明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(161)低線量被曝とぶらぶら病1(肥田舜太郎医師の講演より)

2011年06月19日 10時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110619 10:30)

311以降、福島第一原発で起こっていることをウォッチし、隠された危機をできる
だけ多くの人に伝えようと活動してきましたが、その中で、現在起こっている事故の
実相が隠されているだけでなく、放射線被曝の恐ろしさもまた隠されていること、
とくに内部被曝が非常に過小評価されていることを、今更ながら、実感を持って
認識するようになりました。

それで僕は、政府による「放射能は怖くないキャンペーン」との対決を、志すように
なりましたが、このキャンペーンの出所を探っているうちに、それが放射線影響
研究所などによって流布されていることが見えてきました。それでこの研究所の
ことを調べていくと、それがアメリカ軍の、原爆傷害調査委員会(ABCC)を
前身とする組織であり、結局この問題の背後には、アメリカによる核兵器戦略の
推進、そのための非人道性の隠ぺいという政策が色濃く横たわっていること、
それに日本政府が協力してきたことが見えてきました。

その頃、天の引き合わせと言うべきか、僕は次々と、被曝二世、三世の方たちと
お会いするようになりました。その中には、お父さんが、原爆投下後の入市被ばく
=内部被ばくによって、その後に発病されて亡くなった方々もいました。
また胎内被ばくをされた方、自らが、僕のブログに、「原爆ぶらぶら病」という
ご自身が患わってきた病の苦しさ、恐ろしさを投稿しても下さいました。

僕にはそうした連続の中で、無念の内に亡くなられた被ばく者の方々からの
メッセージが届けられているように感じました。「私たちのこの悲しい体験を、
明日に向けてつないで欲しい」というメッセージです。

その中で僕は、この問題を研究して来られた方を探し、今も福島にも赴いて
内部被ばくの恐ろしさを説いている矢ヶ崎克馬先生の本に出会い、さらに自ら被爆
医師として、被ばく者6000名を診察され、まさに第一人者として内部被ばく問題を
研究・追及して来られた肥田舜太郎先生の書物と出会って、深い感銘を受けました。

これらから、僕の探究の方向性が間違ってはいないという確信を得ると同時に、
戦後65年以上もたって、このことがこの国に住まう私たちの常識となってはいない
こと、その上に、常に被ばく労働の上にたち、放射線被ばくを必然化させてきた
原子力発電の容認があったことを、痛感するようになりました。

このため、今後、この紙面などを通じながら、僕はこの問題をより深く探求し、
多くの方に伝えていきたいと思っています。ここに原発問題、あるいは被曝問題を
考える上での一つの核心があると思うからです。

そのための試みとして、今回は、2011年3月19日に行われた、肥田舜太郎先生の
講演を、動画からノートテークしたものをみなさんに紹介したいと思います。
長いので、2回にわけて掲載します。

ぜひお読みください。そして再度、広島・長崎原爆から、被ばくの問題を一緒に
考えていただけたらと思います。

****************************

被ばく医師・肥田舜太郎氏講演
「大人たちのつくった世界」―低線量被曝とぶらぶら病
2011年3月19日

当該ビデオに掲載された肥田舜太郎氏のプロフィール

1917年広島市生まれ。
1945年8月6日 原爆被爆。
直後から被曝者救援・治療にあたる。
2009年引退まで、被曝者の診察を続ける。
被爆医師として被爆の実態を世界各地で
語りつぐ。アメリカの低線量放射線被曝に
関する研究書等を翻訳、普及につとめ
内部被曝の脅威を訴え続ける。


1 ヒロシマ原爆体験
http://www.youtube.com/watch?v=SAM6U5C_viA&feature=related

肥田瞬太郎という広島で被ばくした医師です。

28歳の時に、現役の軍医として広島の陸軍病院に赴任しました。
ちょうど原爆の落ちる一年前の昭和19年8月でした。

もう軍隊の中で勝てると思っている者はひとりもいませんでした。
中国から帰ってくる兵士からの話でもそれは分かりました。
広島は不思議なことに、米軍機はくるのに不思議なことに一発も爆弾を起さない。
そんな状態でした。飛行機がきてもよそに落としていくというそんな状態でした。

