Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

小菅の柱松行事から ⑥(最終章)

2016-08-06 23:14:48 | 民俗学

小菅の柱松行事から ⑤より

 小菅の柱松行事を訪れたのは初めてであった。3年に一度ともなると、なかなか訪れることができない。小菅の祭りについては今までにも何度か訪れる機会があった。したがってこれまでの小菅の祭りの写真なども見て、いろいろイメージをつくっていた。そうした中で感じていたのは、小菅の祭りというと、雨の日が多いというもの。ちょうど梅雨時ということもあるから、雨の日になるというのも予想されること。その通り今年の小菅の祭りの日の天気予報は「雨」だった。かなり降っていたら人ごみの中では傘は役に立たないだろうと思って、雨具も用意して背負っていったが、予想に反して夏の太陽が顔をのぞかせ、雨が降ることはなかった。そんなこともあるのだろうが、『小菅の柱松-北信濃の柱松行事調査報告書』(2008年 飯山市教育委員会 調査時は好天ではなかったよう)の展開とは少し異なる部分もあっただろうか。

 同書の中で巻山圭一氏は、盛んに柱松の「上」と「下」の柱の優位性について触れている。もちろん「上」が優位であるということ。そもそも「下」に優位があるなどという事例はあまり聞いたことはないが、小菅が傾斜のある空間であるということでも、山から川に向かってもの事が動く自然性を描いているのかもしれない。小菅の人たちは「上」の柱を作り、「下」の柱は小菅の人たちも加わるが、笹沢地区や針田地区の人が作るという。地元の人々が優位であるという捉え方があるのだろう。そして競って火を点火し占うというのだから、そこには差がなくて良いはずなのに、上の柱にはブドウヅルが9箇所締められるいっぽう、下の柱松には7箇所締められる。また上の柱に挿される尾花の芯には竹の「元」を使い、下の柱松の尾花の芯には竹の「裏」(先端の方)を使う。さらに縄で柱松を巻くのだが、その縄の長さも上は15尋、下は13尋と、いずれも上の柱松を優位とした作り方となる。また、柱松を立てるのも上の柱松からだというし、柱松の高さも上の柱松の方が高いという。なぜ差をつけるのかということになるのだが、もともと柱は一つだったのではないか、とはわたしの想像である。あとになってもう1本加えられたため、そこには差がつけられた、そうではないだろうか。もちろんあくまでも想像である。

 

奥の柱松が「上」、手前が「下」、間にあるのがお旅所

 

 上の柱松が先に点火されると「天下泰平」、下の柱松が先に点火されると「五穀豊穣」、どちらとしてもそこには差がないように思う。いっぽう、実はこの祭りにおける競争はもうひとつあって、松神子が先にジョードにある「松子石」という石にたどり着くかどうかによって、早い方が大聖院に近い、いわゆる高い方を占めるという。おそらく先に火がつけばその方が先に松子石にたどり着くだろうが、広場からは離れているので、それほど差がなく火がつけば、自ずと先についた方が松子石にたどり着くと思うが、先にも述べたように、実際の距離は東側に立っている上の柱松の方が短いので、ほぼ同時なら上の柱松の方が早くなる可能性もある。今でこそ火打ちで火をつけるなどという行為は慣れていないから差がつくが、かつてはもっと接近していたに違いない。大聖院側を占めるとはどういうことか、前掲書では「水」のことについて触れている。かつて内山紙を盛んに生産したとも言われるこの地は、水が重要だった。そしてジョードを境にして上の方が水が良かったとも言われる。ようは生産に結びつくことが、この柱松の祭りで決まったというのだから、もっと深刻な祭りだったのかもしれない。

 

 

終わり


コメント    この記事についてブログを書く
« 小菅の柱松行事から ⑤ | トップ | 気温35゜の草刈 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事