷えたバドワイザーの350ml缶を数本出し、プルトップを引いた。それから、テーブルの上に伏せられていたグラスを手に取り、彼らの前に置くと、亮介のグラスにとくとくと注ぎ、続いて美奈子のグラスにも、飲めるのよね、と注ぎ始めた。長方形の茶色いカジュアルテーブルの真ん中には、白菜やきのこ類、豚肉や大根などがごった煮にされた鍋がカセットコンロの上に載せられていた。それぞれの前にはポン酢が入れられた深底の小皿と割り箸がある。
「そろそろ暑くなろうって頃に鍋なんてな。
まあ、でも何人かで集まるときは季節がなんであろうと鍋が一番だ。まっ、食え食え」
 志村はそう言うと、真っ先に鍋に箸をつけた。
「なあ、・・・その前に、さ」
 亮介はビールの入ったグラスに目をやった。
「ああ、そうだな、乾杯だよな、乾杯、そうそう、当たり前のことなのに」
 志村は、摘んだ豚肉をまた鍋に戻し、箸を置いた。
「いや、それもあるけど、なんていうかこの状況、俺はさっぱり飲み込めない」
 先ほどから言おう言おうと思っていたことをやっと亮介は口にすることができた。志村の隣に座っている彼女、彼女が何故ここにいるのか、どこの何者なのか、いきなり顔をあわせてからここに座らされ、彼女が鍋を用意し今に至るまで、志村からまるっきり詳細が語られることがなかったのだ。
「あれ?何も言ってなかったっけ?そうか、そうだよなあ、初対面みたいなもんだもんなあ、おまえらが訝るのも無理もない、ええとそうだな、まず名前は東条るりこだ。ただし、本人はこの名前が好きじゃないらしく俺は(りこ)と呼んでおる」
 志村が早口で捲くし立てると、彼女は立ち膝になり、りこです、よろしくお願いいたしますと彼らに挨拶した。初対面みたいなもの?亮介は訝り、あらためて見ると、顔の丸い娘だなと思った。目もくりっとして、櫛どおりのよさそうなロングの髪がすうと伸びていた。
「・・で、俺と彼女は付き合っておる。出会って半年、で、これはどうでもいいことだが、今現在は同棲中の身だ。ほら、これでいいか?これ以上何を言わせんだい。・・・・いや、俺が勝手に喋っているのか」
 志村の様子にりこちゃんは、馬鹿ねえとけらけらと笑っていた。
 隣にいる美奈子と顔を見合わせ、同棲だと?同棲、いきなり志村に告白され、どういう顔をすればいいんだと思った。
「二人はどうやって知り合ったんですか?」
 美奈子は彼女に話しかけた。
「キンキー・ハウスの隣、喫茶店があるでしょう?」
「ええ」
「私、そこで働いているのよ」
 キンキー・ハウスの隣には「ブロンクス」という名の喫茶店があった。コーヒーが旨く隣ということもあって、彼らはたびたびそこを待ち合わせの場所にしていた。そういえば、と思ったとき、
「やっぱり!私何処かで会った事ことあるとさっきから思っていたの」
 美奈子はわーと顔を紅潮させ言った。
「私のシフトのとき、ね、このひと一人でいてそのときにね、誘われたんだ。あなた達のライブ観にいったこともあるし、ものすごくきれいなギターを弾く人だぁ、って思っていて、バンドの人は手が早いよ、気をつけなって店長に言われていたんだけど、まあそれならそれでいいやって思ってね、うん、思ってたらこうなっちゃったのよね」
 まだ何事か聞きたそうな顔をしている美奈子を尻目に、まっそれはともかくさ、とりあえず乾杯だ。志村は頭を掻き、みんなで乾杯した。
亮介は同棲という言葉に憧れを抱きながら、でも志村の告白に一種の悔しさを感じ、鍋を必死に突いた。それから、美奈子とりこちゃんが昔からの友人のように仲良く話をしているのを眺め、そこで初めて‘そういうことだったのかと気づいた。

















     7

女の笑い声で目が覚めた。その笑い声があまりに甲高かったので、うーんと亮介は不機嫌そうな声をだし、カウンターから身体を起こした。ああ、ここは「キンキー・ハウス」だったと微かに思い出していると、
「ごめんね、起こしちゃった?」
 美奈子は亮介に声をかけ、りこちゃんは、ごめんなさいと両手を合わせていた。どうやら自分は酔い潰れていたようだ。りこちゃんの隣にいるはずの奴がいないので、志村はどうしたと聞くと、店の外よ、外・・・、いい空気を吸いたいんだって、ちょっと気持ち悪くなったみたいと、りこちゃんは仕方がないわよねぇという顔をした。とっぺいは例にもれず、バイトに行った。時計を見ると、十一時を過ぎていたので、時間だぜと美奈子に訊くと大丈夫よと平然と亮介に返し、またすぐにりこちゃんと話し始めた。
 あの日以来、りこちゃんは許可を得たとばかりに、“くれよん”のライブがある度毎に顔を出し、さすがに楽屋には顔をださなかったが、それ以外は亮介たちといつも行動を共にするようになっていた。あまりに顔を出すので、最初、彼らは少し引き、志村も仲間の手前、わざと邪険にするような態度を取っていたが、彼女が意外と音楽に造詣が深く、ザ・スミスのファンだということが判明すると、彼らは彼女を歓迎するようになった。彼女は、ジョニー・マーのギターセンスに魅了されていて、特にスティル・イルが最高だと語った。そして彼女はとても明るい性格で、ビートたけしのまねをしたりと、時に彼らを大いに笑わせてくれた。
そんなりこちゃんの田舎は山梨だと聞いていた。美奈子が葡萄と富士山ね、と言うと、うんそれだけが自慢のちっちゃな県よと、りこちゃんは自虐的に笑った。信玄堤の傍に建てられた施設で育ち両親の顔はまったく記憶がないらしい。高校卒業後、しばらくは地元の工場で働いていたが、会社の経営が悪化し、その工場が山梨から撤退することになったため、二十二歳のときに工場を辞め、山梨から東京に出てきたのだそうだ。三年の間に貯めた貯金で部屋を借り、アルバイト情報誌の片隅に載っていた「喫茶ブロンクス」の「ウェイトレス求む」という募集広告をみて応募したら、面接でそこの店長も山梨県出身だということが分かり、即時採用された。山梨県人は仲間意識が強いのよと、りこちゃんは複雑そうな顔をして、ブロンクスでお金を貯めたら美容学校の入学金にするのだとおどけてみせた。

 中々志村が戻って来ないので、一寸見てくると彼女達に言い残し、その場を離れた。彼女達は自分達の話題に夢中で、完全無視だった。まったく女って奴は・・、と独りごちながら亮介は扉を開け、階段を昇っていった。
 志村は、国道沿いのガードレールに寄りかかりながら、何やら空を見上げていた。星でも見えるのか?と聞くと志村が見えると答えたので、亮介も空を見上げた。
「見えないこともないんだな」
志村は独り言の様に言った。
「うん、見えるんだな」
 亮介は答えた。確かに微かではあるが、暗い空にひとつ、ふたつと星は光っていた。そして、志村の言葉が何かの歌の歌詞のように思えて可笑しくなった。
「何か可笑しなこといったか?俺」
「いいや」
「じゃあ、なんだ」
「うれしいのさ」
「何が?」
「(街の杜)出場決定がさ」
「ああそうだな、いよいよだ」
「うん、いよいよだね」
 吉報をもらったのはライブの前、長谷さんからだった。参加バンド達はそうそうたるメンバーだった。長谷さんは、本当に我がことのように喜んでくれて、打ち上げの代金はいらないから今日はどんどん飲んでってよと大判振る舞いしてくれた。一緒にいたりこちゃんもやったねと言い、大層喜んでいた。
 あと一ヶ月。
 亮介たちの夢のひとつを適えるまであともう少しのところまで来ていた。そして、それからあとは・・・、と考え始めたときに、おーまえらー、帰るぞーと今頃酔い始めたらしいりこちゃんと、ふふふ、と含み笑いしている美奈子が姿を現した。時計を見ると、長針も短針も十二の数字に近づいていた。日時が変わる前には帰れないなと亮介は思い、志村も呆れ顔で、それぞれ電車に遅れまいと酔っ払いの女二人の手を引き、駅まで走った。途中、亮介が、りこちゃんの手を引き、志村が美奈子の手を引いているのに気づき、違うだろうと亮介はりこちゃんの手を放し、志村は美奈子を乱暴に振り回し、亮介の方に放って寄越した。美奈子はきゃっと叫び、くるっと回りながら、亮介の胸に抱かれた。美奈子は少しビックリしたようだったけど、優しい顔をしてそのままにしていた。亮介はたまらなくなり、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「もうすぐ夢が叶う」
 亮介がそういうと、彼女はこくんと軽く相槌を打ち、もうすぐだわと呟いていた。
 りこちゃんはそんな亮介たちの様子を見てこれでいいのだー、と「バカボンのパパ」のように叫び、志村はこの酔っ払いがあ、と他人のふりをしていた。





 りこちゃんが高熱を出し、救急車で運ばれたのは、それから二週間が経った頃だった。
夜中、志村がりこちゃんの異変に気づき、背中が痛い痛いというりこちゃんの背中を必死に擦ったが、一向に状態は治まらず、熱を測ってみたら、なんと四十度もあったらしい。
慌てて、119番に電話を入れ、近くの大学病院の救急センターに運び込まれるという事態に陥った。
レントゲンを撮ったりしたが、先生の診断結果は原因不明、恐らく風邪をこじらせたのでしょうということだった。
原因不明ということが引っかかったが、病院で診察を終えて、ともかく二、三日検査入院できることが決まったこともあって、志村はほっと胸を撫で下ろした。
志村からの連絡を受け、亮介は次の日の午後、早速板橋区にあるその大学病院へ出向き、りこちゃんを見舞った。りこちゃんは三階の305号室にいた。
「元気そうじゃないか」
亮介がそう言うと、りこちゃんはでもこんな状態よお、と針の刺してないもう一方の片手で、点滴の器具を指差し、力なく笑った。熱も38度に下がったからなという志村の顔は憔悴し切っていて、昨日いかに大変だったのかを物語っていた。
元気だったし、でもあまり長いをするのも悪いので、短い会話だけを済まして、帰り際に、直ったらまたライブには来てくれよな、と亮介は申し送りをして病室を後にした。
途中病院の廊下で、車椅子に乗った年寄りのじいさんとぶつかりそうになり、怒りの含んだ目を向けられ、ああここは病院なんだなとそれほど医者にかかった経験のない亮介は、少し焦った。ごめんなさいと亮介はじいさんに向かって謝り、一階の待合室のうしろを駆け抜け、病院の外にでた。
死人の匂いがした、と亮介は思い、深呼吸をしながら何もなければいいんだが、と不安になった。病院の周りに植えられた木々は青々と茂り、柔らかな風にざわざわと小さな音をたてているような気がした。この不安はなんだろうと思ったが、そのときの亮介には知る良しもなかった。
 


 人間は誰しも小さな頃、死に対する恐怖に怯えた経験を持っているに違いない。それは黒く、暗い穴の底に渦巻状に存在し、時にまだ小さな亮介を巻き込もうとしていた。寝床に入り、暗さに目が慣れ、うっすらと見える天井の木目を眺めるとまるでそうされるような錯覚に陥り、まだまだ小さな亮介は布団を引き被り、よく泣いた。大人になるにしたがってその感覚はなくなってしまったが、恐らく年を重ね、老人になっていくにしたがって、またあの感覚は復活してくるのだろう。ただあの頃の亮介は二十代の若造で、死というものを身近なものとしては感じられなかった。


