Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

〝つくし〟誰の子

2006-04-30 01:23:59 | 自然から学ぶ
 『伊那谷の自然』(伊那谷自然友の会)124号に、小林正明先生が「〝つくし〟誰の子」という小さな記事を寄稿している。「〝つくしはスギナの子〟は常識ですよね。でも確かめたことありますか」と始まる。つくしが出るところスギナの生育場所、というのは知っているが、確かに確かめたことはなかった。そして、つくしとスギナが一株になっていれば、確かに親子と認識できるのだろう。毎年スギナには庭を占領されて困っている。もちろん、引っこ抜いても根がつながっているから、絶滅させたいと思えば、土を大きくひっくり返して根そのものをすべて取り除かないと可能性はない。いや、全部取り除いたと思っていても残っていたりする。だからスギナをなくすことは難しい。そうはいってもある程度根を深くとらないと、すぐに次のスギナが出てくる。まさしく除草剤でもりようしないと絶えずスギナとの戦いとなる。〝つくし〟といえばイメージはよいが、〝スギナ〟といえばイメージはよくない。

 さて、わたしもそんな親子の照明をしてみようと、すでに頭を出し始めたスギナの株とつくしが同じ場所に出ているところを探し、切れないように少し深く掘ってみた。写真のように見事に親子の証明成功。小林先生も言っているが、先につくしが出て来て、あとからスギナなんだからつくしが親でスギナが子じゃないのか。

 スギナとつくしは必ずしも両者とも同じ株に姿をあらわすわけではない。スギナがあんなにたくさん出るのにつくしはスギナほど目立たない。小林先生は「栄養がありすぎると花が咲かないのと同じ」というが、それにしてもスギナがあまりにも多いし、大きく成長する。よい始末の仕方があったら教えてほしいものだ。それも除草剤を使わない方法を。そういえば「つくしのてんぷら」なるものを見たことがあるが、世の中にはスギナのてんぷらなるものは存在するのだろうか。いやはや「まずそう」。
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ひっくり返りそうな味

2006-04-29 09:13:05 | つぶやき
 わたしは比較的甘いものも好きなほうだ。もちろん辛いものもけっこう好きで、香辛料を多用するタイプだ。子どものころにはそんな香辛料を使うという感覚はなく、醤油やソース程度のものしか使わなかった。コショウなんかは卓上に置かれている姿はかつてはなかったし、塩コショウはもちろん七味なんかも卓上に置かれて好みで利用するということはなかった。どこの家でもそうだったのかは知らないが、農家の食卓にそんなものが並ぶことはなかったはずだ。外食で食堂などに入ると、食べるものによっても異なるが、脇に必ず並んでいる香辛料がある。醤油やソースはともかくとして、コショウ、七味などは定番なのだろう。子どものころに外食なんてすることはなかったから、そんな風景はしばらくは「そんなものなのか」程度に思っていた。社会人になってそれまでの食生活はいっきに変化し、外食というものが多くなった。現場が多いということもそうしたことにつながったといえる。弁当を持っていけばよいのに、と思うのだが、職場で出張する人たちが弁当持ちで出るということはなかった。わたしも一人暮らしだったから、弁当を持っていくなんていう考えは浮かばなかった。だから現場へ行くとなれば必ず外食になったわけである。

 そんな出張先での外食で、先輩の香辛料の使い方に驚いたものだ。カツ丼に七味はかけるし、焼肉にも赤くなるくらい七味をかける。定食を頼めば味噌汁に七味をかけるし、ご飯にも七味をかける。しまいには「七味じゃいまいちだから一味にしてほしい」という。わたしの知らない世界がそこに広がったわけである。しかし真似をするという気はなかった。醤油とソースがあれば間に合う、そんな外食であった。しかし、いつのころからか、外食に慣れてくるとさらなる刺激をと香辛料をかけることを覚えた。とくに七味である。さすがにご飯に七味をかけてふりかけがわりにすることはないが、外食の野菜炒めには赤くなるくらい七味をかける。もうひとつ、味噌ラーメンにも同じようにかける。そんな食べ方に慣れてしまった。自分で作った野菜炒めにはそれほど掛けはしないが、外食の際にはやたらに掛けたくなる。ただでさえ外食の野菜炒めは味が強いところへ、強いからさらなる刺激が欲しくなってしまう。だから外食はしないにこしたことはないのだ。本来の素材の味など飛び散っている。

 さて、辛い話は余談である。妻が最近チョコレートのカカオ99パーセントというやつを買ってきた。「食べない方がいいよ」といわれたので、てっきりいつものごとく食べられてしまうことを予感しての「食べるな」という指導だと思ったが、義理の弟とともにそのチョコレートを口にして、思わずともに顔を歪めた。「なんだこの苦さ、そしてまずさ」は。「こんなもの商品になっていない」とは義弟の言葉である。こんなチョコレート売れるわけがないと思っていたが、コンビにに行くとそのチョコレートが棚に並んでいる。99パーセント意外にも何種類かパーセント表示のものが並ぶ。よくみると、カカオ○○パーセントなどというチョコレートが棚の半分近くに並んでいる。流行っているのだとそこで認識した。妻は99パーセントを買う前に70パーセントくらいのものを買って食べたことがあったようだ。それは「まずい」と思うほどのものではなかったようで、「それなら99パーセントはどうなんだろう」と期待して買ったに違いない。しかし、妻もそのまずさには驚いたようだ。そんなチョコレートの話題で盛り上がっていたら、義理の母が「わたしにもちょうだい」という。思わずそこにいた3人で「辞めた方がよい」と口にしていた。あまりのまずさにビックリしてひっくり返ったら大変だからだ。

