「働き過ぎを助長しないか」という信濃毎日新聞の社説記事が、12/29朝刊にあった。厚生労働省の諮問機関が、一部の労働者の労働時間規制を撤廃する制度を取り入れるよう促す報告書をまとめたことによるものである。これをホワイトカラー・エグゼンプションというらしい。このことについては「残業代の廃止(ホワイトカラーエグゼンプション)」に意見があるが、難しい背景があって、単にそれを肯定することはできない。年功序列の勤労社会が相変わらず続くとすれば、こうした考え方もけして悪くはないのだが、成果主義的な社会がごく普通になるなかで、なぜ今労働時間規制の撤廃なのか、そしてそれをなぜ厚生労働省が推し進める必要があるのか、など一般人には理解できない部分が多い。これを適用する場合は、①管理職一歩手前の人、②重要な権限と責任を持つ、③年収がある程度高い、④使用者から具体的な指示を受けない、といった人を対象に考えているという。どれも明確性には欠ける。
社説でも触れているが、勤労者の立場は明らかに低下してきている。サービス残業は当たり前のように行なわれ、法律で定められている1日8時間、週40時間という勤務時間は名ばかりのものとなっている。働きすぎ、といわれる日本人にあって、金を出す側の意見を聞いて、さらなる人件費削減の策に、厚生労働省が率先しているようでは、格差の増大を目的にしているとしか言いようがないわけだ。
確かに残業代を当たり前のように頂戴する人もいて、それが権利だと言う意識は悪いことではない。しかし、日本人にはいまだに明確な割り切りはできない雰囲気がある。結局それを身をもって経験させる方法として成果主義がこの国には意外と有効なのだが、いっぽうで弊害は明らかにある。割り切りができないだけに、成果で差を知らしめることで、人間関係は悪くなる。割り切れない社会だからその人間関係は、さまざまに絡んでゆく。その明快な対策をわたしは知らない。
赤字丸出しの我が社において、平気で残業代を計算しているやつがいると、腹がたつ。しかしながらこれほど仕事が回らず、やってもやっても差し戻されて成果として成り立たないとなると、精神的にも応える。それを「残業代」という代償で補えるのならまだしも、まったくそれがないとなると、では報酬とは何か、というところへ行き着く。赤字を出さないような組織作りをして、さらにそうするには報酬はどうあるべきか、というところまで考えてゆくと、とても会社は成り立たなくなる。とすれば残業代なんか出なくてもやらざるを得なくなるが、そういう勤労環境は適正なのか、と問いたくなる。そう考え行くほどに、割合近くにいる公務員に目がゆく。おそらく①から④という具体的対象に当てはめると、そうした人たちは残業はしないし、仕事もしない(人が多そう)。いや、中にはそうした世代に山と仕事が背負わされている部署もあるようだ。と考えたとき、国が指導的にそうしたことをしようとしたとき、自殺者は増加するとも限らない。
根本的に〝勤労と報酬〟を見直さずして労働時間規制撤廃は、問題だらけと思うがどうだろう。若いころから働かないやつが、残業代を平気でもらって、加えて暇そうにしている姿ばかり見てきたが、そんなわたしでも肯定できない制度である。まずは意識を変えること、そのためにどうするべきか、というところだと思う。おなじ日の同紙の一面のコラム「斜面」でも内山節・竹内静子共著「往復書簡 思想としての労働」に触れて、「労働を市場経済と結ばれた生産だけではなく、生活や人間関係など総合的な営みとしてとらえる必要を説いている」と紹介している。その通りと思う、が、実はこのあたりの意識は理解されなくなってきていることも確かだ。
社説でも触れているが、勤労者の立場は明らかに低下してきている。サービス残業は当たり前のように行なわれ、法律で定められている1日8時間、週40時間という勤務時間は名ばかりのものとなっている。働きすぎ、といわれる日本人にあって、金を出す側の意見を聞いて、さらなる人件費削減の策に、厚生労働省が率先しているようでは、格差の増大を目的にしているとしか言いようがないわけだ。
確かに残業代を当たり前のように頂戴する人もいて、それが権利だと言う意識は悪いことではない。しかし、日本人にはいまだに明確な割り切りはできない雰囲気がある。結局それを身をもって経験させる方法として成果主義がこの国には意外と有効なのだが、いっぽうで弊害は明らかにある。割り切りができないだけに、成果で差を知らしめることで、人間関係は悪くなる。割り切れない社会だからその人間関係は、さまざまに絡んでゆく。その明快な対策をわたしは知らない。
赤字丸出しの我が社において、平気で残業代を計算しているやつがいると、腹がたつ。しかしながらこれほど仕事が回らず、やってもやっても差し戻されて成果として成り立たないとなると、精神的にも応える。それを「残業代」という代償で補えるのならまだしも、まったくそれがないとなると、では報酬とは何か、というところへ行き着く。赤字を出さないような組織作りをして、さらにそうするには報酬はどうあるべきか、というところまで考えてゆくと、とても会社は成り立たなくなる。とすれば残業代なんか出なくてもやらざるを得なくなるが、そういう勤労環境は適正なのか、と問いたくなる。そう考え行くほどに、割合近くにいる公務員に目がゆく。おそらく①から④という具体的対象に当てはめると、そうした人たちは残業はしないし、仕事もしない(人が多そう)。いや、中にはそうした世代に山と仕事が背負わされている部署もあるようだ。と考えたとき、国が指導的にそうしたことをしようとしたとき、自殺者は増加するとも限らない。
根本的に〝勤労と報酬〟を見直さずして労働時間規制撤廃は、問題だらけと思うがどうだろう。若いころから働かないやつが、残業代を平気でもらって、加えて暇そうにしている姿ばかり見てきたが、そんなわたしでも肯定できない制度である。まずは意識を変えること、そのためにどうするべきか、というところだと思う。おなじ日の同紙の一面のコラム「斜面」でも内山節・竹内静子共著「往復書簡 思想としての労働」に触れて、「労働を市場経済と結ばれた生産だけではなく、生活や人間関係など総合的な営みとしてとらえる必要を説いている」と紹介している。その通りと思う、が、実はこのあたりの意識は理解されなくなってきていることも確かだ。