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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

子獅子誕生の背景 後編

2024-10-14 23:15:40 | 民俗学

「子獅子誕生の背景 前編」より

 

 大正11年に発行された『中澤村誌』の「曽倉館趾」に次のようなことが記されている。

天文十九年仁科信友(又の名穴山梅園)其子佐衛門佐(又の名穴山梅雪)と共に高見に居住し、同時に曽倉に別館を設けて梅園常住せりといふ。永禄五年穴山氏の封を駿河に移すや妻子を北原氏に託して去る或時梅雪の女神楽獅子に驚き即死せしかば之を居館の傍に葬り今に其塚あり幾許も無くして夫人は駿河に移りて廃館となる爾来北原氏は館跡に居住す同家にては今に至るまで家法として神楽獅子の門内に入るを許さず又城主の遺物ありしが明和五年火災に罹り古文書一切と共に焼失して傳はるものなし、灰燼中より発見せし無銘の短刀二口あり前記梅雪の女の短刀なりと今に傳ふ。

 曽倉館は現在の本曽倉にあった。ということで、地元では御坂山神社の獅子舞はこの当時からあったと伝えられるが、事実としても現在の獅子舞がそのまま当時のものとは言い難いが、古い時代から舞われているということは言えそうだ。こんな話を御坂山神社の獅子頭を製作した北原氏(前述の穴山梅雪の話に登場する北原氏とは異なる)が前編でも触れた『伊那路』(北原親房「神楽面のはなし」平成2年4月号)に記している。光前寺に伝わる青獅子について旧本曽倉村原での言い伝えとして「もとはといえばここの寺(廃寺京宗寺)にあったもので、それがあるとき光前寺にいったままもどっこなかった」というのだ。真偽はともかくとして、青獅子に関する謎めいたものを抱く。北原氏は獅子頭を造ってほしいと言われ、引き受けるにあたりあちこち頭を見て、御坂山神社の古い頭をよく調べたよう。そして向きを違えた三つの部材を漆で接いだ寄木材によって製作されていたことに気づいた。木材の欠点である割れに対する配慮によるものと北原氏は言う。

 試作品1号を造るにあたり、木材を乾燥するのに電熱炬燵を使ったといい、「多少の満足と反省」の1号が完成したという。材料の制限もあって、2号、3号は8割ほどの小さな頭を造った。そして本番の頭造りとなったよう。本番の4号完成は昭和59年の3月半ばだった。そして新聞披露になったというから前編でも触れた中日新聞に記事が掲載されたと思われる。早春に塗師に依頼するため、富山県井波へ一泊の旅行をすることになった。参加者は20数名だったという。その一泊は山中温泉で、その席で「縮小の試作品をしあげ子獅子として小中学生を神楽に加える計画など話題のはずむ愉快な席となった」と北原氏は記している。ようはここで子獅子計画が話し合われたというわけである。「小型の面は二年後さらに三つ加え計五つのうち、赤三、青緑二と色をちがえこれを女獅子の五つ仔誕生に看たてた」という。現在の獅子舞の背景には、①光前寺の青獅子、②穴山梅雪の娘が死んだという話、③御坂山神社の獅子は雌だという言い伝え、などから創作された世界が描かれていると言えるのかもしれない。いずれにしても、子どもたちにも獅子舞に親しんでもらうための仕組みが、頭の新調を契機に完成されたわけである。

 

子獅子は「青獅子」である

 

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荒井神社獅子舞

2024-10-13 20:38:49 | 民俗学

拝殿前での「舞出し」(令和6年10月13日 午前10時)

 

「舞出し」後に宮司からお祓いを受ける

 

出発前に鳥居前において、これから記念撮影

 

上荒井の家々へ

 

屋台の内部

 

戸毎舞「おかざき」

 

 伝播が正確に捉えられている獅子舞の例は少ない。今日明日と宵祭り、本祭りが行われる伊那市荒井神社の祭典に奉納される獅子舞を訪れた。この獅子舞にいては『伊那市のまつり』第1集(平成12年 伊那市教育委員会)に詳しく記述されている。現在の荒井区には伊那市駅があったり、現在も長野県の合同庁舎があったり、またかつては市役所もあったりと、この地域の中心地にあたる。このように中心地になったことで、明治から大正にかけて統一の神社を設けたいという機運が高まった。大正8年から造成が始まり、拝殿が完成したのは昭和5年だったという。当時の青年会が造成や植栽工事に関わったことにより、青年会では昭和8年の祭典に奉納する芸能を検討したという。「全員が参加できる大型獅子舞」をという考えから、飯田市松尾1丁目の獅子舞を伝授したいと申し出たという。快く引き受けてくれたようで、松尾町より師匠5人が訪れ1か月宿泊して特訓を受けたという。そして同年10月1日、2日の例祭奉納にこぎつけたということで、獅子舞発生の謂れがはっきりしている。

