明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(1046)個性的で美味しいうどん屋さんで原子力災害対策のお話をします。(3月6日綾部市)

2015年02月26日 22時30分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150226 22:30)

福島原発事故からまる4年を迎える3月11日前後に、全国で脱原発企画が行われます。
僕は舞鶴市で行われる「原発ゼロ京都北部集会」に参加して講演をさせていただくことになりました。
これに合わせて前日より京都北部に赴き、午後に綾部市で、夕方から舞鶴市でお話させていただきます。
以下、京都府綾部市志賀郷の竹松うどんさんでの企画をご紹介します。原子力災害対策についてのお話です。

僕も初めて呼んでいただいたところなので、どのようなお店か調べてぐっぐっと引き込まれました。
ほんの少し前まで主流的に目指された生き方だった「良い大学を出て良い会社に勤め良い稼ぎをしならが人生を送る」ことに早くから背を向けた大将、竹原友徳さんによって営まれてきたお店であることが分かったからです。

出発点は友徳さんが大学の時に香川に旅行に行って讃岐うどんにはまったこと。大学一年の夏にとにかくうどんを打ってみたいとの一心で師匠のもとに飛び込んだそうです。
その後、大学で教員免許をとられたにも関わらず、仕事としてのうどん作りを志向。まずは香川で3年修行。その後に師匠からの「はじめるなら金をかけるな。工夫をしろ」との教えのもと、まずは全国を車で放浪しながら300か所でうどんを手打ちして修行。2年間で全国すべての都道府県を周ったそうです。
その後、綾部に戻ってきて8畳ぐらいの農機具小屋を改装してうどん屋を開設。うどん店として軌道にのると、今度は自ら蔵をリフォームして今の店舗を建てられました。
このリフォームにもいろいろな工夫を凝らしたそうです。例えば土壁を作るために自ら竹を採りにいき、割き、編んだそうです。それも多くの方たちに手伝ってもらいながら作りあげた。

友徳さんは金がないからこそできることがあると言います。自分には「何はなくともまずやる気はある」と言う。また金をかけずに作ったものほど愛着が生まれ。大切にしたくなるのだと言います。しかもたくさんの人が関わればその分、愛着も分け持ってもらえる。
600世帯しかない田舎で、なおかつ観光地でもなくそのための通行者もいない。しかも値段もとても安いうどん屋さんです。それでどうやってやって店を回してきたのかというと「ちょっとわかりにくい、怪しいうどん屋」を目指すことでだったそうです。
「ちょっと苦労しながら来て、店を見つけて、うどんを食べたら美味しかった。思わず翌日、職場で話したくなる」・・・そんなうどん屋を目指したのだそうです。この発想がとても面白い。とても良いなあと思います。

しかも日本で数件しかない薪で炊く釜でうどんを茹でている。薪が積み上げられた一風変わったうどん屋さんなのです。もちろん化学調味料は一切使わない。
よく挑戦したなあと思いますが、友徳さんは「何事も挑戦することが大事。興味をもったら飛び込むのが大事。やらないと後悔しますよ」と語られます。
ま、僕自身の人生を振り返ってもまったくその通りだったので、大いに共感しました。

お連れ合いは妙さん。2010年頃に友徳さんと結婚され、一緒に店を発展させて来られました。新店舗も一緒に手作りされました。
妙さんはうどん屋さんをやる前は、栃木県で益子焼の陶芸を10年間されていたそうです。お店で使っている食器も一部は妙さんが作られたものだとのこと。
今回は舞鶴の今井葉波さんが妙さんに話を持ち込んでくださり、一緒に企画を決めていただきました。

実は僕はまだお二人とお会いしたことはありません。もちろん竹松うどん店にも行ったことがありません。
ここに書いたことはすべてネットから検索して見つけた情報です。
妙さんについてはほとんど情報が得られなかったので、お会いした時にもっとたくさんのことを知りたいなと思っていますが、いずれにせよ、高浜原発の再稼働が取りざたされるこの地域でお話をするのにとてもフィットする素敵な場に呼んでいただけたなと思っています。

なぜかと言うと、友徳さんのお話は、本当にすべてが原発に依存した国づくり、町づくりと反対の流れだからです。
原発はどこの地域でも、「魅力的で、人が思わず苦労してでも行ってしまう」ようなものとして作られたのではまったくありませんでした。
いわんや「お金をかけるな、工夫をしろ」の真逆。原発の危険性に不安をいだく地域の人々を潤沢なお金をつぎ込んで丸め込み、たくさんの業者の利権をも集めて、まさにお金で支持を買い付けて建てた産物でした。

このため建設過程でも、その後でも、地域社会のコミュニティをズタズタに引き裂いてしまいました。人の心を荒れさせてお金をまく産物でした。
そんなにしてまでも原発を作りたかったのは、金儲けと利便性のため。国がビックパワーを持ち、より大きな権力を得るためでした。もちろんその場合の利便性とは、原発を受け入れた地域の人々のというよりは、都会の人々の利便性でした。
その利便性のためであっても都会に原発を作ったら危険性が大きく、大きな反発が予想される。そのために、つまり都会の人々に原発の危険性に気が付かさせないために、都会から遠いところに建てられたのでもありました。

友徳さんは、何も原発反対を意識してこのお店を建てられたのではないと思いますが、僕は竹松うどん店の発想の中に、原発だけでなくエネルギーに依存し、利便性の罠にはまりこんできたこれまでの私たちの社会のあり方を越えていくヒントがたくさんあるように思いました。
僕が感じているのは、福島原発事故以降、こうした試みを行う人たち、とくに若い人々がどんどん増えていることです。
いやそれは正確ではないですね。竹松うどん店の新店舗ができたのも2010年10月。福島原発事故の5か月ほど前でした。すでにこうした新しい生き方を選ぶ人々がどんどん増えつつあった。

それが原発事故後、急速に、ドラマティックに、出会い始めているのだと思います。
あるいは僕がそうしたみなさんと出会わせていただいているのかもしれません。本当に、講演などで呼ばれる先々で、こうした面白い試みがなされていることを知ってきました。
その意味で、未来に向けた新しい志向性いっぱいに楽しく営業している竹松うどん店で、お金とエネルギーに依存した権力志向という、古い発想の象徴としてある斜陽産業の原発に関するお話をすることそのものが何かの象徴であるようにも思えます。

お近くの方はぜひですが、どうか少し遠くの食いしん坊の方も、薪でたく釜で茹でられたうどんを食べに来られて、ついでに僕のお話も聞いてくださって欲しいなと思います。
みなさま。ぜひ竹松うどん店にお越しください!

なお、上述の記事における竹原友徳さんの紹介は、ブログ「独立して田舎で自給自足するための半農半X的仕事の作り方」を主催している草刈正年と友徳さんとの対談を参考にさせていただきました。
ブログのアドレスを記しておきます。対談は映像化されています。そのアドレスも記事の末尾に記しておきます。
http://ameblo.jp/cotomake/

以下、企画案内を、竹松うどん店のFacebookページより転載します!

*****

☆3/6(金)
緊急企画!

守田敏也さんによる
「防災について考えよう~家族を、子どもを守るにはどうしたらいい?初級編~」@竹松うどん

シェアお願いします!m(_ _)m

日時:2015年3月6日(金)13~15時

参加費: 800円(ハーブティー.資料代含む)
※別途うどんを12:30までにご注文下さい。
場所:竹松うどん

3/11で東日本大震災から4年が経とうとしています。
最近京都府では小さな地震が頻繁に起こっていて不安な気持ちになられてる方も多いのではないでしょうか…
丹後でも88年前に大地震がありました。
日常に追われる中で防災への意識も日々失われつつあるように思います。

大地震や若狭原発で事故が起こったら…。
「もしも」の備えがあるのとないのとでは大違い。
事故が起きたら、まずどうする? 子ども連れの避難生活は? どんな避難グッズを用意すればいいの??などなど、実際的な防災について学び合います。
講師に篠山市原子力災害対策検討委員会委員も務めるジャーナリストの守田敏也さんをお招きします。
備えあれば憂いなし!