8月6日に原爆が落とされました。
被ばく者の方は、原爆が落とされた時の惨状はお話されます。惨憺たる地獄に
ついてはお話になります。でもなぜ広島や長崎が選ばれたのかとか、その後、
被ばく者はどのような立場に置かれたのかについては、自分の知識しかなくて
全体的にお話ができる被ばく者の方はいません。

私は原爆にやられて死んで行く人を治療して、大変なことになったと思って
いましたが、本当にこれは人類にとって二度と許してはならないことだと思うように
なったのは、30年、40年経ってからでした。

本人が被ばくをしなかったのに、たまたま警察官をしていて動員されて、翌日、
広島に入って、火の中でいろいろと救援活動をやった。ところが警察官の仕事に
戻ったころから、身体の調子が悪くなって、お医者さんにかかっても、どこも悪くない
と言われているうちに、寝たきりになってしまって、どんな先生に罹っても、病気が
分からない。それで死んでいってしまった。

死亡診断書の書きようがない。お医者さんの方も原因が分からず、最後は心臓が
弱ったということで、急性心不全ということで、役場で扱ってもらっていました。
私は、半年ぐらいまでは、強引に原爆症という病名をつけました。しかし役場が、
この病気は国際的に登録されてないという。国の法律としてこれを受け取るわけに
いかないから、法律の中にある病名を書いてくれといいます。
間違いないといくら言ってもダメなのです。

直接、原爆を受けないで、翌日、三日後、一週間後ぐらいに市内に入って、
そして今の医学では分からない病気になって、失業するし、仕事にもつけないし
学校にもいけない、結婚もできないというような不幸を受けた被ばく者の人に
とくに私は意識的に対応してきました。

そういう意味で、アメリカの占領軍のもとでは、そうしたことを言っただけで
とっつかまります。私は三度つかまっています。それでも救援活動をしました。
その後に、1952年にサンフランシスコ条約で日本が独立をして、日本の総理大臣が
国を治めるようになりましたが、中味は安保条約があり、結局、日本人の総理大臣が
日本人のために政治を行うことは未だにできていません。大事な問題は、全部、
アメリカの承認を受けると言う状態が今でも続いています。

そのおかげで、広島・長崎の原爆について、どんなことでも全部アメリカの軍事機密
になってしまいまいた。ですからこれだけ時間がたって、原発でどうしようもない
ことになっているけれども、何をどうするかという問題について、自由にできない。
こと放射線に関する問題は、日本人は何の自由もない。

直後から、日本の医学会や医師会は、放射能に関することは言ってはいけない、
研究してはいけないことになっていました。日本の医者や学者は全部アメリカの言う
ことを、アメリカにいって学んできて、それが放射線問題だと思いこんでいます。

だから被ばく者の側から何を言っても、その人の病気があのときの放射線の影響だ
と言おうものなら、学校は首になる。そのため日本の先生方は、何も言いません
でした。自分の出世に差し支えますから。

私はそれで首になった人をたくさん知っています。みんな涙を飲んでくびになった。
広島であのときに一緒に被ばく者を観た同年輩の医師は、もうみんな死ぬか寝た
きりになって、日本全国でこんなところに出てきて話をする医師は、もう私一人に
なっていると思います。そういう意味で、今日は、みなさんにとって、二度と他の人
からは聞けないお話をしています。

頭の上で爆発して、地上の人間で即死した人は、公には広島では7万人ぐらいと
言われています。

私はその日の朝、午前2時ぐらいに、戸坂(へさか)村という、広島から真北へ
6キロ行った村から、孫娘の往診を頼まれました。おじいさんが一人留守番をして
孫娘がいて、お父さんは戦死していない。奥さんは病気で里に帰っている。
おばあさんは死んでいて、おじいさんが一人で6歳の孫娘を見ている農家でした。