 それにしてもちょっとこれ、商品にやっぱりなっていないと思うが、コンビにで売ってるんだから世の中、舌がおかしくなっているかもしれない。
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モザイク写真

2006-04-28 08:16:39 | つぶやき
 永年勤続で表彰してもらい、その際に写真屋さんがきて写真を撮影していた。別に欲しい写真でもないが、その写真が立派な台紙に貼られて届いた。六つ切りくらいの大きさだからそこそこ大きい写真である。ところがほぼ中央に人が並んでいて、横に長くなっているため、パノラマサイズならともかく、長方形の版にはいまいちバランスが悪い。天井と床がそれぞれ三分の一ずつとっていて、人間は真ん中に三分の一なのだ。もともと欲しくもない写真だったが、そのアンバランスな写真を見ていて、ますます「とぼけた写真だなー」と感じた。素人が撮った写真ならともかく、専門家がとったんだから、もうちょっと印画紙の画面を想定して人を並べてほしいものだ。

 「とぼけたものだ」と思いしまおうと思ってさらに気がついた。人の顔がなぜかモザイクっぽいのだ。よーくみてみると、デジタルの写真を大きく拡大したような感じに、輪郭に若干モザイクのようなブロックが見えるのだ。そう思って全体をよくみてみると、まさしくデジタルのような雰囲気を醸し出しているのだ。しかし、写真を撮っているときのカメラを覚えているが、6×7か6×9のブローニー判のカメラで撮っていたように記憶する。昔はカメラに詳しかったが、デジタルに銀鉛が押されるようになってからは、とんとカメラに興味はなくなった。だから最近のデジタル事情はよく知らない。もしかしたら中判カメラにも同じような格好をしたデジタルカメラがあるのかもしれない。でも、わざわざブローニー判に似せた大きさのカメラなんか造るわけがない、というのがわたしの結論だ。だから、あきらかに撮っていたカメラは銀鉛のブローニーだ。ではなぜこんなにモザイクがかっているのか。そこがよくわからない。ネガからデジタルに変換して、そのデータを焼き付けている、なんていうことはしないと思うが、なぜ中判カメラで撮っていたかも理解できない。

 もらった写真で美しいなどとはとてもいえない。明らかにかつてのブローニー判の写真の方が美しかった。

 たまたま一昨日の朝日新聞に「デジタル化で変わる写真表現」という文化面の記事があったが、写真をパソコン上で楽しむぶんには、明らかにデジタルが扱いやすいし、最近は汎用性を考えれば当然ネガでもデジタルに変換しておきたい。加えて最近のデジタルの解像度は高いし、印画紙へ焼き付けてもほとんどそん色はない。なのになぜこれほどモザイク化しているか、不思議でしかたない。個人的に頼んだならば、こんな写真を写真屋さんが焼いてきたら受け取れない。そう思うほどデジタル自体に即した写真だった。
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善光寺表参道

2006-04-27 08:15:57 | 歴史から学ぶ
 今勤務している長野市の会社の南側に幅5メートルほどの川がある。この川の名を八幡川という。この川は信濃毎日新聞社本社ビルの東側で南八幡川と北八幡川に分岐する。南八幡川は昭和通りを渡り栽松院の南を経て飲み屋が並ぶしまんりょ小路の北側を南東へ流れる。ふだん飲み屋へ、あるいは長野駅へ向かう人たちはこの南八幡川の上を歩いている。現在は川の多くが蓋でかぶっているため、川があるという意識は薄い。加えて、栽松院がその北側の昭和通りあたりより少し高い位置にあるなんていうことは、意識してみてみないと気がつかない。

 実はこの八幡川が流れるあたりは、現在は県庁の西側を南に流れている裾花川のかつての流路のあたりだという。江戸時代初期に松代藩の城代、花井吉成によって裾花川の流路が人工的に変えられたものだという。そして、流路の跡には新田が開発されたため、そこを新田というようになったわけで、現在も新田町として残っている。善光寺表参道は、長野駅の方向に向かって一定に下っているものだと思っていたが、かつての裾花川の名残りもあって、若干上下していることを知った。

 表参道としてかつて賑やかだった長野市の旧メイン通りも、今はずいぶん廃れている。その典型的なものが、飲み屋街としてしられて「いた」、あるいは「いる」権堂町の夜の姿である。わたしが長野に始めて暮らした30年近く前の権堂と今の権堂は明らかに賑やかさが違う。かろうじて飲み屋街の姿は現在にも残るが、夜権堂アーケードを歩いても、人通りは少ない。そんな姿だから、飲み屋がなくなっていっても当然なのだろう。長野市街地のマチは、明らかに姿を変え、加えて分散してしまって「長野」のマチをイメージさせるようなマチは、正直今はどこにも見ることができないのかもしれない。

 余談であるが、新田町の中心にある交差点は、善光寺表参道と県庁から東に向かう昭和通りが交差する位置にある。昭和29年に長野県で初めてスクランブル交差点とされた場所で、昭和47年に県内で初めて目の不自由な人のための電子演奏装置が設置されたのもこの場所だという。長野県の最先端であった交差点も、交差点のあった葉所にあったダイエーが撤退するなど、「マチの郊外化」の現実にさらされている。
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用をたしたくなる環境