 
見舞った夜、突然志村から、りこちゃんが亡くなったとの知らせを受けた。亮介は何が何やらわからなかった。今日会ったばかりじゃないか。電話の向こうにいる志村に向かって、どういうことだと亮介が尋ねると志村は、感情を持たない声で、りこは死んだんだよと再度答えた。電話じゃ埒が明かないと判断し、亮介は電話を切り、美奈子に連絡をし、二人で病院に向かった。途中美奈子は、どういうことよ、と亮介に尋ねたが、亮介は、入院していたんだと返答するのが精一杯だった。
病院に着いて、305号室を目指すと、二人の様子で感づいたのか、化粧の濃い女性看護師が彼らを引き留め、東条さんの近親者の方ですか?と聞いてきた。ええそうですと美奈子が答えると看護師はご遺体は今、地下の霊安室に運ばれましたと言った。彼らは看護師の案内を受け、エレベーターで地下に行き、霊安室のドアを開けた。初めて入る霊安室は意外と広く、それほど暗くはなかった。志村はどこだと思うまでもなく、彼は固いベッドに載せられた、白いシーツと顔に白い布を被せられたりこちゃんの遺体らしき傍で椅子に座り、寄り添っていた。志村!亮介が言うと、彼はゆっくりと顔を上げ、亮介たちを見た。彼の顔にはまったく生気というものが感じられなかった。

 りこちゃんの死体は眠っているようだった。
安らかな顔をして、声をかければ、目覚めそうな感じだ。亮介と美奈子は手を合わせ、りこちゃんの顔に白い布を戻した。
「さっきまで元気だったじゃないか?」
 志村に聞いた。
「急変したんだ」
 志村は搾り出すような声で言った。
「・・・・最初に、また背中が痛いって言って、擦ってやったんだ。そしたら今度はいきなり眠るように意識がなくなっちまって、俺はすぐに医者を呼んだよ。俺は、病室からだされちまって小一時間ほどかなあ、・・・何やらいろいろやってくれたみたいだけれど、最後には病室に呼び戻されてさ、俺を目の前にして医者はりこの瞳孔を調べて、それから言ったんだ。八時二十二分、残念ですが、ご臨終ですだってさ。ただの風邪だったはずじゃあないか、りこはまだ二十四だぜ。風邪で死んじまうのか?何かふざけてやがるよなあ、おい、亮介、そう思わねえか、なあおい・・・」
 志村の悔しさを滲ませた言葉に亮介は何も返すことができなかった。亮介自身信じられなかった。ほんの五時間ほど前、亮介はりこちゃんと会話を交わしたのだ。この遺体がりこちゃんだなんて信じられない。これは何かのお芝居だと思った。
「りこちゃんには親戚の類もいないんだったよな」
 亮介はぽつりと言った。
「・・・・・ああ、でも施設には大分世話になったらしい。施設の園長先生は大変な人格者で、丁度二人で今度、挨拶に行こうって話し合っていたんだ。だから施設にも連絡したよ、そしたら園長先生絶句してなあ、今すぐ山梨から遺体を引き取りに来るってよ、三時間はかかるかなあ、ここまでさ、・・・・・本当は俺が見送ってやらにゃならんと思うんだけど、半年だからなあ、たった半年の男だ、長く世話んなった園長先生に叶う訳がねえ」
すると、亮介の隣で話を聞いていた美奈子がでも・・・と言いかけ、少し思案げにしてから言葉を発した。
「でも、りこちゃんはきっと幸せだったはずよ。彼女は私たちとの出会いを本当に喜んでいた、そして私達だってそうだったじゃない?違うかしら?例え短い付き合いだったとしてもね」
 そうかもしれないし、真実は違うのかもしれない。でも、彼女と出会ったから、俺たちは「街の杜音楽会」のライブの出場権を得ることができたのではないか?彼女はもしかしたら俺たちに幸運をもたらせる為に遣わされた天使なのかもしれない。そう思った。
「彼女は俺たちに当たりくじをくれた」
 そう亮介がなんとなく呟くと、堪えきれなくなった志村は激しく嗚咽した。

 それから二時間ほどしてから、園長先生が到着した。彼は五味ですと名乗り、あなた達には迷惑をかけたねと言った。遺体と対面したあと、彼はお別れ会を明日夜行うので、施設にきてくれまいかと、泣き腫らした目で亮介たちに哀願した。志村はそうさせて下さい、と言い、簡単な施設への案内図を書いてもらった。それから園長先生は死亡診断書を病院から受け取ると遺体を載せ、早々に帰っていった。亮介たちはその車を見えなくなるまで見送り、いつまでも立ち尽くしていた。







     8 

 吸殻で一杯になった灰皿から、煙が燻っているのを見て、美奈子はいやな顔をした。吸いすぎよと灰皿を半畳ほどの小さなキッチンに持って行き、水を入れた。亮介は四畳半の部屋は男臭いかいと無性に聞いてみたかったが、美奈子が臭い臭いと窓を開けるのをみてやめた。
「志村さんから連絡あったの?」
 美奈子は外を眺めながら、そう聞いてきた。
「いいや、もう二週間も連絡がない」
「アパートにも行ってみたのよね」
「うん、いくら呼び鈴を鳴らしてみても誰も出ないし、ポストに新聞が溜まったままだし、ほとんど帰っていないみたいだ。連絡するようにメモを挟んできたけどね」
 志村は施設の「お別れ会」に出席してから亮介の前に現れることはなかった。どこをほっつき回っているのかわからないが、新聞の溜まり具合からみて、最低でも一週間は家にも帰っていないようだった。「街の杜音楽会」まであと何日もない。最愛の人間を亡くしたのだから、精神的にキツイのは分かるとしても、連絡を取りようがないのには少し困惑していた。本当は二日前に練習をしようと貸スタジオを予約していたのだが、約束の時間を過ぎても志村は現れず、とっぺいと美奈子と亮介との三人での中途半端な音あわせに終わってしまった。それから、何度も電話をかけてみたが、呼び出し音が流れるばかりで、いくら待ってみても誰も出ることがなかった。それで昨日、堪え切れずにアパートを訪ねてみたのだが、呼び鈴をならしてもやはり誰一人出てくることはなかった。
 美奈子も相当心配していたらしく、でも電話ではそれには触れず、会社の帰りに亮介の部屋に来ると言いだし、亮介は慌てて部屋を片付けるはめになった。
 まずいことになったよなと窓辺の美奈子に言うと、電話のベルが鳴った。
「なあ、連絡ついたか?」
 あまり期待せずに出ると、とっぺいからだった。
「いいや、駄目だ。昨日部屋に行ってみたが何日も帰っていないようだ」
「そうか、駄目か・・・」
 そうとっぺいは言うと少しの間沈黙したが、やがて決心したように喋り始めた。
「・・・もし良かったら最適な奴を紹介出来る」
「えっ?」
「俺の知り合いに志村のようなギターを奏でられる奴がいる。以前から奴は俺らのバンドに興味を持っていて、何とかメンバーに入れないかと考えていたんだ。どうかな、奴の夢を叶えてやってみては」
「いきなりで弾けるのか?」
「大丈夫だ、奴は俺らの全ての曲を耳コピしている。それになんとスタプロさまだ。開演前のリハで合わせてみれば、それがよく分かる」
 とっぺいの話は願ったり、叶ったりだった。でも亮介はどうしても志村を見捨てることはできなかった。志村のためだけじゃない、亡くなったりこちゃんを裏切ることにもなるような気がしたのだ。
 亮介が逡巡しているのが分かったのか、とっぺいはそうだなと言い、でも念のためそいつは連れて行くぞ、と言って電話を切った。
 電話を切ったあと、亮介は何だか泣きたいような気分に苛まれ、涙をださまいと天を見上げた。
 志村、お前は何処にいるんだ?
 亮介は初めて神に祈り、それから何故か無性に腹が減ったので晩飯食い行こうと、鍵もかけずに美奈子を連れて部屋から外に出た。



ライブ当日早朝に、電話のベルが鳴った。亮介は志村だ!と飛び起き、時計をみると朝の六時を指していた。電話はワン・コールで一度ぷっつりと切れ、また鳴った。慌てて受話器を取ると、無言の中に、相手の息遣いが聞こえてきた。志村か?と言うと相手は無言のままだった。
「志村じゃないのか?」
 再度問いかけると少しの反応を感じ、間違いなく志村だと直感した。そのまま亮介は喋り続けることにした。
「なあ、志村、みんな待ってるぜ、それに長谷さんも期待している。俺達、一緒にプロになるんだろ?りこちゃんだってあんなに喜んでいたじゃないか、裏切るのか?今回のライブに出ないってことは、りこちゃんだって悲しむと思う。なあ、志村だろ、なあ、何とかいえよ、この裏切者の弱虫野郎!なあ、何とか言えよ」
 亮介がここまで続けると、無言の相手に一瞬迷いのようなものを感じた。ただ、迷いは一瞬だけですぐに消えてしまった。
「・・・ごめん・・・俺もう無理・・・」
 志村はやっとのことで、それだけのことを言うと、電話を切ってしまった。彼は自らチャンスを棒に振ってしまったのだ。悲しみの渦の前に立っていた彼は自らその渦に身を投じ、全てを放棄してしまった。最悪だなと亮介は悲しくなって、受話器を叩きつけた。

ライブはとっぺいの知り合いの影武者君が奮闘してくれたおかげで、何とか無難に済ますことが出来た。ただ、やはりコピーはコピーに過ぎなかった。志村のようにキレのある音はだせず、逆にそれが、彼らの音との僅かなずれを引き起こしていた。最高の音を出せずに終わり、彼らは落胆した。そして終わったね、とやっとの思いで微かに笑った。
彼らがバンドを続けることは、もう何も意味を為さなかった。志村はやはりひとつの重要なピースで、それがなくなった今、バンドは解散するしかなかった。ライブ終了後亮介は解散を口にし、みんなそれに同意した。
 


 それから何日かが経ち、亮介は再度志村の部屋を訪ねていった。彼は大学にも顔を現さず、学生課で訊ねたところ、すでに退学したあとだった。新聞の束が無くなっていたので、今度こそと思って呼び鈴を何回か鳴らしたが、誰もいる気配がしなかった。あまりに何度も呼び鈴を鳴らしたので、隣のおばさんが出てきて、そこのうちは二、三日前に越してったよと腹を立てて話してくれた。志村は完全に彼らの前から姿を消し、亮介は馬鹿野郎と心の中で叫び、悲嘆にくれた。
 



















     9

こんばんは、とさびしんぼうは亮介を迎えてくれた。いつもだったら亮介の方がルームで先に待っているところだけれど、今夜は亮介の方が後になった。こうやって迎えられるのもいいもんだなと思う。

 こんばんは、今日は早いんだね
 今夜は何だかそんなキモチなの
 何か良い事ことでもあったの?
 別に、でもいい気分よ
 そりゃ、よかった
うんよかったの、公園いったのよ
公園?
ええ、家族連れが一杯いて、子供と遊んでいるお父さんなんか見ると幸せな気分にさせられるわ
そうなんだ
そうよ
でも、いかにもマイホームパパしてますっていうのをみせられるとそんなの嘘だって思わないか?
それは偏見よ
この間のこと、聞いてもいい?
 何かしら?
 何故、君はシムラが裏切ったと?
 あてずっぽうよ
 あてずっぽうにしては素晴らしい
 私、超能力があるのかもね
 同じ経験をしたんじゃないかと思った
すると、彼女からの返信が急に途絶えた。彼女はきっと気づいたのだろう。亮介にはある推論があって、試すつもりで聞いてみたのだ。やっぱりと思った。しばらく待っても返答が来ないので、
 どうしたんだ?と亮介。すると、
 ・・あなたにはもう私は必要ないかも、とさびしんぼうは唐突に返信してきた。
 何故?
 あなたはもう、外の世界に出るべきよ
 外の世界?
 そう、あなたが本来の自分でいられる場所
 シムラとのこと?
 あなたはシムラさんと会うべきだと思う
 会って、何を話せばいいのか分からない
 ただ一緒にいてあげればいいんじゃないかしら
 それでいいのかな
 それでいいのよ
 さびしんぼう・・・
 何?
 あの映画の何処に感動したの?
 そう、亮介が切り出すと彼女はすぐに返答を返してきた。
 全部よ
 全部か、そう独りごちたとき彼女は、楽しかった、またいつか会うことがあったらよろしくね、さようならと言って、ルームから出て行った。
 彼女が何処の誰なのかこれではっきりした。
でもだからと言って、何かをするつもりもない。あとは、このまま本来の自分に戻っていけばいい。まずは志村と会うことから始めようと思った。





