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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑯

2007-01-24 12:22:05 | 歴史から学ぶ
 山梨県の八ヶ岳山麓にできた北杜市は、平成16年11月1日に北巨摩郡にあった7町村が合併して誕生した。その後平成18年3月15日に、唯一郡に残っていた小淵沢町が同じ市に合併して北巨摩郡は消えたのである。須玉町・高根町・長坂町白州町小淵沢町と、五つもの同じような規模の町が合併しており、どこが中心と問われてもなかなか答えようがないほど地域は分散しているように感じる地域だ。市庁舎は旧須玉町の中央自動車道須玉インターのすぐ隣に置かれた。そこからちょっと南東に向かうと、もう韮崎市である。よくこんなに端っぽに市庁舎を設置したものだと感心する。この須玉町から昭和55年に送っていただいたパンフレットが、冒頭のものである。B6版に折り込まれたもので、8ページだてである。「増富ラジウム温泉郷」は、武田信玄が金鉱を発掘した際に発見したものといわれる。パンフレットそのものは、見ての通りずいぶん古い時代の雰囲気を醸し出している。小さな封筒で送ってくれたのだが、三つ折りにした際の折り目が、大変斜めについているのがなんとも、趣がある。封入された町の担当の方の性格がよく現れているような折り目である。表紙にもある瑞籬山や金峰山の向こう側は、長野県の川上村になる。また、裏表紙にある交通案内図によると、中央自動車道は大月インターより諏訪にかけての山梨県内のほとんどの区間が、まだ工事中の表示である。

 須玉町(すたまちょう)は、面積で174km2ほどで、人口は合併前に7000人余を数えた。この町には上津金というところに臨済宗妙心寺派の海岸寺という寺がある。境内に並ぶ百体観音は、高遠の石工守屋貞治の手によるものである。江戸時代の名工として知られている石工で、これらは町(後の市)の文化財に指定されている。いずれは貴重な文化財として、県や国の文化財としてさらなる保存がされてゆくこと間違いない作品である。近年は訪れていないが、この寺の雰囲気が好きで、今までに何度も足を運んだ。訪れる人影がほとんどなく、落ち着いて守屋貞治の空間に身を置くことができた。寺から山道を登り峠を越えると清里へ至る。

 ところで合併後の市名「北杜」は、「杜」が植物の「ヤマナシ」を意味しており、「山梨県の北部」という意味をこめたものであるという。合併によって生み出された地名ではなく、旧長坂町にあった県立峡北高校・県立峡北農業高校と、旧須玉町にあった県立須玉商業高校が、2001年に統合された際に「県立北杜高校」という名前で生まれ変わった。どうもそのころからこの地域を指す言葉として「北杜」が始まったようだ。長野県飯田市にある飯田風越高校が「ふうえつ」と呼ぶようになってから、それまで呼ばれていた「かざこしやま」が衰退して「ふうえつざん」に変化していった例に少し似ている。地理的・歴史的・文化的な由来がないことから、「北杜」という呼称については、賛否両論があるという。本来市名を決めるにあたり、もっとも多かったのは八ヶ岳を冠したものだったという。清里高原や八ヶ岳の麓という立地からも、なぜ「北杜」でなければならなかったのか、どこか意図的なものがあったのだろうか。はからずも山梨県には抽象的な名称の市がいくつも平成の合併で誕生した。県民性なんだろうか。

 海岸寺については、ホームページ「モノクロの彩り」でも紹介している。写真は百体観音のうちの十一面観音である。



 消えた村をもう一度⑮

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