2006-04-26 08:11:05 | ひとから学ぶ
 〝わたしにとっての「便所」〝の第2章である。
 
 小便といえば立小便。当たり前といえばあたりまえで、立って用を足せば〝立ち小便〟だ。世の中から草むらがなくなれば、立ち小便もし難くなる。いや、今は荒地も多いから、その環境は必ずしも消えたとはいえない。しかし。かつてにくらべれば用を足せなくなったことは確かだ。加えて今は公衆トイレがけっこうあるし、さらにはコンビにへ行って用を足すなんていうことも普通に行なわれる。そのあたりの感覚である。前にも述べたように、かつては大便をしたくなれば、山の中に入ったり、草むらに行って用をたした。それがそれほど恥ずかしいことではなかった。同じように女性だって野で用を足すなんていうことは、致し方ないがあったはずだ。ところが、今はそういう感覚はそれほどない。とすれば、今のように男性も女性も関係なく仕事をこなすとなれば、女性と外回りの仕事をすると、どうしてもトイレのことを念頭に置かざるをえない。女性は女性で、トイレに頻繁に行くわけにもいかないから、必然的に我慢をするようになる。そしてそうした我慢に慣れてくる。

 以上から、用を足す環境というものもあるのだろう。かつては「野」でできたものができる環境もなく、しだいに「野」でするものではないものとなってきた。やたらなところでしたら訴えられそうでもある。大便はできれば自宅でしたい。そう思うのは、大便をする環境として自宅のトイレは最も優れている、ということもいえるだろう。水洗化された洋式のトイレは、明らかに快適になった。加えてウォシュレットの使いよさは、使い慣れてしまうと必需品となってしまう。いっぽうでそうした環境が整われる以前は、時には「自宅でするより外でする」なんていう意識の人も皆無ではなかった。それは、汚しても自分がきれいにする必要がないし、汲み取り式であれば、自宅ですればするほど汲み取り回数が多くなるわけだからだ。そんなケチな感覚で外で大便をする、なんていう認識は考えられないかもしれないが、ようは自宅の家庭ごみをコンビにのごみ箱に捨てるのと同じような感覚なのだ。会社でも公衆トイレでも朝方にトイレが「いっぱい」なんていう経験はないだろうか。自宅で用を足さなかった人たちが、そうしたトイレ事情を作り出したりする。必ずしも先ほどの〝よそのごみ箱へ〟という意識に限られるものではなく、朝の忙しい時間に用を足せなかった、という事情もあるのだろう。

 環境という観点でいけば、公衆トイレの場合このごろはきれいになったが、汚れていると使いたくない、という意識も芽生える。かつてのようにコンクリート剥き出しのトイレともなれば、足元が濡れていたりすると気分はよくない。もちろん汚れているトイレを開けると、隣に移動したくなる。そんなことは誰でもあることだろう。トイレに関するアンケートなんかをのぞいてみても、「きれいであること」、あるいは「明るくしてほしい」なんていうのはごく普通である。昔の公衆トイレには、トイレットペーパーが備え付けられていないなんていうことも、珍しいことではなかった。いや、意図的に付けてないトイレもあったように記憶する。結局、前にも述べたように、自宅でできるものをよそへ来て用を足す、なんていうことが横行するから、意図的に外で用を足すようなことを避けるための策であったのかもしれない。今では公衆トイレでペーパーが置いてないところなど滅多にお目にかからない。誰も使わないような公園のトイレや、田舎のトイレくらいかもしれない。

 イメージが第一という印象があるトイレ。かつての「野」も、今のトイレも、やはりその環境が快適さを決めるわけだ。女性の感覚はわからないが、今でも男性はトイレで立ち小便するよりも、「野」でする小便は開放的で気持ちがよいはずだ。それは男性だけの特権なのかもしれない。

 ・・・続く
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読めない地名

2006-04-25 07:53:00 | 歴史から学ぶ
 長野市の西側から大町市にいたる地域は、長野から西にあるということもあって「西山」といわれている。小川村もその地域に含まれるが、そこの出身の同僚がこんなことを言った。小川村に「成就」という地名があるという。読み方は「じょうじゅう」というらしい。ある試験でこの漢字の読み仮名をつけなさい、という問題があったら、小川村出身の人たちはみんな「じょうじゅう」と書いて間違えたという。そんな笑い話なのだが、地名というものはなかなか読めないものが多い。雰囲気でなんとなく読めて「○○と読むんですか」と聞くこともあるが、その回答を聞いて「なるほど」と思うものもあれば「えっ!」と思うようなものもある。

 長野県でも南信、とりわけ下伊那地方には独特な読み仮名の地名が多い。泰阜村という村が南端に近いところにある。田中康夫が住民票をこの村に移したいといってダダをこねた村だ。この村を含めて近在には、なかなか面白い地名が多い。もちろん「泰阜」(やすおか)という字もなかなか読みにくいかもしれない。

 天竜川と万古(まんご)川の合流地点南、泰阜村から天龍村に入ったところに「為栗」というところがある。JR飯田線にも「為栗」という無人駅があるが、「してぐり」と呼ぶ。「栗」という字には「えぐる」という意味があるらしい。そして「為」は「水」を意味するようで「しと(湿)」の変化だという。ここから水にえぐられた地を意味するようだ。行っていただくとわかるが、そう説明されると、天竜川にえぐられた地だとわかる。その為栗駅の北に「温田」という駅がある。この字もすぐにはなかなか読めない。「ぬくた」という。いかにも温かそうな名前である。

