Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ムラの祭り①

2007-09-30 12:10:18 | ひとから学ぶ
 生家のムラのお祭りがあった。昨年も「大三国」で触れた祭りである。 父も母も年老いて、体のあちこちに痛みを訴える。石屋をしていた父は、職業病にかかって毎日の医者通いを今も続けている。それほど遠くに住んでいるわけではないが、ふだんの暮らしが忙しいと、なかなか生家へ足を運ぶことはない。そんな生家をお祭りだといって訪れるのは、今も昔も変わらない。農村地帯だからこそ、お祭りが賑やかにこしたことはないし、こうして家を巣立った者たちが集まるからこそムラ祭りなんだと実感する。

 さて、飯島町本郷の祭りは、わたしの子どものころは9月30日が祭日だった。それは土日に関係なく行われたもので、今はその日に近い土曜日が宵祭りとなる。こうした流れは今や農村地帯でもほとんどのところで見られるもので、担い手がいないから仕方のないことである。大三国という庭花火をお目当てに、大勢の人が訪れる。駒ヶ根あたりから飯島町あたりまでの一帯は、こうした庭花火が盛んな場所だった。時代の流れというか、人口も減少し、企業や店がなくなって寄付が集まらないから、打ち上げ花火の数はずいぶんと減った。しかし、庭の花火だけは思うところがあるから、みんな一生懸命である。

 今回はそんな祭りの写真を少し記録しておく。昔のように祭りの写真を真剣に撮っていた時代なら、張り巡らされた柵の中に入って撮影したのだろうが、そんな意気込みはないから、一観客として前に邪魔な人がいようと、「とりあえず」とカメラを向けたものだ。

①まず夜店の風景である。昨年よりは少し出店数が少ないだろうか。それでも人出は同じくらいあって賑やかだ。もちろん地域では少なくなった子どもたちであるが、店の前に陣取っている子どもたちの姿を見て安心する。



②庭花火の始まりである。囲いの中にいる人たちをシルエットにして撮ろうと思ったのだが、そこに立つカメラマンは要らなかった。



③氏子の人たちが煙火店に出向いて詰めた手筒花火をこうして三国花火の前にいくつもあげる。



④庭であげる打ち上げ花火のようなもので、庭に集まった人たちには上に木があってよく見ることはできない。それでも毎年こんな具合にあげられる。以前は木の枝が多かったため、火がつくこともあった。加えてこの場所のすぐ右手にある舞台が以前は茅葺だったこともあって、やはり火がついたなんていうこともあったように記憶する。もちろん消防車が待機している。


撮影 2007.9.29
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コスモロジー

2007-09-29 11:04:28 | ひとから学ぶ
 「道を歩きながら、なにげなく私たちはただ歩いていくわけですけれども、たとえば木が一本生えている、石が転がっている、湖があるというようなところを歩いていて、今の私たちではそこからなんらかの想像力というものは喚起されてこないわけですけれども、たぶんコスモロジーが生きていた・・・生きていたコスモロジーという言いかたもおかしいんですが、コスモロジー、共感というものがあった時代には、道を歩いているときも我々のような道の歩き方ではなかったと思いますね。もっとこう一歩一歩の歩くことに対して畏れとか、驚きとかそういうものがありながら道を歩いていったんじゃないかと思います。」

 これは、福澤昭司氏が平成11年1月30日に行われた中信高等学校教育研究会国語研究会の講演「伝説にみる松本地域のコスモロジー」の中で述べられたものである。福沢氏はこのコスモロジーというものを物語と言い換えて説明されている。人と人との会話の中でも「お互い共感する部分があって、それぞれが物語を展開することができる」と常々思っているし、福澤氏の口から同様の言葉を何度も聞いてきた。相反していてもどこかにひらめきのようなものがあれば、平行線で終わることはなく、どこかに共通の視点を持ちながらそれぞれは学習することができる。民俗研究の基本的なスタイルである聞き取りというものは、話者に話を聞いていても、聞く側がどこかに共感できるものがあればあるほどにそれぞれの興味の世界に入り込むことができるわけで、項目ごとにその内容を問診していくようなものではないのだ。

 若き時代に「人のいうことも聞かずに」自らの思うままに生きていた自分を思い起こせば、今の自分の進化というか心の持ちようはずいぶんと違う。性格というものはなかなか変えることはできないし、その通りいまだに短気で手を出してしまいがちであるが、人との会話の中で何に相手は興味を持っているのかという部分を探るときには、この共感という部分を展開していくことにより先が展開することがよくある。同じことは冒頭のコスモロジーの実践によって、自らの生活に幅を持たせることができる。福澤氏はこんな具体的な経験を述べている。

 「(前略)その途中に桑畑がありました。歩いているとなんでもない桑畑、ただし人家が全然ないんですけれど。その道端のところに、すごく大きな桑が生えている場所がありました。厭な桑だなあと子供ながらに思ったんですが、そこでまた厭な話を聞いてしまったんですね。実はそこの桑畑はおばあさんが雨の日に雨宿りもしないで桑をそのままもぎ続けていて、落雷に当たって死んだんだという話を、誰かから聞いたんです。そしたら、それから桑の木の前を通るたびに怖い思いが蘇ってくるんですね。あの桑の陰のどこからか死者が出てくるんではないかというイメージが、常に刺戟されてしまってたまらないというような経験がありました。」

 誰しも子どものころの経験としてこんな感じに記憶に残る空間とか、具体的な物体を持ち合わせてはいないだろうか。現代においても噂に上るような場所とか固定されなくとも事象というものが口伝いに広がることはある。「○○のトンネルでエンジンが止まると、二度とかからない」なんていうのも、そのトンネルから物語は広まり始める。一人ひとりの小さな物語を、自分の中でイメージできるかというのは、まさに日々の暮らしの中で、一歩一歩から何を見ているかということになるのだろう。わたしの日記は、そんなつづりに徹することができればよい、と日々思っている。なんでもない事象から共感できるものを得たい、そう思いながら小さなことを拾っている。「そんなくだらないことを」という人もいるだろうが、そうでもしないかぎり、日々仕事に追われる中で楽しみはない。

 そんな小さな物語もあるが、福澤氏はもっと大きく松本地域の物語をこのあと述べる。松本城からみた空間をコスモロジーしてみる。「こんな見方もあるんだ」と、福澤氏に教えられるものは多い。そこまで大きくコスモロジーを展開することはできないが、とりあえず、日々繰り返して道を歩く、そして自らの物語を追う。
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「伊那市」駅

2007-09-28 08:27:44 | 歴史から学ぶ
 わたしが毎日利用している「伊那市」駅について、昔から思っていたことがある。ふつうは「市」という接尾語はつかないのだが、この駅は「市」とわざわざついている。近在を見渡しても○○市という駅はない。不思議に思ったまま今に至っている。近ごろ昭和初期の国土地院の地形図を見ていたら、今の「伊那市」駅は「伊那町」駅と表示されていた。自ずと市制施行されたことにより駅名が変更されたということが解る。このごろの平成の大合併によって、市名が変わったり、市制施行された町もあったりで、駅名が変更されたところも少なからずあるのだろうが、どちらかというと広域名とか、地名に関係しない市名になったようなところですぐさま駅名が変わるということもないのだろう。