子どもを守る為にお母ちゃんが出来る事、防災のいろはについて一緒に学びましょう。

?守田さんってどんな人?
東北被災地を度々訪問し、福島の現状、内部被曝の実態、放射能から身を守る方法や原発防災など、被害者に寄り添い、市民と手をつなぎながら、真実を訴え続けている数少ないジャーナリストの一人です。
被爆医師肥田舜太郎医師へのインタビューや、著作に琉球大学名誉教授の矢ケ崎克馬氏との共著『内部被曝』があり、放射能や内部被曝について各地で講演活動を精力的に行われています。
大飯町小浜市など、若狭で何度も講演が開かれており、独自の取材や研究に裏付けられたお話しには胸を打たれる参加者が多く、強い信頼が寄せられています。
登山がお好きな自然を愛する方でもあります^^
ブログ「明日に向けて」を通じて、連日、原発情報を発信中。

お申し込みはFacebookメッセージか0773211665竹松うどんまでよろしくお願いします(*^_^*)

京都府綾部市志賀郷町儀市前13
0773-21-1665
定休日は7.8.9のつく日
11:00~15:00
takematsuudon@gmail.com

竹松うどん店
https://www.facebook.com/pages/%E7%AB%B9%E6%9D%BE%E3%81%86%E3%81%A9%E3%82%93%E5%BA%97/324142814291997?fref=ts

竹松うどん店の日々薪パカーン!
http://mensoule.seesaa.net/

*****

以下、竹松うどんについてのビデオを紹介します。

1、うどん店を開始したばかりの時のインタビュー。

「志賀郷暮らしはこんなにエコ」(5)竹原友徳さん・妙さん
里山ねっとあやべ  2010/08/08アップロード
https://www.youtube.com/watch?v=mfRarqWOx4A

2、新店舗(現店舗)の手作り紹介

竹松うどん店ができるまで
eyoueyou8 2010/10/08アップロード
https://www.youtube.com/watch?v=dKPzkhL4Zts

3、食いしん坊のお客さんによる訪問記

店舗が新しくなった「竹松うどん」さんに行って来ました。
美味しいもの食らうンジャー 2010/11/29
http://mametan802.blog105.fc2.com/blog-entry-458.html

4、竹原うどん大将との対談

田舎でうどん店を仕事に生きる~京都綾部竹松うどん~
自給自足で田舎暮らしを目指す半農半X的仕事作り 2014/05/12公開
https://www.youtube.com/watch?v=uSUO5dsO1hU

 

 

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明日に向けて(1045) チェルノブイリから学ぶこと(馬場朝子さん講演会より)下

2015年02月25日 08時00分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150225 08:00)

馬場朝子さんの講演のノートテークの続きです。

***

チェルノブイリから学ぶこと(馬場朝子さん講演会より)下 
2015年2月24日 向日市まこと幼稚園礼拝堂にて 
主催:ミンナソラノシタ 後援:まこと幼稚園

生活面でどんなことがあったのかも取材しました。コロステンの人々が事故について知ったのは4月の末だったそうです。すぐに男たちがチェルノブイリに動員されていきました。それで何か大きいことが起こったと気がついたのだそうです。
5月1日にはメーデーがありました。旧ソ連社会では最大の祝日で、毎年みんなで大きなパレードを行っていました。
当時、ウクライナのトップの人々は事故のこと、汚染のことを知っていました。しかしメーデーを中止しませんでした。最も重要なメーデーを中止すると、一気に事故のことが世界中に知られてしまうからでした。このメーデーでのパレードで多くの人々が多量のヨウ素に被曝してしまいまいた。

5月中旬になってヨードを摂れ、ミルクを飲むな、自家菜園もののを食べるななどの指示が出されました。
5月20日になって子どもたちを町から遠く離れた地域に避難させることが発表されました。8月の末まででした。その頃のコロステンの空間線量は1時間あたり10μシーベルトでした。
当時のソビエト政府は放射線管理の基準線量を事故直後の1986年には年間100ミリシーベルトにおいており、それ以下は安全とされていました。87年は30ミリ、88年25ミリと下げられていき、それ以降は年間5ミリとされました。ソビエト全土の基準値でした。ちなみにご存知のように、今、福島では年間20ミリシーベルトが採用されています。

汚染地図はいっさい公表されませんでした。このため住民たちは汚染の実態をを把握できませんでした。
86年に前年にソ連共産党書記長となったゴルバチョフのもとでペレストロイカという改革がはじまりましたが、チェルノブイリ原発事故後にグラスノスチ=情報公開が行われだし、89年にはじめて汚染地図が公開されました。
このときコロステンの人たちは自分たちの町が汚染地帯にあることを知りびっくりしたのでした。

これ以降、大きな市民運動が全土でおこり大きな集会が催されました。原発作業員たちが中心になって起ちあがり、運動の核となりました。これに一般市民、被災地市民が合流し、とても大きな運動に発展しました。
1990年になってウクライナ政府が住民の保護の必要性を感じ、チェルノブイリ委員会を立ち上げました。12人の委員で構成されていました。
ここで問題になったのは被災者とは誰で、被災地とはどこかということでした。

上述のように、被曝限度値を年間5ミリシーベルトとするのが当時の基準でいした。しかし1985年にICRPから、被曝限度を年間1ミリシーベルトにすべきだという見解が出ていました。これを採るか5ミリを採るかで討論になりました。
議事録をみると、科学者はどちらの立場も、自分たちの基準を安全だと言っていました。5ミリという基準を唱えていたのはレオニード・イリイン博士でした。現在90歳の方で、ソ連放射線学のドンでした。(元ソ連医科学アカデミー副総裁)彼は5ミリでも厳しすぎると思っていたと語りました。
これらの論議を聞いて、ウクライナの政治家たちは科学的に結論がでないことを知り、政治的に判断することにしました。最大限住民を保護しようということで1ミリを採用しました。年間1ミリシーベルト以上の被曝でリスクがあると認めたのでした。

これに基づいて、被災地を4つのゾーンにわけました。年間の被曝線量が5ミリシーベルト以上のところは強制移住地域。1ミリから5ミリのところは移住権を与えられる地域となりました。
この被曝線量は、人々に即しては初期に測られていないために分からなかったので、土壌汚染が参考にされました。

この場合、移住権のある地域に残った人たち、リスクがある土地に住む人々への補償が必要とされました。
まず生活保障として次の措置がとられました。
毎月の補償金として給料が1割うわのせ。年金を早期に受け取れる。電気やガスなど公共料金の割引。公共交通機関の無料券配布。

健康を守る措置としては次の措置がとられました。
医療品の無料化。毎年無料検診を受けられる。非汚染食料の配給。有給休暇の追加。サナトリウムへの旅行券の支給。大学への優先入学。学校給食の無料化。
移住先での雇用と住宅提供もなされ、引っ越し費用や喪失財産も補償されました。

コロステンでは人口6万人のうち、5万8千人が被災者と認められました。
しかしその後にソ連が崩壊し、ロシアがソ連の責任を引き継がないと宣言したために、補償の予算がストップし、ウクライナは独自で補償を行わなければならなくなりました。
それでも当初は決められた補償額の半分以上は行っていました。しかし経済的危機に見舞われるなどする中で、現在の法律の実施率は14%にとどまっています。それでも国家予算の5%が費やされています。

法律で決まっていることが実行されていないことに対して、抗議の集会や実行を求める裁判も多く行われています。補償を求めた裁判を行えば、ほとんどは勝訴します。しかしそれでもなかなか実行されない。行政の側もは無い袖はふれない状況なのです。
この上に、昨年からは内戦状態になってしまいました。この中で補償はどうなっているのかというと、昨年、私が取材した時までは払われていました。戦争をやっているけれども払うと。
しかし国家が東西に分断してしまい、東側には振り込みができるシステムがないため、補償は東側には届いていません。無料のサナトリウム旅行券も行く先の多くがクリミアの施設だったのですが、ロシアに編入されてしまったために行けなくなってしまいました。

この補償がこの先見直されることはあるかのかというと、憲法違反になるのでその点は見直されないでしょう。憲法16条に次のようにうたわれているのです。
「ウクライナの環境を保全し未曽有の災害であるチェルノブイリ事故への対策に取り組むこと、ウクライナ民族の子孫を守ること、これらは国家のぎむっである」
このため憲法を変えないと、1991年にできた「チェルノブイリ法」をなくせないのです。

