大正11年に発行された『中澤村誌』の「曽倉館趾」に次のようなことが記されている。
天文十九年仁科信友(又の名穴山梅園)其子佐衛門佐(又の名穴山梅雪)と共に高見に居住し、同時に曽倉に別館を設けて梅園常住せりといふ。永禄五年穴山氏の封を駿河に移すや妻子を北原氏に託して去る或時梅雪の女神楽獅子に驚き即死せしかば之を居館の傍に葬り今に其塚あり幾許も無くして夫人は駿河に移りて廃館となる爾来北原氏は館跡に居住す同家にては今に至るまで家法として神楽獅子の門内に入るを許さず又城主の遺物ありしが明和五年火災に罹り古文書一切と共に焼失して傳はるものなし、灰燼中より発見せし無銘の短刀二口あり前記梅雪の女の短刀なりと今に傳ふ。
曽倉館は現在の本曽倉にあった。ということで、地元では御坂山神社の獅子舞はこの当時からあったと伝えられるが、事実としても現在の獅子舞がそのまま当時のものとは言い難いが、古い時代から舞われているということは言えそうだ。こんな話を御坂山神社の獅子頭を製作した北原氏(前述の穴山梅雪の話に登場する北原氏とは異なる)が前編でも触れた『伊那路』(北原親房「神楽面のはなし」平成2年4月号)に記している。光前寺に伝わる青獅子について旧本曽倉村原での言い伝えとして「もとはといえばここの寺(廃寺京宗寺)にあったもので、それがあるとき光前寺にいったままもどっこなかった」というのだ。真偽はともかくとして、青獅子に関する謎めいたものを抱く。北原氏は獅子頭を造ってほしいと言われ、引き受けるにあたりあちこち頭を見て、御坂山神社の古い頭をよく調べたよう。そして向きを違えた三つの部材を漆で接いだ寄木材によって製作されていたことに気づいた。木材の欠点である割れに対する配慮によるものと北原氏は言う。
試作品1号を造るにあたり、木材を乾燥するのに電熱炬燵を使ったといい、「多少の満足と反省」の1号が完成したという。材料の制限もあって、2号、3号は8割ほどの小さな頭を造った。そして本番の頭造りとなったよう。本番の4号完成は昭和59年の3月半ばだった。そして新聞披露になったというから前編でも触れた中日新聞に記事が掲載されたと思われる。早春に塗師に依頼するため、富山県井波へ一泊の旅行をすることになった。参加者は20数名だったという。その一泊は山中温泉で、その席で「縮小の試作品をしあげ子獅子として小中学生を神楽に加える計画など話題のはずむ愉快な席となった」と北原氏は記している。ようはここで子獅子計画が話し合われたというわけである。「小型の面は二年後さらに三つ加え計五つのうち、赤三、青緑二と色をちがえこれを女獅子の五つ仔誕生に看たてた」という。現在の獅子舞の背景には、①光前寺の青獅子、②穴山梅雪の娘が死んだという話、③御坂山神社の獅子は雌だという言い伝え、などから創作された世界が描かれていると言えるのかもしれない。いずれにしても、子どもたちにも獅子舞に親しんでもらうための仕組みが、頭の新調を契機に完成されたわけである。
子獅子は「青獅子」である