 泰阜村の北側に「鍬不取」というちころがある。意外に簡単に読めるかもしれないが、けっこう「不取」を充てた地名は他にもあるのかもしれない。「くわ」という語源は、「くり」と同様に地形からきたもののようで、崖のようなところを指すといい、「くえ」る(崩)の変化という。漢字の「鍬」は当て字のようだ。「くわとらず」なんていうといかにも桑園がたくさんあったころの時代に相応しているようだが、語源はまったく違うというわけだ。その鍬不取の近くに「怒田」というところがある。仕事で以前よく訪れたが、普通に読めば「ぬた」でよいわけで、それが正しい。しかし、盛んにわたしは呼び方を変えて「おこった」とよく読んでいた。もちろん不正な呼び方なのだが、知らない人に「ぬた」と言っても漢字のイメージがわかないため、「怒る田」と書くんだ、とよく説明したことを覚えている。この地名の語源も地形からきたもののようで、沼田や泥地という意味だという。

 さらに泰阜の北の端に「金野」というところがある。地図にも、そして人の言うにもだいたい「きんの」と普通に呼ぶのだが、たとえば「金野伝承」を語るこの地と関係深い上伊那郡中川村大草では、「オヤカタさまだった金野家は、天竜川を下ったところの金野に行って再興した」という。このときの「金野」を「きんのう」と「う」を付けて伸ばして発音する。けっこう「きんの」と「の」を刻んで発音するよりも「のう」と伸ばして訛りが現れるケースは多い。冒頭の「じょうじゅう」も同じパターンなのだ。

 泰阜の北、飯田市竜江に「雲母」というところがある。普通なら「うんも」なのだろうが、「きらら」という。飯田市へ入ってもなかなか変わった地名は多い。「安戸」と書いて「やすんど」、「朝臣」と書いて「あっそ」などである。

 余談であるが、少し離れて駒ヶ根市に「女体」というところがある。なかなか悩ましい字を充てているが、字を充てる場合にどういう意図があったのかは、なかなか解明できないものが多い。ここで紹介した地名については、松崎岩夫氏の「伊那地方の地名」や「長野県の地名その由来」などを参考にしたが、それらのなかでもこの「女体」に触れてさまざまな視点で説こうと試みているが、納得できる説明はなかなかしずらいようだ。読みと字は必ずしも同一の意味を持っているとは限らないわけで、今伝わっている漢字だけではとうてい判明しがたいことが多いことにも気がつく。

 
 息子が新学年に進んで、新しい先生がやってくると、必ず読みにくい名前の人はいて先生が困るという。息子のクラスでもある姓の女の子と、息子の名前がなかなか読めないという。普通に読むと間違えてしまう女の子の姓と、戸惑う息子の漢字名。「そんな難しい名前を付けるな」と言われそうだが、漢字そのものはまったく難しいものではない。
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紅葉の芽吹き

2006-04-24 08:25:38 | 自然から学ぶ
 妻の実家の裏山にあるイワツツジの近くに一本の紅葉しているような木がある。カエデの系統の木は芽吹きが紅葉しているように見えるのだが、実はこの木は「ハナノキ」である。飯田下伊那にはこのハナノキの自生地があちこちにあるものの、このハナノキは絶滅危惧種として知られている。

 『下伊那郡誌自然編』によると、ハナノキは幕末の博物学者伊藤圭介によって世界の学会に紹介されたカエデ科の落葉高木という。恵那山を中心とした長野・愛知・岐阜の3県の地域と、大町市居谷里湿原だけに分布するといわれる日本固有の植物で、下伊那地方では飯田市山本を北限として阿智村・下条村・阿南町などに自生地があることで知られている。日本固有ではあるものの、ハナノキの仲間は世界にもあって、化石からグリーンランドやアラスカからヨーロッパまで広く分布していたといわれるが、現在は日本と北アメリカ東部だけにみられる。土地を選ばないといわれ、実生や挿し木などによって人工的に植えられて成長しているものも多いという。

 飯田市山本では平成2年ころにゴルフ場開発が自生地周辺で起きて、地元の反対で中止したという経緯もある。また、その周辺を現在盛んに整備されている三遠南信道が通過する予定でもある。昨年断念された県が設置予定であった阿智村の産廃処理施設の周辺にもハナノキがあった。湿地帯に自生しているケースが多いということで、そうした立地条件は開発の標的にされる、といういい例であったのかもしれない。

 妻の実家でもこのハナノキを阿智村の知人からいただいて植えたものという。かなり昔に植えたもので、幹はずいぶんと太い。ハナノキのことは知っていたものの生態をよく知らなかったわたしは、妻に「あの紅葉している木は何」と聞いたわけだが、カエデ科であるということも知らなかった。芽吹きがいかにも紅葉しているように見え、それも春の姿なのだと知る。葉の姿もまさしくカエデ系の形だ。そんな紅葉の芽吹きも、しばらくすれば緑に変わる。次は自生地にも行ってみたい、そんな気持ちになった。
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イワツツジの世界

2006-04-23 10:23:57 | 自然から学ぶ
 「日々の記録」でも紹介している妻の実家の裏山にあるイワツツジ帯がピンクの色を見せてきた。2月に何日もイワツツジの周りにあった雑木や下草を処理しただけに、花が咲くのは待ち遠しかった。手を入れれば入れるほどに愛着もわく。地域の周辺のイワツツジはだいぶ前に咲いていたが、この裏山のイワツツジは日陰にあるということもあって、なかなか花が咲かなかった。南側に山があるため日陰になっているのだが、東側や山から離れた場所にあると日が当たるということもあって、咲き始めている。数えていないので何本あるか知らないが、数百という株はあるのだろう。そのほとんどは、まだこれから咲き始める。