 松尾町1丁目の獅子舞は6年に一度のお練りにしか舞われない獅子舞だった。現在の東野の獅子のように。飯田下伊那における屋台獅子の最も古風なものだったといわれるが、既に途絶えて久しい。したがってその獅子舞が伝わっている正統な伝承地とも言えるのだろう荒井神社は。この松尾町1丁目の獅子は「松一獅子」と言われ知られていた。前掲書とは少し記述が異なるが、屋台獅子が盛んな飯田下伊那の獅子舞について企画展が平成22年に飯田市美術博物館で開催され、その図録(飯田市美術博物館『獅子舞』平成22年)に桜井弘人氏によって解説がされている。それによると松尾町1丁目の獅子舞が途絶えたのは昭和31年だったという。飯田の大火による頭の消失も影響したのだろう。演目として「道中」「舞出し」「うた」「鈴が舞」「おかざき」「ねらい」「おひょうひょろ」の7種だったという。大火後あらためて獅子頭を新調したようだが、焼けた屋台の代わりに「舵の付いたリヤカーに似た一つの前輪と、木枠の両側に固定された二つの後輪が付いていた」という(図録85頁)。実は荒井の屋台は鉄枠でできており、「いつこれにしたのですか」と聞くと「最初から」と答えられた。昭和8年当時のものにしては少し新しいようにも見え、これについては再確認したいが、おそらく伝授した荒井神社の獅子を、伝えた側の松尾町1丁目は大火後見ていたのではないだろうか。まさに現在の荒井神社の獅子屋台は、前輪一つと後輪二つで、前輪に舵が付いている。宵祭りでは上荒井の家々を回り、本祭りには町の中を回るという。段丘があるから、木枠の屋台では重くて無理があっただろう。そう考えると、当初から現在のような屋台を考案していたのかもしれない。

 さて、現在の荒井神社の獅子舞では獅子は1頭のみである。ここでは各戸を回ることから回り切れないといって昭和26年に雌獅子を新調して増やした。それから2頭で回っていたようだが、もうずいぶん前から保存会の人手が減って1頭のみの奉納になっているよう。今日回っていた頭は雌獅子ということで、昭和26年に新調されたもの。昭和20年代にはこうして盛んになった獅子舞も、昭和30年代に青年会員が減少して獅子舞そのものも中断した時期があったという。もともと松尾町1丁目からは「道中」から「おかざき」までの5曲を教わったようだが、現在は神社での舞初めに「舞出し」が舞われ、あとは各戸を回る際は「おかざき」が舞われる。家によっては「舞出し」を加えるというが、いわゆる大神楽の舞である「鈴が舞」は、復活しようとしているが、今は舞えないという。したがって祭礼では「舞出し」と「おかざき」の2曲のみが舞われるようだ。あと「うた」についてはお祝いの席で舞うことがあるという。この地域では珍しい屋台獅子が、2日間にわたり地域を舞うわけで、その数は200戸ほどという。ちなみに区内の戸数は1500戸ほどという。

 

 この日は午前8時30分から子どもたちによる相撲大会が境内で、また12時からはガラポン抽選会が行われていて、ずいぶん賑やかだった。さすがに戸数が多いだけに、「昔の農村のお祭りは、こんな光景だったのだろう」と、そんなことを思った。

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長野県内の道祖神数と自然石道祖神祭祀数

2024-10-12 23:21:58 | 民俗学

 ずっと自然石道祖神について最近触れているが、視点は「石」と「五輪塔」である。五輪塔については神奈川県の事例についても先般触れたが、意外に五輪塔を道祖神として借用している例はあるようだ。若いころに一度訪れているが、道祖神が意外と盛んな地域に伯耆がある。明治維新の直前の伯耆の領域は、現在の鳥取県米子市、倉吉市、境港市、東伯郡、西伯郡、日野郡だったという。簡単に言うと鳥取県中西部であり、東部は因幡である。鳥取県全体で捉えると、石造祭祀箇所608箇所、数は祭祀数は789に及ぶ(森納著『塞神考』平成2年)。そのうち双体像は331、単体像は20、文字碑は意外に少なく22、そして自然石が94ある。そのほか木祠が43、神木が93などとなっている。双体像は米子市や西伯郡に多い(「淀江町亀甲神社のサイノカミ」「伯耆のサイノカミから」参照)。前掲書において自然石の道祖神について触れており、その中で五輪塔が岩美郡5、鳥取市2、気高郡1とされており、「頭部にあたる空風を一石にする形式がある。即ち宝珠と請花の突起部を押し込むのである。それは陰陽を象形化した性交を想起させるものであり、岩美地方ではこのような宝珠、請花部分をサイノカミの依代として祈願する所もあった」と記している。「そして古老はこの五輪塔の頭部は男根を示唆するものとして、受胎を願う婦人が布に包んで寝ると子供をはらむという伝承があった事を教えてくれた。これに類する話は相州ゴロ石と称して神奈川県の平塚地方にもある」(183頁)と言う(「五輪塔残欠と道祖神参照)。ここでも神奈川の例について触れている。

 事例は少ないものの、五輪塔の存在に注目したいわけであるが、前掲書では岩見町牧谷と浦富定善寺横の祭祀物の写真をあげており、無数の五輪塔が集められている(5頁)。同様の光景を長野県東信地域や北信の西山で見てきてこのような類似例があることを知った。

 

なお、市町村区分は、昭和59年以前のもの

 

