数年前、動植物の生態状況の調査をした際に家で話していて知ったことであるが、「花などに止まったチョウの写真を美しく撮影してある写真がその筋の専門の本に載っているが、なんであんなに美しく撮れるのか」ということを妻と話したことがあった。なぜそういう話になったかというと、調査の際に専門家の家を訪れたとき、その方が撮り方にはテクニックがある、ということを言ったため、そのことが気になって家で話したわけである。それまでわたしは、写真の撮り方がうまいのだろう、ぐらいにしか認識していなかったが、妻が言うには「あれは見えない針で刺してあって、じつはもう死んでいるんだ」というのである。それで専門家の言ったテクニックというものが納得できたわけであるが、チョウのように人の目を引くような分野は、専門家といってもマニアと紙一重という世界のようである。伊那谷自然友の会という会が飯田市を拠点にして全国に広がっているが、そこで活動されているある先生には、こういう話がうわさされているという。「あの先生が赴任した学校のまわりは、しばらくするとチョウがいなくなる」。えっ、というような話であるが、真偽はわからない。
ツマグロヒョウモンのメスは、オスと違って、ちょっと派手さはないが、オスの数に比較すると、メスの数が多い。一夫多妻だろうか。
訂正 コメントにあるように、写真はミドリヒョウモンだと思いますので間違いないように。とすると、一夫多妻はないだろう。
ツマグロヒョウモンのメスは、オスと違って、ちょっと派手さはないが、オスの数に比較すると、メスの数が多い。一夫多妻だろうか。
訂正 コメントにあるように、写真はミドリヒョウモンだと思いますので間違いないように。とすると、一夫多妻はないだろう。
私は昔から昆虫が好きなので、ちょっとだけ助言をさせていただきます。
>マーキングすることにより目立ってしまい、外敵にさらされるということもあり
マーキングによって外敵にさらされることは、まずありませんです。
>アサギマダラは、春から初夏にかけて北上し、または高地へ移動し、そこで繁殖した次世代、または第三世代が秋に南下するという
アサギマダラの食草のキジョラン、カモメズルなどは高地にはありません。だからアサギマダラの場合、南で成虫になった者が、赤トンボが夏だけ高地に移動するように、夏の暑さを避けて北上するのだと思われます。
したがって世代交代は、ありません。
>「あれは見えない針で刺してあって、じつはもう死んでいるんだ」
今までネットで見た生態写真に、そのような針で刺された写真は標本写真以外にありませんでしたよ。
>「あの先生が赴任した学校のまわりは、しばらくするとチョウがいなくなる」
これは、多分その先生が採集してしまうということですか?一人の人間が昆虫を採りつくすことは、まず、ありません。
人が昆虫採集をして本当の生態を理解したとき、本当の生き物の大切さが判るのです。
南信の飯田周辺にはギフチョウという蝶が天然記念物として採集禁止になっていますが、昔に比べ大変少なくなってしまいました。理由は食草のカンアオイが杉の植林によって減ってしまったからです。保護する側と地主など環境を持っている側の接点がない為に、このようなことが起こり、昆虫採集する人たちだけが悪者になってしまっています。
現実は、真実とは違うのです。用は環境が一番大切だということです。
>ツマグロヒョウモンのメスは、オスと違って、ちょっと派手さはないが、
僕は、メスのほうが羽先が黒くて綺麗にみえますが・・・。
>オスの数に比較すると、メスの数が多い。一夫多妻だろうか。
おもしろい!飼育するとだいたい半々です。
以上、気づいたことを書いてみました。自然という分野には、真実があると思います。
そうそう、9月18日の写真はツマグロヒョウモンのメスですが、9月19日の写真は、ミドリヒョウモンだと思いますが・・・。。
メスの話ですが、わたしもそう思ったのですが、妻はメスだといっているのですが。
私、いつも思うのですが、自然科学とか自然に関する学問などは、必ずこのような形で進展するんですよ。本当なのか間違いなのか、あとはフィールドの中で確認作業によってでしか、本当のことは判りません。
もしかしたら私の言い分も間違いかもわからない。その疑問符を確認していくことが自然という物への理解ということにつながるんです!でも一般的には誰もそんな本当のことは必要ないようですね。
政治や社会もなにか同じ様なところがあり、必ず、現実は頭で考えた理想の場所には行き着かないんですよね。
養老猛司の「いちばん大事なこと」を読むとその辺がよくわかります。
ところで、この「コスモスファクトリー」は、読みがいあって、いいですねぇ!
なかなか、すごいっす!
さすがに自然分野という感じがします。「自然」とか「環境」というと人が集まる時代。とくに若い年代の人たちが受け入れやすい分野で、歴史とかわたしのかかわっている民俗という分野では、次世代の若者がなかなか集まらず、さらに一般のレベルとなるとますます感心をもってもらえない。そこへ行くと、自然分野は、けっこう人が集まるし、一般人も入りやすい、そんな分野です。今回のようなテーマで見出しを出すと、やはり閲覧される方が多いという感じがします。それはやはり、興味を持つ人が多いということなのでしょう。
伊那谷自然友の会の会長さんと何度が話をした際に、それでもかつての同会の活動くらべると、人の集まりが少なくなってきて悩んでいる、というような話を聞きました。その際、わたしたちの会でももっとひどい状態ですが、いずれにしても、若い世代に会の運営をどんどん引き継いでいくことが大事ではないか、ということをいいました。いつまでも同じ看板ではなく、また同じ人がいずれやることがあっても、定期的に役員を替えていくことが必要ではないかと。
さて、当初のコメントに
>保護する側と地主など環境を持っている側の接点がない為に、このようなことが起こり、昆虫採集する人たちだけが悪者になってしまっています。
というものがありました。「環境を持っている地主」という言葉にはひっかかりますが、確かに多くの地権者が、そんなわずらわしいことよりも、短絡的な生産を優先することは確かですし、そういう立場から、保護する側にはなかなか理解されないような発言もあるかもしれません。ただし、そうした葛藤じたいが、どういう意味をもっているかというところが、両者の中で深く理解されていない面があると思います。そんななかで、わたしの立場からはいろいろいえませんが(わたしは地権者ではなく、地権者のところへ手伝いに行っているていどだから)、それでもそうした保護する側との接点をたくさん持っています。その接点に触れれば触れるほど、まだ疑問符がたくさん生まれてきます。昆虫採集をするひとたちだけが悪者になっているわけではなく、悪者としてとらえられてしまうような保護の側の人もけっして皆無ではありません。そういう面も、これから、どこかで触れていきたいと思っています。
そうなんです。興味を持たれない事に対してみんな無知なのですよ。そういうことから考えれば、今の日本人は得にならないことには興味を示さない。要するに損得勘定が一番大事なことのようですね。自然分野でもうわべだけ、「自然にやさしい」なんて標語をつければ何か得をするんでしょうか。
>若い世代に会の運営をどんどん引き継いでいくことが大事ではないか
難しいと思います。若者はメジャーな事にはすぐに飛びつきますが、マイナーな事には目もくれませんから・・・。
>両者の中で深く理解されていない面があると思います
その通りです。いや、理解し合うことは得なことじゃないみたいなのです。たとえば、オオタカが自分の土地に住んでいると開発できなくなるとか。前に話した昆虫でも同じ。天然記念物に指定しても、生態の部分まで言ったら地権者に制限をかけてしまう。だったら天然記念物なんかにしなきゃいいのにね。建前だけのことばかり。まぁ、その辺が、物事の落としどころなんでしょうね。そして悪者は第三者に向けてしまうという・・・。
あははは、誰かの政治手法とよく似ている。