Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

現代山村経済と過疎

2006-03-31 08:02:07 | 民俗学
 先ごろ「市町村合併と民俗」に触れた。特集を組む『日本民俗学』最新号において、「現代山村経済と過疎」と題した三遠南信のことを扱った岩崎正弥氏の論文がある。消滅の危機にある限界集落ほど、互いの助け合いや付き合いが希薄化していて驚くという。だからこそ限界を迎えているのだろう。どんなに高齢化しようと、若い人たちがいまいと、まだ希薄化していない集落は、当面消滅することはないといえそうだ。

 論文では過疎化が著しいほどに人と人とのつながりなどが希薄化しているというが、わたしがみる限りそうとも思えない地域もある。今までにも何度か触れてきている長野市近郊の中条村は、財政的にかなり苦しいようだ。そして、村の山間にある集落ではまさしく過疎化が著しく進行している。しかし、高齢化しても地域の関係はそれほど希薄とは見えない。トータルに捉えるならば、この地域全体にそれほど光が見えていない(どこかが目立つような活動が少ない)からかもしれない。三遠南信においては、名古屋という都市を控えて、なんらかのアプローチをしてきた集落、あるいは地域があった。岩崎氏もそうした事例をいくつかあげながらも、ある程度の成果はあげてきたものの、地域を支えるような産業にまでなかなかなり得ていないと述べている。地域の一部で成功しそうな活動があると、隣接地はそうした事例に遅れをとったがごとく行政を、あるいは自らを責めてしまうような傾向がある。どうしてもバランスが悪くなり、いわゆる同一地域でありながら勝ち負けを自らつけてしまうため、地域内に格差のようなものが生まれる。こうした社会が生まれると、まさしく現代でも問題とされるように、浮き沈みがはげしくなる。昨日までの勝ち組も今日は負け組みのごとく、それほどそんなことに一喜一憂しなくてもよい小さな地域がそんな視点でしかものが見られなくなる。経済至上主義を田舎の活性化プログラムにもってきても無理があるということなのだ。そこへいくと、そうした目だった地域が近隣にないような中条村では、過疎による地域の希薄さは弱いように思う。

 田舎の観光産業で長く成功を収めている事例は少ない。ある程度成功を収めたとしても、何らかの条件があったからで、必ずしもどこもかしこもというわけにはいかない。とすれば、観光とか農業を売り物として地域を活かそうという視点は、無理があるということにならないか。岩崎氏はまとめとして長野県の南端にある根羽村の事例を紹介しているが、この村は必ずしも自律を好んだわけではなく、さまざまな事情で今回は合併できなかっただけのように思う。しかし、村で力を入れて造ったネバーランドという活性化施設は、たまたま愛知県にもっとも近い幹線道路沿いにある直売施設という立地が成功を収めているわけで、より魅力的な施設が近在にできたとしたら必ずしも未来永劫良好な状態でいられるとは限らないだろう。結局「道は見えない」ということになりそうだが、今はとりあえずブランド化してどこよりもオリジナル化することが優先されている。でもいつかそれだけでは無理だと、誰しも経験することになるのだろう。
コメント

嵐風人さんのコメントに対して

2006-03-30 08:17:51 | ひとから学ぶ
 新たなる課題に向けて、ここまでの流れを周知したいと思います。

 わたしのブログ記事「この国の不幸」から始まりました。

 そしてコメントについては下記のようです。

●天邪鬼のひとり言 (嵐風人)
 Cosmos Factory さん。このたびは、TBいただきありがとうございます。本当に悲しい現実を知り、言葉もありません。
 ほとんど同感だと思っておりますが、
 ここで、問題提起をさせて頂きたく思います。
 ①自分がその療養所において、標本を作らなければならない責任者であったら、どのような対応されるでしょうか?
 ②今回の文書回答をする担当者である行政官であったら、どういう対応をされるでしょうか?
 如何でしょうか?お考え頂ければ幸甚です。
 嵐風人

●問題提起に対して (trx_45)
 ①難しい質問ですね。非人道的といいながらいざ自分がその当事者だったらどうか、ということですが、今の自分、そしてかつての自分、いろいろ考えさせられます。
  基本的に若いころだったら、何もわからず職務として標本を作ったかもしれないし、今思うと若いころの方が社会に対して矛盾をぶつけていたので、そんなことを拒否したかもしれない。おそらく後者だと思います。情報があっての今だったら、後者であるでしょう。ここで問題なのは、若いころ後者を選択するようなことが実際あったとしたら、わたしは人間としてこの世に光を感じなかったと思います。ということは、もし、そんな気持ちがあって、かつて当事者が標本を作っていたとしたら、とてつもなく悩み苦しんだことと思います。国家公務員なんでしょうから、守秘義務としてまっとうしなくてはならないとしたら、こんなやるせないことはないでしょう。そんな現実を誰が作り出したんでしょう。
 ②ちょっと質問の意味を理解できていないかもしれませんが、書きます。
 ①でも触れたように、情報があってもこうした対応しろと上から言われたとしても、明らかにおかしいと判断するでしょう。「担当者の行政官」の職務権限がわたしにはわからないので、なんともいえないのですが、いずれにしても①と同じ葛藤が担当官にはあったと信じたいですね。

●天邪鬼 (嵐風人)
 おはようございます。
 問題提起をさせて頂きながら、遅くなり申し訳ありません。
 よくお考えの[Cosmos Factory]さんだからこそ、こういう失礼なことさせて頂きました。
 [Cosmos Factory]さんには、 ご理解頂けるかと思いますが、「かわいそうだ」「許されない」と誰しも思い、口にし、ブログされている方(私も含めて)は、記事にしたりします。
 これだけで終わらせてもいけないと言いますか、もう少し、幅広く物事を考えたいなと思うものです。それは視野を広げることでもありますし、ただ批判・反論にだけ終わらせないものだと思うからです。
 当時のその立場そして責任ある立場であれば、どうしたかです。ほとんどの人は、マインドコントロールされています。万が一、私が洗脳されていないとしたら、とても苦しんだと思います。
 あの戦時下で、「捕虜を殺害せよ」と上官に銃口の引き金を自分のこめかみに向けられ、命令されるとどうするか?ほとんどの人は、捕虜を殺害するものです。これが悲しいかな人間です。
 中には、精神的に強い人もいるでしょう。引き金を引くことを躊躇していると、上官は今度は、自分の部下に銃口を向けました。子どもが近くにいるとすれば、上官は、そちらにも銃口を向けるでしょう。
 そうなれば、私は引き金を引きます。
 本題の責任者であれば、命令を拒否すれば一族郎党そして、部下まで処分対象と考えることは容易に出来る環境であったのかも知れません。