 さて、これまでにも長野県民俗の会がまとめた『長野県道祖神碑一覧』から何度となく県内の道祖神について触れてきたが、その際に触れた通り、東信地域の道祖神数は正確性に劣ると触れた。今回岡村知彦氏が長年かけてまとめられた『東信濃の道祖神』から東信地域のデータを補足して県内の道祖神数を修正したところ上記のグラフのようになった。大きな相違点は上田市の道祖神数である。『長野県道祖神碑一覧』に一覧化した上田市の道祖神は13基しかなかった。それが今回のグラフに示した数は526に上る。いかに正確性に欠けるか分かるだろう。東信地域については同様に大きな差異が発生している地域があり、佐久市で差異143、小諸市96、東部町95、青木村68などが大きい。上田市の差異513は飛びぬけている。その上田市も自然石道祖神が多い。ただ、これらの地域で五輪塔を道祖神として取り上げている例は極めて少ないが、実際は道祖神とともに五輪塔残欠が並んでいる箇所は、数字以上に多いというのが、実際に訪れてわかったことである。

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子獅子誕生の背景 前編

2024-10-11 23:57:29 | 民俗学

 先ごろ駒ヶ根市中沢の本曽倉(ほんそぐら)御坂山神社の獅子舞について触れた。その翌週、対岸の香花(こうか)社の祭典はどうかと思ったが、コロナ禍を幸いに獅子舞はやっていないという話を聞いた。地元の方に聞いていてあえて神社関係者に再確認をしなかったが、コロナ禍を契機に民俗芸能が中止されている例は多いのかもしれない。御坂山神社でもコロナ禍後に以前同様な形で獅子舞を披露したのは、今年が初めてだったという。その御坂山神社の獅子舞において「子獅子」が登場することについて触れたが、なぜ子獅子を加えることになったのか疑問になって、当日も話をうかがった仕事でもお世話になった方のお宅を会社からの帰りに寄ってみることにした。午後8時近かったこともあり、躊躇したが、確認だけしたいと思いあえて寄ってみた。すると聞きたかったことについて記された資料があるはずだと、「探すから上がって」とう促された。時間が遅いこともあって遠慮したが、奥様も「どうぞ、どうぞ」と誘っていただいたので上がることに。それから1時間余ほど、資料を探しながら話をうかがった。地元のことについて資料を丁寧にまとめてあって、不要になった布で表紙を作成されて、箱状にして紐で縛って整理されているのには驚いた。スクラップも綺麗に貼られていて几帳面さがよく分かるまとめ方だった。

 そもそも以前触れた通り、ここの獅子頭は地元に住まわれる北原さんという方が自ら製作された。以前使われていた頭が古くなったため更新したのだが、製作費を調べると150万もかかる(昭和58年のこと)ということで、氏子に負担してもらうのも忍びない。そこで彫刻をされている北原さんなら彫れるのではないかと、当時の保存会長さんが依頼したようだ。さすがに獅子頭など彫ったことのない北原さんは断ったようだが、説き伏せられて彫ることになったという。地元にそうした方がおられたことも大きいが、この地区では獅子舞を続けようという強い意志があったことと想像する。探していただいた資料に、なかなか子獅子のことが書かれていない。とはいえ、それらは中沢の公民館が作成した文集のようなもので、獅子頭を彫ることになって苦労された話(製作者本人の投稿)が何回かに分けて書かれていた。こういった地域色の濃いものは、公民館が発行するものに掲載されることが多く、ふだんから気にはしているものの、なかなかそこまで文献を探し出すのは大変だ。そうしたなか、獅子頭を彫られた本人が『伊那路』にそのことについて触れた記事を投稿されていたことを教えていただいた。平成2年のこと。この内容については後日改めて触れたい。

 さて、新しい獅子頭を彫った際のことが、当時の中日新聞に掲載されていたことを教えていただいた。その記事のコピーを頂いたが、残念ながら新聞の発行日がはっきりしない、彫った獅子頭はまだ彩色されておらず、記事では「六月初めには富山県・井波町の塗師に頼んでウルシ塗りをする」と書かれているので、おそらく昭和59年の5月頃の記事と想像する。そこには、保存会長の言葉が添えられていて、「小型のシシ頭も寄進してもらえるので、子供神楽をつくりたい」とある。

続く

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立科町姥ヶ懐の自然石道祖神

2024-10-10 23:26:00 | 民俗学

 これまでに立科町の自然石道祖神について幾例か触れてきた。例えば五輪塔が併祀されていた牛鹿虎御前公民館前のものは、双体像のみが道祖神として認識されているようだが、その空間にはほかの祭祀物はなく、明らかに道祖神の祭祀空間に置かれた五輪塔残欠であった。前例からそう遠くない平林の例も同様だ。立科町には『東信濃の道祖神』(2023年 風間野石仏の会)によると、82例示されているが、自然石道祖神については数が読み取りづらいところがあり、私的に自然石道祖神を祭祀箇所に統合すると79例と捉えている。同書から見る自然石道祖神祭祀箇所数は5箇所であるが、前述の五輪塔が置かれている例はカウントされておらず、これらを自然石道祖神と捉えれば、その数はもう少し増えると見る。

 

立科町芦田姥ヶ懐の道祖神

 