その点で法律はとても大事です。効力が長く続き、次の世代を守ることになるからです。もちろん住民の側に今も不満はあります。実際に補償されているものが少なすぎるからです。しかし法律があるからこそ要求できると住民たちは語っています。
認識しておくべきことは原発事故の補償は一世代では終わらないということです。何十年も続きます。一企業でまかなうのは絶対に無理です。国がやらざるを得ません。ウクライナは国家予算の多くの部分を費やし続けています。
これを考えると原発は安価などではまったくありません。一番高くつくものなのです。

今後のウクライナを考えるときに、大変心配なことは、ウクライナが国家破綻の瀬戸際にあって、IMFから融資を受けざるを得ない状態にあることです。IMF
はすでに融資の条件として社会保障をカットせよと要求してきています。
何十年も守られてきたチェルノブイリ法がIMFによって削られてしまう可能性があります。

放射能の被害は医学面でも分からないことがたくさんあります。その中で人々が不安の中にいるからこそ補償していかなくてはなりません。
それを考えると原子力は人間がまだまだ使いこなせないものであることが明らかだと思います。「科学」と言うと、なんだか規制などに適用できるはっきりとした数字があるかのように思えますがそうではないのです。
明確な基準が無い中で福島の人々は今、自分で判断しなくてはならない立場に置かれています。このようにそもそも判断できないことをさせることが原発の大きな罪であると思います。

明日は我が身です。今や私たちにはここは安全だというところがありません。福島原発事故の時にしたって、風向きが変わっていたら東京の汚染はもっとひどかったでしょう。だからすべての人が原発問題を自分のこととして考えることが求められると思います。
ウクライナは核兵器は放棄しました。原発もいったんやめたのですが、その後の経済的混乱の中で電力不足に陥って危機を迎えてしまいました。
そのため今は50%の電力を原発に依存しています。ベラルーシでも2011年に国内第一号の原発を建設する予定が発表されました。

私自身は今、ロシアに1年の半分、住んでいます。ロシアは大輸出国です。原子力ロビーの力も強い。そのため昨年などはチェルノブイリ原発事故の日である4月26日に何の報道すらされませんでした。
こうした巨大な力とたたかっていける道は、情報にしかないと思います。情報を寄せ集めて伝えていく。それしか圧倒的な力と立ち向かうことはできないと思うのです。

ノートテーク終わり

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明日に向けて(1044) チェルノブイリから学ぶこと(馬場朝子さん講演会より)上

2015年02月24日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150224 23:30)

京都府向日市で行われた馬場朝子さんの講演会「チェルノブイリから学ぶこと」に参加してきました。ミンナソラノシタ主催で「まこと幼稚園」で開かれました。
馬場さんは元NHKのディレクターとして2012年にベラルーシとウクライナを取材し、素晴らしいドキュメントと著書を紡ぎ出してくださいました。
その後にも取材を重ね、2014年にも新たなドキュメントを配信されています。

馬場さんたちの取材の大きなポイントは2011年に打ち出された「ウクライナ政府報告書」におけるチェルノブイリ原発事故による深刻な健康被害のレポートに接し、その実態してきたことにあります。
私たちが福島原発事故の今とこれからを考える上で、極めて示唆に富んだ取材になっています。
このためこれまでも僕は馬場さんの共著書である『低線量汚染地帯からの報告』などをとりあげてきました。以下の二つの記事です。

 明日に向けて(977)ウクライナの悲劇=被曝の現実を読み解く(ポーランドを訪れて-5)
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/83669290d338e0f63d694c7e55bfbee2
 
 明日に向けて(979)ウクライナの悲劇=被曝影響の隠蔽と第2世代の健康悪化・・(ポーランドを訪れて-6)
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/4fe8468358e177a263eb02d2c943b422

今回、その馬場さんが京都に来られると知って、どうしても直にお話が聞きたくて参加し、講演中、夢中でノートテークしてきましたので、何はともあれみなさんにご紹介したいと思います。
なお録音が禁じられていたため、あとからノート内容を確かめて修正することができなかったので、上述の書や、その後に新たに馬場さんたちが作られたドキュメントから補足を行いました。
「原発事故 国家はどう補償したのか~チェルノブイリ法 23年の軌跡」(NHKETV特集2014年8月23日放映)がそれですが、いずれにせよ、あくまでも守田がかく聞いたという内容であることを明記しておきたいと思います。

以上を踏まえた上で、ノートテーク内容をご紹介しますが長いので2回に分けます。コメントはその次の号で行います。

***

チェルノブイリから学ぶこと(馬場朝子さん講演会より)上 
2015年2月24日 向日市まこと幼稚園礼拝堂にて 
主催:ミンナソラノシタ 後援:まこと幼稚園

私は福島原発事故のとき、本当に怖い思いをしました。正しい情報がどこからも出てこない。私自身、放送局の中にいるのに、現地に取材に入った人からちらちら情報が入るぐらいでした。
それから半年、一年と水をどうしようか、食べ物をどう買ったらいいのか悩みましたが、チェルノブイリの人たちは長い間、ずっとそんな思いを続けてきたのですね。その方たちのところに行きたいと思い、取材にいって話を聞くことができました。
ウクライナには2012年と昨年と二度行きました。2回目は生活保障がどうなっているかを取材しました。今日は健康被害について取材したVTRをまずは紹介したいと思います。

大地を汚染した放射能にもいろいろありますが、このVTRで問題にされているのはセシウムの影響です。ウクライナの医師たちはセシウム汚染が一番の問題と言っています。
ウクライナはもともとヨーロッパの穀倉と言われた豊かなところです。みなさん、自家菜園をもっていて生活していました。豊富に採れるキノコやベリーを食べてきました。
チェルノブイリ原発事故から数年間は、みなさん、これらを食べるのを控えていましたが、食べ物への注意深さを維持するのは大変なことで、今では多くの方がもういいだろうと食べ始めています。医師たちも食べています。
そんなに長く、気にしていられないのです。そこに住み続けているともう仕方がない。そのために内部被曝が起こって病気が増えているという実感が医師たちにあります。

番組ではこの後、白内障について取り上げています。国際機関は白内障は250ミリシーベルト以上での被曝で起こると言っていて、低線量、100ミリシーベルト以下での被曝で発生することを認めていません。
ウクライナの研究者たちは汚染の高い地域と低い地域の比較研究を行い、低線量下でも白内障が起こっていることを証明する論文を提出しましたが認められませんでした。
この他にも、ウクライナの医師たちは、ありとあらゆる病気が増えていることを発表しています。

国際機関はなぜウクライナの医師たちの主張を認めないのか。疫学的な証明が足りないからだと言うのです。それも被曝線量などあらゆるデータが揃っている疫学的証明です。
その上である集団の被曝線量と健康被害との間に統計的に有意な相関があって初めて病が証明されたと言えるがウクライナにはそのようなデータがないと言うのです。
しかし平時ではデータをとることが可能かもしれませんが、事故によるあの大混乱の中でどれだけデータをとることが可能だったのでしょうか。

そもそも事故当時は放射線の空間線量を測る機器さえ少なかったのでした。ホールボディカウンターなど、ほとんどありませんでした。そのため被災者のうちのおよそ40パーセントしか被曝量が分かっていません。60%の人がどれだけ被曝したのかすら分からないのです。
しかも当時のソ連社会では原発に関することは軍事機密とされていました。すべての情報が秘密になっていました。そのため事故後、3年間は汚染情報は出てませんでした。この間に、原発事故の収束作業をした作業員がたくさん死んでいますが、そのデータも秘密にされていました。
今は少しはデータが出ていますが、あるロシア人ジャーナリストで、当時、被曝医療に携わった医師を取材した方が、医師たちに被曝した数値を低く見積もるようにと指示があったことを教えてくれました。こうしたことはありえただろうと思います。