 そういう部分まで、思いを馳せるべきではなかろうかと言うことです。
 思い浮かべるだけで、その担当者・責任者の行為は、身の毛がよだつものではりますが、それらの人々に罪はないのかも知れません。
 私は、社会運動の活動家・労働組合の役員・企業経営者としての立場にありました。言わば、右も左も経験があると言えるでしょう。私は色々なものを犠牲にしてきたつもりですが、右であろうが左であろうが、「人間は未熟だ」「人間は弱い」ことを経験から得た教訓です。裏切られたことは枚挙に遑がありません。
 そこで私は、人間にはそれぞれの限界があるということを理解の上で進めるべきだとの結論に達しています。

 先日まで、国会はおかしなメールで、本来の議論が忘れ去られたようですが、中には見識のある立派な政治家がいるものです。
 現在の政治状況から、政治家を一絡げにして、「ろくでもない奴ばかり」との批判は、耳に心地よくありません。
 それなら、「あなたが立ち上がりなさい」と言うことです。
 己の信念を貫き通すためには、権限=権力が必要なのです。批判されている派閥でも、信念を実現するための手段なのかも知れません。
 であるならば、この本題である現代の日本人が「人間として許されない行為」と考えることを許されないのであれば、大きなことを目指す必要はありません。選挙で一票を考える。友人・知人との会話に取り上げる。ビラ配りに足を止める。街頭カンパに協力する。ブログなどで、周知させる等、我々庶民はその程度でも構わないと思います。
 何事も対極的立場にたって、物事を判断しないと誰それが悪いだけの瑣末な議論となるでしょう。
 偉そうなこと言いまして、申し訳ありません。
 歴史上、命をかけて闘い、実際に命を落とした人。現在もまた家族の命まで犠牲にして、闘ってこられている方もおられます。私など、大きなことを書きましたが、この方々の足元にも及びません。「偉そう」と思われる文体でないと書けませんので、そういう手法をとりました。

 以上は、決してあなた様の誹謗中傷しているものでは、ございません。それでもなお、不快になられたらお詫び申し上げます。
 この記事、私のブログに転載させて下さいね。(転載出来るのかどうか、わかりませんが、その際はご紹介させて下さい)
 長々と失礼いたしました。批判・反論お待ち申して降ります。
 嵐風人

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 以上がここまでの経過です。

 ここで、嵐風人さんへトラックバックした記事はこちらです。このトラックバックの源は、わたしのもう一つのブログ「情報過多の中の不幸」へ嵐風人さんがトラックバックしたことから始まりました。そして、「この国の不幸」で再度ハンセン病に触れ、嵐風人さんから質問をいただきました。その質問を受けた際に、今回再度コメントいただいたような意図があるのでは、そんな印象もありました。結局どういうことかといえば、当事者でない人間が「言うことは簡単である」という意図ではないでしょうか。そして往々にして言うことは簡単、という背景には、いわれるように一派ひとからげのような批判があって、それは必ずしも道理ではない、そう言われるのもよくわかることで、「その通りですよ」とこのコメントに対しては理解しました。でも、よくコメントを読むと、どう考えてもわたしへのさらなる何かを求めているようなので、再度このことに触れることにしました。

①戦時下の捕虜に対しての銃口とハンセン病における差別とは別物だと思います。これを一緒くたの事例にされると、答えはわたしには出せません。あなたは戦争に行かれたのでしょうか。思いを馳せる先が戦争にされるのでしたら、ちょっと違うと思いますね。
②人間には限界がある、それはもちろんで、その限界は人によって違うのです。嵐風人さんは「「偉そう」と思われる文体でないと書けませんので、そういう手法をとりました。」といいます。この時点であなたはわたしの上に立ってものを言おうとしている。ではあなたは何をどう言いたいのでしょうか。自ら「偉そうな」なんていうことを記述する必要はここにはないと思いますね。
③インターネット上に流れているものはどれほど信憑性があるかはわかりません。だからこそ、わたしはインターネット上に流れるものを引用文献にはしません(インターネットではない部分でということです)。そして、あくまでもブログです。すべての言葉を正確に把握しながらあなたの言うようにすべての情報を理解した上でものを書けといわれると、何も書けなくなります。それは認識に差があるからです。それが それぞれの人間の限界ではないでしょうか。馬鹿なやつに「何だお前はそれしか認識していないのか」といってもそれが限度であって、だからといって「おまえは何も言ってはいけない」とはならないわけですから。あくまでもここに書かれているものは公開はされてはいるもののひとり言なのですから。それに対して今回の意図のような質問をされるのなら、まず最初にそのことに触れて質問するべきではないでしょうか。まあそんなことはわたしにも分かっていましたから、ここで改めてコメントしているのも馬鹿げているかもしれませんが。
④よく同じことを思います。テレビなんかで論評しているコメンテーターに対して「じゃあ、自分が国会議員になればいいじゃないか」と。でもここのブログで愚痴っている人に対して同じことを言っても無駄です。もともとここまで書いてきているように、知識がなくて認識の程度が自分の範疇を超えることができないわけですから、国会議員になるような頭脳はないわけです。もちろん立候補してなれる可能性は皆無です。わたしの言いたいことは、見識や頭脳があるのなら、もう少し現実を認識する必要がないのか、ということです。自分たちがリードしていると思うのなら、それにおごることなく、多様な言葉を探る必要がないか、その上であなたたちが最善の策としてとったものなら、逃げることなく説明してほしい。公務員にしても議員にしてもいざとなるとそれはしない。一絡げにはしないが、でも一絡げにしたいほどわたしのまわりにいる人たちは皆同じことを言う。それこそ言うことは簡単ですから。
⑤それほどこのブログを読んでいる人はいません。そこへアプローチした嵐風人さんも物好きなのでしょう。そのことに対しては心からありがとうごさいました、と思います。でも読めば読むほどにわたしに何を求めているのでしょうか。こうして反論することを願っているのでしたら、コメントしたわたしはあなたの術中にはまったのかな。
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希薄な地域のつきあい

2006-03-29 08:14:26 | ひとから学ぶ
 希薄な人間関係は、田舎でも同じである。いや中途半端な田舎においては、むしろ都会以上に希薄である。長年生きていると、昔の風習も今の風習もそれほどその環境に変化がないものの、風習だけが簡略化されてきたと思いがちだが、実は環境に変化が起きていることを実感していないことが多い。事例であげてみよう。

 ①隣組で顔を合わせる機会の減少。
 ②ほとんどが勤めに出ているから、日ごろ隣人と顔を合わせない。
 ③同じことは年寄りの間でも起きていて、年寄りが集まらなくなった。
 ④やはり同じことが子どもたちにも言えて、外で遊ばないから特定の子どもがせいぜいつきあうだけである。
 ⑤家々は囲いをするようになったから、家に人がいても顔が見えないから挨拶もしない。
 ⑥農業をしないから、農業という共通の仕事の話題がなくなった。