 なぜ「市」という名称が付けられているのか、よその話を検索してみた。たとえば出雲市駅の旧名が「出雲今市」であったのは、市制施行する前のその場所の自治体名が今市町であったためで、市制施行により自治体名が出雲市となったことで改名したようだ。このように市制施行によって駅名が変更された例は多く、それ以前には接尾語がついていなかったものの、改名して接尾語がついた例は多い。なぜ「出雲」ではなく「出雲市」になったのかという部分はわからないが、一般的には同名の駅が存在するため、区別するために「市」を付すケースが多い。このことについて調べていたら、大変詳しいページがあった。「駅名接頭・接尾語考」というもので、なぜ接頭語や接尾語がつくのかを探ることができるとともに、全国のそれらの駅名が紹介されている。必ずしも「なぜ」という部分は想定になり、本意は定かではないが、納得させられる部分が多い。

 その中で紹介されている「市」の接尾語が付されている駅名について、そのまま引用させてもらうと次のような44駅がある。



 ここで解るのはJRの駅では少なく、それ以外の路線の駅に多いことだ。この記事の中でも述べられているが、もともと国鉄時代にあった駅名に「市」という接尾語が付いていない駅があって、後に開業した私鉄が同名の駅名を付けられないために、「市」という接尾語を付したものが多いようだ。それどころか、先行して設置されていた私鉄の駅が、国鉄駅が開業したために改名を余儀なくされたケースもあるという(伊予鉄道・松山市、秩父鉄道・行田市)。伊予鉄道については、国鉄の駅が昭和になって開通し、「国鉄はお国の幹線だから」などという理由で国鉄の駅のほうが松山駅を称するようになったため、伊予鉄道の「松山」駅を「松山市」駅とせざるを得なくなったという。ということで、基本的には国鉄時代の駅に「市」が接尾語として付される例は大変珍しいことになる。

 ではなぜ「伊那市」となったのか、やはり前述のページでも紹介されているが、飯田線には「伊那○○」という駅がいくつもある。そうした「伊那○○」という「伊那」を接頭語に利用している駅と区別するために「町」を付したという印象がある。もともと伊那町という自治体名であったわけであるから、必ずしもその理由か正しいともいえないが、「伊那の町」という区別であったら市制施行をしたからといって「市」に変えなくともよいように感じるのだ。と、そんなことを考えていると、「いな」という二文字の呼称は呼びにくいからか、なんて考えもしたが、実はJRの「津」駅のように一文字の駅名もあるからそれはまったく該当しない。「伊那」という同名の駅があるわけではないから「伊那」のままでもよかったのだろうが、やはり同名の接頭語が付された駅と間違えないための「伊那市」が現実的理由といえよう。
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シンショウを譲る

2007-09-27 06:42:02 | 民俗学
 農村地帯、とくに山間の集落ともなると、次世代と同居している家は限られている。それは今や平地農村でも同様で、後継ぎがいない家(この場合の跡継ぎとは、その屋敷を継ぐもの)はたくさんある。加えてさまざまな家庭環境もあって、子どもたちがいても結婚していないから次世代は必ず絶える、あるいは娘が出戻って家を継ぐ、など先々継続しそうもない家は半分以上あるのかもしれない。それでもある集落を訪れると、「ここではどこの家でも子どもたちが結婚して同居している」という話を聞くことがあり、「うらやましがられている」なんていう話をされる集落もある。

 遠方に独り住まいの親を置いていて、もしかのときに対応ができないと不安を抱く人は多いのだろう。そういう意味でも地域社会でのお年寄へのアプローチが話題になるのだが、介護というシステムが問題を抱えるなか、親子関係は昔のような形に戻ることはなく、明日はわが身という現実をだれも感じている。「シンショウを譲る」という言葉は、このあたりでの言い方で、親が子に財産を渡すことをいう。「財布を渡す」とか「マカナイを譲る」というものと同じだが、これは財産一切、財布一切を子に渡すわけで後の家の主は「おまえ」だと明確にするわけだ。もちろん財産を渡すわけだから、口を出さないということになる。ところがその財布を渡すというのも現実的にはなかなかふん切れがつかないもので、財布は渡しても口は出すなんていうことはいくらでもあっただろうし、家ごと、もちろん個人ごとその気持ちにはさまざまなものがあったに違いない。地域社会にあっては「年寄り」の声が大きいことは多分にあるわけで、そういう経験が必要な場面もあったわけだ。しかし、現実的には年寄りはシンショウが渡された時点で隠居したわけで、地域社会の顔としても、子に渡され、一線を退くことになったわけで、地域社会における「年寄り」とはそれほど口を出す場面がなかったはずである。ところが親子同居しない時代になるとともに、世代交代が行なわれないため、子がいない年寄りはいつまでも地域社会に残り、その地域社会そのものもなかなか世代交代ができない、という現象を見せるようになる。すでにそういう社会が一般化するなか、またシンショウを譲るという行為がなされなくなった現代の家庭の環境にあって、親子、そして世代というものがどう捉えられているか、という部分は地域ごとに大きな差を見せることになっているのだろう。

 今や親が子に財産を渡すのは亡くなったとき、という印象が強い。あらかじめ財産を渡すことは、自らが身を引くということであって、そういう現実を認めたくない人が多くなったといえるだろう。夫婦であっても財布は別、という意識があるのだから家全体が、あるいは家族全体が財布一つという意識そのものがナンセンスと思う人も多いだろう。しかし、こうした親子間の継承意識がなくなったことで、家の世代交代という明確な引渡しは極度に減少し、低下の一途をたどっているといえる。「後を継ぐ」というドラマがいまだにテレビ画面に数多く流れているのに、現実の社会ではその意識がなくなり、限られた世界だけになりつつある。そうした限定された人々に芸能人とか政治家というものが入るのだろう。世代交代ができない社会や会社を見るにつけ、かつての家ごとの継承の低下が影響し、諸役を譲る、継承者を育てる、といったさまざまな引渡しの行為が具体的にできなくなっているといえないだろうか。けしてシンショウを渡しても、なかなかその渡す行為を認められなかったり、その後も口を出したがるというのは、かつてもあったわけだが、そうした親子間の葛藤や場のありようが、微妙にそれぞれの人と人の間を、基本的な筋を通した上で成りたっていたはずだ。そういうことも経験に違いないわけで、そうしたかかわりを成さずに、安易な方向へ進む合理的な関係は、必ずしも合理的とはいえないし、経験を積む動物である上で、これは退化と言えるのかもしれない。