被災地域の住人たちは、原発から30キロ以内はすぐに避難しましたが、その後に避難先からも移動していて、どこに行ったのか追跡するのが困難な人も多くいます。このような状況で国際機関が求めるすべてが揃った疫学的データなど、あまりにハードルが高すぎるのです。
またウクライナは貧しい国で研究のための人員もお金も足りません。その上、国際機関に認められるためには英語で論文を書き、英文の科学雑誌で採用されなくてはなりませんが、そうしたことを出来る人は非常に限られています。
このため国際機関が無視を続けているのですが、ウクライナの医師たちは、自分たちの実感が無視されていると考えています。しかし必ずいつか、自分たちが明らかにしたことが真実だということが証明される日がくると信じて頑張っています。

私自身は熊本に関わりがあるのですが、このウクライナの状況と水俣病となんと似ているのかと思いました。
水俣病では住人にはっきりとした症状が出ているのに、原因が工場による水銀の排出にあると特定するまで10年以上かかってしまいました。現地の医師は、当初からおかしいことが起こっている、排水が疑われると言っていましたが、データが不備だということで却下されてしまいました。
国家が企業を優先して原因を解明しようとしなかったのです。そのあり方がとても似ています。

次に番組ではヨウ素によって引き起こされている甲状腺がんについて放映しました。私が取材した中で、この甲状腺がんについての事実が一番衝撃的でした。
事故から数年経ったときに、ベラルーシの子どもたちの手術を受ける映像を観たことがあって、あの頃が甲状腺がん発生のピークだと思っていたら、毎年、発生件数が増え続けているのです。今も増え続けています。
ヨウ素の半減期は8日です。2ヶ月でゼロになります。その影響が何十年も経って出ているのです。今でも毎年600、700人が甲状腺がんの手術を受けています。

今、福島でもたくさんの子どもたちから甲状腺がんが見つかっています。その時、チェルノブイリ原発事故では甲状腺がんの発生は4年後だったから、今見つかっているものは福島原発事故由来ではないというコメントが繰り返されています。
しかしウクライナの現場では3年後の89年には甲状腺がんが増加していることが医師たちによって捕まれていて、国内のシンポジウムで発表もされていたのです。にもかかわらず当時のソ連政府に無視されたのでした。
私が取材したコロステンでも、医師が翌年の87年から甲状腺がんの子どもが出ていたと語っていました。

事故から4年経つと日本からの援助もあって検査機器が増え、検診が強化されました。そのことで爆発的に見つかったのです。この経験からウクライナの医師たちが福島が心配だと語っています。必ず検査を受けてくれ、データを採ってくれと言っていました。
しかし福島では、県が行っている検診に行かない人が増えているそうです。どうしてかというと、検診を受けても、A,B,Cの判定が渡されるだけで何の説明もないからです。
コロステンでは毎年検診を行っていて、医師から、エコー検査の写真などを示しながら、とても詳しい説明がなされています。福島ではこれが全くないのです。

もっとこの検査は何のためにやっているのか。10年、20年後のためにもやっているという説明をしなくてはいけない。そういうことがとても大事です。
ある医師は「住民の不安を煽るとよくないので詳しい説明はしない」と語っていました。しかしウクライナでは住民たちは「最悪の情報でもいいから伝えて欲しい。それを知れば対応することができるから」と語っていました。
伝えることを検査をする側が取捨選択してはいけないのです。

続いて第二世代の病について放映しました。この点については医学的に解明されていない部分がとても多いですが、「遺伝的影響はない」ということになっています。
いずれにせよ、セシウムによる内部被曝が続いているのは確実です。番組に登場しているステパーノバ博士の意見では、放射線によって細胞の中のミトコンドリアがダメージを受けて、いろいろな疾患が増えているのだろうとのことでした。
彼女はこの点についてさらに研究をしたいと思っているのですが、今のところは予定化できていないそうです。

それにしても子どもたちに病気が多いことには本当に驚きました。現地に行く前に汚染地の子どもの78%に病気があると聞いて、まさかと思いました。ところがコロステンの学校に取材にいったら、実際にそうでした。子どもたちは見るからに痩せていました。顔色も悪いのです。
原因として経済困難などもあるかもしれません。ジャンクフードもたくさん出回っているので、それが健康を悪くさせている面もありえます。
しかし地元の医師たちは、何よりも放射能の影響だと思っていると語っていました。ウクライナの人々は、今もなお不安の中で生きているのです。

続く

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明日に向けて(1043)ICRPの歴史を再度捉えなおす-下(矢ヶ崎さんのICRP批判のポイント-3)

2015年02月22日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150222 23:30)

ICRPの歴史の批判的捉え返しの後篇です。昨年秋に7回にわけて行った連載のダイジェストです。今回は読みやすいように7回の連載に即した小見出しを入れます。

広島・長崎における被曝影響の過小評価

これまでマンハッタン計画を引き継いだアメリカ原子力委員会や全米放射線防護委員会(NCRP)が、放射線の遺伝的影響への人々の不安をなんとか抑えることに腐心してきたこと、これにICRPが同調を深めてきたことを明らかにしてきました。
これに対してビキニ環礁の核実験の後にはガンや白血病への懸念も高まってきました。とくに焦点化されたのはストロンチウム90による汚染でした。ストロンチウムはカルシウムと化学的性質が似ているため骨に入り込み、人体に深刻な影響を与えます。
ストロンチウムの危険性を告発した有名な書にレーチェル・カーソンの『沈黙の春』があります。彼女はこの中で殺虫剤などの化学物質とストロンチウムなど放射能による複合汚染をこそ、生物に差し迫る危機として告発したのでした。

放射線に起因するがんや白血病の恐れを押さえるためにフル活用されたのが、アメリカが組織した原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島・長崎で行った被爆者調査でした。ここからは急性死亡のしきい値は1シーベルトであり、放射線障害のしきい値は250ミリシーベルトだという結論が導き出されていました。
しかし急性死しきい値1シーベルトという値は、1945年9月までの死者を対象にしたものでしかありませんでした。その後も放射線障害から回復できずに次々と亡くなっていった人々がデータから除外されたものでしかなかったのです。
放射線障害も、「脱毛、皮膚出血斑(紫斑)、口内炎、歯茎からの出血、下痢、食欲不振、悪心、嘔吐、倦怠感、出血等」などが爆心地から5キロぐらいでたくさん見られたにもかかわらず、爆心地から半径2キロ以内に高い割合で発生した「脱毛、紫斑、口内炎」のみが放射線急性障害であると断定されていました。

このため半径2キロ以外の人々が放射線障害を受けた被爆者として認められなかったのですが、ABCCは2キロ以内の被爆者が受けた傷害をこれら2キロ以外の被爆者との比較対照から導き出すことで、被害を実態より小さくみせる操作まで行いました。
白血病の調査も被曝後の広島と全国平均との単純比較によって行い、有意差がないことから被害はないという結論を導き出そうとしました。しかし1930年から34年の広島の調査では白血病は全国平均の半分だったのでした。そのため被爆後に全国平均と同じになったのは、実質的には倍になったことを意味していました。
さらにそもそもABCCの調査そのものが1950年10月1日以降のものであり、それ以前に亡くなった人々もまたデータから消されてしまいました。もっとも重篤な被害を受けた人々の苦しみがまったくカウントされていなかったのです。

調査対象が広島、長崎に限定されたことも大きな問題でした。なぜなら原爆投下後の両市は壊滅状態だったため、多くの人々が市外や他県に移らざるを得ませんでした。これらの人々のうちにはそのまま他の地域に定住した人々がいましたが、それも調査から切り捨てられました。
仕事を求めて移住した人々も同じでしたが、この場合、より若い人ほど移動が顕著だったため、データから放射線感受性がより高い多くの若い人々もまた除外されることになりました。
さらにもう一点付け加えるならば、被爆者に対して日本社会の中で起こった差別が被害者を大変苦しい状況に追い込み、被害者が被害実態を告発できず、社会的に隠されてしまうことまでが重なっていました。私たちはこうした中で被爆者が、二重、三重、四重に苦しんできたことをしっかりと把握する必要があります。


コスト・ベネフィット論-放射線防護学への金勘定の導入

一方、ICRPをはじめとした国際原子力村は、広島・長崎のあやまった、過小評価された放射線障害のデータに依拠しつつも、医学的・科学的論争に依拠していては、新たな科学的事実が露見した場合に非常に不利になる事態を考え、路線変更を目指してきました。
それが放射線の危険性を科学的に洞察して安全値を決めることから、「リスク・ベネフィット論」を持ち込み、放射線被曝にリスクがあっても、それを越える利益があればよしとする論議への転換でした。
肝心なのは、どちらがよりリスクが多く、ベネフィットが多いのかというのは社会的にしか判断できなことであり、科学的には導き出せないことだということです。そこには何を価値的に高いものとするのかという人為的判断が忍び込むのであり、その点で純粋な科学的判断ではなくなるのです。

