哲学の科学

science of philosophy

高齢社会の終相(6)

2024-09-14 | その他


欧米で発明された制度や新薬の利用を、この国の政府が許可するのが遅い、とマスコミはよく叱っています。その理由は、守旧派利害関係者の圧力や役人の動作が鈍いばかりではなく、この国のエリートが、保護者のごとく国民をまもっているからでもある,といえます。
逆に言えば、国民が、エリートに保護されることを望んでいて、マスコミがそれを代弁しているという関係でしょう。マスコミは、自分たちの生存のために当然の言動をしているだけなので、それ以上は期待できません。そうであれば国民が、だれかにまもってもらうだけで大丈夫なのか、と思うようになるのを待つしかありません。

日常の復活
エリートは安心安全を守ってくれるが、それ以上の夢は与えてくれません。子孫繁栄の夢もはかない。夢に希望を期待することは無理のようです。
あきらめて平凡に毎日を過ごす。それは別に嫌でたまらない、というほどのことでもないが、むなしさがつきまとう。高齢社会のむなしさ、でしょう。
夢ははかない。しかし毎日に不満はない。これは幸せということではないか。
今日という花を摘め Carpe diem. (紀元前二三年 ホラティウス{Quintus Horatius Flaccus}「頌歌」)
  風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな
(西行 六九歳。一一八六年、東大寺大仏再興のための寄進を乞うため奥州藤原氏を訪問途上)
日常を真とした昭和の作家、夕べの雲(庄野潤三 一九八八年)。政治論争を真の精神生活とした前世紀のインテリ言論人の中で異彩を放っていますが、現代、高齢社会の終相においてはこの人が本物に見えます。
たとえば、料理と買い出しと近所付き合いだけに興味が集中している、かのように見える、あるいは、あえてそうしようとしている、富士日記(武田百合子 一九七七年)。日常が真の生き方です。








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