 さて、これまでは立科町でも北部地域の自然石道祖神を紹介してきたが、芦田川沿いの集落にも自然石道祖神が幾例か見られる。写真は芦田姥ヶ懐のもの。五つの石が並んでいるが、左から二つ目は双体像、ほかの石はすべて自然石である。だいぶ表面が変色していて、それが何の石質かはっきりしないが、双体像と自然石はほぼ同じような石と思われる。が、どこが異なるかと言えば、やはり少なからず陰陽を表しているのかもしれないが、はっきり陰陽石とは捉えられない。ちなみに前掲書では陰石3個、陽石1個と捉えている。真ん中の石は双体像並みに大きく、主神とも捉えられるが、いずれの自然石も比較的ゴツゴツしていて、最もゴツゴツしているのは右端のもので、背後から捉えた写真もとりあげてみた。どれを陽石として捉えているかはっきりしないが、右から二つ目のものだろうか。もともと自然石は陰陽を表す意図が強かったのかもしれないが、あえて陰陽の区別をするのには違和感はある。

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毎朝の鬱陶しい“奴”

2024-10-09 23:31:22 | ひとから学ぶ

 会社への道、かなり後方からいつもの車が見えてきたので、スマートインターのあるパーキングに入ると誘導路から外れて大型車の駐車スペースにハンドルを切った。2度目のことである。この「いつもの車」が視界に入ると嫌悪感が高まる。ずいぶん以前に記したアルファロメオも嫌悪感がすぐに高まったが、最近はこの車がわたしの通勤時間帯に被る。高速道路から同じスマートインターで降りて、わたしの駐車場のある場所まで経路が被るため、時間帯が同じなら、毎日のようにその姿が目に入る。その車が視界に入れば「またか」と思い、近ごろは「避けたい」と思ってあえて道を外れるか、高速道路上では走行車線にすぐに入って“奴”の視界から消えることにしている。繰り返すが、以前記したアルファロメオのように一瞬に抜き去っていく車と違って、速度差はせいぜい20キロくらいだから、付き合う時間が長くなってしまう。だから余計に鬱陶しいのである。高速道路から駐車場まで、付き合ったとしてもほん数分のことなのだが…。

 とりわけ鬱陶しいのは、インターを出て駐車場までの一般道だ。後ろに着かれると接近してくる。これまでにも何度も記している通り、接近されるのが嫌で仕方ない。誰でもそうだと思うのだが、とりわけ駐車場へ入る際に減速すると、ぶつかるくらいに接近してくる。したがって奴が後ろに着いていると、一般道ではあるものの、速度を上げて奴との車間が開くようにする。かなりの速度にしないと車間が開かない。ということで、もはやこんな駆け引きが鬱陶しいから「避ける」ことにした。逆にうしろからついて行って接近してやろうとも思うが、信号機で止まると、公園の駐車場内をショートカットして信号機を回避するくらい焦った運転をする。「バカか」と思うのだが、いつもこんな感じの運転を繰り返す。ちなみにわたしよりは少し若いのだろうが、“オッサン”である。

 同じ道を走る同僚たちに聞くと、皆がみな奴を意識しているよう。若い彼は「煽ったろうか」、プラス「止まった時に文句言ったろうか」と口にする。「それは辞めた方がいい」とアドバイスしたが、皆に意識されているということは、誰からも嫌がられているはず。可哀そうな“奴”だ。

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長松寺の貞治仏

2024-10-08 23:05:01 | 地域から学ぶ

箕輪町長岡長松寺 延命地蔵尊

 

  8月26日の民俗の会見学会で訪れた箕輪町長岡の長松寺は、曹洞宗の寺で創建は明応元年(1492)と伝えられている。境内に入って左手本堂前に、覆屋根の下に守屋貞治作の延命地蔵尊が座している。女性的な温和な顔立ちの地蔵尊で、明確に守屋貞治の作と判明している石仏である。それは「地蔵尊建立諸入用」という書付が残されているからだ。それによると、貞治と弟子の渋谷藤兵衛によって彫られたもので、文政10年(1827)に造立されている。その書付の表紙には

文政十丁亥年十一月
地蔵建立諸入用控帳
  世話人 与一 善五衛門

と記されている。造立の経過が記されており、同年8月4日に藤兵衛一人が出て村の世話人等と作業の打合せや石の詮議をしている。以後8月11日から作業をしており、藤兵衛は村人足の石堀及び石出しの指導に当っている。9月5日からは貞治の作業が始まる。この二人の作業を地元の石屋7人、及び村中の人足が協同し11月10日に竣工した。時に貞治63歳、藤兵衛44歳であった。

 「地蔵尊建立諸入用」とは別に「地蔵雑用控簿」というものも残されていて、その表紙には

文政十亥年
地蔵雑用控簿
  世話入 善五衛門
      与市

とある。これら詳細については、『石仏師 守屋貞治』(昭和52年 高遠町誌編纂委員会)に記録されている。こうした造立に当っての詳細が記録されている資料が残されているのは、貞治仏の造立経過がわかる貴重なものである。