二十五年ぶりに降り立った甲府駅は、相当様変わりしたように感じた。あの当時は構内にコンビなどなかったし、階段だけでエスカレーターもなかった。改札を出て、南口方面に向かうと正面にあったはずの信玄公の銅像が駅前広場西側に移設され、以前あった場所はバスの停留所になっていた。
タクシー乗り場でタクシーを拾い、県立病院までと告げると、お客さんお見舞いけ、と地方の方言で尋ねられ、自然に笑みがこぼれた。タクシーは渋滞の道を少しずつ進み、病院に近づいて行く。途中運転手が何やら武田信玄に関する薀蓄を垂れていたが適当にうんとかはいとか言ってやり過ごした。
病院に着き、入り口からロビーまで突っ切ると、亮介は辺りをせわしなく見回し、病棟へと通じるエレベーターを探し当てた。上へ行くボタンを押そうとしたら、タイミングよく、すーとドアが開いたので、急いで駆け込み、5の数字のボタンを押した。エレベーターが五階で止まると、亮介はそこから出、確か504号室だったなと、今度は病室を探し始め、それは容易くみつかったが、しばらくの間、病室に入るのを躊躇った。心臓の鼓動がいくらか早く感じられた。
しばらく深呼吸・・・。そして覚悟を決め、ええいとばかりにドアをノックして、病室に入った。
正面を見ると、窓際にベッドが設置され、その上で、志村は半身身体を起こして本を読んでいた。ベッドの背は斜めに立つようになっている。
「久しぶりだね」
亮介がそうぎこちなく笑うと志村は、読んでいた本を、テレビが置いてある横の台の上に伏せ、嬉しそうな顔を亮介に向けた。
「二十五年ぶりだ、久しぶりだなんてもんじゃないよなあ。お前白髪目立つなあ、それに一寸太ったな」
 さあ、そこの椅子に座れと促され、ベッドの横にある椅子に腰掛けると、志村が身体の位置をややずらし、彼らは向かい合った。二十五年ぶりに会った志村は痩せ細り、腕は細く干からび、顔は骸骨のようだった。会わなかった年月分を差し引いても、彼が重篤な病人なのは確かだった。
 訝しげな亮介の視線に気づいたのか、志村は少し笑い、亮介が訊ねる前に、癌なんだと言った。亮介は予想していた答えを突きつけられ、少しうろたえた。
「ここにはどの位?」
 そう亮介が訊ねると、志村は二ヶ月位かなと言った。
「町の定期健診を受けたら、肺に影があると言われたんだ。精密検査後癌だと宣告されたよ、ステージ4の末期だとよ」
「ステージ4・・・」
 最近癌で亡くなった隣人を思い出した。隣人も同じ進行度合いだった。放射線治療を受けながら、一年程生き延び、最後には全身転移し終末医療の施設に入れられ、一ヶ月後に亡くなった。
「美奈ちゃん元気か?」
「ああ、元気すぎて困ってしまう」
「子供は?」
「高校三年の息子が一人いる」
 美奈ちゃんとお前の子供じゃ、イケメンだろうなあ、きっと、と志村は空を見るような目をして、はははと軽く笑った。
 それを見て、亮介はそんな話をしにここまで来たんじゃないぞと、
「お前は、あれからどうなんだよ」
 やや非難するように言った。
「俺か?俺は適当な人生歩いて来たよ。・・・・お前らと会わなくなってから、山梨に来て、パチンコ屋やらライブハウスのマネージャーやら果ては肉体労働まで、何でもやって来た。ひとりだから、その点は気楽だな、いくらかの老後用の蓄えも出来て、これからどうしようって考えていたら、いきなり癌だなんて、ざまーねーよな、なあ、おい」
 志村が自虐的に笑ったので、亮介も口の端を少し上げた。
「これからどうしたい?」
亮介は訊いた。
「バンドをやりたい」
 志村は哀願するように言った。
「・・・バンドって俺達は当の昔に解散したんだぜ、それにもう年を食いすぎている、お前だってそんな状態じゃ無理だろ。そもそも何処でやるんだ?」
「年も、解散も俺の身体も関係ない。一度限りだ。場所はもうキンキー・ハウスで演ることに決めている。長谷さんに連絡取ったんだ。長谷さん、オーナーになったんだってな。夜は無理だが平日の昼だったらいつでも空けておくって言ってくれたよ」
 亮介は、彼に対する過去の鬱憤を晴らしたかったが、痩せ細っている志村を前にして、それをいうのは憚れた。それにもう答えは決めていたのだ。
「分かったよ、で、お前はいつこっちに出てこられるんだい?退院できるのか?」
「もうすぐ退院出来ると医者は教えてくれたよ、ってことは俺もそう長くはないってことだが、そうなる前にライブをしなければならない。・・・一ヶ月以内だ」
「よし、それなら段取りは全て俺が組んでやる。長谷さんとこに頼めばいいんだな、あととっぺいにも連絡するよ。お前は愛用のレスポールと一緒に一日だけ上京すればいい」
 と亮介は言い、「お見舞い」と書いた熨斗袋を志村に手渡し、じゃ、帰るぞ、お大事にと言った。帰り際、志村が「りこ」は喜んでくれるだろうかと訊いてきたので、今頃言うなよと亮介は返答し、それから当り前じゃないかと続けた。
そして今夜にでも早速とっぺいに連絡しなきゃなと思い、亮介は病院を後にした。

 それから、一ヶ月の間、亮介の身辺は急に忙しくなった。とっぺいを電話で家に呼び出し、事の成り行きを話すと彼は、二つ返事で承諾してくれ、それなら俺の知り合い全部に声をかけてやるとまで言って、協力してくれた。彼にも彼なりの思いがあったのだろう、帰り際に、志村は大丈夫なのか?と亮介に訊き、亮介は一瞬考えたが、すぐに、大丈夫さ、奴は閻魔様に嫌われているんだ、と笑った。
長谷さんは本当にやるの?と目を丸くし、じゃあ、昼間のライブなんてけちな事言ってられないと、夜の部を丸々空けてくれることになった。
ライブチケットも急いで準備し、あらゆる知り合いに電話しまくりただ同然でチケットを押し付けた。    
随分動き回ったせいか、亮介の身体は本調子に戻ったようだ。高峰医師は、もう復帰してもいいんじゃない?と診断書を書こうとしたが、亮介はあと一ヶ月待ってくださいと頼み込んだ。美奈子はそんな亮介をみて人生たまにはズルをしてもいいのよとケラケラと笑い、それから私歌えるかしらと間抜けな顔をした。
 


 当日のライブは大盛況、とはいかなくて、七十人ほどの観客だった。ほとんどがとっぺいの知り合いばかりで、亮介は彼の人柄の良さに感謝した。
 志村は、体力の消耗度を考えて、椅子に座ってのプレイだったけれど、往年のキレの良い音は健在だった。ベースの亮介とドラムのとっぺいはさすがに久しぶりで緊張し、無難に纏めることに終始徹底したが、意外だったのが、美奈子のボーカルだ。彼女はジーンズにTシャツと至って普通の格好だったが、ハスキーな高音はまだまだ伸びがあり、昔より色気を増していた。彼女が歌い出すと観客が異様にもりあがっていた。
 ライブ終盤の志村のギターソロは圧巻だった。鬼気迫るようなリフが、終わりが来ないと思わせるほどキレ良く続き、、どこにあんな体力が残っていたんだろうと感じさせた。長谷さんはその音を聴いて、後で亮介に、ロックは彼の人生そのものだね、彼はやっぱり生粋のギタリストだったんだよ、と言った。そして、ずっと苦しんでいたんだなあ、とも・・・。

 ライブが終了したあと、志村はこれで思い残すこともねえと呟き、椅子の上で愛おしそうにギターを抱えて眠り、そこからそのまま昏睡状態に陥り、慌てて病院に搬送されたときにはすでに帰らぬ人となっていた。
 亮介たちは病院で志村の亡骸を眺め、最後まで世話の焼ける我儘な奴だったなあと静かに涙を流したのだった。









     10

 三月も後半になり、息子の浩樹の受験結果も完全に明白になっていた。二月に受験した二つの私立大学は全て受かったが、三月に受けた国立のH大学とD大学は、後者だけが合格した。
 本命を逃した浩樹は、合格した三校の入学手続きを拒否して、結局浪人することに決めた。美奈子はあーもったいを繰り返したが、本人は、何処吹く風と勝手に予備校も決めてしまっていた。亮介は金を出すのは結局親なんだよと思ったが、自分も東京に出たいが為に合格した地元の大学の入学を拒否したことを思い出し、遺伝かなと諦めた。
 十一月から仕事に復帰して四ヶ月、亮介は軽微な仕事から始めて、やっとそれなりの仕事を与えられるようになっていた。ただ、役職は戻してもらえず、退職までこのままなのかなと半ば諦めていた。
 何とはなしにテレビを眺めていると、桜の開花が報じられており、今年は暖冬なので、満開になるまでそれ程時間を要しないと女性アナウンサーは結んでいた。桜かぁ、近くの公園も咲いているのかな、と夕飯の後片付けをしている美奈子の後姿に向かって言うと、咲いているわよ、と美奈子は返答した。
 咲いているのかと思っていると、何だかむずむずして来て、急に今から見物しに行こうかという気になった。公園まで、歩いて十分だ。ねえ、公園に桜、見に行こうかと美奈子に言うと、今から?と美奈子は目を丸くしたが、すぐに思い直したらしく、夜桜もいいかもねと言った。そうだよ、そう、夜桜は最高だと、亮介がすぐにでも出かけるといった仕草をすると、彼女は仕方がないわねえ、と言い、エプロンを外した。

 まだ春浅いせいか、意外に風は強く冷たかった。
公園に着くと桜の木の下のベンチに二人で腰掛けた。見上げると、ベンチ横の街灯でライトアップされた夜の桜は、綺麗な薄紅色を浮かべ、微かに柔らかな匂いがするような気がした。桜の木は包み込むようにして公園の周辺に植えられていて、みな同じように桜の花を咲かせていた。
「はいこれ」
 美奈子は、コンビニの白いビニール袋からカップ酒を二本取り出すと、一本を亮介に寄越し、亮介が蓋を引き抜くと、彼女も続いてプルトップを引き、蓋を外した。
「乾杯!」
 亮介と美奈子は、チンとお互いのカップを軽く触れさせた。
「桜、八割方だな」
「もう少し経ってから、来たほう良かったかもしれないね」
「いいや、この位がいい。満開になっちまったら、逆につまんないな。腹八分目っていうだろう?満開だと腹いっぱいだよ」
 屁理屈を述べながら、亮介はひとくち、ふたくちと酒を口に含んだ。
 辺りは静かで、人一人としていなかった。
砂場も鉄棒も滑り台もある小さな公園は昼間東側にみえる団地の小さな子供達の遊び場だった。ひとつ、ふたつ、数えたが団地の部屋の明かりが点っているのは極僅かだった。みんな、寝てしまったのだろうか?と思ったが、時間を考えるとそれも考え難かった。
 美奈子を見ると少し酔ったのか鼻の頭と頬を赤くしていた。亮介はその色を見て、桜色だと思った。
「なに人の顔じーっと見ているの?顔になにか付いてるのかしら」
「花見さ」
亮介が言うと彼女は、何馬鹿なこと言っているのよ、と右手の指先で顔を撫で回していた。
亮介には先ほどからある考えが頭をもたげている。いままでは、決して口に出すことはなかったが、今なら言い出せると思った。
「なあ、多分これから先も、俺は暇が出来ると思う。土曜日も日曜日も休日出勤なしで、六時過ぎにいつも家にいるマイホームパパさ、・だから・・・」
「だから?」
「纏まった休みが取れたら、一緒に尾道に行ってみないか」
 亮介がそう言うと美奈子は目をまんまるにして、えっ、と微かに呟き、ほんの少しの間驚いていた。
「期待していていいのかしら」
「もちろん」
「何時行くの?」
「秋がいいのかな」
「それなら、尾道の階段、坂道で海を見渡したいな」
「そうだな」
「船着場にも行ってみたい!」
「いいね」
「ヒロキの家、お寺探しをしてみようよ」
「賛成!」
「それから・・・」
 美奈子は言いかけ、小首を傾げると亮介に近づき、亮介の頬に軽くキスをした。気紛れな春の風は強く、その風にさらわれた無数の桜の花びらが、螺旋状の軌跡を描きながらゆっくりと舞い落ちてきて、彼らを優しく包み込んだ。それから亮介は、桜のカーテンの向こう側に、志村とりこちゃんが仲睦まじげに笑っているのが一瞬垣間見えたような気がして嬉しくなった。
幻想の風景だ、亮介が思わず口にすると、美奈子は落ちていく桜の花びらに手を差し伸べ、中学生みたいねえ、私達、と呟き、楽しそうに笑っていた。