 イワツツジは、一般にヤマツツジといわれる仲間のひとつで、正式にはミツバツツジという。このミツバツツジにも仲間があって、ミツバツツジより葉の小さなコバノミツバツツジは、長野県南部以西に分布し、ミツバツツジより標高の高いところに分布するものにトウゴクミツバツツジというものがある。

 落葉した木々がまだ芽吹きをする前の山肌に、ピンクの花を咲かせるイワツツジは、人の目を引く。冬の装いをまだまだ残している山がにわかに華やいで見えたりする。しかし、芽吹きには早い。そんなアンバランスな世界に色づけされるイワツツジの存在は大きい。伊那谷の落葉した山々にそうしたイワツツジの姿があちこちに見られる。飯田市ではこの花を市花に指定している。それほど目に焼きつものである。そう考えると、裏山にあるイワツツジ帯は、見事ではあるが、冬枯れの世界に点在する華にはなかなか見えない。「そろそろ芽吹きの季節ですよ」と教えてくれる山に点在するイワツヅシに比較すれば、裏山に密集するイワツツジにはそうした姿が見えなくて残念ではあるが、それは何にもたとえられる世界なのかもしれない。どんなに美しくあるいは光るものでも、集団に吸収されると人の目にはつかなくなる。いっぽうで色のない世界の美しさ、あるいは光はたいへん目に焼きつく。そんな世界を教えてくれたイワツツジの存在であった。

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町民参加条例の記事に一言

2006-04-22 09:18:08 | ひとから学ぶ
 またもや信濃毎日新聞は、高森町の町民参加条例を取り上げて住民自治を問うている(4/19朝刊)。印象としてこの新聞は、住民自治というと必ず高森町を例にあげるが、ほかに具体例を示すような動きはないのか、あるいは違う視点はないのか、と常に「高森町」の名が見えると思う。そしてワンパターンのようにこの町に越してきて、自治会に未加入のある人物の言葉を掲載する。はた目には、まるでこの町にとってこの人物は厄介者のようにさえ聞こえる。わたしは住民ではないから、真偽は知らないが、いくらなんでも同じパターンで何度も新聞紙上を賑わせると、「この町の構図がパターン化して見える」。「横並び意識や上意下達の雰囲気」を感じて未加入というこの人物の気持ちは、何度もいうようによくわかる。しかし、田舎にこうした自治組織がなくなってしまったらどうなるのか、ということは考えないのだろうか。いや、考えたうえで、違う方法を模索しているのかもしれない。しかし、どんなに問題が山積みだとしても、長年築いてきた地域の社会生活(わたしは住民自治とはいわない)が無駄なものであった、みたいに否定されてしまっては、それまでその地域に生きて生活してきた者にとっては、やるせないものだ。問題はあっても、どうこれからの地域の社会生活を継続していくか、そういう視点で考えて欲しいと思う。

 隣接する町であり、わたしの住む町との対比もいくらか聞いたりする。どちらもどちらという部分もあれば、飯田市に隣接して新たなる住宅が増えているにもかかわらず、古いしきたりはわたしの町より強い、なんていうことも聞く。とくに学校にかかわる地域の考え方、あるいは地域の人々の考え方は、かなり今の子どもたちの視点には立てていないようなことも聞く。それでも、学校が努力しているせいなのか、バランスよくまとまりを見せている。しかし、ちょっとしたことから学校は荒れ、すると地域も荒れすさむこともある。それほど教育というものは地域の姿を見せるものだと思う。学校を見れば、その地域の環境が少なからず見て取れる、そんなことが実際ある。

 ポッケニャンドリさんのブログで、水道の布設のために各戸1人ずつ日曜日に賦役して、そんな生活が2年も続いたということを触れていた。若い人たちには耐え難い苦労、いや個人の自由を奪ったかもしれない。しかし、土木工事として発注すればお金もかかる。それを自分たちでやれば金はかからない。現実的には日曜日に賦役することのさまざまな苦労は、お金にも代えられないものだ、という意識もあるかもしれない。ただ、お金に換算する以上に、自分たちの地域を自分たちでかかわることで、地域は何らかの結びつきを持ったに違いない。必ずしもそうではない、という意見もあるだろうが、それは意見は意見として、地域はその意見を吸収するだけのふところを有すことも必要だ。昔なら、よそから来たものが声を出すなんていうことはできなかったし、有力者の一声でどうにでもなったのだろうが、そこが今は違うんだということを理解して、かつての助け合いのよさは採用していく。加えて、過度な賦役の負担を、どう負担ではないような方法で解決するか、そんな部分も必要なのだろう。

 だから自治会への未加入者が声を大にしたからどうというものではなく、加入してでもその問題を解決することは可能なはずなのに、「未加入」を象徴的に記述する、この新聞のやり方にわたしは「問題あり」と言いたいし、また、未加入のまま声をどんどん大きくして、さらには町議選にも何度も出るという目立ち方をするここに登場する人物も「問題あり」とはた目には感じられる。いずれにしても、もうこの新聞は、この事例を大々的にとりあげてほしくない、そう思う。
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病のチェック

