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小菅の柱松行事から ⑤

2016-08-05 23:27:42 | 民俗学

小菅の柱松行事から ④より

 小菅の柱松行事のクライマックスが、柱松に松神子が上って火を点火する場面であることに疑いはない。しかしここまで至る祭りが大掛かりであることはこれまでにも触れた通りである。小菅というひとつの世界があり、このムラへ入ると独特な印象を受ける。そもそも千曲川右岸に展開される村々には、小菅のような急傾斜なムラがいくつかある。おそらく初めてそうしたムラを訪れた人たちは、その急さにまず驚くだろう。「北信の石仏・後編」で触れた福島は小菅とは尾根一つ介した南隣のムラであり、ここもまた急傾斜地に集落が展開する。眼下には千曲川のゆったりとした流れが望め、対岸に飯山市常盤の水田地帯が見え、さらにその向こうに関田山脈が連なる。冬場はともかくとして、それ以外の季節に訪れると、別世界だと感じるほど、隔絶した世界に身を置いているような錯覚に陥る。

 そもそも小菅山元隆寺を中心に七堂伽藍を有したといい、現在の小菅集落はその僧坊だったという。それを統括するのが大聖院であって、現在の護摩堂の位置にあったという。その奥の院が現在の小菅神社奥社だった。『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』(2008年 飯山市教育委員会)の中で、巻山圭一氏は、永禄9年(1566)の絵図に関係して「川中島合戦のさなか、永禄4年(1561)9月11日、小菅の村は炎上し、以後30年間荒廃した。その荒廃のなかで、周辺の北沢村・針田村・関沢村等の人たちも小菅に相当はいり込んだものであろう」と記している。時代的に整合しない絵図とも言われているが、復興すべき村として描かれたのが永禄9年の絵図なのだろうか、この後村の姿は以前と変わっていく。

「信州飯山 小菅」パンフレットより

 

 さて、冒頭に記したように祭りそのものは、柱松に火を点火するのを上下の柱松で争うという単純なもの。実際に松神子が柱松に上って、尾花に火がつくと、柱松が倒されて終わるという案外あっさりとしたもの。柱松全体に火が付けられるというものではなく、大掛かりな装置でありながら、火を点火するというほどのインパクトもなく、たとえば隣の野沢温泉道祖神祭りのような派手さや印象はまったくない。前掲書の中でもかつては都市的な様相を呈していたのではないかと書かれている。小菅の祭りが600年以上も続けられてきたというあたり、そもそも祇園の祭りはマチの祭りが地方にも広がったもの。その祭りが古くから行われているということは、小菅は確かにマチだったのかもしれない。現在も祭りでは通りに面したところにソダによって垣が作られるという。この垣、かつては参道沿いのほとんどの家で行ったという。この意味は、家の見せたくない部分を隠すためだったという。「隠す」といえば、かつて松本市の深志神社の天神祭りのことを「屏風祭り」と言った。店では通り沿いに祭りに屏風を出して店の中を隠したのが始まりだとも言う。「隠す」ということは外向きの祭りと言えそうだ。ようはよそから来る人々を迎えるという意味合いが強いとも言える。こうしたところにもマチ的な祭りの様相が見える。

続く


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