             
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Still Ill(Japanese-SUB日本語訳詞) the smiths

2019-12-29 | 小説
Still Ill(Japanese-SUB日本語訳詞) the smiths


映画『イングランド・イズ・マイン モリッシー,はじまりの物語』予告編 80年代の伝説のバンド、“ザ・スミス”のボーカリスト、スティーブン・モリッシー若き日の葛藤を描く





初期の頃書いた小説です。

少し手直ししました。

少々長めですが、良かったら読んでください。

二部に分けました。

   幻想の風景
                        からく



     1

 頭蓋骨に包まれた脳細胞が僅か百分の一ミリヴォルト程の脳内電圧を感知して意識を目覚めさせた。
 瞼はまだ開かなかった。いや、開けられなかったと言った方が正しいのか。既に底知れない違和感が癌の如く亮介の自律神経に浸潤していた。―怖い。
 春の朝の柔らかな光は、感知していた。その光はこうして瞼を閉じたままでも、優しく包み込んでくれているのは分かるのだが、その優しさが却って恐怖を増幅させていた。
 瞼をすうっと上げれば良いだけだ。
 分かっていた。さあ、とは思うのだが瞼を開けた後の身体の異変に気がつきたくなかった。いや既に気づいているからこそ、瞼を開けるのが怖いのだ。瞼を開ければ、次には現実の世界へと身体を捧げる、「起きる」という、ただそれだけの簡単な儀式が待っていた。
 その「簡単な儀式」が亮介には出来なかった。
 
「異変」は突然やってきた。
 二日前の朝のことだ。目覚まし時計代わりである携帯のアラーム音が、亮介お気に入りの「カリフォルニア・ドリーミング」をレべル5の音量で鳴らしていた。朝六時半だ。いつもだったら、上半身だけ布団から起こして、二回目のアラーム音が鳴るまでしばらく、ゆったりとしているところなのだが、その日は違った。瞼を中々開けることが出来なかった。何か変だなと感じたが、ここのところ、眠れない日々が続いたからなあと、半分レム状態で思いながら、でもやはり、いつもと違う妙な倦怠感を感じつつ、暢気な亮介は二回目のアラーム音を待つことにした。暫くして、音がなった。起きなきゃ、と思った。あれ?身体を起こせない、でもまあ、仕方がないかなと思った。でも、しかしまあ・・、そんな事を順番に考えながら、三回目のアラーム音。
やはり起きることができなかったのだ。ここまでくるとさすがの亮介も少々慌て始めた。
上半身を起こしかけるのだが、そうするとまるで1tの岩でも背負わされているような身体の重さと倦怠感に襲われ、また背中から布団に落ちた。眩暈も頭痛もする。おかしい。
 今日は早朝大事な会議がある。今起きなければ、会議に間に合わなくなる恐れがある。そう思い、何としても起きなければと身体を起こす動作を何度も繰り返したが、その度に重い倦怠感と眩暈が亮介を襲い、それを阻んだ。
どうかしちゃったの?俺―。    
起きなきゃ、会社に遅れたらいけない、いけない。何故?何が起こった?それは夢の中で必死に地に足をつけようとしても、すかしをくらうような感覚だった。会社に行かなければならないのに起きられない、起きられないのに会社にいこうとする。堂々巡りだった。最後にもう一度と思い、身体を起こそうと試みたが、やはり無駄な行為だった。
 ひどく動悸がして、身体を起こせないことがはっきりと分かると、変な話だが今度は激しく自分を責め始めた。
仕事?最悪、みんなに迷惑・・、昨日、美奈子に八つ当たりした。だから何?いや、仕事は?行かなきゃ、でも起きられない。俺は駄目な奴だ。
 脈絡のない思考がぐるぐる廻った。頭痛は、脈打つような強い痛みに変わっていった。眩暈も酷かった。どうしていいのか分からなかった。
ただ一方では冷静な第三者的な何かの存在が僅かに残っていたのだろう。亮介は自分の置かれている状況について、できるだけ冷静にゆっくりと考えようとした。どこか内臓でも悪いのだろうか?腎臓か肝臓か、まさか脳に異常があるんじゃないだろうな。でも検診の結果はどこにも異常はなかったはず・・・。考えたが結論は出ず、もはや理由などどうでもいい自分になっていき、やがてジェットコースターのように意識が行ったり来たりを繰り返し、短時間の間に亮介の精神は疲弊していき、身体は魂の抜け殻のようにぐったりしていった。
そして気づいたときにはまるで夢をみているような感覚が亮介を支配し、奇妙な薄い「膜」が目の前を遮っていた。「膜」は亮介を包み込むと、亮介の身体を徐々に侵食していき、ぐったりしたその身体からありったけのエネルギーを吸い取っていった。
 疲れた・怠い・何もし・た・く・ない。
 亮介はもう自分自身の精神をコントロールする気力さえなくしていた。
それから七時を相当過ぎ、最後のアラーム音が鳴り、いい加減起きてこない夫の様子が変だと気づいた美奈子が「どうしたの?」と布団を捲り上げ、顔を覗き込んだ時、からだをまるめた亮介はこう言った。
ごめんな、ごめんな、俺死にたい。

本当は「おれ、おかしい」って言いたかっただけだったのに。

ここから先の亮介の記憶は曖昧だ。妙な膜が完全に視界を遮り、感覚さえ「膜」に吸収されていたからだ
美奈子の話によると、「死にたい」といきなり言われてびっくりしたが、すぐ気を取り直して、ただ事ではないことをいち早く察知し、先ずは会社の上司に本人の体調が非常に悪く、電話出来ないことを詫び、休むことの了解を取り付けた。そしてその後、息子の浩樹を叩き起し、お父さんがおかしいから、今日は学校を休んで、一緒に病院に行くこと、と一方的に命令し、それからすぐに、布団に潜り込んでしまって何やらぶつぶつ言っている亮介に対して、病院行くからねと言ったところ、いきなり亮介は(起きられなかったはずなのに?)ムックと起き上がり、ごめんな、ごめんな、でも俺どこもおかしくないから病院にはいきたくない、と美奈子の両肩を激しく掴み、幼子のように何度も駄々を捏ねたため、浩樹と二人で必死に説得して、これは精神的なものに違いないと直感した美奈子が、電話帳で調べた心療内科に電話してタクシーも呼び付け、おかしな亮介を寝間着のままタクシーの車内に半ば無理やり押し込み、何とか病院に連れて行ったそうだ。
 亮介は病院で診察を待つ間はさすがに観念したのか、大人しく呼ばれるのを待っていたようだが、後で浩樹に病院で待っている間、急に眼をひん剥いて俺の顔を見るなり、お前は東大行けよ、なんて何度も言うんだもんな、と毒づかれてしまった。
 医師の診断の結果は中度の「鬱病」で、異常な倦怠感はそれによりもたらされた身体的異常であった。正気を取り戻した亮介はまさか自分が「鬱病」に罹るとは思ってもみなかったので、驚き、そして、これからどうなるんだろうな、といいようのない不安に駆られた。


「起きてる?」
 美奈子が様子を伺いに来た。
「ああ」
 目を閉じ、寝返りを打ちながら亮介は答えた。
「お医者さんが言うにはね」と彼女は話しはじめ「かなり前から自覚症状があったはずだって」と言った。 
前からか・・・・。
 確かに、よくよく考えてみると思い当たる節がある。異動があって新しい職務についたこと、前職とは全く異なる仕事に日々戸惑いながら何とか一カ月が過ぎたが、少しは慣れてきていいはずが、中々慣れず考え込み、そのせいかもしれないが、睡眠時間が極端に減ったこと、記憶違いのミスが一日に何度か発生していたこと、最近一週間程まるで夢を見ているように仕事をしている実感がなかったこと、時に消えてなくなりたいと思うほど、落ち込みが激しかったこと。恐らくそういうことなのだろう。
「会社にはね、昨日の午後、私が行って正直に話してきたわよ。とりあえず有休消化してくださいって。四〇日丸々残っているから、その後まだ時間がかかるようでしたら、その時に話し合いましょう、ですって」
 そう美奈子に言われて、やっと亮介は瞼を開いて、布団の中から彼女を見つめた。
夢をみているような膜はもう感じられなかった。ただ、倦怠感だけが酷く、自分から起きようという気にはなれなかった。
 美奈子は不安そうに覗き込み、どう?と聞いてきた。今日は食べられそう?
 ここ二日、亮介の中では食欲というものがまったく欠落していた。食べようと口に入れても味がしないのだ。そのため医者から処方された薬と水以外はまるで摂っていないし、また摂る意欲さえ失われていた。摂らなくても別に困らないし、それで死んでしまうのならそれでもいいか、なんて思ったりもしていた。    
 亮介の考えを見透かしたように、美奈子は一瞬顔を曇らせ、それでも言いたい言葉を噛み殺し「薬は必ず忘れずに飲んで、休養をたっぷりと取ること、それが一番だよね」と言い放ち、「はい、これ飲んでね」とコップ一杯の水に白い錠剤三錠の薬を亮介の前に差し出した。
 亮介はゆっくりと時間をかけて、上半身を起こして薬を手にすると、口に放り込み、コップ一杯の水で一気に飲み干した。
 取り敢えず倦怠感は酷いが、上半身だけは起こせることを確認すると、幾らかはほっとした。
薬には睡眠作用もあるのだろうか、亮介は時間も待たずに布団に潜り込み、何時の間にやら眠ってしまったのだった。

それからまた二週間が経った頃には、朝の倦怠感は相変わらず酷かったが、午後から夕方になるにつれ、それが嘘のように消えていった。食事も三日目頃から摂ろうという気になり、一食位は抜くことはあるけれども、一日まるっきり摂らないということはなくなった。薬もある程度効いてきたのだろうか?亮介は少しばかりの喜びと憂鬱を抱え、美奈子とともに高峰医師の前にいた。