あえて例えを入れましょう。早稲田大学に入ることと慶応大学に入ることにはどちらの方がベネフィットが高いでしょうか。科学を装った場合、両大学の卒業生の終身給与だとか、社会的ポストだとかを数値化した比較が試みられるかもしれません。
しかしそんなもの、どこまでいっても科学的な答えではないのです。この場合、代入する数値の項目によって違ってしまうでしょうし、なおかつ、どちらに軍配が上がろうとも、愛校心をもっている卒業生たちのすべての納得など得られるべくもないでしょう。そこには社会的判断と個人的判断が入れ込んでいるからです。
にも関わらずその計算が科学的に導き出されるかのように装っているのが、リスク・ベネフィット論なのです。このリスク・ベネフィット論は、1970年代にいたるとさらに「進化」して「コスト・ベネフィット論」となっていきました。

背景はうち続いた原発事故による社会的不安の高まりの中で、たくさんの科学者が放射線被曝の危険性がICRPが見積もっているよりかなり高いことを表明し始めたことにありました。
こうしたとき、ICRPは中立性を装った科学団体を登場させるのですが、このときはBEIR委員会が登場しました。日本語名を「電離放射線の生物学的影響に関する委員会」というもので、前身のBEAR委員会=「原子放射線の生物学的影響に関する委員会」を受けたものでした。
人々の意識が核実験から原発に移ったことに対応し、原子(Atomic)が電離(Ionizing)に変えられたのですが、この委員会が、放射線被曝を提言するコストが、社会が被る利益を上まってはならないとする定義を打ち出したのでした。

これに基づいてそれまで「すべての線量を容易に達成できる限り低く保つべきである」(as low as readily achievable:ALARA)とされた内容も書き換えられました。
どう変わったのかと言うと「容易に達成できる限り」を「合理的に達成される限り」に差し替えたのです。英語では”as low as reasonably achievable”になります。readilyがreasonablyに変えられたのでした。
容易にと合理的にの違いは一見ピンと来ないかもしれませんが、重要な点は、合理的にとはより安く、つまり経済的損失が少ない形でという意味を含んでいることです。

その事の決定的な意味は、被曝が純粋な生物学、医学の領域かは完全に離れて、経済学的範疇、もっと平たく言えば損得勘定から考察されるようになったことです。その際、重要なのは何が得で損かを決めているのは原子力を推進している側だという点です。これらの人々が放射線の被害を低く、放射線を使う利益を過大に見積もらないわけがありません。
このBEIR報告を受けて、ICRPはコスト・ベネフィット論の導入に踏み切り、放射線防護の目的を「最適化」と呼び出しました。防護にかける金額が、放射線利用によって生じる儲けを侵害してはならないというのが「最適化」の中身なのです。このことがICRP1977年勧告において定式化されたのでした。
決定的なことはこのもとでこのコスト・ベネフィット計算を盛り込んだ値が「実効線量」という名で呼ばれ採用されるようになったことです。単位はシーベルトです。要するに実効線量=シーベルトは、身体にあたる放射線量の物理量のことではないのです。経済的計算を加味することで純粋科学と遊離したリスク値、つまり損得勘定から割り出した値が「シーベルト」という数値なのです。


原爆線量見直しとチェルノブイリ原発事故

ICRPによるコスト・ベネフィット論への純化は1977年勧告で鮮明化されたのですが、ICRPはその後も線量評価を見直さざるを得ない事態に直面していきます。
決定的だったのは1979年にスリーマイル島原発事故が発生したことでした。このことで原発事故への懸念がますます高まりました。
同時にこの時期、中性子爆弾開発過程で、広島・長崎の中性子スペクトルの解析が行われたところ、大きな誤りがあることが露見してしまいました。広島、長崎の被害が、従来見積もられていたよりもずっと少ない放射線値で起こっていることが明らかになってしまったのでした。

このためICRPはそれまで依拠してきた広島、長崎の被曝線量を評価した「T65D=1965年暫定被曝推定量」を放棄せざるを得なくなりました。
これに変わって採用されたのが「DS86=1986年線量推定方式」でした。これにあわせてICRPは1985年にパリ会議を開き、公衆の放射線防護基準を従来の5分の1とし、1年間に1ミリシーベルトとしたのでした。
しかしパリ声明では同時に緊急時には「1年につき5ミリシーベルトという補助的線量限度を数年にわたって用いることが許される」という文言も入れ込まれました。

なぜICRPはこのような方向性を採ったのか。これまで見てきたように、一つには放射線防護学を純粋な物理、医学領域から切り離し、ベネフィット計算という恣意的なものを持ち込むことで、放射線を使う産業の行き詰まりの可能性を打ち破ろうとしたことがありました。
その上で、スリーマイル島事故以降、高まる原発への批判を鎮静化させるために、あたかも防護基準を厳しくしたような装いをする目的がありました。
しかし厳しくなった基準が、原子力産業の首をしめないために、非常時規定、要するに事故で1ミリシーベルトが守れなくなった時の規定を設け、事実上は5ミリシーベルトまで十分、許容される体系を作ったのでした。

このことは直後のチェルノブイリ事故にすぐさま適用されました。1ミリシーベルトなどと言っても、実際に放射能が漏れ出てくると緩和されるように仕組みを作ってきたことがすぐに適用されたのでした。
私たちが注視しなければならないのは、まさにこの延長上に、福島原発事故以降の私たちの置かれている現実があるということです。
1ミリシーベルトなどという基準は、それ以下の放射能漏れしか起こらない時のもの。事故が起こればそんなものはなくなってしまうのです。かくして私たちの国は、5ミリどころか年間20ミリシーベルトの被曝までが押し付けられてしまっています。

整理します。1977年勧告を最後的な境として、放射線防護学は完全に科学から遊離しています。あたかも放射線の強さを測っているかに思わされている「実効線量」は、その実、放射線防護にかかるコストと深刻な病になるリスクを換算して出てきている物理量とはまったく無縁な数値なのです。
そこではリスクもベネフィットも、社会的判断によって換算されていること、しかも放射線防護学では、放射線を使って儲けたい側、原子力村による恣意的な換算がベースになっていることが覆い隠されています。
私たちは、この点にICRPのもっとも顕著な非科学性、科学を装って人を騙している犯罪性があることをしっかりと把握しておくのでなければなりません。

以上の点までが『放射線被曝の歴史』で、中川保雄さんが明らかにした点です。まったくもって画期的な分析でした。
これまで述べてきたように矢ヶ崎さんのICRP批判は、中川さんがここまで成し遂げた業績を全面的に受け継いで、さらにICRPの線量評価の非科学性を具体的に分析したものです。
これらを前提として踏まえるべきこととしておさえた上で、先に進みたいと思います。

続く

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明日に向けて(1042)ICRPの歴史を再度捉えなおす-上(矢ヶ崎さんのICRP批判のポイント-2)

2015年02月19日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150219 23:30)

ICRP(国際放射線防護委員会)批判の続きです。
この組織が歴史的にどういう経緯を辿って作られたのかについてが前提になりますが、これについては昨年11月から12月にかけて連載を行いました。『放射線被曝の歴史』(中川保雄 1991 明石書店)に全面的に依拠したものです。
これらを参照していただいて話を前に進めたいところですが、それでは大変、不親切になりますので、今回はこの7回に渡る連載のダイジェストを記しておこうと思います。2回でまとめてみます。
なぜこのような手順を踏むのかと言うと、僕は矢ヶ崎さんのICRPの線量体系批判を、中川さんのICRPの歴史的批判を継承し、より深化させたものと考えているからです。歴史編が中川さん、論理編が矢ヶ崎さんの仕事と言っても良いと思います。