 こんな具合に希薄になっているのだから、かつての風習を継続することそのものが、意味をもたなくなった。

 「葬送習俗」て触れたが、葬儀の中身は大きく変化している。少し前のことである。葬儀が行なわれるとなると、隣組の人たちが寄り合って葬儀のことをいろいろ決めていったのは。ところがついこのごろのことである。それらが変化してきたのは。隣組とはいっても葬儀屋がかかわることで仕事量は極端に減少した。みんな仕事をもっているから、楽にこしたことはないと思っている。まさしく「ありがたい」わけだが、そんな流れは、けして葬儀屋の出現がそうさせたわけではなく、必然的なものだったようにも感じる。たまたま、そのニーズに合った形で葬儀屋が登場したといえる。前沢奈緒子氏は、「葬送習俗の昔と今」において、国立歴史民俗学博物館の山田慎也氏の野辺送り習俗の言葉に触れている。野辺送りをしない現在でも役付けを読み上げる理由について、「葬列には社会的機能もあった。位牌は跡取り、膳はその妻など、死者との関係に応じて葬列の役割が決められていく。これは死者が出ることにより親族の関係も大きく変わるため、その関係の再編成と再確認を行い、地域に周知するためでもあった」と説いている。これぞ理由のために作られたこじつけのようにもみえるが、まんざらそんな意図がないといえない。しかし、そこまで考えて野辺送りがされているとは思えない。この近在では、まだまだ地元の集会施設や地元の寺を会場にして葬儀を行なうことはある。そうした場合を考えれば、現実的に野辺送りをすることは今でも多い。昨年兄嫁の父が亡くなって葬儀があったが、町の中であったが、葬儀場で葬儀が行なわれ、そののちに納骨をした。当然簡略化されてはいるが、野辺送りが行なわれたわけである。そうした葬儀が混在している、いや混在しているというよりは、あまりの急激な変化で、野辺送りが省略できないでいるだけのように思う。前沢氏言うように、納骨が葬儀の直後に行なわないような画一化した時代がやってきたら、野辺送りはなくなるとわたしは思う。なぜかといえば意味をもたなくなるのだから。

 さて、事例にあげたように、地域でのつきあいが希薄化すれば、葬儀だって大々的に行なう必要などまったくなくなる。なにより故人とのつきあいが少ないのだから、告別式といったって知名人でなければ人はそれほど来ない。やはり昨年隣組で葬儀があったが、親戚が少なく、長い間病気で寝込んでいた人ではつきあいがさらに希薄だ。加えて高齢ともなれば知人の多くがすでに亡くなっていたりする。どう考えても葬儀屋がかかわって葬儀をしても、お金だけかかるだけで、むしろ人が少なくて寂しさを感じる。そこまでして葬儀を人と同じようにしなくてはならないのか。告別式の必要性の問題である。密葬のようなかたちでも仏は十分満足してくれると思う。送る気持ちである。さびしい話ではあるが、少子化、あるいは結婚しない時代がやってきて、葬儀そのものも変化せざるを得ないと感じる。

 葬儀だけではない。結婚式だって同じだ。希薄なつきあいの中で、地域の関係者に披露したところで、それこそ冠婚葬祭でもないかぎり、二度と顔をあわせることもない、なんていうことは当たり前になっている。そう思えば結婚式だってもっと縮小されたものになってくるとわたしは思う。「そんな冷たい世の中でよいのか」なんて言葉も聞こえそうだが、表面だけ奇麗事をいっていてもどうにもならないほど地域はすさんできているように思う。いや、それを改善するために、つきあいだけなんとかしろといっても、日常の状態が事例のごとくなっていれば、致し方ないことである。
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春の訪れ

2006-03-28 08:12:06 | 自然から学ぶ
 春の訪れといえば、良いイメージを浮かべる人が多いが、実は私にはそんなイメージより悪いイメージがある。農作業の季節、それも果樹栽培の季節がやってくると、消毒が始まる。スピードスプレヤー(SSという)といわれる果樹消毒専用の乗用機械で消毒が始まるのである。かつてのような手による消毒とは異なり、機械的な力で噴射していくものだから、かなりの飛散がある。したがって、消毒が始まれば洗濯物を外では干せないし、窓を開けていれば消毒の匂いが舞い込んでくる。そんな季節の到来なのである。一時的ならよいが、これから秋までずっと続くわけだ。栽培の種目が多いから、日を変えて消毒をする。だから天気が良くて消毒のない日というのはまれなこととなる。SSの季節が来ると「春」だという感じなのである。

 もうひとつある。草が青々としてきて、草取りの季節到来である。庭が広いと草取りの連続である。取っても取っても次から次へと草は伸びる。あまりに草取りがつらいから、除草剤を撒こうかと悩んだりする。

 いよいよつらい半年が始まるわけだ。

 さて、「黄色い線香花火」で紹介したサンシュウが咲いた。ところが、咲いたばかりはとても線香花火には見えない。写真の左側は今庭で咲いているサンシュウである。そして右側は、すでに花開いてから2ヵ月にもなる玄関の花瓶の中にあるサンシュウの花である。ご覧いただいてわかるように右側はまさしく線香花火である。種類が違うのだろうかと思うほど花の雰囲気は違う。それでもよく見てみると、左側の写真の左上あたりの花はだいぶ開いて線香花火っぽくなりつつある。もう少しで花火が満開といったところなんだろうか。
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立石について

2006-03-27 08:08:25 | 歴史から学ぶ
 一昨日長野県民俗の会例会があって、松本市島立を訪れた。了智上人の遺構を訪れたのだが、その際にこの地域の条理遺構の跡も訪れた。高綱中学のある一帯であって、高速道路建設に伴ってほ場整備が行なわれ、かつての条理遺構の姿は現在ないが、整備前の航空写真によって一定の間隔で設置された道路や水田の整然とした姿が確認できた。この一帯には立石とか禁忌石といわれる石が現在も残っていて、どういう意味があったものか、解明されていないという。高綱中学南の道を高速道路まで東進した北栗地籍に「立石」がある。この石のあるあたりから見る北アルプスの眺めは美しい。ちょうど天気がよく、この日は白馬連山の方まで山はくっきりと見えていた(写真の山々)。

 この立石についての説明の看板は現在なくなってしまっているが、島立公民館にある写真にかつての説明看板が読み取れる。それによると「現在地の南南東25メートル地点の、字立石地籍の田の畦に、30センチメートルほど頭部を表し、地中に埋没されていたのを昭和55年7月、中電の変電所工事の際、発掘移転したものである。この石は、全長2.18メートル、最大幅は0.56メートルの柱状自然石で、古来より忌石として宗教的意味をもったものと思われるが、はたして原始時代の立石信仰か、また高綱地帯(条理遺構)開拓時の測量点の石か、その他の意見があり、現在解明されていない。」とある。

