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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

叙勲から考える

2005-11-27 00:24:20 | ひとから学ぶ
 ひとをけなすことはできても誉めることはなかなかできない。日本人の精神的な部分なのだろう、「はずかしさ」というものが特別今も「らしさ」だとしたら、致し方ないことなのかもしれない。11月24日付信濃毎日新聞特集記事に「叙勲制度の意義は」というものがあった。春と秋におこなわれる叙勲は、2003年に制度見直しがされ、等級付けや官民格差是正が行なわれた。にもかかわらず、制度の意義に対しては異論も多い。長年の苦労を称える、いわゆる誉めることを国が行なうということに意味はあるのだろうが、視点を変えれば、国家意識を強くもたらせるための意図的な制度利用も可能だ。他国ではそうした意図で叙勲されているケースもあるというし、日本の叙勲ももともとはそこに発しているのだろう。
 叙勲の季節になると常に思うのだが、公務員経験者が多いというのは思う。継続するということが大事とされていたかつての流れなら、公務員はおおかたの人が定年まで普通に過ごす。それでいて通常に勤務すれば、そこそこ肩書きもつく。そうした普通の暮らしをしていた人でも誉められるということは、たいへん良いことなのかもしれないが、だとすれば公務員でない人たちはどうなのかということになる。そんな論議もあって官民格差是正されたのだろうが、結局いまだに公務員は多い。今の世の中のように一定の職業に限定せず、職を変えている時代に、継続という意味がどれだけあるのか、という意見もあるだろうし、そのいっぽうで、だからこそ継続を誉めてほしいという気持ちもわたしにはある。しかし、いずれにしても、継続と言う観点でいけば女性の対象者は減るだろうし、もっとも問題とされる民間人の対象者の基準とは何かということにいきつく。
 叙勲に対応するための事務量が大変なものだろうし、お金もかかる。意義はあっても誰でも受けられるものではないし、いっそもっとわかりやすい活躍している人を対象に、という意見もある。地道な活動への誉め言葉なんだから、活躍している、あるいは目立っている人という観点は芳しくないとわたしは思うが、そんな論議があるのならば、やはりいっそ叙勲などない方が平等だとわたしは思う。あるいは公的な部分で危険な仕事をされている人たちを「危険業務従事者叙勲」として新設されたというが、叙勲制度を維持するがためにそんな制度を新設する意味があるのかとも思う。そうした仕事で苦労されている人たちもひっくるめて叙勲を正当化してしまうことには納得できない。ご破算にして必要な国の褒章制度を検討するという方法もあるのではないか。
 話は戻るが、冒頭で人を誉めることが苦手である国民であるといった。だいぶ変化はしてきたのだろうが、わたしもどちらかというと苦手であり、そりゃ批判する方が得意である。しかし、こんなことが会社であった。先行きがなくなって、人員整理という段階で、若い社員の数人は、はなっから対象とされても仕方ない、あるいはもちろん対象にされる人間だとまわりの誰もが納得しているような状況があった。それは、入社してからそこまでの経緯のなかで、どう同僚が、あるいは上司が指導してきたかということにあるはずなのに、自らの指導力不足はたなにあげている。わたしは自分もその仲間なのか、どちらかというと、そんなダメ社員とは割合仲がよかった(自分が思っているだけで相手が思っていたかは別だが)。確かに仕事上で不足している能力が彼らにあったが、それを納得したうえで、彼らに何をやってもらうか、あるいは彼らの何を引き出すかという部分を見極めるのは、同僚であり、上司である。すべてがダメな人間なんていないし、また、そうでない人間が完璧だなんていうことはない。そうした視点を持ち合わすことができないことは、誉めることができないという国民性とは似ているようで別のものと思う。息子に対しての自分の対応も、妻には「あんたは言い過ぎ」とよくいわれる。やはり誉めることがなかなかできないからだ。会社でダメといわれていた彼らに、直接「お前すごいじゃないか」とはなかなかいえなかったが、良いところがあるんだということは何度か言ったことがある。しかし、まわりの目があまりにも厳しくて、結局彼らはことごとく会社を去った。わたしの仲間はいなくなり、次は自分か、と思うこのごろである。
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