「大分顔色も良くなったようだね」
高峰医師は優しい笑顔で迎えてくれた。
朝は相変わらずです、と亮介が言うと、彼は一瞬視線を亮介から外し、カルテに目をやり、それからうんうんと小さい頷きを二回すると再び亮介に向き直り、あのね~、とはじめた。
「ここに最初きたときはね、酷かったんだよね~。ほんっとだよ、あなた眼がね、見えてなかったんだよね、現実をね。つまりユメ?いや幻想の世界にいったまんまって感じかな、ぼくはさ、今だから言うけど(この人、やばい!)てすぐさま思ったね」
この診察室に入るのは二回目(もっとも一度目はほとんど憶えていないけど)になるが、静かだった。まるで完全な防音がなされているかのように、外の待合室の音や声などが遮断され、また奇妙なことに、やたらと簡素だ。医師の横には診療机、その上には電話一台とカレンダーが掛けられている以外は何も貼られていない四方の白い壁、精神系の病院の診療室はどこもこうなのだろうか。
「・・でね、」高峰医師はカルテをちらりと見ながら、話を続けていた。
「それでね、まあ、そんなあなただったのが、今ではたった二週間でね、ぼくとちゃんと応対も出来るし、朝だめでも午後はそれなりに動けるようになるなんて大変な進歩だよね。普通は薬を飲み始めて一ヶ月、場合によっては三ヶ月以上かかる患者さんもいるのにねえ。ねえ、奥さんもそう思わない?」
亮介の隣で、心配そうに話を聞いていた美奈子に話を向けた。
「食べられるようになったし、動けるようになったのは良いのですけど」
「けど?」
「突然、キレるんです」
「と、いうと具体的にはどんな風なの?」
 美奈子は亮介をみてから、仕方がないといったように話しはじめた。
「午後は調子がいいようなんで、昨日、庭の草取りを一緒にしようって、言ったんです」
「それでキレた?」
「ええ」
「彼は暴力振るった?」
「いいえ、ただ、お前はこれ以上俺になにをさせようっていうんだっていきなり、周りにあるものを蹴飛ばしたり、あちこちに投げ散らかしたり、最後には・・・」
「エネルギーが切れたようになってしまうんでしょう?ね?」
 美奈子は少し以外そうに高峰医師をえっと見遣り、
「そうなんです。散らかったままその場にへたり込んで、一時間もぼうってしてるんです」と言った。 
「それはね、彼の中にある罪悪感がそうさせるんだよね」
「罪悪感?」
「そう、罪悪感」
高峰医師は美奈子を見つめ、(ふうっつ)と一息つき、今度は亮介に向き直った。
「あなた、良くはなった。でもね、まだ当分は休養取らなきゃだめだね。この病気の特徴はね、強烈な倦怠感もそうなんだけどね、それが一段落するとね、少し余裕ができた分だけ今度は罪悪感があなたを襲うんだよ。つまりね、昨日のことが一番顕著に現れているんだけど、こんなに頑張ってるのにどうして上手くいかないんだ、ってそんな気持ちとあせりが頭から離れなくなるんだ。・・・で、最後には自分を嫌悪して、責める・・・そこへ、何々して下さいっていう人の言葉。別にその人は責めている訳じゃないのにね、何故かあなたはそう感じる。自分で自分を攻撃している最中に、他人に侵略される。で、大爆発・・・そして、僅かしかなかったエネルギーを使い果たすと電池の切れた携帯みたいに反応しなくなる、まあそんなところなんだよね」
じゃあ、どうしたらいいんですか?という隣の美奈子の問いに、
「対策はね、携帯のように電池パックの容量を増やすこと、そして時間をかけて充電させること、かな」
高峰医師は答えた
「充電?」
「そう、ともかく一回思いっきり身体を休めて、淀んだエネルギーを放出させる。それから、薬の助けを借りながら徐々に充電させていく。充電方法は、何でもいいから興味の持てることから、頑張らない程度に始めていく。どう?イメージできる?」
 高峰医師の言いたいことは、何となく分かる気がした。
「会社への復帰は長くかかるということですか?」
「頑張らなくていいよ、これ以上・・」
「えっ」
「あのさ、頑張らなくていいんだよ、・・・・っていってもあなた今分かんないかもしれないけど、うーん、最低三ヶ月、充分休養取って、自分のやりたいことやって、頑張らないで生きていく方法を学ぶことね、それが大事」
最低三ヶ月か。
 そう宣告されると、この二週間、何とか会社に行けないかと思ったこともあったが、そんなことはどうでもいいことに思えてきた。それよりも、「会社に行かなくていいという免罪符」をもらったことで何処か淀んでいた亮介の心にほんのりとだけれども、灯が見えてきたような気がした。俺はは許されたのだろうか?と思った。
「あなたの場合はね、きっと随分前からそうとう無理していたんだろうと思う。ゴムだってずっと伸ばしっきりにしていれば、いつかは切れるだろう?それと同じ。三か月の休養は罰ではなく当然の権利と考えていい」
高峰医師はそう締め括ると、薬は忘れずに飲んでね、と笑みを浮かべ、二週間後にまた来院することを亮介に約束させ、診察を終えた。









     2

夜は一日の中で、一番活動的な時間だ。
 日中は相変わらずだったが、夕方になるにつれ、亮介の身体は回復していき、日中の分を取り戻すかのように深夜まで活動した。活動といっても本を読んだり、パソコンを弄る程度だが、途中、これではいかんと深夜の活動を中止し眠ることに集中しようとしたが、、亮介は一向に眠れなかった。 夕食後に飲む薬の中には、安定剤も睡眠薬も処方されているはずで、それなりに眠気もあるのだが、うとうとしかけると何故か、はっ、として、目が覚めてしまうというようなことの繰り返しで、やっと眠れるかなと思った時にはすでに朝になっていて、それでは起きるか、と思うのだが、身体がやはり重くて怠く、どうでもよくなって結局昼過ぎまで起きられなかった。 
そういえば、怠いのに眠れないなんてこともあったなといまさらのように思い出したところで、亮介は完全に「引きこもり」よろしく昼夜逆転の生活に陥っていた。
「ともかく、眠れなくても時間には寝床に入る。そして朝目が覚めたら、とりあえず身体を起こし、日の光を浴びてみる。それが出来なかったら調子の良くなる昼以降から、散歩することから始めたらいいんじゃないかな。そうすれば、少しは夜眠れるようになると思うよ」
高峰医師にも助言を受け、最初の内はやってはみたものの、昼間外出することに猛烈な罪悪感を感じ、罪悪感に苛まれた亮介は、布団に包まり、消えてしまいたい、と繰り返した。亮介のとって皆が活動している時に仕事もせずに外出することは、悪以外の何者でもなかったのだ。亮介は激しく自分を憎悪し、やがて外に出ることを諦めてしまった。
人間失格だなー
 そう思いながらも、亮介は日中布団を被り、夜はというと、どうせ眠られないのだから、と始めたパソコンに妙にはまっていた。パソコンといっても、ワードやエクセルの手習いを始めた訳ではない。そういったものは、会社で嫌というほど経験していたし、深夜に目的もないままに、文章を打ち込んだり、図表を作成したりするのも気味の悪いものだ、と思う。亮介がはまったのは、インターネット通信だった。
 インターネットというものは、意外に便利なものだ。病気のせいで、新聞の文字を追うのもイラつくようになってしまった亮介にとって、唯一の情報源であったし、紙に書かれた文字と違って素直に頭に入ってくる。それに、インターネットサーフィンは、皆が寝静まった夜中にはぴったりな遊びだった。
最初はサイトに書かれているその日の出来事を読むだけだった。その内にそれだけでは飽き足らず2ちゃんねるや、何やら怪しげなサイトにも出向くようになった。使えるようなアプリがあると、ダウンロードして使ってみるようにもなった。
そして、すっかりインターネット内をサーフィンすることに慣れた亮介が次に選んだのが「チャット」だった。
 「チャット」とインターネットに詳しい人が聞くと、何やら胡散臭い匂いを感じるであろう。「出会い系チャット」などというものがあり、異性同士が性的接触を求めてするものがある。もしも「チャット」をしていることを第三者に知られたら「そちら系」と勘繰られかねない。それに昨今ではグループ内で通信できる「ライン」なるものもあり、どうしてわざわざ何処か危険な香りがする「チャット」を選ぶのであろうか理解に苦しむのではあるまいか。
それでも亮介が「チャット」を選んだのには理由がある。発病の日から三ヶ月、家族との会話も気怠く感じ、満足にすることも出来なくなっていた。面と向かって会話をするのに恐れさえも感じていた。何が不満なのか自分にも分らぬまま、誰かを怒鳴りつけたい衝動に何度も駆られ、実際美奈子を怒鳴りつけたこともあった。そして、その挙句亮介は、やはり罪悪感に取り付かれて布団に潜り込み、お決まりの死にたい、死にたい、を呟いていた。
けれど、亮介は、自分の会話機能を完全に停止させたい訳ではなかった。夜になると、会話に飢えている自分に気づき、慌てふためいていたのだ。
なにかこの欲求を抑える手立てはないものかと考えた末にたどり着いたのが、顔も知らない不特定多数の人間と、面と向かって会話をせずに済む「チャット」というツールだった。

ねえ、尾道さん
ん?
 なんか、沈黙・・
 ああ、バイクがね、音がすごいんだ
 そうなの?
 暴走族も夏になると、活発化する
 夏休み?
 そう、夏休みにはいったからね、エネルギーの余った若者が暴れだすんだ

季節は夏に入っていた。
 会社の人事担当とは、有給が切れる十日ほど前に身体の状態を告げ、亮介は長期療養の扱いになっていた。
 予定ではもう復帰を考えてもよい時期なのだが、亮介は相変わらずの毎日を送っていて、そんな亮介の状態に高峰医師は「これは、意外に長期戦になるかもね」と眉をひそめ、薬の増量を考え始めていた。
 
 さびしんぼうさん
 はい
 あの映画はとても切ない
 えっ?
 尾道が舞台の、あの映画というか、あなたの名前・・・・
 ああ、私の名前?そうね、さびしんぼうってとても切ない映画・・・・・ 別れの曲が全編に流れていた・・・
 すきだから・・・
 すきだから?
 あなたも、名前が尾道なのかしら?
 そう、すきなんだ

 チャットを始めた頃、亮介はあるメンタル系のルームをたびたび訪れていた。そこには、あらゆるタイプの「患者」がいた。うつ病もいれば、脅迫神経症、「死にたい」と繰り返すリスカの少女、過食症からアスペルガー症候群の大学生までいた。話す話題といえば、薬のこと、みんなどんな薬を飲んでいるのか、「あの薬は私にはあわなかった」とか「あれは効いたけど副作用がね」とかともかくそんな話題ばかりだった。
 亮介が「さびしんぼう」に出会ったのは、そろそろそんな話題に付き合うのに飽きてきた頃だった。
 他に話題ないのかしら?ねえ、尾道さん
 そう他の人に悟られぬように呟いてきたのが「さびしんぼう」だった。亮介は訝り、それでもと、話をしてみるとお互い波長が合うのが分かった。そして、(悪い人間でもなさそうだ)亮介がそう直感し、警戒を緩めると、彼女はそこを狙うかのように亮介を誘った。
 私と二人だけで話しませんか?
 彼女のその一言に導かれて彼らは二人だけの共通のルームを作った。妻ではない女性との二人だけの世界。亮介はそれに、レモンのような甘酸っぱい香りを感じて、身震いした。

 尾道の階段、坂道、一度行ってみたいな
 そうだね
 海を見下ろすってきっと気持ちがやわらぐんじゃないかしら
 そうだね、きっとそうに違いない
 旅行は?どこかいったことある?
 一番遠くといえば、鹿児島かな、桜島の灰がすごかった
 鹿児島かあ、いいなあ
 そう?
 わたしって、どこにも行ったことないから
 どこにも?
 そう、どこにも・・・
 いちども?
 そう、一度も・・・
 この時亮介は、彼女のこの発言にそれほど不思議さを感じなかった。単純に、住んでる地域から出たことないんだとしか思わなかったし、かくゆう亮介も、数えるくらいしか自分の土地を離れたことがなかった。

 あっ、時間だ
 時間?
 そう、時間なの、シンデレラは十二時までなのだ
 シンデレラ、ねえ・・・
 楽しかった、また会いましょう
 うん、また
 じゃあ・・・

 そう言って彼女はルームから出て行った。
 初めて出会ってから何度、彼女と会っただろうか。大抵は亮介がルームに待機していて、彼女を出迎えるパターンだった。彼女の氏素性もわからない、もしかしたら本当は男なのかもしれない。でも会話を交わしていて気づいたのだが、彼女にはどこか昭和の女性に通じる気品と逞しさがあった。丁寧な対応と言葉づかい、三十半ばくらいなのかもしれない。
 一方では、亮介は自身の情報の詳細を彼女に伝えてはいなかった。ネットの世界での出会いなのだから、当然といえばそうなのだが、こんな五十に近い、うだつの上がらないおっさんだと彼女が知ったら会話に付き合ってはもらえないだろう。
 さびしんぼうかあ、ふと思い浮かべてその映画を知っている年代なのだから、もしかしたら同年代なのかもしれないと思い直していた。