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千曲市倉科の自然石道祖神

2024-10-07 23:02:37 | 民俗学

倉科田畑上組 道祖神

 千曲市森の自然石道祖神について触れたが、隣接する倉科地区の道祖神にも森と似た傾向がある。まず最初は大峯山の麓にあたる田端上組集落センター西の辻にある道祖神。「道祖神」の文字碑とともに1基の自然石が立っている。これもまた石碑らしき姿が垣間見え、「文字がないか」と確認したくなる雰囲気。小ぶりなため、隣の「道祖神」に目が留まってしまうが、自然石にも注連縄が掛けられている。もしかしたら自然石の頭部が欠損してしまっているのかもしれない。3枚目の写真はその自然石を背後から撮影したもの。これも「もしかしたら」ではあるが、この石は加工されているのかもしれない。森にもあったが、ノミ跡とまでは言わないが、割ったような印象もある。前面は文字が彫られても良いほど、平らになっている。横の大きな「道祖神」ももしかしたら、元々は自然石で祀ってあったのかもしれない。そこへ文字を刻んだのかもしれない。いずれにしても碑としてなんら不思議ではなく、たまたま文字が彫られていない、という感じなのである。

 

倉科嶽尾南組 道祖神

 次は東の山裾に近いところにある嶽尾南組生活協同センターの前にある道祖神である。ここも「道祖神」の横に自然石が立っていて、文字はない。その横の石祠、あるいは台石だけとなっている石と、なんともわからない石も並んでいる。このあたりの文字碑には、「道祖神」と刻まれていても、ほかに何も刻まれていない例のものが見受けられる。実に「道祖神」とだけ刻まれた石碑が多い。繰り返すが、元は文字のない自然石だったのでは?、思えてくる。

 

倉科大峡下組 道祖神

 3例目は、嶽尾から西へ下って行き、大峡下組集会所の西の三叉路に立つ道祖神である。ここもまた「道祖神」と並んでいる。やはり「道祖神」碑はほかに銘文はない。その隣の小ぶりな石は、やはり前面は平らで、文字を彫ろうとすれば彫れないことはない。

 3例いずれも「道祖神」と並んだ1基の自然石。そてどれも銘文があっても不思議ではない石。森の事例とよく似ている。

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ある水田地帯の光景

2024-10-06 23:14:27 | 地域から学ぶ

令和6年10月6日 PM1:30

 

 今年はアサギマダラの飛来が少ない。あちこちでアサギマダラを、という活動が盛んなせいかもしれないが、わが家のような静かな空間に来て欲しい、とは勝手な希望だ。今日出会ったアサギマダラ、最初は近くに行っただけで飛んで行ったしまっていたが、そのうちに慣れてくると近くにいても飛び立とうとしない。それどころかすぐ近くに手を差し伸べても飛び立たないので、手で触ったのに、それでも飛び立たない。よほど留まっていた花が気に入っていたかどうかは知らないが、毎年アサギマダラを捉えているのに、今日出会った個体は、ちょっと鈍感すぎる感じだった。

 来週末が地元の祭典ということで、今年は以前にも触れた道が決壊して、いまだ復旧していないため、わが家の方に祭典の際に囃子屋台が迂回するという。ということで、道沿いにある水田の畔の草を刈った。この日近くでも高齢の方が草を刈られていて、数年前まで水田を耕作されていたが、耕作放棄となっている土地の水田面の草を刈られていた。この場合「耕作放棄」は適さないかもしれない。年に何度か草を刈られている。したがって肥培管理されている水田、ということになるだろうか。隣接する我が家の水田も同じような状態だから、大きなことは言えないが、この空間にわたしがかかわるようになった30年以上前には、見渡す限り稲が植わっていた。しかし、今は稲が植わっているのはその1割くらいに減っただろうか。無理もないことで、この空間はほ場整備がされていないため、それぞれの水田に入るにも、人の土地を通らないといけない土地がいまだにある。我が家の土地から見下ろす位置にあって、今日草を刈られていた方の水田の空間は、それこそ30年以上前に車が入れるようにと農道を造られた。洞の中の細長い空間だから、道が開くことで、ほぼ関係者の土地には入られるようになったのだろうが、わが家の水田のある空間は細長い空間ではないため、道の奥にはいまだ道が繋がっていない水田もいくつかあったりする。加えてあっても道が狭いため、もし耕作できなくなったとしても、誰かが耕作してくれる、とは簡単にいかないのだ。さすがに30年で耕作地が1割まで減少するとなると、典型的な空間と言える。山の中ではよく見られる事例だが、集落の中の土地でこれほど耕作放棄が進んだ例は珍しいのではないか。高齢者が多いから、そう遠くないうちに、もしかしたら稲作をしているのは我が家だけ、になってしまうかもしれない。

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真田町本原の自然石道祖神(長野タイプと東信タイプ)

2024-10-05 23:01:34 | 民俗学

上田市真田町本原櫓城跡南辻

 千曲市森の自然石道祖神について触れたが、実は同じような自然石道祖神を山向こうの真田町でも見ることができる。上田市から菅平に向かっていき口元に本原地区がある。下原公民館から北進すると自性院という寺があり、その入り口の辻にも自然石道祖神らしきものがあるが、それは後述する。そこからさらに北東に向かって傾斜地を上って行くと変則的な辻に出るのだが、西に面して自然石の石碑が立っている。向かって右側に大きなお結び型の石、左に小さな楕円形の石がある。先に触れた森の西小路公会堂東辻のものによく似たお結び型なのである。そして、もちろんだが無銘である。左側の石も無銘、森の例のように男女を表しているのかどうか。いずれにしても、石碑の形からしても文字が刻まれていて不思議ではないのである。