 この写真の石は、説明にもあるように、移転前は頭だけを地表に見せていたという。昔から「さわってはいけない」と言われていたといい、ある意味では信仰対象のようにも思われていたようだ。地元では忌み石として認識されていたが、中電の工事の際に知らないうちに石を掘り出していたという。工事関係者はそんな石だと認識していなかったのだろう。それを知った地元の人たちもびっくりしたという。祟りがあるというような忌み石ではなかったようで、そういうことを心配するほどの話にはならなかったようだ。この石は「地球の真ん中までつながっている」などと言われていたようで、大事にされてきた。同じような立石が、島立の西隣の新村などにもあって、ほかにも立石とはいわないものの「禁忌石」といわれる石がこの石から北方の境沢のあたりにもある。石の形、先が尖っているなどの様相から、やはり測量の基準点を思わせる。現在でも三角点のような点は、まわりを頑丈にされて固定されている。かつてこうした三角点が設置された際に、どれほど地権者に説明されたかは知らないが、公的な施設であるものの、私有地に設置されていることがほとんどだ。それはなぜかといえば、ある程度一定の間隔で必要とされ、かつ見通しの良いことが優先された。測量の際の基準点として利用されるから、移動されてしまっては意味がない。もちろん叩かれたりして欠いてしまっても困る。そういうことを考えれば、触らないことにこしたことはない。古代の条理遺構を作った際に、それほどの精度が必要だったとは、とても考えられないが、一定の間隔でそうした石が残っているということが驚きであることと、わたしの想定では忌み石として触ることも嫌われたということから、明らかに基準点として設けられていたものと思う。そう思うと、古代の測量技術というものが極めて高いものだったと認識される。もちろん今のような機械はなかったわけだから、どういう測量をしたのか、見てみたいものである。

 巻山圭一氏は「再び海の民の陸化をめぐって」(雑誌『信濃』672号 信濃史学会2006)において、この島立あたりが諏訪の宗像系水界文化と安曇の綿津見系の水界文化の境界であったのではないかと説いている。そうした境界域の基準点という考えも浮かんだりする。そのあたりに転がっている石のように「もの」というものも、考えてみると面白いことがたくさん見えてくるものである。
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松本四賀直結道路から思う

2006-03-26 01:23:43 | つぶやき
 松本市に合併した旧四賀村と旧市を結ぶ直結道路が盛んに話題にあがっている。けして合併の条件ではなかったのだろうが、四賀村にとっては気持ちの中にそんなものがあったに違いない。アンケートによる結果では、全市的には不要という意見が多いが、旧四賀村住民に限っては「必要」という意見が多い。当たり前の結果かもしれないが、この直結道路建設にかかる費用80億という金額を考えればその負担は少なくない。市の諮問機関である市民意向確認研究会は、「建設するべきでない」という報告を市長に提出した。おそらく建設はされないのだろう。

 建設賛成者の意見は、既存の国道143号の環境がよくないことを理由にしているようで、委員会は既存道の部分改修や、緊急時においての高速道路の利用やヘリコプターの緊急搬送などによって補うことが提案されたようだ。

 長野県内でよく出る話に、「幹線道路が通行止めになった時に、迂回路がない」というものがある。この冬の豪雪のために、新潟県境の秋山郷が一時孤立状態になったことは、テレビ報道などでご存知のとおりである。冬場においては、栄村の本村から直接秋山郷をつなぐ道は通行止めになる。このため、新潟県の津南町からでないと秋山郷には入れない。もちろん、冬季外においても道路状況のよい津南町からの国道が利用されているが、迂回としての村内からの道はある。こうした環境から、とくに今年の豪雪を例にとって、村では長野県に対して村と秋山郷を直結する道路の整備を要望したわけであるが、これに対して知事は、既存道路を改修して冬季でも通れるように整備することを約束したようだ。かつて現在の既存道路の整備に関わったこともあるわたしには、その道の険しさに思いがある。新たなる直結道路ではなく、既存道路利用とはいえ、冬季に利用するとなると、なかなか大変なことだなーというのが感想である。

 また、木曾谷では、木曾高速といわれるほど国道19号の交通量が多いため、唯一の生活道路として利用している住民にとっては、もうひとつの道路建設が長年の希望だった。やはり田中知事は、いちはやく建設に向けた取り組みを始めたが、こちらもすぐにできる道ではない。

 松本市における直結道路の対策をみて思うことは、緊急時の対応が確立されさえすれば、「それでいいのではないか」という印象がある。秋山郷や木曾谷のことを一括してこのことと考えてもいけないのだろうが、必ずしも集落を結ぶ道路が複数なければいけない、ということになったら、世の中道だらけになってしまう。道が良いことにこしたことはないが、それに代わる対応を考えることも必要ではないだろうか、とは、あまりに当たり前な発想だが、意外にもそういう視点で検討されていないことも多い。そういう意味では、秋山郷に直結する道路を整備するよりも、既存の国道が雪崩が起きないような構造にするとか、たとえ県外を通らなくてはならないといっても、必ずしも村内を通って集落に通じなくてもよいじゃないか、ということを考えられないのか、と思ったりする。当事者じゃないじゃないかといわれるかもしれないが、ある意味「秋山郷」の秘境イメージは、そんな辺境の地であるから確立されているように思う。木曾谷もこのごろ開通した権兵衛トンネルによって道路環境は変化しているだろう。国道19号が木曾高速と呼ばれないようにするような対策は、けして道を作らなくてもできることのように思うがどうだろう。木曾を通過する大型車を高速に迂回させる方法は、難しいことではないように思う。

 先日長野から自宅に帰る際、駒ヶ根市の伊南バイパスへ入った。「渋滞を引き起こす信号機」でも触れたが、確かに帰宅の時間だから混雑するのは仕方ないとは思うが、どこかこの道路、構造的に問題があるように思う。構造というよりは、システムといった方がよいだろうか。どう考えても渋滞が激しい。信号機の設定が悪いのか、それとも片側2車線の幅がありながら、交差点の右折レーン専用になっていて、基本的には1車線しか利用していないことがいけないのか、さらには、信号機の間隔が狭いにもかかわらず、その信号機間に大規模店ができて、その出入りがうまく機能していないのか、いろいろ考えられる。バイパスといいながら、まったくバイパスになっていない、そんな感じである。こんな道路必要なのか、という感じが前からしていたが、あまり通りたくない道路だ。どうも大規模店の進出も含めて、街づくりという部分でもう少しエリア分けのようなことができないのか、ということをどこに行っても思う。「ないよりはあった方がいい」なんていう道路造りはやめてほしいものだ。
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自給自足なんて夢の話