 

それから夏の間に亮介の状態は激変する。絶え間ない異常な眠気が亮介を襲うことになったのだ。亮介はそれによって昼夜問わず一日中布団に包まり、眠る日々が続いた。酷いときには一日二十時間連続寝っぱなしなんてこともあり、亮介はしばしば「さびしんぼう」とのチャットを断念した。たまの「さびしんぼう」とのチャットでも亮介はキーボードを打つ手を止め、夢の中に入っていく自分に気づいてハッとすることも何度もあり、たびたびの空白に「どうしたの?」という彼女の問いかけに、「何だか一日中眠いんだ」と返した。「さびしんぼう」は「夜も眠れるようになっただけでも良いことなのよ」と慰めをかけてくれたが、亮介は突然のこの症状に不安を隠せなかった。
その異常さに思わず高峰医師に訊いてみると彼は、きっと鬱が直り始める前段階に入ったんだ、逆らわずにそのままにしていればいい、と答え、亮介にそう不安がるなと嗜めた。俄かに信じがたかったが、高峰医師の言うとおり、眠たいなら眠り続けてやると、半ばやけくそぎみに、なすがままに何日か過ごしていく内に、不思議なことに次第に眠気も取れ始め、それに比例するかのように八月が終わる頃には倦怠感もあまり感じなくなり、朝は爽快といかなくても普通に起きられるようになり始め、いつのまにか焦燥感に駆られる回数も減っていった。そして布団に包まり、悲壮感に浸る行為も、あれは何だったのか、と思うようになり、時間が余った亮介は日々微かな退屈感を感じ、それを解消するために午後の散歩をするようにもなった。
俺は、次第に気力を取り戻しつつある。
そう亮介は感じられるようになり、目の前を塞いでいた岩盤の穴から一筋の光が洩れているのを見たような気分に感謝し、これからの自分というものをイメージした。




















     3

「久しぶりだな」
志村徹から電話がかかってきたのは、夏も終わりかけ、亮介の身体の状態も上向き始めた頃だった。志村からのこの突然の電話に驚きを禁じえなかったが、久しぶりの外界からの接触に、新鮮さを感じ、不思議なことだが妙に心が高ぶった。
「本当に久しぶりだ」
亮介は言った。
「もう二十五年になる」
「そうだな」
「あの頃が懐かしい」
「二十五年も親友と思っていた男から手紙の一本もなかった」
と亮介は言葉を返し、ちらりとキッチンで晩飯を用意している美奈子のほうを見遣った。
「そう手紙もやらなかった。でも・・」
「でも?」
「お前のことを忘れていた訳じゃない」
「だろうな」
亮介の言葉に志村は、ほっとしたのか途端に明るい口調になった。
「さっき、電話取ったの美奈ちゃんか?」
「うん」
「相変わらずいい声してる。たまにはカラオケでも行ってるのかな?」
「そんな暇ない。彼女はパート勤めで忙しいんだ」
「そうか、我らが歌姫も今やパート主婦か・・・・。二十五年、経ったんだな」
「ああ、あれから二十五年だ」
亮介は言い過去を思い出していた。

亮介と志村が出会ったのは、大学の音楽サークルで、お前、いい指してんな、と話しかけられたのが始まりだった。当時の亮介はアコースティックギター片手に弾き語りというスタイルで、サークルで楽しくやろうというのでもなく、一人で部室に姿を現し、一人で音楽を楽しんでいた。何人かがみんなで楽しんだ方がいいんじゃないかと誘いを掛けてくれたが、彼らの音楽に対する甘さを感じていた亮介は、その誘いに乗るでもなく、もくもくと一人でギターを弾き、いつのまにやら声も掛けて来る者もなくなり、サークルの中での亮介の存在はないものとなっていた。
そんな時に志村が話しかけてきたのだ。
最初は一寸変な奴だなと思った。しかし、志村はとても気さくな性格で、音楽の趣味も一緒であることを知り、意気投合するにはそれほどの時間を要しなかった。お互いプロになりたいと夢見ていたのも馬が合った理由だろう。彼らはプロになるために一緒にバンドを組む決心を固めたのだった。
決心を固めてからの彼らの行動は素早かった。生ぬるい体質の音楽サークルからさっさと抜け、”くれよん“というバンド名をつけライブハウスで地固めを始めた。二人だけで演奏したこともあったが、基本的には四人でのライブ活動を望んでいた。彼らの目指す音にはどうしても四人が必要だと考えていたからだが、彼らの思惑とは裏腹にあとの二人のメンバーは長い間、なかなか固定することが出来なかった。焦ったがメンバーの選定には決して手を抜くことはしなかった。そして何度かメンバーチェンジを繰り返していく内に、やっと理想のバンドを組むことになる。
志村はギターで亮介がベース、そして妻の美奈子がボーカルで、他の大学からスカウトしてきたドラムのとっぺいがいた。彼らは皆、ビートルズを神と崇め、Tレックスに熱狂し、ザ・スミスを手本としていた。鋭利なジャックナイフを彷彿とさせるようなギターを奏でる志村。字余り的な歌詞を、暴れ馬を手懐けるように操る美奈子。一寸も狂いのないリズムを叩き出すとっぺい。亮介は「こいつらにはかなわねえなあ」と思いながら、出来るだけ地味に縁の下の力持ち的なベースを奏でていた。
ともかく、当時の彼らはプロになる夢を語っていた。そして回を重ねるごとに、プロになるのも夢ではないほど、彼らのライブは成熟していった。歌詞は亮介が書いていた。曲は志村。確かに手応えを感じていた。―あの時までは。

「俺だと分かったかな?美奈ちゃん」
「何か言ったのか?お前」
「いいや、志村ですけど、ってただそれだけさ」
亮介は再度すぐそこのキッチンを覗き込んだ
美奈子は、野菜で一杯になった冷蔵庫の一番下の引き戸が閉まらない!、と嘆いて座り込み、あーあ、と天を仰いでいた。
「分んなかったみたいだな」と亮介。
「おっさんの声だからな」
「昔から声はおっさんだった」
「ひでぇ」
「とっぺいも腹の出た中年男に成り下がってるぜ」
「とっぺいか・・・、奴とも会ってない」
「今は某音楽出版社の辣腕編集長さまだ」
とっぺいは、大学を卒業した後、もともとのアルバイト先であった中小音楽出版社に正社員として迎えられていった。きっと、彼の音楽の分析能力が認められたのであろう。彼は着実にキャリアを積み、今でも時々彼の音楽評論の記事を見かけることがある。
「・・・で?」
亮介は訊ねた。
「で、ってなんだ?」
「お前が電話して来たのには、何か企みがあるんだろう?」
「いや、別に企みというほどでも・・・」
 志村はまるで、痛いところを突かれた子供のように、言いよどんだ。二十五年もほっとかれて、今突然この電話だ。昔話をするためだけじゃないだろうと思った。
何か言いたげだな、と亮介が言うと、志村はしばし無言になり、そうだな、とか細く呟き、やがて決心したような勢いで言葉を発した。
「なあ、もし、もしだよ、今でもバンドやりたいって言ったら、お前怒るか?」

夕暮れ時に、かなかなかな、かなかなかな、と都会のヒグラシが鳴いていた。

志村の声が遠のき、亮介は昔の自分に戻っている錯覚に陥っていた。亮介たちが未だ夢を信じて疑わなかったあの頃に・・・だ。













 


    4

たとえば、ぼくの中に
悪魔が棲んでいたなら
酒を楽しく飲み交わし
祝っていただろう

たとえば、あなたの中に
天使が居たなら
熱いキッスを交わしながら
愛に溺れただろう

けれどそれは幻影にすぎない
ぼくが勝手に作ったこころの病

だれが悪いのではなく
誰かが悪い
そんな暗いぼくは、社会を恨み
高架線の下で
何かを吼えている

いったいどうなっちゃったんだろうね
いったいなんなのか

ぼくは愛に飢えている
ぼくは愛に飢えている


志村の声がキーンと不快な音に交じってハウっていた。
機器の不調もあるのだが、原因の一つには彼がスピーカーに、不必要に近づき過ぎているせいもある。
ノイズロックならいざ知らず、亮介たちの目指しているのは、そういう音ではなかった。
はやくボーカルをみつけなきゃ、な
そう思いながら、亮介はドラムの音を左耳で拾いリズムを刻んでいた。
 ギターはヘルプのギタリストが弾いていた。彼の音はリズム感もありテクニカルだったが、亮介たちのバンドで長くやっていくのには、切れ味が今一つだった。本来のギターは志村が担当していたが、ボーカル不在の為、志村が変わってボーカルを取っていた。
 ホールの客に目をやると、何人もの客が、人差し指を彼らに向け、身体を揺らしていた。指を向けるなんて、何時からそういう習慣が根付いたのか分らないがどれだけの客が彼らの音に食付いているのか、人気のバロメーターにはなった。前を陣取っている凡そ七、八十人といったところだろうか?これらの客はみな純粋に亮介たちの音を聴きに来てくれている。
 このハコ、キンキー・ハウスの店長は一風変わっていて、決してチケットのノルマ制を亮介たちに敷かせなかった。「音でリピーター客を増やせ」というのが店長の口癖で、そのくせ、ホールの使用料はきっちり取られた。そのため、閑古鳥が鳴いていた初期の頃の彼らは、使用料を払うのに四苦八苦し、年中金欠病に泣いていた。
 ハコはスタンディングとテーブル席込みで二百人は入る。対バンしているのは四組だ。八十人くらいなら許せるかなと思った。
それにしても・・・・。
 ライブの一週間前に、メンバーの一人が抜けたのは痛かった。原因を作ったのは志村。いや、ボーカルの一言だった。
 一週間前、亮介たちは亮介の下宿先で、ライブの打ち合わせをしていた。四畳半、トイレ共同・風呂なしの狭い部屋だ。大人の男が四人集まればいっぱいになった。軽いミーティングのつもりでライブ進行の打ち合わせを済ませれば、三十分ほどで終わる予定だった。それが、最後MCを入れるかどうかで論争になってしまっていたのだ。
 志村は、純粋に音だけを聴かせよう、と提案した。ボーカルは、客の人気を取るにはどんどんMCを入れるべきだ、と言った。それまでの彼らは、彼をフロントマン的立場に置き、MCも多く入れていた。話術が巧みであったし、歌はさておき、なんといっても彼は甘いマスクを持ち、そのためか女性ファンも徐々に付き始めていた。それが良かったのか亮介にも分らなかった。人気は欲しかった。人気がでれば、プロになるのも近い。でも、肝心の彼の歌はというと、まったく進歩がなかった。志村はそれを危惧したのだった。
 何度か言い合いになり、お前の仕事は歌だぜ、志村が言うと、ボーカルは、ふん、と呟きこう言い放ったのだった。
「このバンドは俺あってのもんだろ」
 刹那、志村の右拳が、ボーカルの左頬にめり込んでいた。
 その後のことは想像に難くない。
 ライブをキャンセルする訳にもいかず、責任を取ってもらう意味も込め、志村を急造のボーカルに添えた。そして、ギターはサポートを頼むことを考えていた。
 幸いブッキング・マネージャーの長谷さんに相談したところ、知り合いを紹介してもらえることになり、何とかライブに間に合わすことができた。紹介してもらったギタリストは、プロのスタジオ録音にも参加したことのあるセミプロで、タブ譜を見せるとほんの二、三回で、完璧に合わせることができた。 
 ちらりとそのギタリストを見遣った。
 彼のギターテクニックは卓越していた。とても数回で合わせただけだとは誰も思わないだろう。一見“くれよん”のメンバーだといっても、かまわないようにも思える。実際このメンバーで上手くいけば、志村をボーカルに添えてギタリストは彼にという算段もないともいえない。
でも・・・・・。
彼のギターは好きになれなかった。
「やっぱ、ギタリストは志村しかない」
勘違い気味の、はでなパフォーマンスを続ける志村を前にして、亮介はそう思ったのだった。
 

