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哲学の科学

science of philosophy

私はここにいる(18)

2009-03-21 | x9私はここにいる

「世界は、はっきりとここにあって、同時に私もはっきりとここにいる」というとき、私たちは、現実1と現実2と現実3を同じものと勘違いしている。現実は一つしかないという錯覚におちいっている。そうなると、私たちは、ネッカーキューブのような錯視に引きずり込まれて、混乱する。それが拙稿の指摘する哲学の間違いです。

ちなみに、ネッカーキューブとは、斜めから見下ろした立方体を十二本の稜線だけで表現した線図です。立方体を右斜め前方から見下ろした図に見えるが、しばらく凝視していると、突然、左斜め前方から見上げた図に見えてくる(二〇〇〇年 谷部好子、藤波努『3次元物体の認知過程における主体的操作の特徴について-ネッ カーキューブ操作行動に見られた共通点』)。網膜に映っている画像信号はまったく変化していないのに、脳内の現実感だけが変換してしまう。つまり、世界は変化してしまうのです。現実が一つしかないならば、これはありえないことです。どちらが錯覚でどちらが真実なのでしょうか?

ここで現実が二つあるということにすれば、問題はなくなる。二つの現実が交互に表れているということになります。私たちは好きなほうをとればよい。生きていくのに都合がよいほうをとればよい。たとえば、現実1をとれば、うまく生きていけるなら、そうする。現実2を取るほうが生きやすいならば、それをとる。どちらも同じならば、気まぐれに、どちらかをとって、それに応じて行動すればよい。はなはだ、節操がない。厳格な哲学者には叱られてしまうでしょう。しかし、こういう生き方はどこかで聞いたような話ではありませんか?

そうです。これは私たちふつうの人間が、意識せずに毎日こうして生きている生き方そのものです。私たちはいつも、二つも三つも、互いに異なった現実を使いこなしている。それなのに、私たちは、現実は一つしかないと思い込んでいる。それは、そう思い込むほうが(拙稿の見解では)、生活に便利だからです。現実は一つで、それがどう変化するかは簡単に予想できる。そう信じている人は、自信を持って世界を渡っていける。そうでなくて、現実を信頼できず、予想もできず、自分の行動はいつも現実に裏切られるのではないか、といつもおどおどしている人は、自信を持って行動できない結果、競争に負けて生きていけなくなる。そういう人たちは子孫を残せない。現実は一つと思い、自信を持って将来を予想できる人たちの方が現実にはずっと強い。実際、現実が一つだろうが、三つだろうが、本人が現実は一つだと思い込んでいるほうが生き残る。そうして生き残った人々の子孫である私たちは、当然、そう思うような神経系を持っているわけです。

私たちは(拙稿の見解では)、現実は一つしかないと思いながら、意識せずにいくつもの現実を渡り歩いて暮らしている。

「私は首尾一貫した現実主義者だ」と言いながら、あるときは著名な経済学者の理論を信奉する。あるときは、マスコミの言いなりになる。またあるときは官僚のお膳だてを利用する。それを反省もしない、意識もしない。節操がない政治家のようです。

私たちの身体は、進化の結果、そうなっている。現実は一つしかないとしか感じられない。そうであるならば、(拙稿の見解では)実際には現実は一つであってもよいし、二つであってもよい。三つでも四つでも、百八個でもよいし、零でもよい。つまり、現実というものは、一つだけあるように私たちに感じられればよいのであって、それが実際にはいくつあっても、あるいは一つもなくてもかまわないのです。私たちのだれもが、これが現実だ、と思えるものがあれば、それを現実だとすれば、何も問題はありません。

閑話休題、さて、話し手が「私はここにいる」というセンテンスを発声するとき、私たちは現実1から3まで、あるいはその他の現実感覚、を持ち込んでその言葉を感じ取る。たとえば、客観的物質世界の現実(現実1)を感じながら考えれば、このセンテンスは「話し手の身体という物質が話し手の身体がある場所にある」という当たり前のことを言っている。一方、自己中心的な現実(現実2)を感じながら考えれば、この言葉は話し手が聞き手の注意を引きつけて、こちらに注目させるための行為です。つまり話し手から世界へ向かって働きかける行為の一種となる。また、自他の関係を操作する現実(現実3)を感じながら考えれば、このセンテンスは、聞き手を話し手に憑依させて話し手の位置を自分の立ち位置として感知させる働きを持った他人操作である、ということになる。

このように、私たちの会話は、「私はここにいる」など、簡単そうに見える一つの言葉をやり取りする場合でも、話し手の(そのときの)現実感覚の違いによって意味合いが違う。聞き手がそれを聞き取る場合も、聞き手の(そのときの)現実感覚の違いで意味が違ってくる。いわゆる文脈(コンテキスト)による解釈の違いともいえるが、そこには、話し手も聞き手も無意識のうちに起こしている現実の認知に関する混乱、が混じりこんでいる。

人類の言語は、どの言語でも代名詞をよく使う。私、あなた、彼、彼女、それ、これ、ここ、などです。代名詞は、普通名詞や固有名詞のように客観的物質世界(現実1)に準拠して対象を指示するのではなく、話し手を中心とした自己中心空間に準拠して対象を指示する。そのため、代名詞を使うと自己中心的現実(現実2)が言語システムに入り込んでくる。(今、という語は代名詞ではないが、自己中心的に時間を表わすとき使われるので拙稿では、代名詞と同様に扱う)