そのおじいさんが昔から少し知っている人だったので、自転車で病院まで来て、
発作が起こっているから来てくれと言う。今なら救急車で病院に行くような症状です
けれども、当時は車がないし、救急体制もありません。ところがその時はお酒を
ずいぶん飲んでいて、自転車の後ろに乗っているとおっこちてしまうのです。
それでおじいちゃんが自転車の後ろに私を乗せて、私を自分の身体に縛りつけて、
自転車で運んでいきました。

そんな状態でも、何か治療をやったのですよ。そうしたら発作が治まった。それで
布団を敷いてもらって、夜明けに帰ろうと思って寝ていました。
翌日、寝坊しました。あの爆弾が爆発したのは8時15分なのです。私は7時に
起きて病院に行くつもりだったのですが、目を覚ましたのが8時だった。それで
軍装して、でがけにもう一度診察しようと、女の子に聴診器をあてました。

もし私がいなくなって、不安になると発作が起きますから、寝かしておこうと思って、
睡眠剤を注射器にとって注射しようとした。
ちょうどその頃に上空に飛行機が入ってきました。当時のアメリカのB29という
一番大きな爆撃機でした。日本の飛行機は1000メートルもあがれなかった
ので向こうは来放題でした。


2 1945年8月6日に見たもの
http://www.youtube.com/watch?v=Ck4h9AwyNxM&feature=related

広島での長崎でも被爆した人はみな目がくらんだといいますが、私もそのとき目が
くらみました。田舎の6キロも離れた農村の何にもない大空の下で目がくらんで、
目を開いてみても金色になってしまって何も見えない。それでおかしいなと思って、
早く注射しようと思って、またもう一回、注射器を構えました。でも何が起こった
のか気になる。それでまたみようとしました。

この話をできるのは、おそらくもう広島でも長崎でも僕一人だと思うのですが、何に
もない大空なのですね。そしてちょうど広島の上空に当たるところにまあるい
火の輪ができたのです。かなり大きな真っ赤な火の輪です。
その真中に白い雲の塊が、ぽこっと浮いて、どんどん広がって、それが最初に
広がった火の輪にくっついたなと思ったら、それがそのまま真っ赤な火の玉に
なりました。

これを火球と書きますね。直径が700メートルぐらいですね。火の玉です。それを
遠くから見ると、目の前に太陽ができたみたいなのですね。そんなすごいものが
できて、口を開けてみていたのですけれども、玉の上の方がだんだん膨れて、
白い雲になって、赤い玉の上からどんどん登るのですよ。

下の方はちょうど広島の方をみると、ちょうど私から見る方向に横に長い岡のような
山があって、その向こうが広島なのですけれども、ちょうど広島市の幅ぐらいの
火柱がたった。そして上は凄い雲になって、もくもく、もくもくとなって、圏外に
までいきそうでした。

私は生まれて初めてみるので、怖いのですよね。非常に怖くて、農家の縁側に
腰をついたまま、ぼやっとみていました。そうしたら一番下の山の瀬の向こうから、
真っ黒な横に長い雲が、ぐっと顔を出した。それが山を越えて、なだれ落ちる。
落ちたところには太田川があり、周りに家があるのですが、そこに山の上から雲が
ざあっと流れ落ちるのです。

私から見ていると、自分の視野の向こうに、黒い雲の帯ができて、目の前の山の
瀬から崩れ落ちて来るのが見えるわけです。それで渦を巻きながら、私の方に
走ってくるわけです。こちらでみているともうくる、もうくると思うようなスピードで、
渦を巻いてくる。

それですぐに私がいた村の前に小さな小山があったのですが、その向こうから
顔を出してきた。黄色い泡にも見えるし、黒くも見えるし、わけがわからないのです。
私がいた家は村の高いところに、一軒立っていたのですが、まともにそこに
真正面から来るわけです。村の端に小学校がありました。木造の2階建でしたが、
そのかわら屋根が私の見ている前に舞い上がりました。それを見ている間に
私のところに来てしまい、黄色い雲なのか煙なのかそれがバーっと来て、そのまま
後ろに飛ばされました。