 『上伊那郡誌民俗編』の第二章「家の生活」のなかで、このことについて、「〝年はとっても もうろくしても 嫁にしゃもじは 渡されぬ〟 こんな心理から「死に譲り」の家もまれにあったらしいが、一般には、ある時期には渡すのが普通である」と述べている。核家族化という現象、そして家の「財布」から個人の「財布」へ、個々の生活重視的な社会は、「年寄り」という座を大きく変化させたのだ。家の中でのさまさまな譲りの行為、例えば「イロリの座」「ネマ・ヘヤ(寝起きする部屋のこと)」の移動。こうした世代の変化は、家を出た者へも影響する。親が主であった時代には、気軽に生家へ帰ることができたものが、兄弟が主となるとともに、生家を訪れるのは気兼ねとなる。ようはシンショウを渡すのに、主婦が座を譲らないわけにはいかない。自ずと主婦も「シャモジを渡す」ことになる。次ぎ嫁が実権を握るわけで、いつまでも隠居人の子どもたちが生家を気ままに訪れるわけにはいかないのだ。

 このようにシンショウを渡すことによって、家の中は変貌し、そこにかかわってきた人々の意識も世代譲りをしていくわけだ。さまざまな部分で、現代の家族はこうした親子関係をなくしてきた。その要因はさまざまであって、課題といわれる少子化や不正規雇用、そして非婚化などもそうした関係を加速させてきた。
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小走りする人

2007-09-26 12:10:22 | ひとから学ぶ
 「信号を小走りで渡るのってオバサンなのか?」というボッケニャンドリさんの文を読んで、やはり信号機のある空間はほかの空間と異質なんだと気がつく。歩道を小走りしている人はそうめったにいるものでもないが、歩道だったらそれほど周りにいても意識することはない。ところが、交差点ともなるとそれを意識してしまうのは、小走りする人が多いからだろう。もっといえば、信号機という時間制限の中で渡りきれることができるのか、あるいは歩行者と車が同居している交差点ならば、曲がろうとしている車に急き立てられる雰囲気もそこにはある。そんな雰囲気を察して「小走り」という行為が自然と出てしまう、という人も少なくないだろう。そしてそういう行動に出るのは、ボッケさん風に言えば「オバサン」に多いということになるのだろうか。周りが走るからわたしも走る、そんな傾向もある。誰かが走れば「間に合わない」という雰囲気が流れ、小走り経験者は走る。日本人らしい「人と同じことをする」という行動だ。そうした意識も希薄になってきて、「なぜ走るんだ」と自分のペースを守れる時代、だからこそ「小走り」行動を世代として捉える意識が生まれる。

 どうどうとしている人は走らず、気遣いのある人は走る、という捉え方もできるだろうし、歳をとってくると人より歩行が遅くなり、途中で信号機が変わってしまうということもある。だから年寄になれば自ずと信号の点滅が気になる。交差点に限ったことではなく、信号のない横断歩道や踏み切りも同様だ。踏切内を歩行していていきなり警報機が鳴り出すと、とても心臓には良くないはずだ。年寄に限ったものでもなく、だれでもそんな体験をする。予想外の出来事に対して慌てるというものと同じで、そう考えれば、やはり信号機内は別空間であることは確かなのだ。けして信号機が点滅していなくとも「走り」たくなる、そんな行動は性格的な部分もあるだろうし、経験的なものもあるだろうから、必ずしも年寄に限定されるものでもないし、オバサンに限定されるものでもないのだろう。現代人が信号機というものに慣れてきて、その空間を意識しなくなれば、自ずと走るという行為は減少する気がする。それでも小走りする人がいるから、こういう話題になるのだろうが・・・。もうひとつ、たとえ赤になっても人が歩いていて無理に通行しようとする車はいないだろう、という予測をしていれば急ぐこともない。いや、そういう意識の人間が増えれば「小走り」する人は希少種になっていくのだろうが、前述してきているように、「小走り」は格好は良くないかもしれないが、「人に迷惑をかけない」という意識が常にある人ほどする行為で、ようはその意識が消えて希少になってきたとしたら、それも残念なわけだ。交差点内で走るというのは危険な行為で、むしろ赤信号みんなで渡れば怖くない的意識の方が安全といえるのだが、その意識の背景は絶滅危惧種並で、もしかしたら違う意味で走る人(オバサンも含めて)もいるのだう。都会の広い交差点を渡っていると、田舎の交差点とは違う。点滅していなくとも未経験の空間は不安が増幅する。きっと田舎の交差点へ点滅しているのに小走りもせずに入り、悠々と歩いているわたしも、都会の交差点で点滅もしていないのに小走りで渡っているだろう。それを「田舎モノ」と言うのかもしれない。
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「越百」

2007-09-25 12:08:59 | ひとから学ぶ
 2週間ほど前、NHKの小さな旅で「わが道 深く誇らしく~中央アルプス 越百山~」という25分番組を放映していた。越百と書いて「コスモ」と呼ぶこの山、わたしの認識では南駒ケ岳の南にある山しか記憶になかったから、すぐにいつも見ている山と解った。放映された後にテレビ番組欄で気がついたから、見事に逃してしまった。この番組、翌週の土曜日の朝に再放送がされるため、しっかりとその日に録画した。録画した場合、なかなかそれを見直す余裕がない。そんな録画番組が、棚には山ほどたまっている。たまたま昨日の昼過ぎ、テレビを点けたら再々放送が流れていて、妻とともに見入った。

 ふだん南駒ケ岳のほか空木岳までの山々については何度も触れている。実は越百山(別日記で「牛天神というより犬天神」を書いたが、その写真はまさにこの山の雪形)も常に見ているものの、わたしの印象では薄い山である。山々の姿を伊那谷側から見ると、どうしても越百山は背が低いし(2,613m)、なだらかな山容からしてインパクトは薄くなる。ところが、この地域の人々は、けして越百山のことは忘れてはいない。昭和61年に街の北側に地元の商店がショッピングセンターを建設した。この際にそのセンターを「コスモ21」と命名したわけだが、このコスモは「越百山」から導かれたものだ。「堂々とそびえ立つ越百山のように、どっかりと根をおろし、限りなき21世紀に向かって前進する」ことを組合のキャッチフレーズにしたという。これだけではない。飯島町にある特別養護老人ホームは「越百園」と名づけられたし、飯島町振興公社が管理運営する与田切公園キャンプ場の井戸水を2006年に「越百(こすも)の水」と名づけて無料提供するようになった。とまあ、飯島町においてはこの山を象徴的に捉えている。

 ところがこの山、伊那谷側から登るとなると、険しいし、今は登山道が落石のため入山禁止のようだ。この山へ登る人は、ほとんど木曽の須原から伊奈川ダム登山口へ行き、そこから登るようだ。それでも5時間ほどかかるという。テレビを見ていて驚いたのは、登山者がけっこう多いことだ。マイナーな山なのに、意外とリピーターが多いようだ。有人の越百小屋があることで、さらに南駒ケ岳や空木岳まで連絡できる。伊南谷側の人々にとっては、そこに見えている山ではあるが、なかなか登った経験はない。わたしもその1人だ。いつかは、と思っているうちに年老いてしまい、もしかしたら下から見上げているだけで一生を終えるのかもしれない。