たぶん(拙稿の見解では)、人類は客観的物質世界(現実1)を共有できるようになってすぐ、言語を使うようになった。はじめ、言語は客観的物質世界(現実1)だけを表現していた。普通名詞はあったが、代名詞はなかった。言語を使うようになった後も、人間は、自己中心的世界(現実2)を忘れたわけではなく、両方の現実にまたがって生きていたわけです。そのうち、言語を使って自己中心的世界(現実2)を言い表せるようになった。その仕掛けが、代名詞を使う自己中心的な空間表現でしょう。

代名詞は便利です。客観的空間で表現するように作られている言語システムの中で、自己中心空間での表現を使うことができる。代名詞によって、話し手は聞き手を、確実に話し手の自己中心的空間に乗り移らせることができる。代名詞が使われると(拙稿の見解では)、聞き手は、話し手の身体の位置に乗り移って、そこを原点として世界を見渡さなければならない。こうして、話し手と聞き手は、相互に相手の身体に乗り移りながら、共有する客観的世界について語り合う。互いの気持ちがよく分かる。自分を、うまく表現できる。これは便利です。

話し手が「それ、それ、それだよ」と言う。聞き手は、話し手の視線方向を見取って、それらしきものを取り上げ「どれ?どれ?これ?」と聞き返さなければなりません。つまり、聞き手は、話し手の身体に乗り移って、その目の位置から世界を眺めなおさなければならないのです。こうして、会話する人どうしは、互いの自己中心世界を感じ合う。それによって、自己中心世界(現実2)を、人間のだれもが、同じように持っていて、交換可能であることを確認できることになります。このことを知った上で聞き手は、本来自分の身体に固着しているはずの自分中心空間を、自分から取り外し、話し手の身体のところまで自由に移動させて、その身体に仮に取り付けて、その空間の視座から世界を眺めなおすことができる。これが代名詞の重要な機能です。

代名詞は、かなり早くから開発されたでしょう。そしていったん使われるようになると、たちまち普及しただろう、と(拙稿の見解では)推測できる。しかし、この語法には欠陥があった。私、ここ、今、と言っているうちに、世界と私の関係に疑問が出てきてしまいます。

「私はここにいる」というセンテンスのように、人称代名詞一人称(私)、あるいは指示代名詞(ここ)が主語、述語の中心に使われる場合、種々の現実が入り乱れることで理論的な混乱や違和感を引き起こす。客観的空間表現と自己中心的空間表現が入り乱れる。私たちは「渋谷駅ハチ公前」と言ったり、「私の右のほう。そっちじゃない。あっちのほう」と言ったりする。それでも、私たち人間は、皆が同じように混乱したり勘違いしたりしても、うまく話をあわせてしまう能力を持っている。それで、ふつう会話は支障ないかのように続いていく。ただ、ときどき、哲学者など論理に敏感な人たちが現れて、論理的矛盾を指摘し、混乱を露呈させる。哲学者は、「あなたが言っている私は、私が言っている私ではなくて、私が言っているあなただから、私とは違う」などと言い出すわけです。

客観的世界の現実、あるいは自己中心的世界の現実。それら異なる仕組みで働く複数の現実を、私たちが違和感を持たずに単一のものとみなして言語で表現していくことは、哲学者たちが指摘するように、おかしいといえばおかしい。しかし実用的にはあまり困らない。むしろいろいろな場面で、いろいろな現実を適当に使いこなしていくことは(拙稿の見解では)、人間の生存繁殖に有利に働く。

猛獣に襲われたときなど緊急の反射運動を起こすには、現実2(自己中心的世界)を使うと便利。しかし、自己中心的観点だけでは、他人の動きの意味が分からないので社会行動がうまくできない。また、他人と自分の関係というものもないので、他人から見た自分の行動というものの評価や学習、記憶ができない。したがって、将来の自分という予想もできない。人間以外の非言語動物や、人間だと赤ちゃんの世界は、これですね。

ほかの霊長類に比べても、特に視力に優れていて手が器用な人類は、道具製作や、狩猟採集や戦争などの実務において物質操作を精密に実行するのに都合がよい身体をもっている。この視力や手指を使いこなすには現実1(客観的物質世界)を使うと便利です。また、仲間と運動を協調させて協力するには、自分の身体を客観的な物質とみなして、道具のように操作することができるとよい。そのためには自分の身体が客観的物質世界(現実1)の一部分であることを把握する必要がある。

さらに言葉を使って人々と付き合い、人間関係を操作していくには、人の心、つまり自他の内面を感知し操作することができる現実3が有利でしょう。結局、私たちは、現実1、現実2、あるいは現実3のどれをも使いこなす必要がある。

実際、実生活ではいろいろな場面が次々に来る。どの現実が本物か、などと考えずにうまく現実を使い分けていくほうが、生きやすいはずです。その場その場で便利な道具として、それぞれの現実を使ってやりすごせばよいわけです。それでは人間存在として矛盾している、現実が統一されてない、存在が確立していない、などと哲学者が文句を言っても、気にする必要はない。私たちが毎日使っている現実感覚、つまり複数の現実の使いまわし、が一番うまくいく。

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