Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

背に視線を感じる

2009-03-25 12:35:52 | 農村環境


 南箕輪村沢尻のある風景である。最近何度か触れてきたようにこの地域はけっこう傾斜があって起伏がある地形である。正面には仙丈ケ岳が見え、景色が良いところであるからその起伏のてっぺんなら眺めは良好である。そういう意味もあって住み着いたのかは知らないが、起伏ある斜面に家が建ち並ぶ。大昔からこの地に住み着いているという人はそう多くはないはずである。

 写真では雰囲気が捉え難いのだが、この洞の低地は水田になっている。北側も南側も10メートルほどの段差になって沢状にうねっていることから水が成した地形なのだろうが、その低地に川は流れていない。細い用水路が流れているだけである。この低地の水田に入り込むと頂の上にいたときとずいぶん雰囲気が違う。その一つは雑音である。頂にいれば周辺の道路の賑わいがなんとなく感じられる。そして風が強く耳もとで身体をさすっていく音が響く。ざわついていて、どちらを見ても何かが動いているような気がする。それが低地ではそれらがまったくなく、ぴたりと風が止んだ空間に入り込んだような感じなのである。もちろんこのくぼみの中に大きな道路がないということも、騒々しさから遠ざけている。

 もう一つは視線の違いである。頂に立てば下方へやるものなのだが、くぼみの中では上へ向ける。山間の村へ入ると自然と視線が上がるのと同じなのだが、明かに空の面積は狭まる。その狭まったところに山間なら山林が目に入るものなのだが、ここでは違う。傾斜地に段々に家が建つ。かつてならそこには畑があったのだろうが、今ではほとんどが宅地である。その低地の水田地帯を歩きながら思うのは、見上げる視線の先にある家々のまなざしである。当然のことであるがそれらの家々は農家ではない。景色の良い場所を捜し求めた住人なのかもしれない。立派なお屋敷も目立つ。その低地にある水田はごみためではない。よく管理されたこの水田地帯にごみは舞っていなかったが、頂からのまなざしではこの水田はどう見えているのだろうか、とそんなことを歩きながら考えた。そしてわたしは歩いているだけであるが、ここで農業を営むということはどういうことなのだろうか。けして視線を上げた先の住人がわたしを捉えているわけではない。わたしに気がついた人などいないのかもしれない。もちろん平日の日中にどれだけの住人が在宅しているかも解らないが、いずれにしても休日に農業をするとすれば、このくぼ地の周りに多くの住人の視線を感じても不思議ではない。見下げた視線の先で繰り広げられる農業は、どう見られるだろう。などと考えると、風が弱く、農村の整然さを残した良好な空間が、とても農業のし易い空間とは思えなくなってくる。わたしにはこのくぼ地の中で、今自家でやっているような農業を繰り広げることはできない。とくに田の草取りをするには心が痛む。わたしはこの住人たちにどういう背中を向けて作業をしているのかと、水面を見ながら思うことだろう。

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