 さて、「越百」という名前を検索すると何人か登場してくる。人の名前に付けるにはとても良い名前の一つだ。写真家宮崎学氏の息子さんもこの名前だった(字が同じかどうか忘れたが)。苦難を乗り越えるというような意味を持つのだろう。越百山も百の峰々を越えていかなければたどり着かないという言い伝えからついた名前だという。そんなことを聞くとますますこの山の奥深さを感じる。
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人生いろいろやりくりゲーム

2007-09-24 10:03:32 | ひとから学ぶ


 「生活と自治」9(生活クラブ事業連合生活協同組合連合会)において、「人生いろいろやりくりゲーム」というお金の学校くまもとで小学校高学年向けに行っているゲームについて触れている。図(この図は「生活と自治」の記事に紹介されているものを、わたしが作成しなおしている)に示したような家庭をもとに、この家のやりくりについてワークショップを行うという。6人のグループを作り、くじ引きで家族の誰かになる。グループごとに突然の出費が書かれたカードが引かれ、その出費に対してどう1ヶ月のやりくりをするか思案するというのだ。子どもたちにとって緊急の出費があったらどう対応するか、この円グラフの出費から何を削るか、ということになる。その他とは何なのか、その中身が光熱費だとわかっても、その光熱費をいくら削ればよいのか、削ることはできるのか、などと考えるわけで、いかに実現性のあるやりくりができるか、それが問われるゲームである。

 記事にも子どもたちの案が紹介されている。「電気代を2万円節約」とか「お小遣いの中から金額の大きいお父さんの小遣いを削る」なんていうものがあれば、「借金をしてもよいか」などという話も飛び出る。果てには「ヤミ金から借りる」なんていう発想があったりする。「やりくりする」という世界に本来は借金をするという答えは正しくないだろうが、この世のなかでは大人たちでさえ発想しそうな案である。

 このグラフを見ながらちょっと思ったことがある。この家族の収入は1ヶ月に40万円あるが、おばあちゃんとおじいちゃんの収入は、金額からして年金だろうか。とすると、その年金が家計の中に繰り入れられてやりくりされるとなると、突然の出費がなくともなかなか厳しい状態だ。この収入で1ヶ月住宅ローンが8万円あるとなれば、おじいちゃんやおばあちゃんが同居しているということで、年金ではなくて少しでもと思って働いているのかもしれない。具体的な内容が割り振られているわけではないから、子どもたちがそれぞれその内容を仮定して、突然の出費をまかなうこととなるのだが、具体的名家庭内の出費を理解していないと、なかなか実現性のある策は講じられない。家庭の財布というと、昔なら主人が持っていたものだろうが、今や主婦が握っている家が多いだろう。平均所得があがったから、昔のように「やりくり」という言葉を口にすることもなかったのだろうが、このごろの格差で、現実的には日々の生活が苦しいと思っている人たちも多い。そんななかで、子どもたちが家計を考えて見るのは実に良いことだ。わたしに言わせてもらえば、携帯代金に限りなく利用している高校生にこのゲームをやらせたいものだ。いや、ゲームではなく、現実の家庭の収支を計算してみればよい。安易に借金だの収入が低い、などと思う高校生がいたら、すぐにでも社会に出て暮らしてみろと言いたくなる。このごろは職場体験などいうものが、中学くらいから行われている。高校生だってアルバイトをする。しかし、職場体験は飾り物だし、アルバイトときたら、安易に稼げる印象が強い。家計の現実さえ見えない子どもたちに、社会で生きる方法を教えても解らないのか、それとも社会が彼らには甘く見えるのか定かではないが、そのギャップもまた、正規雇用の少ない社会とあいまっている。
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こうもり

2007-09-23 10:47:18 | 民俗学
 先ごろ道を歩いていると、こんな言葉が聞こえた。「こうもり持った?」というもので、小学生の娘に対して母親が口にした言葉だ。久しぶりに聞く言葉に懐かしさというか、時代を感じたわけだ。小学生の娘を持つ母親となると、歳にすればまだ30代というところだろうか。意外なのはその歳である。久しぶりに聞いたというように、ふだんの暮らしの中に年寄りでもいないと、なかなか前時代の言葉は聞かないし使わない。かつてはこの「こうもり」という言葉をわたしも利用していたのかもしれないが、ずいぶん昔から使った記憶はない。ふだんは「かさ」と単純に言うだけだ。これも時代を背景にしているのだろうが、傘といっても以前は和傘もあれば洋傘もあった。そうした傘の呼び分けのような意味で、「こうもり」は洋傘を指していたはずだ。

 検索していたら、こんな質問のページがあった。「こうもりがさという人の年代はどれくらいなんですか?」というものである。その回答のなかに「おそらく50歳以上くらいかな? サングラスをいろめがね、スカーフをネッカチーフ」なんていうものがあって、サングラスやスカーフの呼び方を前例のように呼ぶのもそうした50歳以上の世代だと言いたいようだ。この回答はもちろんネット上に一般人がしたもので正確ではなく、印象として答えたものだろうが、今や死語なりつつある言葉であり、年代で線を区切って色分けできるものでもないが、いずれにしても高齢の方々の間では、利用される可能性が大きい。

 ウィキペディアでは「日本で洋傘が普及したのは19世紀後半からである。当時のその黒色の洋傘の形状がコウモリに似ている所から、「蝙蝠傘」(こうもりがさ、或いは略称で「こうもり」)と呼ばれるようになり、1960年代頃までは傘と言えば和傘を指し、洋傘を「こうもり傘」と呼んで区別していた。」と記述されている。単に「かさ」は和傘にあたるから、区別するために「こうもり」が使われたという。わたしが「かさ」と言っているものは従来なら和傘だったことになるが、わたしの子どものころにはすでに和傘というものはめったに見ることはなかった。もともと雨が降ったら傘を差すという行為が今のように日常の中に定着していたのかどうか、というところにも関わってくるだろう。ウィキペディアで「傘と言えば和傘を指す」と紹介された時代に生まれたものの、既に和傘の姿をあまり見なかったわけで、農村地帯においては傘はそれほど必要な道具ではなかったということではないだろうか。なぜ傘が必要かといえば、雨天であろうが、毎日同じ時間に行動する現代では、雨が降っているからといって、行動を止めるわけにもいかない。社会の構造が傘を必要とさせてきたようにも見える。農作業は、傘を差しながらできるものではない。両手があいていないと話しにならない。だから雨が降って仕事をするともなれば、今で言うカッパ(このカッパという呼称も今風ではないかもしれない)、当時なら「みの」を利用した。外出することが少ない時代だから、農作業に利用する雨具意外は、それほど必要とはならない。「雨が降ったら外には出ない」ということができた時代だったのではないだろうか。もちろん現在でも、雨が降れば人出は少ないし、雨でも行動しなくてはならないとき以外、無理に外出をしないという意識は変わらず生きている。わたしも仕事がら外で仕事をするが、雨の降る中では機械が使えないため、天候に左右される。土木工事が雨天時には停止するのも、品質のよいものを造るには必要なことだ。現代では傘の利用が当たり前になったものの、どれほど傘を利用しているだろう、と勘定してみると、意外に少なかったりする。いずれにしても外で作業することが少なくなったのに、傘が必需品になったのは、移動距離が長くなった現代人の生活スタイルによるものだ。