不思議なものでそのときのことをよく覚えていて、後ろ向きに天井の方に飛んで
いきながら、天井の襞を見ているのですね。ああ、天井だなと。そのまま藁ぶきの
屋根の天井が吹きあげられて、青空を見たまで覚えているのです。

それで突きあたりの壁に運悪く仏壇があって、そこにガシャンとたたきつけられて、
そこに上から屋根が落ちてきます。まず藁ぶき屋根の泥が落ちてきました。
それがどんどん落ちてきて家がつぶれてしまい、子どもと一緒に埋まってしまった。
農家の家は丈夫なので、完全には潰れないのですが、屋根の泥がみんな落ちて、
私はその中に埋まってしまいまいた。

気が付いて、とにかく一生懸命動き出して、逃げることを考えました。途中で、
赤ん坊がいたと思いだして、私のすぐ前に泥の山がありましてそこに赤ん坊が
埋まっている。花模様の布団の端がみえて、それを無理やりつかんでひっぱったら
一緒に赤ん坊が転がり出てきた。

それを確かめる間もなく小脇に抱えて、表に出ました。それで泥をはたいて出まして、
聴診器がどこかにいってしまってないものだから、耳の穴の泥をとって、女の子の
左の胸にあてたら、元気な音がしていた。

私はとにかく病院に帰られなければならない。自分の任務を無断で離れていて、
病院の開院時間が近い。だからすぐに行かなければと思い、おじいさんに大きな
声で、赤ん坊はここにいるよ、大丈夫だからねと叫んで、自転車にまたがって、
キノコ雲の方に走り出しました。

そのときの気持ちは、本当は後ろ向きに走りたかった。おっかないところに
いかなくてはならない。しょうがない。もう一生懸命に走りました。

すると瀕死の重傷者がたくさん来るわけです。ちょっと「申し訳ない、私は広島に
行かなくてはならない」とは言えたものではないですよね。これはとても広島には
行けないと、道をあきらめて太田川に飛び込んで、川の淵を腰までつかりながら、
広島に歩いて行って、病院の500メートルぐらい手前まで歩いて行って、そこから
あがって市内に入ればすぐに病院だというところまで来ました。

ところが土手のあがるところまで寄って行って、あがろうと思ったら、その上に
建っている家が燃えている最中だった。その燃えている火の中から、今、焼けた
ばかりの人が、白い肌を見せながら、川の中に飛び降りて来る。だから僕が上が
ろうと思ったら、目の前から人が飛び込んできて、川に落ちるわけです。落ちて、
ジャバンと入って、そのまま流れていったり、立ち上がって歩きだしたりする。

だいたいの人は、私のあがろうとする岸から、川の中に逃げて来る。まだ元気な
人は歩きだしますが、そのまま死んでしまう人もいる。だからそこに死体が重なって
いく。後から後からそこに飛び込んできて、私は何をしていいか分からないわけです。
行こうにも火があるし。そこにどうしたらいいか分からずに、30分ぐらいいたと思う
のです。その人たちに申し訳ないといって後ろを向くわけにもいかない。

そうしたら死体が流れてきて、私の腰にボンと当たるのです。ふっとみると、女の人
で、顔も焼けているし、おっぱいも焼けている。上を向いて、髪の毛が流れている。
わあっと思っていると、身体がまわって流れていく。それで気がつくと、川の中にも
死体が流れている。いっぱい流れていく。

小さな子どももいるのです。それを見たときは、私は生きている心地がしません
でした。残虐の極みですから。それで最後に決心をして、見ている人たち
に手を合わせて、私は村へ帰りました。

結局、道を通れませんから、川を遡って村へ戻りました。3時間ぐらいかかって
村に戻ってあがったら、もう村の中はそういう人でいっぱいになっていた。
村の家も飛んでいるか、傾いているか、どの家もまともなものは一軒もないです。
だから血だらけになって来た人が、家にあがることができない。

結局、その近所の空き地だとか、林の中の光をさえぎるところでみんな横に
なっちゃった。最初にそういうところで横になっちゃうから、後から来る人が
そういう人の上を這い上って、奥へ奥へと入って行く。


続く
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