 

上田市真田町本原自性院前辻

 前述した自性院前のものは、ゴツゴツしていてずいぶん大きい。こちらは文字を刻むにはゴツゴツしすぎ。両者は比較的近いところにあるが、こちらが東信タイプの自然石道祖神とすれば、前者は長野タイプの自然石道祖神になるだろうか。石も自性院前のものは火山弾系である。

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再び上辰野堀上竹原の自然石について

2024-10-04 23:40:26 | 民俗学

辰野町川島木曽沢の道祖神」より

 わたしの印象では、辰野町には自然石道祖神が多くあるというものであったが、実は『長野県上伊那誌』民俗編に掲載された道祖神一覧において、辰野町で自然石道祖神が記載されている例は少ない。

①小野  13基 うち飯沼山口の文字碑の備考欄に「左に奇石あり」
②川島  22基 うち「奇石」として前述した木曽沢の陽石
③伊那富 49基 うち唐木沢石祠の備考欄に「後に奇石らしき石あり」
④         堀上竹原石祠銘文欄に「傍に奇石あり」
⑤         堀上荒井双体像備考欄に「傍に小奇石」
⑥         北大出石祠銘文欄に「まわりに陰陽石があった由」
⑦         北大出双体像銘文欄に「右隅の石は奇石か」

以上7例である。総数84基のうち7例であるから、10パーセントに満たないわけだが、その中でも単独で一覧に掲載されているものは、木曽沢のもの1例のみで、あとは周囲に置かれていていってみれば主役ではないわけである。

 そもそも前掲書はもちろんのこと、伊那谷の道祖神を世に出されたといって間違いはない竹入弘元氏の『伊那谷の石仏』(昭和51年 伊那毎日新聞社)において「奇石」はあまり扱われておらず、双体像などの補足的な位置づけで陰陽石が紹介されているにすぎず、「奇石」が登場するのは根羽村横畑の道祖神を紹介している箇所のみと思われる。前掲書は『伊那谷の石仏』より4年後に刊行されており、この間に竹入氏は「奇石」への意識が少し高まったのではないかと考える。

 

辰野町上辰野堀上竹原 自然石道祖神

 さて、7例の中で④の上辰野堀上竹原のものは、以前に「辰野町堀上竹原の道祖神」で取り上げた。もう一度自然石のみここで確認してみる。横に線が上部と下部に見える。これは木曽沢のものと同様に、石を構成している主たる鉱物に別の鉱物が貫入しているために現れている。石そのものが何の石かはっきりしないが、変成作用を受けた岩石と言える。辰野のこのあたりは粘板岩地帯で、その中にチャートが貫入するように分布している。おそらくチャートではないかと思う。

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千曲市森の自然石道祖神 後編

2024-10-03 23:20:24 | 民俗学

千曲市森の自然石道祖神 前編より

 

千曲市森西小路公会堂東辻道祖神

 

 森にある診療所から東へ川を渡って入っていくと、四辻がある。西に面した辻の東側に大きな石二つと、小さな石一つが並んで立っている。大きな石は明らかに石碑らしく見えて、文字を確認するのだが、「何もない」。道祖神なのかどうか、周囲で何軒か聞いて歩くが、すぐにそれという声は聞かれない。ようは信仰対象としては、ずいぶん劣化している感じ。3軒目でようやく道祖神と確認できた。昔は行事があったというが、今は廃れてしまって何も無いよう。このように二つ並んでいるケースが多いのも、このエリアでの傾向で、いってみればどちらかが男で、どちらかが女という設定になるのだろうか。向かって右側の石はお結び型で、全面が加工されたように凹んでいるので、まさに石碑なのだが、何も彫られた形跡はない。もっと言うと、右下のあたりにノミの跡が残っている。したがって切り出した石ともいえる。しかし無銘であるから自然石道祖神と言って異論はない。まんなかにある小さな石は「子ども」なのか、と思わせる。

 

禅透院入口の石碑

 

 ここから少し南へ行ったところ、禅透院という寺があるが、その入り口と思われる看板があるところに、大きな「庚申」とともに大きな石が立っている。この石も明らかに石碑という感じなのだが、無銘である。繰り返すがこのあたりには石碑といって異論のない石に無銘なものが多い。いわゆる県内のほかの地域の自然石道祖神とは様子が異なる。この大きないしについて、やはり周囲で聞いてみるのだが、道祖神であるという明確な言葉は聞けなかった。そもそもこの立っている空間はお寺の所有地であるというようなことも聞いた。

 

東小路常会所辻道祖神

 

 同様に周囲で聞いてみてもはっきりしなかったものが、東小路常会所の四辻にある石である。掲示板の前に立つ石も二つ。向かって左側が大きく、右側は小さい。この大きな石にも文字らしきものはない。加えて掲示板の裏のあたりに石が横たわっていて、これらの石に意味があるのかないのかも、はっきりわからない。繰り返すが信仰の衰退がうかがえる。

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辰野町川島木曽沢の道祖神

2024-10-02 23:04:03 | 民俗学

双体道祖神

 

「甲子」の背後にある自然石、右側の石が下の写真の奥のもの

 

自然石道祖神か?