 ところが「現在の日本では、雨傘は不要となるとその存在が忘れられてしまう事が多く、交通機関における忘れ物として、常に上位に位置している。また、会社や学校など頻繁に行く場所に備えておく傘を「置き傘」と呼ぶ。」とウィキペディアに記述されている。内業が多くなった現代において、雨具というものはやっかいな道具であって、必需品でありながら、必ずしも必需品という意識が低い。だからこそ、世のなかに置き去りにされた傘が溢れる。それは必ずしも忘れられたものばかりではなく、故意に置き去りにされるものもあるだろう。コンビにで安い傘がいくらでも売られているから、なければ「買う」ということができる時代だ。必需品でありながら、傘の価値観が下がったという印象は否めないし、使い捨て時代の代表的な現象の一つといえるだろう。

 さて、民俗の世界では衣生活のなかの「雨具」という分野になるのだろうが、『長野県史民俗編』に登場する雨具は、ミノぐらいで、現代の雨具は登場しない。伝承には値しない道具ということになるのかもしれないが、ちょっと伝承という視点で傘を捉えて見よう。前述したように置き傘というものは、突然の雨に対しての備えである。天気予報が常に情報として受け入れられるようになったから、事前に傘を持って歩くことは可能なはずなのに、置き傘は消えない。それぞれが「こうもり持った?」という意識になる要因をどう判断しているか、それには伝承はあるのか、という見方もあるだろう。和傘時代なら手入れの仕方とか、補修の仕方というものがあっただろうが、洋傘ともなると、補修までして使うという人は少ない。傘という道具をどう捉えているのか、という考え方は家ごと異なるものもあるだろうから、今風の家の民俗というもの一面が現れるものなのかもしれない。
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絶滅危惧種のみが必要ではない

2007-09-22 10:25:00 | 自然から学ぶ
 「絶滅危惧種の群生地であれば別だが」という県の説明を掲載している『長野日報』9/19紙の「シカ食害で植生異変」と言う記事。国道では日本最高地点を通過する麦草峠(2,127m)では、野生のシカが増えて、ツクバトリカブトといった毒性のある花以外の花芽を食べてしまい、それほど繁殖力の強くなかったツクバトリカブトだけが増えてしまったという。シカ害を防ぐために、麦草ヒュッテの主は鉄線を張ったというが、保全される空間が限定的であるとともに、観光地だけに鉄線が見苦しいということもあって今年は張らなかったという。すると、一面ツクバトリカブトの紫色になってしまったというのだ。明らかにシカによる仕業だと解るわけだが、では対応はあるのかということになる。

 野生生物が生きるために食草とする草花。それは確かに自然の摂理ではあるが、であるならば、熊やシカも含めて人里にやってきてさまざまな問題を起す動物たちにも何も文句は言えない。自然界の構造として気がつかないところでもさまざまな変化が現れて今がある。もっといえば、このごろ永久凍土からマンモスがたくさん発見されているというが、絶滅したマンモスもさまざまな要因を介して絶滅したものであって、大きく捉えれば現代の生物界の問題と変わらないことなのかもしれない。だからといってさまざまな問題を自然のままに、ということでは、文明の発達した現代の人間のなすことでもないだろう。現代の人間に課せられた回答というものがあるに違いない。しかし、記事瀬そのものもありのままに伝えはするが、読み手は記事から意図を見出そうとするものだ。どんなにありのままだとしても、例えばそこに関わる人々のコメントは、どう選択されたのだ、と考えると、そのコメントを採用した段階で、記事の意図が見えて来るというものだ。この記事の場合、シカの食害が問題化しているものの、そのシカを駆除するわけにもいかず、どう植生異変を捉えるか、ということに行き着く。そして、絶滅危惧種の群生地ならばシカ対策をできるが、そうでもない区域では自然の摂理に任せるしかない、という部外者の視点に立っているしかない、というのが意図となるのだろう。記事は、ある出来事、変化に対して、ある人がどういう活動をしたとか、どういう異質なものが始まったのか、というものを狙いがちだ。そういう出来事を記事にしようとするから、当たり前のように、そこにある問題は、読者が判断して捉えるということになるが、知識のない、あるいは時流にある流れは、そうした情報を薄く捉えたら意図とは違ったり、あるいは意図にはまった捉え方をしてしまうこともあるだろう。

 したがってこの記事の問題点は、冒頭の県の説明に落ち着くだろう。「絶滅危惧種の群生地であれば・・・」というのなら、つまるところ希少なものしか対応はできないということになる。財政難の時代のさまざまな課題に対して、何から何まで対応することは不可能だから、その説明として「絶滅危惧種の群生地なら」と言ったまでだろうが、本来口にする言葉ではない。希少なものだけで成り立つ自然界ではない。たとえば、シカの食害で増えたツクバトリカブトが希少種であるというケースだってあり得る。この場合は「問題ない」ということになるとは思えない。いかなる場合もさまざまな課題を投げかけているということになり、必ずしもシカの増殖がどうのこうのではなく、その課題をどう生かしていくか、あるいはそれが自然の摂理として理解しうるものかどうかを問う必要がある。絶滅危惧種であろうがなかろうが、植生異変を起している要因がはっきりしている以上、その植生変化が受け入れられるものかどうかという議論は必要なはずだ。
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現代の蛍

2007-09-21 08:27:36 | つぶやき
 それほど遠方をながめることがなければ、闇の中に浮かぶ明かりに気を引かれることもない。高速道を走っていても、普通車の場合は、遮音壁があるから、その向こうの世界までは望めない。中央自動車道の場合、外は山また山なのだから、それなりに景色にはなる。しかし、その景色を見るのもままならないこととなる。同じことはけして自然豊かな世界だけに限られるものではない。首都高速を走っても、名古屋高速を走っても、壁が立って外が見えないと、それだけで圧迫感があって、もっといけないのは田舎モノにはどこを走っているかがまったく見当がつかない。そんな世界に陥ってしまったら、事故寸前の状態になりかねない。事実、かつて名古屋高速を走っていて、分岐箇所の見当がつかず、急に右折分岐が見えて慌てて車線変更をしようとして大型車に衝突しそうになったことがあった。壁が途切れることなく延々と続き、加えて外が見えないのにカーブがあると、頭の中は酔ったような状態になる。よくも判断ミスもなく、この道を通る人たちは平然と走っているものだと感心したものだ。

 ということで、周りが見えないということは、檻の中に入っているようなもので精神的な不安定を招く。それが目線が高くなって開放的になるだけでずいぶんと雰囲気は変化する。一時期、オフロードタイプの車が大流行したのも、視界という面で重要な選択ポイントであったに違いない。もちろん今でもファミリーカーに高い視線を有す車が多いのも、意識としては乗車している人たちへの配慮があるからだろう。1人しか乗っていなかったら、それほど周りの風景を意識する必要もないし、またそれほど余所見をしていてもいけない。しかし、同乗者がいるともなれば、高視界というものは、気分的にも視野を広げることとなる。さらにそういう視点でいえば、バスといった乗り物にいたっては、高速道路の遮音壁を越えた世界へ到達する。