まず全体を貫いているポイントとしておさえるべき点は、ICRPの放射線線量評価体系はアメリカの被ばく調査に基づいているということです。もともと加害者による被害調査と言うもともと大きな歪みの上に作られた体系なのです。
アメリカは原爆投下という戦争犯罪を行ったのちに日本を占領し、広島・長崎に赴いて被爆者調査を排他的独占的に行ったのでした。原爆のデータを独占しつつ、できるだけ被害を小さくみせるためにでした。
情けないことに、私たちの同胞を原爆投下後に二重三重に踏みつけるこの調査に、日本政府は全面的に協力しました。自らのアジアでの戦争犯罪を訴追されないことが強い動機となっていました。
今でもアメリカも日本政府も、この調査内容を踏襲しています。それが今も私たちや世界中のヒバクシャを苦しめている放射線被害過小評価の元凶なのです。

ICRPはもともと1928年にアメリカで成立した組織が国際化した「国際X線およびラジウム防護委員会」を継承して1950年に結成された組織です。
当初は放射線はある線量以下であれば生物に影響を及ぼすことはないと考え、安全な値を「耐容線量」と捉えて、1931年に最初の値を決定しましたが、その後1940年に「耐容線量」を大幅に引き下げました。遺伝学者たちからの強い批判があったからでした。
しかし第二次世界大戦中に活動が停滞。同時にアメリカで原爆開発が進められ、1945年広島・長崎に原爆が投下されたことにより「放射線防護」の持つ意味が大きく変化しました。
核武装を強力に推し進めていたアメリカ政府は、マンハッタン計画=原爆製造の代表を加えて「アメリカX線およびラジウム防護委員会」を「全米放射線防護委員会(NCRP)」に改組しました。

アメリカは第二次世界大戦後にマンハッタン計画に参加していたイギリスやカナダと三国協議を進めてあらたな方向性への合意を取り付け、NCRPの主導のもとさらにフランス、スウェーデン、西ドイツを加えて「国際X線およびラジウム防護委員会」を「国際放射線防護委員会(ICRP)」に改組しました。
全米放射線防護委員会(NCRP)はさらに「耐容線量」という考え方を大きく転換し「許容線量」という考え方を導入し、国際放射線防護委員会(ICRP)に追認させていきます。
確かに放射線は危険なものでなにがしかのリスクを生むが、かといって放射線を用いる重要な業務を著しく困難にすることは不利益である。このためリスクを十分に低くすることをめざすとされました。
この際、NCRPもICRPも放射線に極端に弱い人々も存在していることを十分に認識しつつも、「平均的人間」を防護の対象とすることで、これらの人々をあらかじめ切り捨ててしまいました。

しかし設立当初のICRPはアメリカのNCRPに一定の抵抗を示し「1950年勧告」では「被曝を可能な最低レベルまで引き下げるあらゆる努力を払うべきである」と述べていました。
当時のICRPの立場に大きな影響を与えたのは、広島・長崎の惨劇を目にして心を痛めた世界中の人々の声でした。これに放射線による遺伝的影響を強く懸念する科学者たちの声が重なっていました。
とくに1950年に朝鮮戦争がはじまり、アメリカのトルーマン大統領が原爆投下の可能性を示唆したことに対し、世界中で核兵器の禁止を求める「ストックホルム=アピール署名運動」が高揚し、全世界で5億人もの署名が集まりました。
「被曝を最低レベルにせよ」という文言は、広島・長崎の痛みをシェアしつつ、遺伝的障がいから命を守ろうとする世界の人々の願いがこもった言葉だったのです。

これに対してアメリカの広島・長崎での放射線障がいや遺伝的影響の調査の中心を担ったのは原爆傷害調査委員会(ABCC)でした。1946年11月26日にトルーマン大統領が全米科学アカデミー・学術会議に設置を指令し、翌年1月に設置されたとされる機関でした。
あたかも学術的な団体であるかのようなカモフラージュがなされましたが、実態は戦後直後に原爆の人体への殺傷力を調査したアメリカ陸軍および海軍の各軍医総監が、原爆製造計画段階から密接な関係にあった全米科学アカデミー・学術会議に要請して作った組織でした。
この組織は主に原爆の殺傷力の調査を行いました。目的は原爆の殺傷力を知ることで今後の核戦略の基礎データとすること。モスクワを攻撃するには何発の原爆が必要なのかなどを編み出すこと。同時に原爆を受けたときに兵士たちがどれだけ生き残り、反撃できるかを調べることした。
当初、これに最大の協力をしたのはなんと日本陸軍でした。敗戦が決定的になるや陸軍は中国大陸での731部隊による人体実験をはじめ、数々の戦争犯罪がアメリカに訴追されることを避けるため、原爆の被害調査を行い、自ら英訳し、占領軍が到来するや否や差し出したのでした。

ABCCは遺伝的影響の調査として7万人の妊娠例を追跡調査し、遺伝的影響として次の5項目を調べたことを発表しました。
(1)致死、突然変異による流産、(2)新生児死亡、(3)低体重児の増加、(4)異常や奇形の増加、(5)性比の増加(もし影響があるなら母親が被ばくした場合には男子数が減少し、父親が被ばくした場合には男子数が増加する)。
調査は1948年から1953年にかけて行われましたが(5)をのぞいては統計的に有意な事実は確認されず、その(5)も1954年から58年の再調査でやはり有意であるとは確認されませんでした。
しかし当のABCCの中でもこの調査では有意な値は出ないのではないかと疑問視されたものでしかありませんでした。調査人口があまりに少なかったからです。このため調査結果は「遺伝的影響があるともないとも言えない」というものでしたがABCCは「遺伝的影響はなかった」と大々的に宣伝しました。

一方でオークリッジ国立研究所では動物実験が行われていました。マウスを使った実験で高線量で遺伝的影響が現れることが確認されるとともに、自然状態での突然変異の発生率の倍になる被曝線量=倍化線量が探られました。
得られた値は30~80レム(300~800ミリシーベルト)でした。このためアメリカの遺伝学者の多くは、80レム(800ミリシーベルト)を倍化線量の上限値と捉えるようになりました。
これらから人体における遺伝的影響は確認されないとされたものの、動物においては明確に倍化線量があることを踏まえた上で、では公衆の被曝量限度をどの値に設定するのかということが論議されていくようになりました。
こうした論争を反映して1954年のICRP勧告では、許容線量について次のように声明されることとなりました。許容線量とは『自然のレベルよりも上のあらゆる放射線被曝は絶対的に安全とみなすことはできないが、無視しうるリスクをともなう』線量だとしたのです。

1950年代にICRPを取り巻く環境は大きく変わ利始めました。一つはイギリス・フランスなどが遅れて核保有国となったこと。また各国で原子力発電が開始され、ICRPがリスク受忍論により傾斜して行ったことです。
もう一つは核実験がより頻繁に行われる中で、ビキニ環礁での周辺住民の深刻な被曝が起こり、日本でも第五福竜丸などが被曝するに及んで、放射線被曝の危険性への国際的な関心が高まったことも大きな背景としてありました。
この中で核戦争体制を維持し、さらに原発を広げていくことが目指されたため、新たな「科学的な粉飾」を施した「放射線防護学」が求められました。
これらを背景としつつ、ICRPは1950年代から60年代に、勧告を塗り替えるたびに大きな変貌を遂げて行きました。

原子力発電に世界で最初に踏み切ったのは旧ソ連でした。1954年のことです。原子力部門で断然他国を引き離していると思っていたアメリカは大きなショックを受けました。
このためアメリカは急速に国内体制を転換し、商業用の原発技術の開発を目指していきます。重視されたのは長期運転を可能にするシステム作りで、コストを削減するための安全面の配慮の後景化が始まりました。
一方でビキニ環礁で深刻な被曝が起こりました。アメリカは広島原発の威力を1000倍も上回る「ブラボーショット」などの核実験を繰り返し、マーシャル諸島住民や周辺にいた漁船多数に深刻な被曝をもたらしたのでした。
これに対して杉並の母親たちによって原水爆実験禁止を求める署名運動がはじまり、瞬く間に全国に拡大して原水爆禁止署名運動全国協議会が誕生、短期間で2000万人もの署名が集まりました。