 

竹入弘元氏が「奇石」として取り上げている道祖神

 

 辰野町の横川川の上流へ上って行くと、横川ダムにたどり着く。その手前に源上という集落があり、その手前が木曽沢である。町で運営しているバスの停留所は、昔民営のバスが運行していた際にもバス停があったところ。その辻には石造の蚕神さま(2006年に蚕の昔話で掲載した写真参照)も立っているが、広場のようになっていて、集落の人々の憩いの空間のようになっている。グーグルのストリートビューで見てみると、ちょうど女性の方たちが草取りをされている姿がある。もちろんこのストリートビュー、更新されてしまうとこうした光景は消えてしまうだろうから、今が「見ごろ」というわけだ。

 その辻に石碑がずらっと道に面して並んでいる。向かって左手の方に「庚申」、右手の方に「甲子」が立ち、真ん中あたりにはお地蔵さんや道祖神が立っている。ここの道祖神は双体像で、「元禄三庚午歳十二月朔日」と銘文がある。元禄3年というと1690年であり、双体像としては古い方のものにあたる。『長野県道祖神碑一覧』によると、同じ辰野町沢底の永正年代のモノは特別として、次に古いものは旧四賀村の西宮上郷にある天正5年(1577)のもの。ちょっとこれも古すぎるように思うが、1600年から1650年までの間の銘文のある者が3基、1650年から1700年の間のものが8基数えられる。1690年というとこの8基のうちの一つにあたる。写真1枚目のものがそれにあたる。右が男神、左が女神とはっきりわかり、男神は烏帽子をかぶり、盃をこちらに向けて持っている。その盃へ酒を注ごうとしているのが女神で、長い髪の毛を結んで垂らしている。いわゆるね祝言像で1600年代のものにしては新しい印象も与える。

 さて、問題は前面には並んでいない、見えないところにある「石」である。右端の「甲子」の背面には自然石がいくつも並べられている。これらは何か、ということになる。竹入弘元氏がまとめられた『長野県上伊那誌』の信仰の章にある道祖神一覧によれば、木曽沢バス停の道祖神は、前述の双体道祖神ともう1基双体像、くわえて「奇石」の3基が報告されている。「奇石」とされたものは陽石であり、後述するもので、「甲子」の裏にある写真2枚目、3枚目のものはこれらに該当しない。「奇石」を認識されていた竹入氏がこれらを道祖神として捉えられなかったのは、地元の方の捉え方からかもしれないが、特に3枚目の写真(2枚目も同じ場所を角度を変えて撮影しているもの)のの後ろ側にある石は、陽石にも捉えられそうな石で、いずれも道祖神であったのではないかと、わたしは想像する。

 さらに4枚目の写真が前述した「奇石」に当り、陽石である。左端の「庚申」の背後にあり、いわゆる男性器を模したもので、亀頭冠の部分がはっきりとわかるが、実はこの部分は石英が帯状に貫入している部分で、自然に洗い出された部分と考えられる。同じことは前述した「甲子」の背後にある石でも言え、環状に凹凸ができるのは、石の硬い部分と柔かい部分が摩耗現象によって凹凸になるせいである。こうした石が、道祖神として祀られているケースはよく見られるとともに、人為的ではないと思われる陽石には、こうした石が多い。

続く

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千曲市森の自然石道祖神 前編

2024-10-01 23:43:08 | 民俗学

 これまで東信の自然石道祖神を見てきたが、実は自然石道祖神は北信域にも多い。小布施町の自然石道祖神について先ごろ触れたところだが、長野市には自然石のみを祀って「道祖神」としているところが多い。特徴的ではないかと思われた千曲市森を訪ねてみた。

 

千曲市森石田理髪店西 自然石道祖神(令和6年8月21日撮影)

 

 森はあんずの里として知られているが、集落の真ん中を沢山川が北進して流れている。ようは北が下流で、南が上流となる。したがって集落の入口は北側にあるということになるが、千曲市中心から森に入り、北寄りの住宅密集地内の三叉路に道祖神が祀られている。石田理髪店という店の西側に建物の土台に沿って道端に並べられている。そこそこ大きな石のため、通行に邪魔かもしれないが、この石を道祖神かと聞いても「解らない」と答える人は多い。事実理髪店の方に聞いても不明であった。見ての通り、「二十三夜」2基とともに無銘の石がふたつ並んでいる。この二つが道祖神である。実は東信境から長野市あたりの自然石道祖神は、こんな感じの石碑が多い。これまで扱ってきた自然石道祖神と言うと、ゴツゴツしたいしだったり、溶岩風のものだったり、また伊那市内のもののように緑色の石だったり、特殊な石であることがほとんどだった。ところがここの道祖神を見ると、ほかの石碑と石質も似ていれば、まさに石碑の形をしていて、ただ無銘名だけなのである。風化して文字が消えた?、ともいえるかもしれないが、おそらく彫った形跡はない。裏を返すと、いまから「道祖神」と彫っても彫れないことはないということになる。