 檻の中に入ってしまったらなかなか外を見ることができないが、その外の空間を見ることのできる高速バスに乗りながら、ルート外の様子をうかがうと、いつになく目につくものがある。特に暗闇に浮かぶ明かりほど目立つものはないわけだ。闇の中に浮かぶ異空間といえば、コンビにである。ふだん車でその前を通過しているとそれほど気がつかない明るさが、遠くから眺めるとより一層際立つ。昼間のような明かりを放つ姿は、現代の蛍と言えるほど何ともいえない光だ。点滅でもしていたらまさに蛍かもしれない。いや、10年スパンくらいにこの明かりをながめていれば、きっと点いたり消えたりする。ようはコンビにの世界も浮き沈みが激しく、永遠ではない。そう考えれば蛍のようなものだ。何より田舎の水田地帯に、異様に明かりを放つコンビには、見事である。

 そんなことを思いながら、通勤していると、コンビニほどの明るさではないが、田舎を照らす明かりにグランドの照明がある。大人たちが、この明かりを求めて、スポーツに励む。競技するのに耐えうる明かりは、コンビニのそれよりは、遥かに暗いが、質が異なるから遠くまで照射する。
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静寂な世界

2007-09-20 12:09:28 | 歴史から学ぶ


 静寂の中に日が暮れるため池の水面は、風に煽られて小刻みに波をたたえる。すでに写真に納めるには暗すぎるというところだが、なんとか荒れた画像の見るに耐えられる境目ともいえる。フィルムカメラならともかく、デジタルカメラについては詳しくはない。このごろのコンパクトカメラも、さまざまなシーンに対応できるのだろうが、こうしたカメラをいろいろカチャカチャいじっているのもはしたない。ストレートにあまり考えずに利用するのが適していると思っている。だからこんな暗いシーンでは、自動的にISOが上がって、画像が荒れてしまう。簡単カメラの難点は、ピントがなかなか合わないことと、こうした薄暗い、あるいは暗いときの撮影が、なかなかうまくいかないことだ。

 さて、時おり訪れる飯島町本郷の堤は、以前にも触れたように、昔は家など一軒もなかったのに、ご覧の通り、明かりが水面に映るほどの位置に家が立ち並ぶ。池の端には蕎麦屋さえある。考えてみれば、こんな雰囲気を持っているから、観光地?と思いがちだが、まったくの農村地帯のため池であって、そんな代物ではなかった。もう20年以上前に、この端にパターゴルフ場ができ、一時は流行ったのだろうが、今ではそのまま施設は残っているがやっているのかやっていないのか定かではないほど、静かなものだ。そのころはこんな明かりが夜に点くような場所ではなかったが、その後少しずつであるが、家が増えた。今もたくさんあるというわけではないが、西側の丘陵地には何軒か家ができた。学校にも遠いし、公共施設にも遠いから、普通ならこんなところに家ができないだろうし、好き好んで建てる人もそうはいないだろう。山間地の廃屋に住まうような人たち向けの場所であった。なぜこんなところに、と考えてみると、やはり、飯島町というところの環境がそうさせている。昭和40年代後半から始まったほ場整備事業は、昭和50年代に最盛期を迎えた。町のほとんどの地域が整備されたから、そうした優良農地を宅地に転用することがなかなかできなかったということが、こうした場所を宅地化させていった要因にある。このため池の周辺もほ場整備が行われたが、それはため池より下のもともとの水田地帯であって、ため池より上しばらくの空間は、傾斜地で桑畑だったのだろう。そういう土地は整備されなかったこともあって、宅地化することができたのである。とはいえ、やはりその立地上から、集落を作るほどの空間ではなかったわけである。当時この地域で宅地を探していた人たちにとってみれば、時代が過ぎてしだいに優良農地が宅地化されるこのごろをどう思っているだろう。屋敷を構えるというのも、何年もしてからみると、「なぜ」と思うようなことも、それぞれの時代背景があったことが解るととともに、断層が走っているようなところをなぜ宅地化したのか、などと一概に今になって口にする人もいるが、ある面では仕方のないことではある。

 宅地が周辺にあるような場所だが、自然がよく残っている場所でもある。くまなく整備されたということもあって、この町の普通の水田地帯でワレモコウを見るとことはない。数少ないため池などに見るのみである。地形に手が加わっていない証拠でもあるが、それだけほ場整備というものが大きな環境変化であったことがうかがわれる。すでに花期が終わったと思ったキキョウがまだ咲いていた。かんがい期が終わったものの、まだ満面と波を立てるほどであるが、まもなく水位は落とされ、水面に明かりを反射するような光景は終わりとなる。

 撮影 2007.9.15

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ポイはオタマ

2007-09-19 12:25:41 | 民俗学


 金魚すくいといえばお祭りである。あまりこうした夜店というものが日常やってこない地域にとっては、お祭りの夜店は、子どもたちにとってはなによりの楽しみである。そういえば、わたしの子どものころ、地元の秋祭りだというのに、夜店がひとつもやって来なくて、つまらなくてふてくされたことを思い出す。今でこそ地元の秋祭りには、いくつかの出店があるが、なぜなのかわたしの時代にはその夜店が来ないときもあったのだ。

 そうはいっても昔にくらべれば、夜店がやってくる機会は多くなったように思う。秋祭りだけではなく、夏祭りの数も多いし、自動車で移動する時代だから、遠くの祭りも今や子どもたちの標的になる。楽しいこといっぱいで、さぞ楽しいことだろう。

 さて、金魚すくいというものはどこの夜店にもあるというものじゃない。おもちゃを売るより金にならないだろうし、準備もおおごとだ。棚を広げて品物を並べるという簡単なものではない。ということで楽しそうでもなかなかお目にかからない。子どもたちもあまり喜ばないかもしれないから、賑わう祭りでないと登場しないかもしれない。そんな金魚すくいを、だれでも少なからず経験しているとは思うが、なかなか簡単そうですくえないのが現実だ。裏技のようなものがあるのだろうが、そこまでしてすくおうとも思わないだろう。なぜならそんなにたくさんすくっても後が大変だからだ。さすがに金魚すくいの全国大会なるものがある。養殖の盛んな奈良県大和郡山市では、観光事業として1995年から毎年8月に「全国金魚すくい選手権大会」を開いている。すくうときに使う網のことをポイという。検索していたら、金魚すくい用の道具を売っているページもあった。さすがに人気があるから道具もあちこちで引っかかる。「使い捨て金魚すくいポイ 1箱200ヶ入り(厚い5号・うすい6号)¥3,087」なんていうのもあった。ここからも解るように、厚いものと薄いものがある。号数が大きくなるほどに紙の厚さは薄くなる。5号はお祭では子どもや女性用として利用されるようで、男性用には6号となるようだ。6号だと、平均1~3匹ぐらいしかすくえないという。ポイについては、紙を貼ってあるものもあるが、最中に針金を指したものを使わされることもけっこう多い。

