「情報過多の中の不幸」でハンセン病療養所に保存されていた強制人工中絶の胎児や、生後に殺害された新生児の遺体標本について触れた。同様のことが、信濃毎日新聞3月20日朝刊の記事にあって、テレビ報道とは違ってもう少し詳しい内容が書かれている。「命の尊厳への「踏み絵」」という伊波敏男氏の記事によれば、厚生労働省は各地にある国立ハンセン病療養所あてに文書を出したということがわかる。テレビ報道というのは、あっという間に流れてしまって、聞き間違いが多い。そんなことを思うとテレビ報道というのはBGMのように聞いていると、いいかげんなことしか頭に残っていないということもままありうるということがわかる。それはともかくとして、「胎児標本」を本年度中に償却、埋葬するといい、身元が明らかな胎児については、遺族が希望すれば存在を確認する期間を償却前一ヶ月程度設けるものだという。テレビ報道を見たときも思ったが、新聞記事を読んで、さらなる厚生労働省の非人道的対応(もともと人と認識していなかったのではないか)に怒りを覚える。ここの大きな問題は、身元が明らかな胎児があるのなら、なぜ直接遺族に対して文書ではなく、口頭で伝えないのか、ということである。元来、どうあれ身元が明らかなのに長期にわたり胎児標本として保存されたということにも驚く。
この国の役人も含めて、多くの公務員も同じなのが、「自分がやったことではないんだから、自分には責任がない」という意識だ。いや、公務員という言い方は失礼かもしれない。公務員に限らずだれでもそういう意識はある。しかし、これほど悪いことをやっても悪いという意識をもてない人が増えた背景には、役人の振る舞いがあるといっても間違いではない。もちろん政治家も、そして代議員制度で当選してきた多くの議員も含めてすべてである。
114体の胎児標本のうち、57体は1924-56年のもので、詳細はわからないが、記事から読み取るとこれらについては身元を現すなんらかの表示があるのだろう。また、29体は妊娠8ヶ月以降のものといわれる。まもなく生まれるという間際に殺された胎児が標本として残っていることは本当に驚きである。
この国の役人も含めて、多くの公務員も同じなのが、「自分がやったことではないんだから、自分には責任がない」という意識だ。いや、公務員という言い方は失礼かもしれない。公務員に限らずだれでもそういう意識はある。しかし、これほど悪いことをやっても悪いという意識をもてない人が増えた背景には、役人の振る舞いがあるといっても間違いではない。もちろん政治家も、そして代議員制度で当選してきた多くの議員も含めてすべてである。
114体の胎児標本のうち、57体は1924-56年のもので、詳細はわからないが、記事から読み取るとこれらについては身元を現すなんらかの表示があるのだろう。また、29体は妊娠8ヶ月以降のものといわれる。まもなく生まれるという間際に殺された胎児が標本として残っていることは本当に驚きである。
ほとんど同感だと思っておりますが、
ここで、問題提起をさせて頂きたく思います。
①自分がその療養所において、標本を作らなければならない責任者であったら、どのような対応されるでしょうか?
②今回の文書回答をする担当者である行政官であったら、どういう対応をされるでしょうか?
如何でしょうか?お考え頂ければ幸甚です。
嵐風人
基本的に若いころだったら、何もわからず職務として標本を作ったかもしれないし、今思うと若いころの方が社会に対して矛盾をぶつけていたので、そんなことを拒否したかもしれない。おそらく後者だと思います。情報があっての今だったら、後者であるでしょう。ここで問題なのは、若いころ後者を選択するようなことが実際あったとしたら、わたしは人間としてこの世に光を感じなかったと思います。ということは、もし、そんな気持ちがあって、かつて当事者が標本を作っていたとしたら、とてつもなく悩み苦しんだことと思います。国家公務員なんでしょうから、守秘義務としてまっとうしなくてはならないとしたら、こんなやるせないことはないでしょう。そんな現実を誰が作り出したんでしょう。
②ちょっと質問の意味を理解できていないかもしれませんが、書きます。
①でも触れたように、情報があってもこうした対応しろと上から言われたとしても、明らかにおかしいと判断するでしょう。「担当者の行政官」の職務権限がわたしにはわからないので、なんともいえないのですが、いずれにしても①と同じ葛藤が担当官にはあったと信じたいですね。
問題提起をさせて頂きながら、遅くなり申し訳ありません。
よくお考えの[Cosmos Factory]さんだからこそ、こういう失礼なことさせて頂きました。
[Cosmos Factory]さんには、 ご理解頂けるかと思いますが、「かわいそうだ」「許されない」と誰しも思い、口にし、ブログされている方(私も含めて)は、記事にしたりします。
これだけで終わらせてもいけないと言いますか、もう少し、幅広く物事を考えたいなと思うものです。それは視野を広げることでもありますし、ただ批判・反論にだけ終わらせないものだと思うからです。
当時のその立場そして責任ある立場であれば、どうしたかです。ほとんどの人は、マインドコントロールされています。万が一、私が洗脳されていないとしたら、とても苦しんだと思います。
あの戦時下で、「捕虜を殺害せよ」と上官に銃口の引き金を自分のこめかみに向けられ、命令されるとどうするか?ほとんどの人は、捕虜を殺害するものです。これが悲しいかな人間です。
中には、精神的に強い人もいるでしょう。引き金を引くことを躊躇していると、上官は今度は、自分の部下に銃口を向けました。子どもが近くにいるとすれば、上官は、そちらにも銃口を向けるでしょう。
そうなれば、私は引き金を引きます。
本題の責任者であれば、命令を拒否すれば一族郎党そして、部下まで処分対象と考えることは容易に出来る環境であったのかも知れません。
(続きです)
そういう部分まで、思いを馳せるべきではなかろうかと言うことです。
思い浮かべるだけで、その担当者・責任者の行為は、身の毛がよだつものではりますが、それらの人々に罪はないのかも知れません。
私は、社会運動の活動家・労働組合の役員・企業経営者としての立場にありました。言わば、右も左も経験があると言えるでしょう。私は色々なものを犠牲にしてきたつもりですが、右であろうが左であろうが、「人間は未熟だ」「人間は弱い」ことを経験から得た教訓です。裏切られたことは枚挙に遑がありません。
そこで私は、人間にはそれぞれの限界があるということを理解の上で進めるべきだとの結論に達しています。
現在の政治状況から、政治家を一絡げにして、「ろくでもない奴ばかり」との批判は、耳に心地よくありません。
それなら、「あなたが立ち上がりなさい」と言うことです。
己の信念を貫き通すためには、権限=権力が必要なのです。批判されている派閥でも、信念を実現するための手段なのかも知れません。
であるならば、この本題である現代の日本人が「人間として許されない行為」と考えることを許されないのであれば、大きなことを目指す必要はありません。選挙で一票を考える。友人・知人との会話に取り上げる。ビラ配りに足を止める。街頭カンパに協力する。ブログなどで、周知させる等、我々庶民はその程度でも構わないと思います。
何事も対極的立場にたって、物事を判断しないと誰それが悪いだけの瑣末な議論となるでしょう。
偉そうなこと言いまして、申し訳ありません。
歴史上、命をかけて闘い、実際に命を落とした人。現在もまた家族の命まで犠牲にして、闘ってこられている方もおられます。私など、大きなことを書きましたが、この方々の足元にも及びません。「偉そう」と思われる文体でないと書けませんので、そういう手法をとりました。
この記事、私のブログに転載させて下さいね。(転載出来るのかどうか、わかりませんが、その際はご紹介させて下さい)
長々と失礼いたしました。批判・反論お待ち申して降ります。
嵐風人