Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

奈川入山へ

2015-06-04 23:44:47 | つぶやき

松田屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トチ

 

 仕事とは別件で、旧奈川村入山(にゅうやま)を訪れた。国道のトンネル内で分岐がある例は、県内ではすぐに思い浮かばないが、やはり奈川渡ダムの脇にある入山隧道を思い浮かべる人は多いだろう。国道158号の隧道から県道奈川木祖線が分岐している形であるが、古いのは(入山隧道)奈川側から松本側に抜ける隧道で、あとから奈川渡ダム側からその隧道に通じる道を開けた(新入山隧道)という。前者が開通したのが昭和40年、後者が昭和43年である。後先はあるが、もともと奈川渡ダム建設にともなって完成した隧道である。隧道名にもなっている入山は、まさにこの隧道上南よりにある集落である。松本側から向かうと、入山隧道手前にある大白川という沢脇から左手に分岐して上ると入山集落にたどり着くが、今は落石のため通行止めになっている。かつての野麦街道はこの入山を経て、奈川の中心へ向かっていた。ようは野麦街道の入口に位置する集落とも言える。さすがに入山のことは知らなかったし、ここに足を運んだこともなかった。傾斜地にある集落は奈川渡ダム建設後に移転してできあがった。とはいっても湖底に沈んだたためにここに移転してきたわけではなく、現在地より少し南寄りの現在地よりもう少し高いところから下ってきた。移転集落としては少しその理由が異なる。

 奈川渡ダム脇の隧道を奈川側に抜けるとすぐに次の隧道に入るが、その手前を右折し急坂を上ると現在の入山の集落にたどり着く。まさにダムサイトと言えるようなその集落から南へ進むと、旧入山の集落に入る。ここに現在も廃屋と化した数々の家々が点在している。注目は旧奈川村が山村体験学習施設のために整備したかつての旅籠「松田屋」である。一般的には明治元年の建築を復元したと言われている松田屋であるが、復元されたのか、それとも改修されたのか、現状を見ると違和感のある建物となっている。建築当時の姿とはなかなか言えない姿からは、その扱いが難しいものとなっているわけであるが、奈川村が合併されて松本市になったことから、現在は松本市の管理する建物ということなのだ。旧入山集落の中では整備された経緯もあって、すぐにでも使える建物ではあるが、現状は見学希望者に解放するのみである。

 野麦街道の宿だったという入山。松田屋には製糸工女も宿泊したという。何より傾斜地に建てられた入山の家々は、傾斜地ならではの建て方を今も見せる。独特の景観を今もって残しているこの旧入山集落。実は昭和43年から44年にかけて地盤の亀裂や家屋の変形といった地すべりの予兆が発生した。奈川渡ダムの建設が本格始動したのが昭和40年。完成が昭和44年11月。当時既に貯水が始まっていただろうが、これが引き金になったのではという疑いも生じた。電力会社の補償によって集団移転が図られ、北寄りの現在地に移転したというわけなのだ。補償移転がスムーズにいったためか、「地盤の変動が工事の影響によるものなのか、あるいは自然現象であるのかは結論は追求されずに終わっている」という報告もされている(大塚勉・小田晋「松本市奈川地区入山の地質と斜面変動」2007 信州大学環境科学年報29号)。

 移転されたものの、家々が現在まで残されてきたことにより、独特な景観を現在にまで継承しているわけであるが、移転時に氏神はそのまま旧集落に残した、あるいは墓地もそのままにした、というような心の支えは置いてきたという意識がそうさせたのではないかと考えられる。神社脇にはトチの木が30本ほど群生し、その推定樹齢は250年とも。市の特別天然記念物にも指定されている貴重な景観を残している。とはいえ、かつての地すべりの兆候は現在も見ることができ、道端の石垣に大きなクラックが口を開けているし、道路そのものの土留擁壁もあらためてのぞいてみると、クラック群とも言えるほど危惧される光景が。もともとの入山の地は大塚氏によると、斜面変動堆積物の上にあったという。崩落土砂の上の緩斜面上に集落を開発したということになるだろうか。おそらく昔の人々には、ここがどういう土地なのか解っていた上で拓いたと思うのだが、だからこそトチの木の群生がそこにあるのかもしれない。

 


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