2006-04-21 12:29:10 | つぶやき
該当数のチェック

①場所や状況に不適切と思われる悪ふざけや配慮を欠いた行動をする。周囲の人に対して無遠慮な行為や身勝手な行為をする。
②引きこもりや何もしないなどの状態が持続し、改善しない。思い当たる原因は特になく本人の葛藤もない。
③身だしなみに無関心になり、不潔になる。周囲の出来事にも無関心になる。
④万引きなどの軽犯罪を犯すが、反省したり説明したりできず、同じ違法行為を繰り返す場合が多い。
⑤散歩や食事、入浴など日常生活の様々な行為を時刻表のように毎日決まった時間に行なう。この際、やめさせたり待たせたりすると怒る。
⑥毎日同じもの(特に甘いもの)しか食べない。際限なく食べる場合もある。
⑦同じ言葉を繰り返したり他人の言葉をオウム返ししたりする。
⑧突然甘いものが好きになるなど、食べ物の好みが大きく変わる。アルコールやたばこなどは毎日大量に摂取するようになる。
⑨無口になったり語彙が少なくなったりする。物の意味が分からなくなる。
⑩最近の出来事など、短期記憶は保たれる。また日時も間違えない。外出しても道に迷わない。

 以上は朝日新聞4/17生活版の「医療」からの抜粋である。この質問に対して40歳以上になった人が3つ以上該当すると、ピック病の疑いがあるという。アルツハイマー病とは似ているものの異なるといわれる病だ。前頭葉や側頭葉に萎縮が起きるもので、後頭葉や頭頂が侵されるアルツハイマーとは症状が異なるという。若い年代のうちに発症することから、若年認知症といわれる。

 と、まあ症状の①から⑩をチェックすると、「3つ・・・、もしかして」なんて不安が増幅する。「まいったなー」。
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わたしにとっての「便所」

2006-04-20 08:11:21 | ひとから学ぶ
 以前にも書いたことがあるのか、もう紐解いて探すことはやめた。300編弱の日記だからそれほどの数ではないが、記憶に無いものもある。探しているといらいらしてくる。歳だろうか物忘れも激しくなった。だから、あまり過去の日記を意識するのは辞めよう。

 わたしにとっては「便所」というものは思い深いものがある。今でこそ「便所」という言い方はあまりしなくなった。かつて「トイレ」という呼称が登場したころには、その言葉にしっくりせず、便所という言葉をいつまでも使っていたが、今ではその「便所」も知らず知らず使わなくなって「トイレ」が普通に口から出るようになった。「いい印象」という言い方も適正かどうかわからない。それほど「便所」というものは変化してきたといえるのだろう。

 「はばかり」「手水場」「雪隠」「厠」「東司」など便所を表す言葉は多いし、歴史もある。岩手県九戸郡では小便所のことを「灰汁場」というらしい。また青森県では外便所を同様に呼んだという。かつては火を使ったから灰が出た。この灰を肥灰として利用したことはよく知られている。後にこのことは触れたいと思うが、かつての農家には灰屋(へえや)というものもあった。自分の排泄物が畑に撒かれ、そして食べ物が生育していったのだから、現代人が聞くとちょっと違和感はあるのかもしれない。

 さて、わたしにとっての便所とはどういうものだったのか、少し触れてみたい。
 わたしの子どものころの家の便所は、玄関の左脇にあった。もちろん何度も触れてきてはいるが、わたしは農家の生まれである。そして生家は大正12年に建てられたものだった。わたしが覚えているころにはその当時の間取りはすでに変更されていたが、便所の位置は変わっていなかった。ただ、かつては便所に隣接して風呂を置いてあったが、わたしの記憶にある生家はすでに隣接したところに風呂はなかった。風呂が隣接していたということは、風呂の水をトイレに排水していたということで、生のままでは濃すぎるということもあって、風呂の水で下肥を薄めていたというわけなのだろう。そんな玄関脇にあった便所は、一応大便と小便は分離してあったが、溜めそのものは同一だった。小便器は陶器のものではなく、板で組まれたものだったように記憶する。そして大便所の方も陶器ではなかったのだろうか、よく覚えていない。そんな便所に入ると、ウジが湧いていて、とても気持ちのようものではなかった。そんなことが起因するわけではないが、便所に行くことは好きではなかった。もちろん子どものころだから、小便とはいっても、そこらで立ち小便するのが普通で、わざわざ小便所へ行って済ませるということもなかった。

 そういえば家の中から便所には行けなかったから、夜縁側から小便をする、なんていうこともあったし、昼間もわざわざ柿木の根元に行って済ませていたものだ。また、少し大きくなったころ(中学生くらいだろうか)には、屋敷に隣接している田んぼに行っては小便をするため、そこだけ異様に稲の生長がよかったりする。そのため母に「お隣の田んぼに行ってしちゃあいかんに」とよく言われたものだ。

 とくに大便所にはあまり行かなかった。便所の印象が「悪かったから」といってしまえばそれまでだが、それは今だからそんな解釈をするだけかもしれない。なぜか大便所には行かなかった。やはり子どもにとっては、板の間に口を開けている便所は好きではない。常に「ここに落ちたら・・・」ということが頭に浮かぶ。もちろんきれいなものではない。そして、溜まっているウンチはもちろん、ウジが迎えてくれる。とても今ではイメージがわかないかもしれない。大人だったら違うかもしれないが、子どもにとっては「したいときにスル」程度に考えていれば、毎朝必ず用を足すなんていう考えはなかった。だから便秘になるのも必然的にことだったかもしれない。ガマンすることは得意で、一週間くらいウンチをしない、なんていうことも頻繁にあったように記憶する。子どもだからしたいと思ったら、草むらに行ってするのである。もちろんふく紙なんていうものは持っていないから、そこらにある葉っぱをむしってトレペの変わりにしたわけだ。とくにつたの葉を使った。大きくてごわごわしていなくて、加えて破れにくければいいのだ。それでもとても食生活は良好とはいえなかったから、お尻はよく汚れている。だからなんども拭かないときれいにならない。加えてやわらかいウンチなんかした時には大変なことだ。時には葉っぱが破れて素手で拭いていたりする。ちょっと想像をはるかに越えてしまうかもしれない。そんなこともよくあった。

 わたしだけのことではない、子どもたちはそんな経験はみんなあった。そう思うと、昔の草むらには、ウンチが葉っぱで覆われている、なんていう光景がよくあったものだ。気をつけないと、人のウンチを踏んでしまう。いや、踏んでしまったこともある。

 ・・・続く
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なんじゃそれ!