 すくうのは良いが、その後が困る。すくったものの意外にも周囲にはあまり喜ばれないことが多々ある。そんな意識が要因としてあるかもしれないが、こうした金魚は長生きしない。わざわざ金魚すくいの金魚を飼おうと、水槽と餌を購入する家庭も多いだろう。ところがすぐに死んでしまうことも多い。もともと金魚を飼おうとして金魚すくいをしているわけじゃないから、最初の発想が間違っている。実は金魚はけっこう長生きするといわれ、こうした金魚すくいの金魚でも長く飼っている話をたまに聞く。しかし、おおかたはもともと病気を持っていることが多いのか、長生きをしたという話を聞かない。

 写真は、「音の伝承」でも紹介している上伊那郡飯島町石曽根の諏訪神社の秋祭りで、15年前に撮影したものだ。地元の人たちしかやってこないような祭りだから、地元の同志会という人たちが夜店を出している。金魚すくいや綿飴なんかも作っていた。さすがに地元のひとたちが地元の子どもたちのためにやっているから、お金もとっていないのだろう、金魚すくいの風景もちょっと違う。男の子のお姉ちゃんが手にしているのはオタマである。これなら破れることはないから、いつまでもすくえる。ただ、これではいつになったら次の人に番が回るのだろう、なんて思ってしまうが、そこが地元の人たちの楽しみだから、なんとかなるのだろう。
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空いている席に座る

2007-09-18 08:03:07 | ひとから学ぶ
 このごろ高速バスにちなんで、座席の話を何度かしてきた。先ごろ長野から帰宅するさいのバスには、知人らしき女性2人が、それぞれ前後の列で1人ずつ座っている姿をみた。同時に2人予約すれば、2人は相席となるだろうが、それぞれ予約すれば相席になる可能性は低くなる。知人でありながら仲が悪いわけではなかろう。要するに相席となれば長い距離ずっと相席になってしまうから、それぞれ予約して、それぞれが1人席ならそれにこしたことはないだろうし、もし横に誰か座ることになれば、知らない人とわざわざ座ることはないから、相席にするのだろう。予約する方法としては確かに良策ということになる。満席予約されていても空席が必ずある高速バスにとっては、隣が空席という状態を狙うには、いろいろな策があるのだろう。

 電車に乗っていてもそれは変わらないことで、バスほど空間が狭くはなくとも、横が空いているという状況は、利用者にとっては気が楽なはずだ。高校生が1人であい向かいの4席を独占しているなんていうことは珍しいことではないが、それほど混雑していなければ、その空間にわざわざ入っていく人はいない。それでも帰宅時伊那市駅で乗車する際に、必ず降車する乗客より早く乗車して人一倍先に空席を狙って乗り組むおじさんがいる。必ずあい向かいの席を目指していて、そこに1人いて荷物を置いていたりすると、「どかせ」とばかりに身振りをする。みごとなおじさんで、そのおじさん1人の空間には、やはり入れる感じがしない。横に荷物を置かないでください、という車掌さんの指示は、ようは座ることのできる空間作りということになる。モノが置いてあれば座りにくい。当然座るには「座ってよいですか」という意思確認が必要となる。その際言葉を発しなくてはならないし、立っている人がいるのに荷物を置いてているということは、「座ってほしくない」という意思を暗に示していることとなる。だから、そこで「座ってよいですか」などという言葉を発するとなれば、気まずい雰囲気を自ら発することになるわけだから、よほどでなければそんなことはしたくない。もちろん荷物がなくとも、雰囲気としてなかなかその空間へ入り込むというのは簡単ではない。高校生を見ていて、どんなに混雑していても2人がけの席の片方が空いていたとしても、その空間に見ず知らずの高校生が座ることは、まず皆無といってよい。とくに高校生同士だったらまずあり得ない。この世代にとっていかに、1人と仲間といるときの心のありように落差があるかということがよくわかる。とくにそれは日常利用している電車空間ではより一層強くなる。

 というように、とても混雑していながら、あい向かい4席に1人しか座っていない状態てあっても、高校生の場合のその相対する2席の空席に入り込むことはあまりない。それほど自分たちの空間というか、人の空間を犯したくないという意識があるのだろう。おじさんおばさんになっても2人がけの1人座っている空席に座る場合、躊躇することがある。あくまでも雰囲気の話である。座るスペースさえあれば深く考えずに座る人もいれば、少しとまどった後に座る人もいる。無理して座ることはないだろうと、座らない人もいる。そこに座っている人の顔を見て判断する人もいるだろう。だからまったく躊躇もせずにすんなり座れる人は、かなりのどこでも人間だろうし、少なからずそんな雰囲気を探る人はたくさんいるはずだ。田舎の人間ほど、混雑していても空いているたくさんの席を見た際に、そんな意識を持ちやすい。そういう意味では、座席指定してしまう高速バスの空間は、なかなか乗ってからも駆け引きのようなものあったりして楽しいものだ。

 さて、朝の混雑する時間には、必ず横の席に座れるスペースを作って座る。わたしは比較的痩せている。だから少しくらい荷物を持っていても、十分に空間は空けている。それでもその横に座ってくる人は限られる。公務員のおじさん、進学校の高校生、おばさん、おばあさん、といったところだろうか。しかし、他の席が空いていれば、わざわざわたしの横にはやってこない。また、やってこないような奥まった席に常に座る。もちろん横に座られないというシチュエーションが頭の中にあるが、必ずしも避けているわけではない。ただ、本を読んだり、PCを操作したりするには、横に人がいるとやりにくい。とはいうものの、人が思うほどは意識していないし、だからこそ、痩せた体を窓際に寄せて、なるべく座る空間を演出しているつもりだ。帰宅時は混雑している空間に座るから、わたしが逆の立場となる。高校生だろうが誰だろうが、座れる雰囲気があれば座るつもりだが、時には座れない雰囲気作りをしている人の空間には座らない。そんな時は、その空間作りの様子をうかがって勉強させてもらう。田舎の電車空間は、こんな具合に不合理というか無用な駆け引きがあってなんともいえない世界でアル。
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携帯漬けの世界

2007-09-17 13:27:25 | つぶやき
 先ごろYAHOOのニュースに「中高生の半数以上が「ケータイに振り回されてる感じ」」というものがあった。アンケート内容は朝日新聞社が作成したもので、中高生のための携帯向けエンタテインメントポータルサイト「GAMOW」が実施した携帯電話の利用実態に関するアンケートだという。それによれば、中高生が1日に携帯電話を利用する時間は、5時間以上が最多で25%。これに、2時間までが23%、3時間までが17%で続いたという。今やテレビを見る時代ではなく、携帯をのぞく時代となっている。4人に1人が5時間以上も利用しているというが、いったいどうすればそんなに利用できるのだ、というおじさんの印象である。電車の中でも、道を歩いていても、そして学校でも家でも利用していればそのくらいになるのだろうが、こんな風景が消えるときは、また違った不思議な道具が登場するまで待たなくてはならないのだろうか。