2006-03-25 00:50:44 | ひとから学ぶ
 先日「おむすび」で「おむすびを買うなんてうちじゃ考えられないよね」という話をしたが、よく考えてみると、近所に住む妻の友人は、みんな水田の耕作をしていない。もともとまったく水田がなかったのかどうかは知らないが、若干なりともあったのではないだろうか。ところが、果樹栽培を行なうようになると、生産高の高い果樹に転換していった。近所でも水田に果樹を植えているところも多い。その果樹栽培が盛んになる時期も関係するとは思うが、米の生産調整が行なわれる前であったら、果樹という新たな目標がなかったら、傾斜地をどんどん開田して水田にしていったはずである。そのくらい、けして開田できない場所ではなかった。ところが、早い時期に果樹が導入されることによって、多くの農家がわれ先にという感じで果樹栽培に流れていったわけである。果樹の場合は、それまでの水田プラス養蚕という農事暦とは異なり、1年の仕事のサイクルは変化していったはずである。水稲に比較すれば反当収入が多いのだから、米は買って、果樹に集中するという形ができてきて当たり前であった。だから、この地域では、ずいぶん前から米を作らない農家が多かったわけである。

 ところが、米を作らない農家は、今はそんな果樹農家だけではない。従来米を作ってきた農家ですら米を作らなくなった。いわゆる果樹農家が果樹に集約していったように、米農家は会社勤めに移行した。したがって、大規模化するという国策にはまって、零細農家は農業を捨てていったわけである。知らない間に米を作らない農家(ここではもう農家ではないのだろうが・・・)が増えてしまったわけである。人に作ってもらっている農家は多い。水田を所有していても自分では耕作していない、そんな農家になった。

 米はそこそこ買えば高いが、野菜ともなれば「買った方が安い」なんていうことになった。自分たちで作れたはずなのに打算的になるほど、現金に魅力があった。元来自分で作ったものを食べずに、よそで買っていることの方が滑稽である。以前にも触れたが、近所に母の実家がある。その家では娘が都会に嫁に行った。年寄りは子どものためにと思い野菜を作って送ってやろうと思うが、娘はその野菜を喜ばない。考えてみれば、店で買ってくればきれいだ。自家製のものは長持ちがするようになるべく土のついた状態で保存する。だから、いざ食べようとしても、前処理に手間がかかる。加えて生ゴミもたくさん出る。田舎なら畑に持っていって、あるいは家畜の餌にと、カスも利用法はある。しかし、町なかともなればなかなかそれもできない。しだいに田舎の野菜はありがたくなくなるのもわかるような気もする。となれば、田舎の年寄りも、せっかく作っても自家処理(食べきれない)できないとなれば、少しくらいなら買った方が無駄がないと思い、作らなくなる。そんな悪循環(悪とはわたしの判断でそれが良い判断なのかもしれなが)に陥る。

 同じような考えは、すでに町なかだけではなく、田舎でも常のことになっている。かつて農家で自給自足していた人々ですら、かろうじて年寄りが生産しているが、若い者は「買った方がよい」という意識になっている。そんな耕作する暇などない、ということになる。田舎でもコンビニ弁当が大盛況というのもわかる。自給率が上がらないのは当たり前である。農家の子どもたちには、耕作できない子どもたちが多い。なぜかといえば、農業をしたとしても、部分的な作業を言われるままにやっているから、実際自分がやろうとおもってもわからない。年寄りがいるからできる農業も、いなくなればできなくなる。遠足に行ってまわりをみたらみんな買ったものを食べている、そんな風景もそう遠くない。
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外で犬を飼う家が皆無

2006-03-24 08:15:46 | ひとから学ぶ
 昨日の新聞に「犬を室内で飼う」という漫画家の方の記事があった。「最近は犬種にかかわらず、犬を室内で飼うことが推奨されているようです」と始まる記事には、自ら室内で犬を飼おうとして父の「犬は室外で飼うもの」という考えを変えさせたことが書かれている。「うちの近所でも、外で飼われている犬は皆無といっていいほど」といっているが、どちらにお住まいなのだろう。きっと都会かその近郊、あるいは別荘のようなところ、いろいろ考えられる。

 昔から犬を飼うということは余裕がないとできなかったように思う。裕福でなかったわたしの実家でも、犬を飼ったことはなかった。家畜などのように有益な動物とは違う。豚のように残飯を処理してくれるものでもない。どう考えてもお金がかかるのだから、自らの食事を抑えてまで飼うことはできない。そう考えると、農村地帯でも昔にくらべると犬が多い。もちろんまったく有益でないわけではない。子どもがいない、あるいは子どもが巣立って家族が少ないといった人たちにとっては、家族同様の関係をもたらせてくれる。核家族化というものも、こうしたペットの存在を大きくさせてきたように思う。しかし、室内で飼うことにより動物への気持ちが高まることはけっこうだが、最近の子どもたちも、いや大人も含めてペットは大事にできても人を大事できなくなっているように思う。

 さて、冒頭の記事を読んでいて、田舎はともかくとして金銭的余裕がある人たちが住む地域では、おっしゃるように外で飼う家がないのだろう。しかし、わたしの家の近隣ではそうはいっても屋内で犬を飼っている家ばかりではない。確かに寿命は屋内で飼った方が長くなるだろうから、わたしのように外で飼っていると可哀想だと時に思うことはあるが、屋内で飼うほど金銭的にも、時間的にも余裕はない。もしかしたら、「外で犬を飼う家が皆無」というような地域の人に見られたら、なんて可哀想なことをしているんだ、とそのうちに言われる時代がくるのかもしれない。格差をみる尺度になるかもしれない。

 我が家の近所には放し飼いの家もあれば、もちろん屋内で飼っている家もある。我が家ではそこそこ大きい犬だから番犬にはなる。そのとおり、よその人が道を通るだけで吠えている。ところがよその猫がすぐそばを歩いていても気持ちよく寝ている。おそらく餌でつられればスリスリするタイプだ。近所にボルゾイを飼っている家があって、散歩で家の前を通ったりするが、やはりうんともすんともしない。我が家では、「きっとボルゾイを犬だと気がついていないんじゃないか」なんて会話をしている。わたしも近くでこの犬を見るのは初めてだった。ロシアン・ウルフハウンドとも呼ばれるように、かつてロシアで狼狩りに使用されていた大型犬である。我が家の犬は25キロくらいあって大きいほうだが、さらに10キロくらいは重い。足がすらっと伸びていて顔は馬のように細長い。知らない人が見れば、小型の馬にも見えるかもしれない。その犬は真っ白な犬で、まさしく高貴な感じである。とてもおとなしそうで、飼っている家にはサンルームがあって、そこにあるソファにひとりで座っておとなしくしている姿をよく見る。居間とつながっているようで、時には一人でテレビでも見ているのだろうか、くらがりにテレビがついていることがある。我が家の犬はとてもおてんばで、あの年ごろのころは、とてもおとなしく家の中にいるタイプではなかった。もちろん犬だから家の柱なんか噛み付いて傷だらけだっただろう。知人の家に我が家と同種の犬がいて、屋内で飼っていたが、障子からふすまからビロビロ状態だったようだ。ちょっと家の中では飼えそうもない。
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同じ田舎を馬鹿にする