          


その公園は、夜閉められていた。正確にいうと両端の鉄杭の穴に、鎖を通して回し、南京錠をかけただけなのだが、鎖を跨いで入ると、夜中に学校に忍び込んだときのような軽い解放感があった。
亮介の通っている大学は、東部東上線の東部練馬駅から、二十分歩いたところにあった。
都内にあるとはいっても、本当は一、二年生の教養課程の内は埼玉校舎で、三、四年が板橋校舎となる。三年になる春、亮介は大学の生協が紹介してくれた、何件かの物件を見て回り、一駅手前の上板橋駅からイトーヨーカ堂を横切り、東へ軽い坂を下る道沿いにあるアパートに決めた。そこは四畳半に半畳程の申し訳程度のキッチン付と狭かったが、坂道沿いにあるせいか、二階が丁度良いくらいの中二階になっていて、そこから眺める景色もよかったし、銭湯も近かった。銭湯から帰る途中には猫の額ほどの公園もあった。
亮介はその下宿先を大いに気に入り、さっそく三月の終わりには引っ越した。そして腰を落ち着けると、毎日銭湯に通い、毎日帰る途中にある自動販売機でビールを購入し、公園で一息つき、飲んだ。
その日の夜も銭湯の帰りで、洗面器片手に右手に缶ビールをもって、公園の鎖を跨いで入ろうとしたところだった。
歌声?
悲しげなフレーズが流れた気がした。
でも、公園に足を踏み入れ、辺りを見回しても誰もいない。気のせいかと思い、公園隅にあるベンチに腰掛け、ビール缶のプルトップを引いて、一口ビールを口に含んだ。
それにしても・・・。
ボーカルが脱退してから一か月が過ぎようとしていた。
「ボーカル求む」という電話番号入りのチラシを、ライブハウスの通路脇に貼らせてもらい、メンバーを募った。雑誌にも募集をかけていた。確かにポツポツと応募する者も出て来たが、いざ音を合わせてみると、自分の世界に酔いしれるだけの奴らで、大した収穫は得られなかった。これでは前のボーカルとそう変わりがない。歌は上手い者もいたが、どこかが違う。じゃあ、お前らの目指している音はどうなんだと言われると、説明に困るのだが、ともかく自分たちの感性に合わない音ばかりだった。甘かったかな、と思った。
 ふと、腰を浮かせかけたとき、先ほどのフレーズが耳に入ってきた。
やっぱり、歌声がする?
 悲しさとともに、どこか懐かしさが伴う歌声だ。
 夜の優しげな風が亮介の多少火照った頬をなでた。
 猫の額ほどの公園でもブランコや鉄棒、簡単な砂場もある。どこにも人影はなかった。
 ハスキーで儚いが、しっかりとした伸びのある高音が心地よかった。上手くはない。上手くはないが、心揺さぶられる声だ。
 そう感じたとき亮介の向かい側、十数メートル先の公園の端から、何かがが突然現れた。何だろうと見ると、人の顔のようだった。
 人の顔は、一定のリズムで上下し、徐々に肩から胸、胸から上半身を現し、最後に右足を踏みしめるように前に出すと、全身を現した。迂闊にも、亮介はそのときになって、ようやく顔の主が女だということに気づいた。
 公園は小高い丘の上にある。公園の出入口はもう一つ、反対側に坂下の住宅地へと伸びている長い石段があり、そこからも出入りできるのであった。
 女は年の頃二十歳くらいであろうか、洗面器を右脇にかかえ、真っ直ぐもう一つの出入口へと向い、亮介の前を横切り、呆けている亮介をちらりと見遣ると軽く会釈をし、鎖で阻まれている出入口をひょいっと跨ぎ出て行った。

 歌声はもう聴こえてはこなかった。



 それからというもの亮介は毎日、同じ公園、同時刻にベンチに腰掛け、まだ名も知らぬ彼女を待つ羽目になった。その間に、二匹の野良猫と、一人の浮浪者に出会った。けれど、彼女は二度と公園には姿を現すことはなかったし、あの歌声を公園で聴くこともなかった。      
 もう一度歌声を聴きたかった。
彼女の歌声は彼らに必要なものだと確信していた。




 出会いから一ヵ月経ったころ、亮介はやっと彼女の名前を知ることになった。それは偶然というよりキセキだといっていい。
 その日、彼らは路上ライブを行っていた。
池袋東口が彼らの根城で、サンシャイン60へと向かう五差路近くの路上だった。夕刻に近いせいか、最初は行き交う人々のほとんどが、こちらを見もしないし、ギターを弾きながら歌う志村のパフォーマンスも、煩わしいだけでどこかピエロのように思えてならなかった。全てが陳腐だったが、それでも感心なもので、彼らのファンと思われる女子高生の一人が足を止め、身体を揺らし始めると、若者が一人、二人とこちらに注目し始め、気が付いたときには最少の群集となっていた。
観客が集まると、よくしたもので、亮介も志村も、いつもは沈着冷静なドラムのとっぺいさえも、ノリが良くなった。一曲、二曲とダンサンブルな楽曲を続け、そして最後には特別にと、「客」のリクエストにも答え始めた時だった。
「ねえ、ジュディ・シルは知っているかしら?」
何もそんなマニアックなリクエストをしなくてもと、面倒くさそうに声のした方に顔を向けると、白い透き通るような肌の色の娘が前列に立っていた。ショートの髪に切れ長の奥二重、瞳は妙に大きく青みかかっていて、鼻はすうっと美しいラインを保っていた。茶色い薄手のジャケットをラフに着こなし、濃紺のジーンズの足が、羚羊族のそれのように、しなやかに伸びていた。
そこにいたのは紛れもなく公園で会った彼女だった。
思いもしない偶然に一瞬間が空き、ああ、やっと会えた、と思った時には右手を伸ばし、彼女の手を引き寄せていた。
「ねえ、THE・KISSって曲なら知っているよ、だけどそんなマニアックな曲歌えるボーカルがいないんだ、ああそうだ、なら君歌えるよね、なまえ、名前、そう、君の名前は?」
 間断ない亮介の言葉の羅列に、いきなり前に立たされた彼女は眼を見開き、何故?、という顔を表しながらも、小さく、美奈子、と答えた。彼女の名を聞くや否や亮介は、ジュディ何とかなんて知らねえや、とぶちぶち呟いている志村からギターを奪い取り、とっぺいに目配せし、前奏を始めた。
「歌って・・・・」
 彼女の耳元で亮介はそう囁いた。
 すると、恥ずかしさからか、下を向いていた彼女は亮介を睨み、さあとせっつく亮介に対して、はあ、と一息つき、スタンドマイクを両掌で包み込むようにして囲むと前を向き、決心したように歌いはじめた。ゆっくりと、そして急がずに・・・・・。

亮介の肩に蝶が舞い降りてきた気がした。
周囲の観客の顔が紅潮している。
亮介はギターを注意深く弾き、彼女の高音が響いた。亮介の背筋に戦慄が走り、これだよ、と身震いした。
蝶は飛び立ち、観客の合間をスーっと行き交うと、只の通行人だった人間までも徐々に魅了させ、一人、二人と引き寄せて、熱心な観客とさせていった。
時がゆったりと流れる。
視線が集中する。
スローモーションの世界の中で亮介と彼女だけが世界の中心に居るような気がした。
よくスポーツの世界では、限界域に達すると、自分以外の全てが静止して見えるという。例えるならそんな感じだ。
蝶は再度舞い降り、亮介の肩を掠ると今度はゆっくりと優雅に舞い上がった。
そして彼女のハスキーな高音が、更に響いたときには、周囲は人だかりの輪を作っていた。
予想以上の反響に、志村はすげえ・・と呆然と立ち尽くし、普段は冷静なとっぺいも、ほおと目を丸くしていた。

彼女の歌が終わると、観客が一斉に吼えた気がした。


余りの群集になってしまったせいで、警官に即時撤退を言い渡されてしまい、彼らは後片づけを余儀なくされていた。群集は嘘のように去り、彼女も立ち去ろうとするのを、亮介は半ば無理やり引き留めていた。
志村ととっぺいは、バンを取りに駐車場へと行っていた。
彼女は近くの石段に腰掛け、長く今にも折れそうな両足を伸ばしていた。
「・・・ジュディ・シル・・・」
「えっ?何?」
「何故、私に歌わせたのかしら?」
彼女は疑問を亮介にぶつけてきた。
「ボーカルがいないからさ」
「でも、私が歌えるとは限らない」
「確信があった」
「えっ」
「ジュディ・シルなんてよほど好きじゃない限り、リクエストなんかしないし、事実日本ではアルバムの一枚も発表されていないと思う。仮にされていても、もはや廃盤になっているだろうし、彼女を知るには輸入盤に頼るしかない、それだけ好きなんだと思った。で、恐らく君は相当聴きこんでいるだろうし、それなら俺たちが歌うよりましだと思った。因みに俺が知っていたのは、七つ違いの兄がいて、彼は洋盤の猛烈なコレクターで、俺は彼が仕入れたレコードを聴いて育った。その中にあったのさ、ジュディ・シルがね。どう?こんな理由じゃおかしいかい?」
そう亮介が返すと彼女は小首をかしげ、やっぱりおかしいよと呟いた。
苦しい言い訳だなと思った。実際は、彼女が歌えることを知っていた。あの日、あの公園でのあの歌声と彼女との出会い・・・。彼女はあの時すでに亮介と出会っていたことを覚えてはいなかった。
 志村ととっぺいが戻ってきて、手際よく楽器をバンの荷台に放り込むと、運転手の志村が気を利かせて、送っていくよ、と彼女に向かって言った。でも、帰る方向が違うんじゃない?、という彼女に、亮介が心配しなくてもいいよ、一緒だから、と言うと彼女はきょとんとした顔を亮介に向け、志村達は顔を見合わせていた。
「板橋方面でいいんだろう?」
しまったなと思いつつも、さて、この娘をバンドのメンバーの一員にするのには彼女は元より、二人に事の顛末をどう説明したものかと考えていたのだった。













     5

おのみちさん、ねえ、尾道さん?
ん?
沈黙、だね
ああ、少し昔を思い出していた
バンドをやっていたときのこと?
そう
プロを目指していた?
うん
すごいね
うん、そうかな
ボーカルが奥さんだったことは聞いたわ
うん、そうだね。確かに言った
相槌ばかり・・・
そうかな、結構要らぬことを一方的に喋った気がする
私は自分に繋がることを一切明かしていないのにね
確かにそうだ
聞きたい?
いや、いいよ。君はなんだかそうすることを望んでいない気がする
ずるいけど、そうかも、ね
それにね、亮介は君が何処の誰であろうと、俺のくだらない話に付き合ってくれるだけで満足なんだ。君を利用しているという点において、やはりそれはそれでずるいかもしれないね
お互い様かしら
うん、お互い様さ

 「さびしんぼう」に出会ってから数ヶ月の間に、亮介は相当の情報を「さびしんぼう」に与えてしまっていた。年齢も当の昔に明かしていた。勿論ネット世界での過剰な露出は、ストーカー等犯罪に利用される恐れがあるので、所在地や直接本人に繋がるような情報は控えてはいたが、それでも見る人が見たら、容易に亮介や周辺の人物を特定できたであろう。だから匿名性のあるネット世界であっても、やはりある程度のお互いの信頼関係が必須となってくるし、そうでなくてはならないと思う。ただ亮介が素性の知らぬ彼女に相当のことを話してしまっていたのには、彼女を信頼してのことだけではなく、非常に聞き上手だったことが挙げられる。彼女はホスピスの看護師のごとく、冷静に、そして穏やかに亮介に接してくれていた。

シムラさんとのことは、どうなのかしら?