これを受けて翌1955年に原水爆禁止世界大会が初めて広島で行われました。初めての被爆者の独自の叫びでした。またアメリカ自身の内側でも、ネバダ砂漠で行われた核実験で被曝が多発し、ニューヨークの水道水で放射能汚染が確認されたことなどから核実験反対の声が上がり始めました。
これらの運動はいずれの放射線被曝による遺伝的影響への不安をバックボーンとしていました。
放射線被曝がこのように大きな社会的問題になると、必ず学術界が第三者のような顔をして登場してくるのですが、その最初の例が、アメリカの「原子放射線の生物学的影響に関する委員会」でした。通称をベアー(BEAR)委員会といいます。
委員会を財政的にバックアップしたのは、マンハッタン計画のときから原子力産業に参画してきたロックフェラー財団でした。この財団がアメリカ政府や軍関係者が表立つことよりも学術界が矢面に立つ方が良いと判断し、多額の資金を投入しました。

BEAR委員会の報告は早くも1956年6月に発表されました。焦点はやはり遺伝学的影響についてでした。委員会は、遺伝学見地からは放射線の利用は可能な限り低くすべきであるが、放射線被曝を減少させることは、世界のおけるアメリカの地位をひどく弱めるかもしれないので、合理的な被曝はやむをえないとする立場を打ち出しました。
このもとに遺伝的影響を倍加する線量は50から1500ミリシーベルトの間にあり、動物実験では300から800ミリシーベルトの間にありそうだとまずは断定。
合理的な線量として労働者の場合は30歳までに生殖器に500ミリシーベルト以下、40歳までにさらに500ミリシーベルト以下に、公衆の場合は30歳までに生殖器に100ミリシーベルト以下とするようにという勧告がなされました。
これがICRPに持ち込まれ、BEAR報告を加工したNCRPの1956年勧告がそのまま適用され、ICRP1958年勧告が出されることとなりました。

このときICRPはリスク・ベネフィット論を受け入れ「原子力の実際上の応用を拡大することから生じると思われる利益を考えると、容認され正当化されてよい」と述べられ、放射線防護が緩和されていくようになりました。
1950年勧告では「可能な最低レベルまで(to the lowest possible level)」とされていたのが、1958年勧告では「実行可能な限り低く(as low as practicable:ALAP)」と緩められてしまいまいた。
アメリカはこの動きをさらに促進し、この時期に生まれた二つの国際組織への関与を深めて行きます。その一つが「原子力の平和利用」の名の下の原子力発電の推進の中で1955年におこなわれた「原子力平和利用会議」を継承した「国際原子力機関(IAEA)」でした。
一方で核実験に対する批判の高まりの中で国連の中に生まれたのが「原子放射線の影響に関する科学委員会(UNSCER)」でした。「科学」の名が冠されているものの、実際には参加国の代表によって構成されました。

UNSCERは拡大版ICRPとも言えるもので、アメリカ、イギリス、カナダ、スウェーデン、フランス、オーストラリア、ベルギー、日本、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、インド、エジプト、ソ連、チェコスロヴァキアの15か国が参加しました。
ソ連や社会主義国、第三世界が参加したことに特徴があり、当初、核実験の降下物への評価が真っ二つに割れました。ソ連とチェコスロヴァキアは核実験反対を表明、これに対してアメリカ、イギリスが共同戦線を張りました。
このとき被爆国として参加した日本はアメリカに追従し、なんと核実験即時停止に反対しました。
こうして世界の「放射線防護」のための機関は、その実、核兵器と原子力発電の推進派に牛耳られるようになってしまいました。

しかしこのアメリカの動きを大きく阻むものがありました。世界中でより一層、高まっていった核実験反対運動でした。
アメリカはBAER委員会などにより国際委員会を籠絡していったものの、世界の民衆の声を封じ込めることはできなかったのです。
この動きをみたソ連が1958年1月に一方的に核実験停止を宣言。追い込まれたアメリカのアイゼンハワー政権は翌1959年に核実験を一時停止すると声明しました。民衆の力が国際機関など跳ね除けて、核実験の停止をアメリカに約束させたのでした。
しかしこのためにアメリカは1958年に停止前の駆け込み実験を多数強行。その数は1950年代前半の数倍にものぼりました。このため1959年にはアメリカ全土での死の灰の降下が急増しました。各地でストロンチウム90の濃度が上がっていることが確認されました。

世界を覆うこの核実験反対の声に対しアメリカはさらにリスク・ベネフィット論を進化することで対応をはかり、NCRPに1959年勧告を出させました。
さらにこれらの総仕上げとして出されたのがICRP1965年勧告でした。勧告には「経済的および社会的な考慮を計算に入れたうえ、すべての線量を容易に達成できる限り低く保つべきである(as low as readily achievable:ALARA)」という文言が入りました。
ようするにアメリカの主導のもとにICRPは医学的、科学的に安全論を争っていてはもはや勝てないと判断し、「経済的および社会的な考慮」を持ち込むことで政治的に押し切る方向性に大きく舵を切ったのでした。
こうして世界の放射線学に、本来、放射線という科学的物質とはまったく関係のない政治・経済的要因が持ち込まれ、その上でいかなる放射線量を許容すべきなのかと言う考察が重ねられていくこととなったのでした。言い換えれば1964年にICRPは最後的に科学から遊離していったのでした。

続く

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明日に向けて(1041)原発動かすな!みんなで町を歩こう!(デモへのお誘い)

2015年02月18日 17時00分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150218 17:00)

前号で川内原発、高浜原発再稼働向けた動きがけして「順調」などとは言えないことを紹介し、積極的な反対行動に起つことを呼びかけました。
今回は今週末から原発事故4周年の3月11日前後のデモ情報を掲載することにしました。

情報元として以下のサイトを使わせていただきました。集計、ありがとうございます。

 日本全国デモ情報
 http://www.magazine9.jp/demoinfo/

こちらでネット情報の入手先が個人ブログになっているものを可能な限り主催団体のものに修正しています。

各地から発信されているチラシも集めてみました。僕のFacebookページに掲載したのでご覧下さい。
 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10204700952142016&set=pcb.10204701035584102&type=1&theater

もっとたくさんの企画があると思われますので、これらは全国津々浦々で行われようとしている取り組みの一部だと思います。
今後も可能な限り継続的にご紹介しようと思います。

僕自身は3月7日の「3・7原発ゼロ京都北部集会」に参加し講演させていただくことになりました。
高浜原発直近の舞鶴市での集会です。集会後にデモも行われるのでもちろん参加させていただきます。

この他デモではありませんが、グリーンピースの核/エネルギー担当の鈴木かずえさんが、すぐにもできる二つの行動を提案してくれています。
これもなかなか良いなと思ったのでご紹介します。

 関西電力高浜原発の再稼働をあなたの力で「不合格」に。今すぐできる二つのこと。
 グリーンピース 2015年2月12日
 http://www.greenpeace.org/japan/ja/news/blog/staff/blog/52074/

それぞれの取り組みに互いにエールを送りあいつつ、全国から再稼働反対、原発ゼロにという声を響かせましょう!
以下、企画情報を貼り付けます。

*****

2月21日
高浜原発3・4号機の再稼働はさせないで!!
兵庫県庁包囲行動(兵庫県神戸市)
https://twitter.com/221kenchouhoui/status/562759254239895553

2月22日
ふしみ原発ゼロパレード(京都府京都市)
http://nonukesfushimi.blog.fc2.com/blog-entry-238.html

3月1日
第4回 さよなら原発in越谷(埼玉県越谷市)
大集会&大パレード
http://nakadote.jimdo.com/

3・11福島を忘れない  原発ゼロ 高槻deパレード(大阪府高槻市)
http://takatukigomi.sblo.jp/article/109918535.html

3月7日
バイバイ原発3・7きょうと(京都府京都市)
http://nonukeskyoto.com/

3・7原発ゼロ京都北部集会(京都府舞鶴市)
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10204694816108619&set=a.3300903639751.2140616.1182740570&type=1&theater

3月8日
原発事故から4年 フクシマを忘れない!さようなら原発北海道集会(北海道札幌市)
http://www.jichiro-hokkaido.gr.jp/archives/5156

力あわせる200万群馬 さよなら原発アクション(群馬県高崎市)
http://blog.goo.ne.jp/gk-sakai/e/9778c055d3bef0f36c87797d11978293

