バッハのレッスンをある先生から受けた時に、まるで全くロマン派と同じレッスンを受けた。例えば”かろやかに”とか、”甘くやさしく”とか、メロディーに形容詞を付けるだけのレッスンで、私は心の中で’こんなのバッハではない’と思っているにもかかわらず、帰る時は’どうも有難うございました’と言っている自分がいて、それだけならまだ良いが、それで満足したような気分になっている自分がいたりして、人間はどうしようもないバカだと思う。又、ある先生は主題や対唱旋律をめずらしく説明したとしても、虫メガネでも見れないような薄い小さい字で書いて、後で見てもさっぱりわからない。(おまけに、薄い、小さい文字を満足気にながめている先生の気味の悪い横顔)
別な話に飛ぶが、ピアニストの顔芸を美人やナイスガイがするなら、まだ許せるが、ブスやさえない男の顔芸がすごく嫌であるのと同じように、私には思う所が大いにあったのである。すくすく伸びていけた人は余程才能があったのか、必死で喰らいついていったのか、異常に素直であったのだろうと思う。私ははっきりいって、どれもなかったのである。でも、才能はあったと思うが、蓋をされて重石をされていた訳である。これが不思議なのである。仮にも気付くという事は先生の方がもちろん上であるし、先生はその上を行っているにもかかわらず、その素晴らしい御自分の資質にまで蓋をして生きる方を選択する意味が・・・
だから私はひょっとして「ごめんあそばせ」「おどきになって」とか体裁ばかりを守りたい連中であるからなのではと思ってしまった自分が
いるのである。私から言わせればメンツや体裁の方が音楽より大事だったのだと思う。
昔から明治時代、いやその前からずっとユダヤは見抜いていた。この種の部類の方が能力が高く、社会性も身体能力も上で使えると・・
ちょうど現在の東北の人間と地域が粘り強くて、野菜や果物や魚の宝庫で、沿岸沿いの家など洗い流して、すっきり区画整理をしようと計画を立てたアメリカ、ユダヤか世界政府のような感じだと思う。昔からずっと同じなのである。
その中を少しでも幸せに乗り越えていくのが,人間の務めであるのだが、そう出来なかった自分なので、あからさまに何でも言って、自分でもちょっと
反省するぐらいになってしまう。だから全部言わないとダメになってしまう。
これが優越人種のユダヤも日本のごめんあそばせ音楽家もきっと分けて弾けないと思う。バッハとピアノ演奏と分けられないと思う。私は悪口ばかりを言っているから、埋め合せをしなければならないので言うが、バッハの弾き方は始まりの一点ドはコツンと
↓である。モーツアルト、ショパンなどいわゆるピアノは↑である。よって曲が全然違ってくるのである。さらにわかり易く言えばドミレミを
時計回りの反対に回すと↑なって(左手の場合は時計回り)いわゆるピアノ得意連中の弾き方になります。この基本を全指導者が理解をしなければならなかったのです。
それで、それから、星の数程の指導がようやく始められるのです。これを区別してもらえなかったので、私は恨みとして残ってしまったのです。
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