突然「シムラ」という固有名詞を投げかけられて、ドキッとした。少々喋り過ぎたのかもしれない。

シムラのことって?
バンドやろうって誘われたのでしょう?と彼女はタイピングしてきた。
そこまで喋っていたんだ
記憶がない?
うん、ない
突然電話が架かってきて、バンドやろうって・・・、あなたはそう言ったわ
そうか

志村からの電話の話をした記憶はなかったが、亮介が明かさなければ彼女は知りようがない。恐らく何かの拍子に喋ってしまったのだろう。

迷ってるんだ
迷う?
彼とバンドを組んでいたのは二十五年も前のこと、今更なんでなんだろう?、てさ
今はそういう気分になれないのかしら?
というより、バンドを解散した時点で終わりにしたはずなのに、って感じかな
一瞬過去の苦い思いが頭を過った。
・・・裏切ったのは、お前だろってことかしら?
えっ?
裏切ったのは、シムラさん。あなたは今もそれに拘ってる。どう?違うかしら?
何故?どうして?
テレパシー、っていいたいところだけど、本当はただの当てずっぽう、何故ってことは当たっちゃったのかな?
 
 裏切りというキーワードが、ただの当てずっぽうで割り出せるのかどうか分からない。
ただ、今まで話した経緯だけで、今の自分の心情を言い当てるなんて、賞讃に値することではある。ネットの向こう側、キーボードで文字を打ち込んでいる彼女も、きっと同じような経験をしたことがあるのではないかと思いつき、それについて訊ねようとしたときには、タイム・リミットとなっていた。

 十二時だわ、じゃあ、ね

 彼女は少しの余裕も亮介に与えずルームから退出していった。


 机上のノートパソコンを前にして、ふうっと溜息をつき、亮介は画面を閉じた。軽く首を解すような仕草で廻りを見回したが、書斎兼寝室の、二階にあるこの部屋の家具といったら、ベッドと目の前にあるパソコン用のデスクしかない。床には幾らかの単行本と雑誌が平積みされているが、それ以外は至ってシンプルな部屋だ。ここ十年、亮介は一人この部屋で寝起きをしていた。
すでに昨日になってしまった柱の日捲りに気づき、椅子から立ち上がろうとしたとき、タンタンタンと二階に上がってくる足音がする。美奈子だ。
 美奈子の足音は、二階に上りきると亮介の部屋を通り過ぎ、奥の浩樹の部屋へと向かって行った。
トントンというノックの音の後に、カチャリとドアの開く音。ねえ、下でお茶にしない?と美奈子の声。するとうるせえ、と怒鳴るような返事を返す浩樹。いつものパターンだった。美奈子は少しの間無言だったが、そんなに余裕がないんじゃ、落ちるわねと言い放ち、今度はわざとドンドンと足を鳴らして、階段を下りて行ってしまった。
 この秋、十八歳を迎える息子の浩樹は受験生である。大抵の受験生がそうであるように、浩樹もまた必要以上にナーバスになっていた。彼は合格圏内レベルの大学を受験することを頑なに拒否しており、「最低でも旧帝国大学レベル」を目指していた。どうやら、何かをやりたいから大学に進学するのではなく、一種のステイタスを求めて進学するようだ。時にはその高慢ちきな鼻をへし折ってやる、と思ったりもしたが、私立の無名大学出で、今や登校拒否の児童のようになってしまった亮介にはその権利すらなさそうだ。結果、高校出で進学など望むべくもない環境に育ってきた美奈子が出しゃばることになるのだが、それもまた浩樹には気に入らないらしい。取りつく島もない。来年の春まで放っておくしかないのだろう。
 少し喉が渇いたので、亮介は階下へと出向くことにした。
 キッチンを覗くと、テーブルの上で美奈子は何やらノートパソコンと格闘していた。どうやら家計簿ソフトを上手く操れないらしい。うーんと唸り、亮介が冷蔵庫のドアを開け、麦茶のボトルを取り出しコップに注ぎこみ、彼女の向かい側の席に腰を落ち着けると、やめたやめた、と最後にはノートパソコンを放り出すような大袈裟な仕草をして、作業を中断してしまった。その様子がどういう訳か亮介の笑いのツボに嵌り、へっ、と思わず吹き出しそうになると、笑いやがったなという顔を美奈子が向ける。そして、だってさあ、と言い訳しそうになる亮介の口をテーブルの上に乗り出し、前から手で押さえつけると、彼女は笑うな、と言いながら、自分は満面の笑顔を浮かべていた。ずるいぜ、と亮介は思う。
 彼女は亮介の口からゆっくりと手を離すと、
笑える余裕ができたんだね、と言った。
「うん」
「向かいの佐藤さんがね、お宅のご主人最近いらっしゃるようですね、だって」
「日中、回覧板受け取ったりしたからな」
「ほっといて、って言いたくなる」
「仕方がないさ」
「・・・そうね・・・仕方がないのよね」
 此処のところの亮介は、朝も昼も定時に寝起き出来るようになっていた。時々酷く落ち込むこともあったが、それを、引きずるのをやめようという意志が働いた。仕方がないと笑い、切り捨てる余裕が出来たのだ。亮介は着実に回復に向かっていた。
 美奈子は、両指を絡ませ、大きく伸びをすると、今度はほっとしたような顔をした。
「笑う門には福きたる、ってね。こうやって笑い合えるようになっただけでも、幸せだよね。一時期この家には笑いの一欠けらもなかったのだもの」
 亮介はコップの麦茶に口を付けた。何処かで音がするなとそちらの方に目をやると、冷蔵庫がブーンと大きな唸り音をあげていた。考えてみれば、この冷蔵庫ももう十年近く使っている。キッチンの壁も、ところどころ色が剥げかけているのもご愛嬌といったところか。
 前の住まいに四年、建売のこの家に入居して十六年が経過していた。結婚して、二十年になるんだなと思った。ふと、亮介は結婚式を挙げていないことに思い至り、そういえば、式、挙げてなかったよな、と言った。
「そうね、結婚式挙げてなかったし、旅行にも行かなかった」
「結婚式はともかく、新婚旅行位は行くべきだったかも」と亮介が言うと美奈子は、「別に、行きたいとも思ってなかったし」と返した。
 当時亮介は、新婚旅行に行けないほど、金がなかった訳ではなかった。亮介は、今の会社に就職して四年が経過しており、それなりの貯えはあった。 
旅行に行く位の資金はあった訳だが、それでもそうしなかったのは、一刻も早く自分達の城を築きたかったし、特に美奈子がそれを切望したからだった。何とか手付金が出来たそのまた四年後、亮介は出来るだけ安い物件を探し回り、二十五年のローンを組み、都会の端にある小さな建売住宅を購入した。何故彼女が持家に固執したのかは、分らない。ただ、それまでの彼女の人生に於いて、温かい家庭というものは存在していなかった。母と子二人の生活だった。父親を早くに亡くし、母親は彼女が高校を卒業するまで、文字通り身を粉にして働いていたという。小さい頃から、一人で遊ぶのに慣れていた、とは美奈子の弁。きっと彼女が歌を歌うのを好きになったのは、そういった環境下にあったからなのだろうと思う。
「今でもあの頃のことを思い出すの」
と美奈子は言った。
「あの頃って?」
「私の唯一の青春時代」
「青春時代?」
「そう、好きなことを誰にも遠慮せずに好きなだけ出来たあの頃・・・」
 何だか謎掛けみたいだなと思ったが、好きなことといった辺りで合点がいった。
「バンドやってた頃かい?」
「うん」
「楽しかったな」
「楽しかったわ」
「君は二十一歳だった」
「そう、まだ勤め始めて何年も経たない頃、変な大学生に誘われて、ね」
「変なって、まるでストーカーみたいな言われようだな」
「違った?」
「言われてみれば、似たようなことをした記憶がある」
「ほら、ね。そうでしょう?」
 あの頃亮介は彼女をバンドに引き入れるのに執心していた。池袋の出来事のあと、彼女を家へと送る車中での亮介の誘いを、彼女は頑として受け入れてくれなかった。それまで見も知らなかった正体不明の大学生からの誘いなのだからそれは当然なのだが、それでも亮介は決して諦めなかった。彼女が母親と住んでいたアパートの前で待ち伏せをしたり、果ては勤め先のビルの陰で終了時刻前に待機し、五時ぴったりに偶然を装いながらも、何度も行ったり来たりして、やっと彼女の姿を見つけると、近くの喫茶店にあの手この手で誘い込み、そこで勧誘した。今なら一発でアウトだ。
「・・・でも嬉しかったんだ」
「嬉しかった?」
「うん、それまで人に必要とされることなんてなかったからね。勿論最初は私に何を言ってくるんだろうって、いやな感じがしたんだけどね、だんだん真剣に話しているあなたの目をみたら、ああこの人はこんなにも私を必要としてるんだって感じて、今を逃したらこんなチャンス二度と訪れることないぞって思い直したの」
「大好きな歌を歌えるって思ったんだろう?」
「・・・歌かあ、大好きだったけど、人前で歌うなんて微塵とも思っていなかったし、それよりきっとあなたに好かれたいって想いのほうが強かったんだと思う。あなたがいるから歌を歌うっていうか、そんな感じかな」
「それは光栄だね」
「今だから言える真実ってやつね」
今だからか・・・、ふと志村からの電話のことがよぎった。彼は、何故今、この時期になってバンドの再結成を呼びかけてきたのだろうか?一度だけの再結成だ、と言った。でも、もう俺らは若くはない。亮介自身ギターをここ何年か触ってもいない。そんな亮介の疑問に彼は、けじめをつけるんだ、とも言っていた。
一体何に対してのけじめなのだろう?
 そう考えていたとき、美奈子は大きく伸びをして亮介に向き直り、見透かすように亮介の目を見た。
「・・・・志村さんとのこと、あなたのしたいようにすれば良いわ。私はあなたについていくだけよ。今も昔もね」

 彼女の積極的とも言い難い突然の決断に亮介はただただ戸惑うばかりであった。と同時に(ギターは何処にしまったんだっけ)とその気になり始めている自分に気づき、自然と笑みがこぼれたのだった。


明日へ続く・・・・・・。



























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銀杏BOYZ 恋は永遠

2019-12-27 | 音楽
銀杏BOYZ 恋は永遠



山下達郎「RECIPE (レシピ )」 Edit Version
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Face / Hisaaki Hogari with Ghinka



Maneater (1988) - Hall & Oates




三曲目、保刈久明さんの行方はずっと気にしてて、もう音楽やめちゃったのかな、と思っていたのだけれどずっと裏方やってたんだね。

新居昭乃さんのアレンジなんかをやっていたのか・・・・。

現在はフリーの状態だけれど、今年,12/14に2枚目のアルバムを出したらしい、良さげなので買おうかな。

※彼は確か多摩の高校時代にバンド結成、イエス風のプログレやっていて、その後1991年頃ユニット「karak」としてデビュー、zabadakにも絡んでいたけれどいつのまにか見なくなったんだ。(^_^;)

宣伝(^^♪
  ☟
保刈久明 Hisaaki Hogari 『Brown eyes in solaris』12.14 リリース!

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小さい宇宙 ザバダック

2019-12-26 | 音楽
小さい宇宙 ザバダック



Johnny Marr - Bigmouth Strikes Again - 2018-05-19 - Copenhagen Vega, DK



Lumiere 何度でも



Paul Weller - White Sky


びっくらこいた!

ポール・ウェラーがこんな激しい曲・・・。

というより、これってかつて彼らが否定した70年代初頭のハードロックというものではないかい?

オルガン音まで・・・。

ああ、でも彼は始まりこそパンクではあったけれど、徐々に黒人音楽に走り、60年代ブルースにはまり、とくればあとは?

当然こういう音楽もやってみたくなるわけだ。

う~ん、でもよくよく考えてみると彼の好きなビートルズ、ジョンのボーカルで似たような曲があったような気がするんだが。(?_?)
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