2006-03-23 18:38:07 | ひとから学ぶ
 わたしの家から南アルプスを望むと、手前に伊那山脈の山なみがあって、その山なみの麓の方の山間部に集落が点在しているのが見える。伊那谷は「谷」というだけあって天竜川を中心にV字型にはなっているが、右岸である西側は比較的緩やかで左岸である東側は急峻という感じで、形のよいV字型ではない。もちろん右岸は耕地が広がり、人口はそちらに集中している。わたしの家から見える左岸に点在する集落は、生田(いくた)というところで、そこには小学校が山の上にある。

 息子の同級生には、数は少ないがその小学校の卒業生がいる。西側で育った者は、なかなか東側の山間部へ足を運ぶことはない。そんなこともあって、以前から母は息子に「生田の方の友だちがいるんだから、友だちの住んでいる地域を見とくといいね」と言っていた。先日その生田をくまなくではないが、一通り息子と回ってみた。わたしは仕事で何度も行っているし、最も奥の集落では調査でくまなく歩いたこともある。何度も訪れていても、久しぶりに行くと脇道に入るとどこを走っているかわからなくなる。尾根が入り組んでいてあちこちに集落があるから、同じような道をぐるぐる回っているようになる。伊那谷でこんな感じの地形は、この生田と泰阜村ぐらいである。小学校に行ってみようということで、看板に沿って登っていくのだが、以外にも山の上のようなところにある。同じ生田でも天竜川端の比較的人口が集中している地域は、川を越えて違う学校へ通う。この山の上の学校に通う子どもは、まさしく山の中の子どもたちだけである。そんな山の中だから生徒も少ない。この学校まで行ったことはわたしもなかったが、中央アルプスが見えて、なかなか眺めがよい。学校から東側の方へ回ってさらに奥の集落へ向かったが、山が美しく見えるところがけっこう多い。

 ところで学校に登る手前に「アルプスの郷 梅松苑」という施設がある。5年ほど前にオープンした交流施設で、当初は食堂があったが、今は営業されていない。造っている時から、この山の中にこういう施設を作っても人は来ないんではないかと心配したが、その心配のとおりとなった。たまたま今日の信濃毎日新聞の地域版に、「梅松苑 指定管理者導入を否決」という記事が見えたが、町議会が指定管理者制度導入の条例案を否決したものである。きっと地域でもどう生かしていくかは悩みの種だとは思う。思うに施設の場所は県道の脇にあるが、谷の中にあるため、学校のある場所のように眺めはよくない。訪れた人たちに第一印象で気持ちよさを与えるには、眺めは良いにこしたことはない。そうした立地にない場所で、どうやって人に訪れてもらうかとなると、かなりの魅力が必要だろう。オープン当初の姿も知っているが、久しぶりに行って「だいぶ荒れているなー」というのが印象だった。ひとつの行政区域にあっても、人口の少ない地域に目を向ける人は少ない。きっと「あんな無駄なもの造って・・・」と陰口を言う人も多いのだろうが、やはり生田の人たちがどう生かしていくかが焦点になる。何かいい利用法があると思うのだが、残念でならない。

 以前町長選があった際、ある議員が候補を連れて我が家にもやってきた。その際、議員は「対抗馬は川向こうだから・・・」といって少し馬鹿にしたように語った。自分たちもきっと生田とは違う川向こうから「川向こうだから」なんて言われているのだろうと思うが、田舎のくせにさらに田舎を馬鹿にしているような地域に明日はない。
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おにぎり

2006-03-22 08:06:55 | ひとから学ぶ
 昨日、息子は岡谷での卓球の大会をさぼって飯田の子どもたちのサークル、わんぱく冒険隊の「飯田の銘木探訪」に出かけた。市内の銘木をたずね歩くという催しで、中学生で参加する子どもは少ないとは思うが、部活などで日ごろ参加できないでいる会なので、それほど意味を持たない大会には欠席してこちらに参加した。持ち物に「おむすび、水筒、健康連絡カード」とあって、「おむすびだけでいいんだろうか」と妻と息子でもめていた。以前にも「おむすび」とあったのでおむすびだけ持っていったら、ほかの人はオカズを持ってきている子どももいたという。また、ときにおむすびの交換なることもするということで、作る方も気になってしかたがないようだ。結局おむすびだけ持って出かけて行ったが、朝方もおむすびをにぎりながら「交換しないでほしいなー」と妻は何度ももらしていた。
 
 見学する木々は桜の木が多い。愛宕神社清秀桜、博物館の安富桜、合同庁舎の夫婦桜、黄梅院の桜、正永寺の桜、専照寺の桜、そして桜並木と続く。桜にはまだまだ早い時期であるが固いつぼみの様子を見ながらの探訪となる。ただ見て歩くだけではない。この隊の隊長さんはこの地域では貴重な樹木医さんである。木のことをいろいろ教えてくれる。見学した多くの木の樹木医として木にかかわっているという。帰宅後息子に聞いたところによると、樹木医としての視点で説明してくれたようだ。合同庁舎には赤門という門があるが、その脇にある木は弱っているという。合同庁舎の駐車場として周りが利用されているため、舗装によって水が浸透しないために弱っているという。そんな視点でいろいろ聞いてきたようである。

 さて、結局おむすびの交換はなかったという。コンビにでおむすびを買うなんていうことは、私の家では考えられないことだが、最近はコンビニの「おむすび」を持ってくる人は多い。さすがに息子の参加する飯田のサークルではそういう子どもはいないが、学校行事とか部活行事なんていうと、けっこうコンビにのおむすびを持ってくる子どもが多いという。妻の親しい友だちが近くに何人かいるが、息子と同年、あるいは近いところに子どもがいる。そうした子どもたちに友人は、おむすびというとコンビにで買ってくるという。子どもたちのご希望なのかもしれないが、「おむすびを買うなんてうちじゃ考えられないよね」、とは妻との会話である。息子も自分で米作りの手伝いに行っているから、よその米を食べるという意識はない。それでも「欲しい」と言えば買ってしまうかもしれないが、今のところそういうこともない。農家であって自給自足できる環境にあるんだから当たり前といえば当たり前だが、それが崩れているのも事実である。
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この国の不幸

2006-03-21 00:32:18 | ひとから学ぶ
 「情報過多の中の不幸」でハンセン病療養所に保存されていた強制人工中絶の胎児や、生後に殺害された新生児の遺体標本について触れた。同様のことが、信濃毎日新聞3月20日朝刊の記事にあって、テレビ報道とは違ってもう少し詳しい内容が書かれている。「命の尊厳への「踏み絵」」という伊波敏男氏の記事によれば、厚生労働省は各地にある国立ハンセン病療養所あてに文書を出したということがわかる。テレビ報道というのは、あっという間に流れてしまって、聞き間違いが多い。そんなことを思うとテレビ報道というのはBGMのように聞いていると、いいかげんなことしか頭に残っていないということもままありうるということがわかる。それはともかくとして、「胎児標本」を本年度中に償却、埋葬するといい、身元が明らかな胎児については、遺族が希望すれば存在を確認する期間を償却前一ヶ月程度設けるものだという。テレビ報道を見たときも思ったが、新聞記事を読んで、さらなる厚生労働省の非人道的対応(もともと人と認識していなかったのではないか)に怒りを覚える。ここの大きな問題は、身元が明らかな胎児があるのなら、なぜ直接遺族に対して文書ではなく、口頭で伝えないのか、ということである。元来、どうあれ身元が明らかなのに長期にわたり胎児標本として保存されたということにも驚く。