2006-04-19 08:11:41 | つぶやき
 長野県では「おたずねコンシェルジュ」なるものが地方事務所なるものにもいたりする。加えて最近「コンシェルジュ・デスク」なるものも地方事務所にできたという。「日本語で説明しろよ」と思うのはわたしばかりだろうか。「総合窓口」だという。いずれにしても、県庁はもちろん県の出先機関に足を運ぶ県民は少ない。親しい窓口といえば、パスポートの申請窓口、あるいは県営住宅の申し込み窓口、そんなものじゃなかろうか。パスポートにしても海外に出ない人には用がないし、県営住宅だって借家を探している人以外は用がない。いったい「おたずね・・・」なんていったって固有の用事があって行く人たちは、だいたいが行く場所をねらって行くから、そんな人がいてもいなくてもどうということはない。いったい何が県の役人には求められているかを認識していないとしか言いようがない。

 この4月から県の組織再編があった。今までにも田中知事になってからいくらかの再編はあったが、そのつどわけのわからないことになってきた。○○課なるものがなくなって○○チームに。「UR」とはそのチームの中にあるユニットのリーダーだという。なんじゃ「ユニット」ってと聞いてほしい。「係」のことである。じゃあ「課」はどうなったといえば「チーム」なのだ。基本的にどの枠においても呼び方を変えただけにすぎず、むしろ一般人には意味不明になっただけだ。名前を変えないと意図が示せない、というところが大きな問題なのだが、先にも述べたように、一般県民に、県の人たちと普通に関わることはほとんどない。ということはどういうことかといえば、名前なんぞ変えたって何もメリットがない、と明白だ。

 県庁には「チームER」なるものもあるという。「なんか格好いいじゃん」なんて若者が言ったら笑ってしまう。企画局にある少子化など「緊急の課題に部局横断で取り組む」チームだという。緊急だから「ER」だという。そもそも「横文字やめろ」とは県民の、それも一般人じゃなくて、けっこう県の組織と関わっている人たちは思っているはずだ。
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対向右折車への配慮

2006-04-18 08:09:32 | ひとから学ぶ
 いつも通る道で右折しようとしていると、常になく混雑している。いや、それほど混雑とも思えないが、直進する車がいれば青から赤に変わるときの瞬時しか右折できない。だから、とろくさい車がいればなかなか右折できない。それでなかなか前進しないのか、と思っていたら、案の定、交差点におまわりさんが四隅に立っている。おまわりさんがいるから赤になったら当然のように停止する。それがいつになくみんなまじめに止まるから、なかなか右折できないでいたわけだ。いい迷惑だ。いつもなら二度も信号機が赤になることはない。二度赤になったのは初めてだ。加えて、1回目の青で数台しか右折できず、まだ右折レーンには何台も前にいる。二度目の青になったが、「もう1回待ちか・・・」とあきらめていたら、意外にもすれすれ右折できた。どうしてもおまわりさんが立っていたりすると、人はおまわりさんが気になって、信号機ではなく、そして対向車じゃなく、立っているおまわりさんに目が行く。ふだんよりむしろ危険な状態だ。確かに赤になってもそこそこ強引に右折する車がいるから、それも危険かも知れないが、いい勝負だとわたしは思う。

 二度も赤を味わった交差点の手前で、やはり右折することがあった。そこは右折レーンがあっても、右折専用の信号(→)はない。だから青から黄になり赤へと通常の信号機だ。直進車が多いと、赤になるまで右折できない。その一瞬を狙ってみな右折するわけだ。その信号機にはおまわりさんが立っていなかったが、そんな時は直進車が無理やり赤になっても入ってきたりする。だからひどい時は、「1台も右折できず」なんていうこともある。運転している人は当然認識していると思うが、対向車線に右折する車がいれば、信号機が黄になったらすぐに止まるのが常識だ。そうしないと、前述のごとく対向車が右折できずに次の青まで待つことになってしまう。まさしくこの信号機で先頭にいたわたしは、曲がろうとしたら対向直進車が入ってきた。もちろん曲がれずに「赤」。こんな時は「馬鹿野郎」と声が出てしまう。
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信州人は関西人が嫌い?