 友だちからメールが来た場合、何分以内に返信するのがマナーだと思っているか、という問いに対して、「即答」という回答が37%で、できるだけ早く返信することがマナーと考えている中高生が多いという。世のなかの常識的マナーが身についていないのに、メールの返信時間がマナーだなんて思われるのは心外というかなんというか、という感じである。

 携帯で何でもできるようになれば、おのずと手放せないものになることは解るが、携帯電話がいとも簡単に手に入る、というシステムを構築した携帯会社の仕業なのか、国の仕業なのか、いずれにしてもとんでもないものを開発したものだ。携帯そのものは安く、そして利用料に価格を転嫁ということになっているが、利用料にしても中高生の場合は親が支払う。親も親で、例えば長野県の高校生のうち、授業料を生活上で免除してもらっている人は、携帯を所有していない人の比率より高い。どんなに親がアップアップしていても、「虐められるから」といって携帯が持たされて、それでもって公共料金の支払いが免除されているなんて、イカサマの世界だ。自分の息子を見ていても、どう考えても、携帯が日常に登場してから生活が狂いだした。「そんなもの取り上げろ」といってもそうはいかない。親が苦しい生活をしていても、好き勝手に携帯を利用していて、その請求額に悩んでいるという話を耳にする。携帯漬けのこの世のなかに、光は見えない。

 追記
 きっと戦争が当たり前の時代に、核兵器を開発したということは画期的だったにちがいない。しかし、今や核廃絶という声が当たり前のように聞くことができる。これは人殺しという意味で、あまりにも影響力が大きいからそう言われるが、では、現代日々進んでいく開発の中に、そうした危険なものが無いとはいえない。もし、人類が滅亡したとき、何がいけなかったのか、という要因に何があったのか、と問うたら、もしかしたら「携帯」などということだって絶対ないとはいえない。携帯が核兵器のスイッチとなることだってありうる。いかに、直接影響力があるかないか、という世界の話だ。
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自民党の進路を見た

2007-09-16 11:36:19 | つぶやき
 自民党の総裁選が9/23に行われる。自民党とはなんぞや、ということで自由民主党のホームページをはじめ、すべての県連のページをとりあえず訪れて見た。9/16午前の段階での更新状況では、今回の総裁選の地方票についての取り扱いについて説明されているページは、東京都と大分県のみで、総裁選の日程が、トップに掲示されている県連は、ほかに愛知県と大阪府ぐらいであった。任意の例えば趣味の団体のホームページならいざ知らず、政治といえば日々刻々に変化しているのだろうが、ホームページに関してはまったくタイムリーではないということがよく解る。もちろん公選法との絡みもあるのだろうが、おおかたの県連ページは未だに季節は〝春〟という感じであり、せいぜい参議院選挙の結果、多くはそれ以前ということになる。佐賀県支部においては、「総裁選」と大きく見出しがあるから、「早い」と思いきや、2006年の総裁選の結果速報みたいなものが、掲示されている。政治の世界におけるこの〝遅さ〟はなかなかのものである。

 9月13日現在の選挙人の投票数は、衆議院議員 304名、参議院議員 83名、都道府県連代表 141名、合計528名という。党則によると、「総裁が任期中に欠けた場合には、原則として、前項の規定により後任の総裁を公選する。ただし、特に緊急を要するときは、党大会に代わる両院議員総会においてその後任を選任することができる。」とあり、「前項ただし書の規定により総裁を選任する際の選挙人は、両院議員及び都道府県支部連合会代表各三名によるものとする。」というよに、今回は地方県連に対して3票が与えられる。この3票の取り扱いについては、それぞれの県連にゆだねられていて、それぞれの方法で3票が決まる。いち早い大分県連のページには、「通常の総裁選では、県連の持ち票をドント方式により配分しておりましたが、今回はやり方を本部より各県連に一任されておりますので、大分県連では最多得票者が県連の得票(3票)すべてを獲得するとして、決定しました。これは現段階では候補者2人の可能性が高く、今回は3票と県連の票も少ないため、はっきりと県連の意思を示すためこのようなかたちにしました。」と書かれている。

 福田氏圧勝と言われている今回の総裁選であるが、麻生氏への流れを辞任後ほぼ半日で止めてしまうほどの勢いで党が福田氏へ傾をうった。その流れに古き自民党復活という文字が浮かんでいるが、確かにそんな雰囲気がある。どちらかというと、小泉系という印象が党内の国会議員や、国民の中にもみられるが、かつて小泉氏は、2001年の総裁選で、橋本龍太郎元首相の勝利が事前に有力視されていたものの、小泉氏が予備選で地方票141票のうち123票を獲得する地滑り的な大勝をし、その結果が国会議員による投票に大きな影響を与えて総裁に着いた。少数派と言われた小泉氏が総裁になったことで、自民党の変化が現れたわけだが、それが従来のイメージに戻ってしまったという感は否めないだろう。

 さて、昨日、地元の自民党代議士名で葉書が送られてきた。簡単に言えば、自分の薦める候補者に支援して欲しいというものだ。確か長野県内の自民党員数は、昨年のちょうど今ごろ、「投票資格とは 」という日記で触れたとおり、1万5千人程度だ。長野県の人口は約218万人だから、1パーセントにも満たない。総理大臣が公選されるわけではないから、世論といったってほとんどの人は昔の選挙権が与えられていなかった時代と同じで、かやの外ということだ。世論をみてどう判断するか、ということになるのだろうが、それほど自民党員であることが重いとは少しも思っていない。たった1パーセントに満たない重いとも軽いとも思えない1票になるのかどうか知らないが、仕事上、それも会社にはほとんど得のない党員の証がどれほど自分の中で意味があるものなのか、と思うばかりで、そんな1票もある、ということを自民党は認識しているのだろうか。これぞ、お役人の世界の党なんだろうが、お役人が支持しなくなったから、こんな自民党になったんだと、気がついているのだろうか。

 余談であるが、県連ページを見ていて「なんじゃこれ」みたいなページが2つほどあった。今度の総裁になると言われている方の県のトップには、化石みたいな写真が3つ並ぶ。それももうこの世にいない人の顔が2つ並んでいると、もう1人もすでにあの世に行かれているのではないかと、錯覚する。きっと亡き人と並んでいる人も嬉しくないと思うのだが、広告塔ということで納得しているのだろうか。こんなトップの姿を見ると、この世代交代というか、変化をもたらせることのできない県連を膝元に置く人がまたまた首相になったらお笑いのように感じるが、いかがなもんだろう。もう一つ、前述した佐賀県連のページだ。開くと、マウスに併走してライオンのアニメが登場する。安倍首相辞任に伴って、例の1年生軍団が集まって産みの親の再登場を画策していたが、その再登場を予測してか、いつまでも佐賀県連はこの人の姿が消えないんだということが解る。マウスから離れず、くっついてくるこのライオンが、邪魔で仕方ない。振り払っても絶対消えない。早く×するか元へ戻るしかない。自民党は、今元へ戻るろうとしているのだろうか・・・。
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