 この国の役人も含めて、多くの公務員も同じなのが、「自分がやったことではないんだから、自分には責任がない」という意識だ。いや、公務員という言い方は失礼かもしれない。公務員に限らずだれでもそういう意識はある。しかし、これほど悪いことをやっても悪いという意識をもてない人が増えた背景には、役人の振る舞いがあるといっても間違いではない。もちろん政治家も、そして代議員制度で当選してきた多くの議員も含めてすべてである。

 114体の胎児標本のうち、57体は1924-56年のもので、詳細はわからないが、記事から読み取るとこれらについては身元を現すなんらかの表示があるのだろう。また、29体は妊娠8ヶ月以降のものといわれる。まもなく生まれるという間際に殺された胎児が標本として残っていることは本当に驚きである。
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科学嫌いな子どもはいない

2006-03-20 12:29:52 | ひとから学ぶ
 「好奇心とやる気を伸ばすには」の記事を書いた後藤道夫先生が、再度信濃毎日新聞の朝刊科学面「フロンティア」に「科学嫌いな子どもはいない」と載せられた。実は、前回このことをブログに書いたところ、どこから知ったのか息子のことをきっかけに親しくさせていただいていたおもしろ科学工房のスタッフの方から妻に手紙をいただいた。妻にはブログを出しているなんていうことは教えてなかったから、何を書いたか「みせろ」という。読んでいただいている方にはわかるように、わたしのブログには妻との会話からの視点がいくつもある。どこかの「鬼嫁日記」のことを知っていて「何か悪口でも書いているのではないか」なんて冗談で言うが、そうはいっても妻にいろいろ報告するほどのものでもないから何も教えてなかった。コンピューターやインターネットがあたりまえの時代ではあるが、妻はほとんどその手のものはいじったこともない。だからブログそのものもちまたで「鬼嫁日記」なる言葉が流れるまでほとんど認識していなかった。そんな状態だから、手紙をもらったのに自分が何も知らないなんて言えない、といって「みせろ」となった。仕方なくそこのページだけプリントして渡したが、すぐ返事を書いていた。

 何度も触れてきているが、息子は中学で卓球部に入っている。すぐ上の年代に先輩がいなかったということもあって、1年生の時の中体連が終わった段階で部長になった。ところが、息子が部長をしているのが気に入らない部員がいていじめられた。その際にも「そんなに嫌なら部をやめたら」と言ったが、卓球はやりたい、といっていたこともあって、いじめられてはいたがそのまま部長を辞めて部に残った。それからである。顧問がお気に入りの部員(息子をいじめた子どもたち)だけを囲って練習試合をやりまくり始めたのは。部活の時間もその子たちが台を占拠して、ほかの部員は少ないスペースで練習をしたりしたという。その後も何度もいやな目に合ったが、レギュラーだったということもあってなんとか続けてきた。しかし、あまりの練習時間の多さに、ほかのこともやりたい息子は部活以外の自主的な活動には出なかった。いくらへたくそなやつらでも、休日といえば1日に10時間近く練習していれば、そこそこ上手くなる。このごろはレギュラーもどうか、というところまでランキングも下がっている。そんな部内で下級生でもいじめがあったりして、なかなか問題山積の部で、校内でも要注意状態になっている。顧問の先生のひどさに「辞めたら」と何度も言ってきているが、あとわずかということもあって、細々続けている。けして運動系の部活が悪いとは言わないが、どこか納得できないところはある。

 後藤先生のおもしろ科学工房は、7年間に730教室という巡回科学実験室を行なったという。そこから感じるのは、けして子どもたちは科学が嫌いではないということだという。そのいっぽうで中学での出前授業は少ないという。息子の学校でも部活といえば運動部が主で、文科系といえば演劇と吹奏楽くらいである(ほかにも若干あるとはいうが)。運動系の部にはそれなりに意味があるということも理解していて、中学に入ったら何をやろう、と入る前に息子と話していた時も基本的に運動の部を前提にしていた。1学年150人以上という学校だからけして小さい学校ではない。だからもう少し文科系の部活があっても良いように思うのだが、学校の、あるいは地域の方針といえば仕方がない。しかし、後藤先生も書いているように、もう少し個性を生かせる環境というものがあってよいし、先生もなぜそういう視点で子どもたちを見てくれないのだろうか、そんなことを思う。まさしく家で話していたことを後藤先生が書いてくれたのだが、果たしてわたしの住む町のどれだけの人たちが認識してくれるかは疑問である。

 余談であるが、おもしろ科学工房ができてまもないころ、飯田市松尾の知人の子どもとともに息子もそこを訪れた。一緒に知人の子どもの友だちも一緒だったのだが、その友だちの子はとても科学に詳しかった。工房のスタッフの方たちが説明していると、「これはこうするといいよ」なんていう具合に逆に説明したり、納得するまで質問責めだった。こんな子もいるんだとびっくりしたが、その後も何度かその友だちとともに科学工房以外にも行動を共にしたことがあった。親が馬鹿だから親からは豊富な知識を与えてあげられないが、同じ興味を示す子どもたちが子どもたち同士でお互いを見ていると、きっと思いつくものも多いのだろう。まだ小学校も低学年のころだったから、その後はその友だちという子どもにも合わなくなったが、そんな子どもと一緒にいたら息子も違っていたかもしれない。その子は親が同居せずに祖父母と暮らしていた。将来は医者を継ぐために今ごろは勉強に励んでいるのだろうが、子どもたちも環境でいくらでも変化する。そんなことを思ったものだ。
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長靴

2006-03-19 16:19:20 | つぶやき
 昨年の夏に草刈をしていて捻挫した足首は、今も完治せずに医者通いが続く。マンガ「風の大地」で、沖田がドライバーを打つと淡い違和感を足に感じるときが表現されるが、何かそんな違和感のようなものが常に足首に残る。医者に通いはじめて数ヶ月でかなり完治に近いと予感をもったが、その後正月を越え、最近になって妙にその違和感は大きくなっている。通っている医者が藪医者とは言わないが、このままでは違和感は消えることなく続くと思う。仕事がら野を歩くことはあるが、そしてかなりの傾斜地を歩くこともあるが、延々と何日も続けているわけでもなく、かけている負担はそれほど大きなものではない。むしろ少し使った方がよいのかもしれないが、やはり傾斜地などを歩いたり、今冬のように積雪の中を歩いていると、必ず違和感は大きくなる。長靴がけっこう負担であるということは実感した。