2006-04-17 08:06:00 | ひとから学ぶ
 先日の信濃毎日新聞に興味深い記事があった。「信州人は関西人が嫌い?」というもので、「くらし」欄にある「私の声」という投稿欄に大阪から長野に移り住んだ方の声が掲載され、それに対する反響が大きかったということで、新聞でも特集を組んだわけである。その新聞記事に要約された投稿記事の内容がある。次のようなものである。

 大阪から長野に移り住んで四カ月ほどしたころ、次のようなことを言われた。
 ―あなたはどこの出身?
 イントネーションが違うね、え~関西の人とはおもわなかったね~関西弁出ないようにしているの? 関西弁は怖いからね~信州人は関西人のことはっきり言って嫌いだよ~息子が大阪の人と結婚しないかと今から心配しているよ・・・。
 長野はよそ者を受け入れたくない、閉鎖的な気持ちの人が多いのかも・・・。

 何人かのこの記事に対してのコメントが載せられている。まあ、個人的に嫌いでも、「信州人は」なんてひとまとめにしてしまうから、聞いた方もそう思ってしまう。仕方ないことではある。不運といえば不運だが、それはよそから来た人にとっても、そして地元に住んでいる人にとっても不運。

 ただ、わたしは何度も言ってきているように、伊那谷、ことに飯田下伊那地方の人々は、どちらかというと西を見ている。だから同じ県内であっても少しであるが違和感がある。昔はそれほどではなかったのかもしれないが、このごろよけいにそんな雰囲気を感じる。それはなぜかといえば、やはり中京圏の人たちがけっこう足を伸ばしてやっ来るようになったからだ。もちろん中京ばかりではなく、東京方面からもそこそこやってくるようになった。やはり高速道路が開通後の変化といえる。そして、高速道路ばかりでなく、一般道もそこそこ改良されて、けして都会は遠くはなくなった。長野県の場合は、公共交通網がくまなく行き届いていないから、本当の意味での田舎を味わうには、車で来ないとなかなか難しい。そういう面では長野県内でもいち早く高速道路が開通した伊那谷は、自家用車で都会からやってくるには、そう遠くはないのだ。そんな視点で見ると、北の方に比べるとよその者が入りやすい。もちろん著名な観光地は北にあるが、地味な見所はけっこう南にもある。そうしたよそ者の受け入れ方という面では、北より南の方が先進的なのかもしれない。そうした変化が、違和感を増幅してきたのかもしれない。独特なことをやっても多様な都会の人々には理解をもらえる。

 そんな環境をちょっと頭においておいてこの投稿を読むと、そしてわたしのように伊那谷のなかでも狭間に育った人間が読むと、こんなことが浮かぶ。

 北の方は巨人ファンが多い。かつてはとくに顕著であった。そして南の端っぽにくるとけっこう中日ファンが多い。方向性といえば、もちろん北は東京だ。しかし、南の端っぽは当然名古屋、そして京都大阪だ。もしこの投稿をした方が、南の伊那谷に移り住んでいたとしたら、もしかしたらそんな気持ちにならなかったかもしれない。確率的にいえば、雰囲気でしかいえないが、おそらくそうであったと思う。反響を呼んでコメントされた方たちは改めて信州人の欠点を見出したり、あるいは「そんな人は自分の周りにはいません」などと言うが、「大阪と東京、どちらが好きですか」と質問すれば、長野県の場合は「東京」が多いと予想できる。それはどちらが身近かということになる。投稿された方への言いようはちょっときつすぎるが、どこかにそんな感情が少しくらいはあっても不思議ではないと思うがどうだろう。それは同じ信州人といわれるものであっても、一様ではないし、同じ県内であっても南の者に対して北の人がきつい言葉を投げるなんていうことは、昔からある程度あったことだ。だから、投稿された方への送りたい。「関西人が身近じゃないから出た言葉なんですよ」と。
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スイセンの季節

2006-04-16 09:49:18 | 自然から学ぶ
 盛んにスイセンが咲いている。それもあちこちにその姿をみる。妻の実家に咲いているスイセンを見ていて思ったのは、咲いているスイセンすべての花がこちらを向いていることだ。土手の中段に咲くスイセンは、みんな南東を向く。もちろんそれは日差しのさす方向である。傾斜している土手だから土の方を向く花があるわけないといえばそのとおりだが、この花はどちらかというと協調性が高い。だから日本人好みの花なのかもしれない。

 スイセンは地中海沿岸が原産で、室町時代以前に、中国を経由して日本に入ったと考えられている。ヒガンバナ科スイセン属の多年草である。

 みんなこちらを向いていたので、よそのスイセンもそなのかと観察してみたが、必ずしも南の方ばすり向いているわけではない。北の方を向いているスイセンもあった。ただ、傾向としては同じ方向、とくに東西ラインよりは南を向いているものが多い。自宅に帰って庭のスイセンを見たが、まだつぼみであった。やはり飯田下伊那の中でも寒いところなんだと気がつく。

 そんな自宅のある地でも、いよいよ毎日のように果樹の消毒が始まった。SSが道を行き来している。しかし、この冬にも自宅の東側にあった果樹園の木が何本も切られた。風向きから東側にある果樹園で消毒をすると、消毒が飛散してきた。だから、もっとも気になる位置にあった果樹園であるが、栽培されている方たちもずいぶん高齢で「えらい」ということもあってすべてではないが、約半分を切った。わたしの家に近い側の古木を切ったということで、わたしにはありがたい話だか、果樹の木が切られて行くと寂しさも覚える。こうやって毎年毎年木は減って行く。我が家の南側にも果樹はあるが隣接地の果樹はもう切られて10年以上たつ。同様に西側も北側ももとは果樹園であったが、わたしがここに家を作ったときにはすでに切られて荒れていた。その昔はおおかた果樹園であった地も、今や荒地が目立つ。そんな荒れ果てた果樹園にタンポポが黄色い絨毯をまもなく敷く。

 そういえばスイセンといえば越前海岸のスイセンにあこがれて、ずいぶん昔に見に行ったことがある。そのとき何株もスイセンを手に入れてきて植えたが、すべて枯れてしまった。あの当時のままの越前海岸なのだろうか。
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