 この理髪店の横にある道祖神は、北西の中村池のあたりにあったものが、道路の拡張のためここに移されたのだという。

 

更埴市森岡森集会所前辻 自然石道祖神(令和6年8月21日撮影)

 

 さて、ここから南西400メートルほどのところにやはり大きな池がある。その脇に「岡森集会所」がある。その前に変則な四つ角があるが、集会所側の辻隅にやはり自然石道祖神が立っている。前述のものより小ぶりであるが、「文字が彫ってあるのでは?」と見てみるが、刻銘らしきものはない。前述のものほとせ石碑っぽくはないが、これらも「道祖神」と彫って彫れないことはない。そしてこれらも花崗岩系で、珍しい石ではない。

 このように、このあたりの自然石道祖神は、これまでの傾向とは少し異なる。

続く

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本曽倉 御坂山神社獅子舞 後編

2024-09-30 23:15:44 | 民俗学

本曽倉 御坂山神社獅子舞 前編より

 

下曽倉でのお囃子

 

原いきいき交流センターでの「悪魔っぱらい」

 

原いきいき交流センターでの「オネリ」

 

下曽倉の辻での獅子舞

 

本曽倉改善センター前の「オネリ」

 

御坂山神社前での獅子舞(令和6年9月28日撮影)

 

 御坂山神社の氏子は、およそ120戸という。集落でいえば本曽倉と原の二つの集落が氏子域にあたる。中沢には7つの氏神があって、諏訪神社が多く、前編でも記した通り、御坂山神社も主祭神は諏訪神社である。獅子舞については、永禄5年(1562)に穴山梅雪が駿河に移る際に妻子を預かっていたという北原家に女神楽獅子が、祝いの獅子舞に驚いて孫娘がショック死してしまったという言い伝えがあるという。江戸時代以前から今の形の獅子舞が舞われていたとは考えにくいが、古い時代より伝わっていて、どこから伝わったという言い伝えはないという。

 7か所で舞われる獅子舞は、ほぼ同じことの繰り返しで舞われる。獅子舞の前にお囃子が奏でられるが、ここでは東伊那に多い三味線は加わらない。鼓と締め太鼓、大太鼓に横笛という構成で、次の6曲が囃される。

かぞえ唄
高遠囃子
スッテケ
チャンチャラ
オン琴
追いまわし

 獅子舞は2種類で、最初に悪魔っぱらい。幌の端を絞って両手で持ちくるくると回しながら前進しながら舞は始まる。そして絞っていた幌を拡げて両手で持ちゆったりと右へ左へと舞い、

やれ三尺の御幣を持っては 悪魔を払うと ありゃせー

と言葉が入ると右手に御幣、左手に鈴を手にして右へ左へと舞を繰り返す。その際、後方のヒョットコが扇子で獅子を仰いでいかにも暑さを払うような仕草をしながら、獅子の様子をうかがう。

太平楽よと あらたまると ヤッセ
ことしゃよがよで 穂に穂が咲いたと アリャセ
土手のかわずの 鳴くのもおどりと アリャセ

といった言葉が入り、同じ舞が繰り返され、

これでとめおく お供えの ごはんじょと アリャセ

で幌の中にもう二人加わって幌を大きく広げてよそでいう「蚤取り」のように頭が自分の身体を噛むような所作をし、太鼓が小刻みに叩かれる。

そして

おっと坊さん危ないしょ

と声が掛けられると、大きな動きで右へ左へと舞い始める。

お先はなんと、なかは
あとはおやじの借金払い

といった言葉が掛けられ、獅子は左右に動きなくとどまっている子獅子に近寄ってあやすような所作をする。もちろん子獅子が無かったころは、こうした獅子同士が相対することはなかったのだろうが。

 これで悪魔っぱらいが終わり、オネリとなる。オネリの際は幌の中に3人入り、やはり幌を高く上げて大きく見せながら前進するが、各所で行う際はその場で舞うにとどまる。唯一、本曽倉改善センターの前で舞う際は、オネリが悪魔っぱらいより先に舞われる。それは参道に当るからなのだろう、参道の入口から神社下の入口まで、まさにお練りをして進んでいく。その後改善センターの前で悪魔っぱらいが舞われ、最後の神社での奉納に向かうことになる。この改善センターまでは北原さんが造られたという頭で舞われ、ここで頭を交換し神社に上って行くのである。

 神社では神殿のある段でお囃子と悪魔っぱらい舞わされ、最後は神殿に向かって入り込むような仕草で舞は終わる。この後役員、保存会の皆さん、そして参拝者も含めてお神酒をいただき、宵祭りは終了となる。

 オネリは単調な流れの曲で難しいらしく、この日下曽倉で舞われる際にはお師匠さんが加わった。また、女獅子と言われていて、赤い袴を着ており、やはり刀を持つ舞は伴わない。この日は曇り空の下であったが、天候が良いと、下曽倉の辻からはおそらく木曽駒の山々が望めるし、参道を練る際にも対岸の中沢の集落やその背景の山々が写り込んで農村らしい光景が見られたはず。傾斜地ならではの周辺環境と併せ獅子舞が楽しめるのではないかと思う。

 

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