 長靴というやつは、近ごろホームセンターで買うことが多い。安いからというのが選択理由だが、長靴で「これぞ」というようなものにお目にかかったことはない。もちろんホームセンターにそんな「これぞ」と思うようなものは置いてないだろうが、消費者にもいろいろいるんだから、広い陳列棚にそんな足に優しい長靴が置かれたっていいじゃないか、そんなことを思ったりする。いや、そんな長靴はないのかもしれないが、現場に限らず、農作業をしている人は年寄りが多いから、長靴というのは重要なポイントのような気がする。ところが、そんなことを考えて作られているという感じはしない。靴底の作り方でずいぶん疲れ方が違うと、足に違和感を持ちながら農作業をしていると敏感になる。もちろん長靴に限らず、普段はく靴も同じかもしれない。しかし、靴はかなり選択の余地があ。先日久しぶりに革靴をはいたが、この革靴はそろそろ新調した方がよいと思われるほど長く使っている。だから足にはなじんでいるし、国産の靴だからわたしの足には合っている方のはずだ。それでも数時間はいていると、ふだんはき慣れないということもあるのだろうが、違和感は増幅する。足首に問題を抱えていなくても革靴をふだんはいていないとそんなものだと思う。高級な靴は別だ、なんていう人もいるが、そうとは思えない。そこにいくと、ふだんはいている運動靴は、足首への違和感を軽減する。なんとなく足全体がはっている時は、締め付けによってつらいときもあるが、紐を緩めればよいことだ。

 このように足に問題を抱えているときだからこそ、靴の重要性をつくづく感じる。長靴で足に負担が少ないものがあったらありがたいのだか、紹介してほしいものである。衣服はあまり身体に影響はないが、靴は安物買いはだめだということを感じるし、だからといって高ければよいというものでもない。いかに自分にあったものを探すかである。
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市町村合併と民俗

2006-03-18 15:02:35 | 民俗学
 『日本民俗学』最新号において、「市町村合併と民俗」を特集している。ムラを対象にしてきた民俗学にとっては、合併という事実は領域の変化という部分においては、対象とする地域も、そして研究する視点という部分においても、影響があるのだろうという感じはする。が、現実的にはどんなに合併が進もうと小さな地域がなくなるわけではないのだから、行政区域名がかわっただけと住民は捉えるだろう。そのうえにたって合併が一時的な事件だったのか、それとも長らえてきた習俗への変化をもたらせるのかをわたしは捉えるしかないと思っている。そんな意味で、特集にとりあげられた記事すべてを読んでいないが、この学会が何を意図して特集を組んだのか、というところは冒頭の「特集にあたって」の前文を読んでも、また福田アジオ氏の「市町村合併と伝承母体」を読んでも今ひとつわたしにはわからない。結局過疎問題を扱った、という感じなのである。

 同号のなかで結城登美雄氏は「市町村合併の現在」と題して、東北の村々を歩きながら考えてきた地域の現状と問題に触れている。消えそうになった地域で豊かな文化(価値)を認識したとしても、それを再生のために活用することは村にとっては難しいことである。よその事例に沿って倣っても成功するものでもないし、他人が手を貸すものでもないと思う。地域問題が多様に報道されるなかでは、活性化事例と題してさまざまな事例が報告されてはいるが、民俗学が扱う領域ではないと思う。結城氏は最後に「村の暮らしには、失ってはならぬ大切なものがあると主張してきたのも民俗学であった。それをもう一度未来を生きる若者たち、次世代に手渡すべく、しっかりとみつめ続けていきたい。」とまとめている。東北に近頃移住してくる若者がいたり、沖縄の人口が増えていることに触れて、どんなに行政の都合で合併されようが、そして人々を苦しめることにもなるだろうが、村の名は消えても家族がいるかぎり現実に村はあるわけで、その内実を高めていけば、合併はさして重要な問題ではないと人々が受け止めてくれるのではないか、というようなことを書いている。「再生する」という大きな目標を掲げなくとも、どう「今を続けるか、そのために努力する、普通に暮らす」人々をとりあげるのが民俗であるのだろう。

 日ごろ仕事でまさしく過疎の進んだ村々を歩いている。年寄りだけでもいい、田畑に人影があって働いている姿を見ると安堵する。ずいぶん前に、「車は通らないが人は多い」という村のことを触れたが、今が続いていくだけでよい、とはよそ者の言葉かもしれないが、素直にわたしの気持ちである。
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蛍光管のはなし

2006-03-17 08:14:02 | つぶやき
 今日も10時近くまで仕事をしてから帰宅した。年度末ともなると忙しいのはどこも同じである。長野県庁の前を通るとどの階も電気がついている。すべてとはいわないが、半分以上はこの時間でも点灯している。点灯しているフロアーにまんべんなく残業をしている人がいるのか知らないが、おそらく点々とした状態で働いている人がいるのだろう。まんべんなくいたら、むしろ不思議である。残業している人だけ「残業部屋」でも設けて集めれば電気も無駄じゃないだろうにと思うが、勝手なお世話かもしれない。

 そういうわたしも一部屋でわたしだけで働いているから、人のことはいえない。しかし、明らかに必要ない場所の電気は消灯している。それは残業のときに限らず、昼間も同じように消している。自分がいるところだけ明るければ十分だからだ。そこへいくと、先の県庁、この遅くに点灯している部屋は、おそらくすべて電気が点灯している。部分的という感じには見られない。やはりまんべんなく人が働いているのだろうか。

 町村役場なんかで夜とか土日に電気が点灯しているときは、だいたい部分的に点灯しているだけだ。ところが県の出先機関なんかを見ていると、フロアーに一人しかいないのに全部点灯しているということがよくある。遅くまで大変だなーと思っていると、実は一人しかいない、なんていうこともあるのだ。

 さて、我が家も居間には蛍光灯が何本も使われている。妻は盛んにもったいないとかいうが、暗いのだから仕方ない。銭もないのに居間の天井に凝った細工をしてもらったために、電気と手元の距離が遠い。自ずと蛍光灯を増やすしかないということで、新築時にオリジナルで作ってもらった照明器具を改造してもらって、灯数を増やした。そんな照明器具の蛍光管を新築して以来何本も交換しているが、電気工事をしてくれた電気屋さんは、三菱の蛍光管がよいと盛んに勧められた。取扱店だからそういうのだろうと、その時は思っていた。そうした蛍光管が切れて交換するようになると、ホームセンターなどで購入してくるのだが、三菱の蛍光管なんぞは売っていない。だいたい東芝とかナショナルである。買う側にとっては安ければよいので三菱にこだわらずに購入してくるのだが、交換しても寿命は短い。ホームセンターで売られているものが品質の悪いものなのかもしれないが、新築時につけた蛍光管にくらべれば3倍とか4倍くらい寿命が違うように思う。あらためて三菱の蛍光管が良質だと気づかされた。
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