Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

描かれた図から見えるもの⑤

2015-03-29 23:45:26 | ひとから学ぶ

描かれた図から見えるもの④より

 豊丘村、大鹿村、そして喬木村と現在の観光パンフレットに見る案内図の構図をみてきた。天竜川の左岸側にある自治体を扱ったわけであるが、かつてあった天竜川左岸にあった自治体はどうだったのか、そんな視点をもう少し延長してみよう。とくに大鹿村同様に、伊那山地を越えた中央構造線谷にあった村はどうだったのか。かつて「消えた村をもう一度③」で触れた下伊那郡上村のパンフレットは、やはり昭和54年ころのもの。このパンフレットの背面にあるイラストの案内図が下図である。方位は示されていないが、上に南アルプスを配し、下に上村川、ようは中央構造線谷を配しているもので、これまで紹介してきた大鹿村や豊丘村同様に、左側に北を配置した構図である。川が右下に向かって傾いているところから、真左が真北という捉え方といってよい。大鹿村のパンフレットに構図はよく似ている。そのいっぽう上村の南側にあった旧南信濃村の場合は、古いものも上をほぼ北に向けた一般的な構図となっている。同じ中央構造線の谷にありながら、基本的な構図の違いはどこから生まれたものなのか、興味深い点である。郡の中心である飯田から見ると、上村は南東に位置し、谷の南北の傾き分を回転すると、飯田から見ればほぼ東に位置する。ようは前山である伊那山地を取り除くと、飯田から望むと図のような構図になる。大鹿村が本谷である伊那谷から見れば中央構造線の谷を横にし、その向こうに南アルプスがあるという配置とまさに同じなのである。谷ひとつ奥まった地にある村を望む時、この構図がごく普通なのである。それをおそらく暮らしている人たちも感じ取っているはず。大鹿村と上村が同じような案内図になるということは、両村の人々にとっては常に陽の昇る南アルプスを正面に望んでいると捉えているのではないだろうか。いっぽう南信濃村から望む南アルプスは、大鹿村や上村で望むようなインパクトのある峰々は望めない。むしろ南アルプスらしい山々は、中央構造線の谷と同じ北東方面に望む。ふだんの暮らしの中に望む山々が、方向性を意識させるとしたら、山々を上に配置し、下に川を置く構図になりにくいというわけである。

 

 同じように中央構造線の谷には上伊那郡に長谷村と高遠町があった。高遠町も伊那市から望むとこれまでの大鹿村や上村と同様に、南アルプスを正面に見た構図がごく自然に浮かぶのだが、高遠町のパンフレットにある図は、上ほ北にしているものはがりである。これは中心にある高遠の街と城址公園を横並びに配置すると、自ずと上が北になるというそもそもの空間のあり方に由来する。これも若干回転していて、やはり昭和54年ころの「信州の城下町高遠史蹟めぐり」という三色刷りの案内図は、北がやや右上に傾く。町にある多くの寺院が東西に並ぶところからも、自ずとそれらを横に配置した構図が解りやすいということになるのだろう。高遠の街の部分だけで見れば、下に三峰川、そこに流れ込む藤沢川を上から流れるように配置すれば、これまでの大鹿村や豊丘村と基線に対する意図は同じなのである。

 ちなみに古いパンフレットには案内図のないものもあるし、方位をあまり意識していないような図を示す例が多い。ようは時代を経るほどに、一般的な上を北にする配置が多くなったといっても良い。天竜川の左岸という立地でひとつ変わったパンフレットが手元にある。「伊那とみがた」というもので、伊那市富県グリーンツーリズム推進委員会が制作した観光というよりは地元の人たちのために配布されたパンフレットがある。平成16年に印刷されたもので、ここに印刷された富県の案内図は、北を左に向け、正面に三界山という山を象徴的に置いている。高烏谷山の北に伸びる尾根の向こう側に新山川の谷、手前側に桜井から貝沼、福地といった集落を横に展開しているもので、富県という地域を自ら描くとこういう構図なのだろうと、あらためて自己認識するものである。よその人々を案内するパンフレットより一層、地域の人々の空間意識を表した事例といえる。

続く


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