さよなら原発市川パレード(千葉県市川市)
http://blog.goo.ne.jp/311ichikawa/e/82ea96f72bd76cda1a3e7ec1078f06ab

NO!NUKES NO!WAR 浜岡原発再稼働反対!
3・8原発NO!浜松集会・デモ(静岡県浜松市)
http://middleearth.hamazo.tv/e5921704.html

3・8つながろうフクシマ・ひろげよう脱原発(長野県松本市)
http://no-genpatu.com/information/524.html

3・8さようなら原発 三重パレード(三重県津市)
https://www.coop-mie.jp/ai1ec_event/a_event-3330?instance_id=4013

原発のない社会へ 2015びわこ集会(滋賀県大津市)
http://biwako2015.shiga-saku.net/

さよなら原発 関西アクション(大阪府大阪市)
http://genpatsuzero-osaka.com/modules/contents/content0091.html

第13回なくせ原発!河内長野デモ(大阪府河内長野市)
http://knagano311.blog.fc2.com/blog-entry-40.html

フクシマを忘れない!原発ゼロへ
和歌山アクション2015(和歌山県和歌山市)
http://wgezero310.blog.fc2.com/

3・11メモリアル高知・四万十集会(高知県四万十市)
http://blog.goo.ne.jp/ohma1234/e/7f2618b541c3b0cc8aac854383a82dea

さよなら原発!3・8北九州集会(福岡県北九州市)
http://bye-nukes.com/kitaq/

さよなら原発 大牟田市民のつどい(福岡県大牟田市)
http://www.shiranuhi-law.com/

2015年原発ゼロへのカウントダウンinかわさき(神奈川県川崎市)
http://genpatsu-zero.com/syuukai2015.html

NO NUKES DAY 反原発★統一行動〜福島を忘れるな!再稼働を許すな!〜
 @東京・日比谷野音(大音楽堂)、国会議事堂周辺
http://coalitionagainstnukes.jp/?p=5791

3月11日
忘れない「3・11」キャンドルプロジェクト(東京・代々木公園ケヤキ並木)
http://candle311tokyo.blog.fc2.com/

3・11全国一斉スタンディング(神奈川県茅ヶ崎市)
http://chi9sta.exblog.jp/20880997

● さよなら原発!3・11福岡集会 ●(福岡県福岡市)
https://drive.google.com/file/d/0B6EQ5_tZOVZcUWRPNklIeTNfLTA/view

3月14日
2015原発のない福島を!県民集会(福島県福島市)
http://fukushima-kenmin311.jp/

3月15日
さようなら原発・核燃「3・11」青森集会(青森県青森市)
http://nakuso-gk.net/event.html#a26

3・15 NO NUKES!DEMO 原発ゼロを永遠に!
NAGOYA ACTION(愛知県名古屋市)
http://blog.livedoor.jp/genpatuiranganena/

3月21日
上関原発を建てさせない山口県民集会(山口県山口市)
http://stop-kaminoseki-assembly.net/

*****

上記のものに載っていない取り組みが以下に紹介されています。
ただし詳細未掲載です。興味のある方はご自分でお調べください。

2015年3月1日~15日 NO NUKES WEEK 各県のとりくみ
http://www.no-genpatu.jp/03joho/data/2015/150210_02.pdf

 

 

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明日に向けて(1040)高浜原発再稼働阻止-原発事故から4年、脱原発行動をさらに盛り上げよう!

2015年02月17日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150217 23:30)

鹿児島県の川内原発に続いて福井県の高浜原発の再稼働に向けた動きが活発化しています。
原子力規制委員会は2月12日、再稼働に必要な審査を進めている関西電力高浜原発3、4号機(福井県)の事実上の合格証となる「審査書」を正式決定。関電に施設の変更などを認める許可書を交付しました。
新規制基準の適合を認められた原発は、九州電力川内(せんだい)原発1、2号機(鹿児島県)に次いで2カ所目となります。
安倍政権がさまざまな案件に高圧的な態度を取り続けていることもあって、こうした報に暗い気持ちになる方もおられるかと思います。

しかし再稼働はまだ決定し、実現したわけではありません。たくさんの点検が残っているし何より「地元」との合意問題が残っています。これにはどこを「地元」と判断するのかと言う点も含みます。
他にも高浜原発の再稼働を認めない仮処分が申請されているほか、さまざまな抵抗が行われています。だからまだまだできることはたくさんあります。
さらに私たちが見ておくべきことは、そもそもあの絶対多数の議席を獲得している安倍政権が原発の再稼働を今日まで実現できずに来ていることです。
一番最後まで稼働していたのは福井県の大飯原発3、4号機でしたが、それが止まったのが2013年9月15日。それから今日まで連続521日間、私たちは原発の運転を食い止めているのです。

そもそも大飯原発は2012年7月5日に稼動原発ゼロの状態から再稼働を強行されたのでしたが、他の原発はそれ以前に止まっていました。
最も長く止まっているのは柏崎刈羽原発2号機です。これまで7年7カ月も止まっている。次は同じく柏崎刈羽原発3、4号機でこれらは7年6カ月も止まっている。
ちなみに柏崎刈羽原発は世界最大の出力を誇ってきた原発です。それが地震などを契機としつつ、民衆の批判の前に止まっているのです。この他、大飯原発を除けば日本のすべての原発がもう3年近くも止まっています。
再稼働が叫ばれている高浜3号機は2年11カ月、4号機は3年6カ月です。それほどに日本の原発は稼働できない期間が続いているのです。止めているのは私たち民衆のパワーです。まずはこのことをしっかりと確認しましょう。

その上で、川内原発についても高浜原発についてもまだまだ問題が山積みとされていることをきちんとおさえておきましょう。これを雄弁に語っているのはなんと原発推進に振り切り、他の面でも安倍首相の絶対的応援団と化している産経新聞です。
なかなか面白い記事を書いています。参考になるのは以下の記事です。

 高浜合格 九電社員「心折れそう…」進まぬ再稼働、四面楚歌の九電経営陣
 産経新聞 2015年2月12日
 http://www.sankei.com/life/news/150212/lif1502120035-n1.html

資料的価値があるので、末尾に全文を貼り付けておきますが、まず語られているのは、川内原発の再稼働への動きが大きく「遅れている」ことです。このため高浜原発が先になる可能性もあるとされている。それだけ川内原発再稼働の動きが進んでいないことが強調されているのです。
記事には次のように書かれています。

 「一気に再稼働に突き進むとみられたが、思わぬハードルが浮上した。原発の機器の設計図など工事計画と保安規定の補正書だ。九電は規制委の指摘を受け、修正した補正書を昨年9月末に再提出する計画だったが、2度にわたって延期となり、現在に至るまで提出できていない。
 規制委の田中俊一委員長は「九電の対応の遅れを懸念している」と語る。」

その結果、九州電力はどんどん苦しい状態に追い込まれているそうです。記事は以下のように続いています。

 「そうこうしている間に、九電は民間企業として存続の危機に陥った。
  平成27年3月期の連結決算は4期連続の最終赤字となる見通しだ。債務超過が現実味を帯びる九電に、金融機関は「電気料金再値上げ」を融資条件に挙げるようになったという。
  しかし、原発再稼働を視野に入れながらの再値上げは、利用者の反発が大きい。経済再生を掲げる政府、経済産業省の理解も得がたい。
  社内に亀裂も走り始めた。書類作成が進まない原子力部門への風当たりが強くなり、将来像を社員に示せない経営陣への不満も積み上がる。
  九電経営陣は、まさに四面楚歌といえる状況だ。」

ようするに九電は再稼働に向けて順調に歩んでいるのではまったくないのです。産経新聞は再稼働にまっすぐに向かっているとは言えない九州電力の悲鳴を、ある意味では率直に記事に反映させています。
では川内原発に先んじるかもしれないとも言われ出した高浜原発再稼働の動きは順調なのか。もちろん否です。
この点についても産経新聞は原発推進派の不安を的確に取り上げています。

 「高浜原発にも再稼働に向けたハードルがいくつかある。その最たる物が訴訟リスクだ。
  昨年12月、反原発団体が高浜、大飯両原発の再稼働差し止めを求めて、福井地裁に仮処分を申請した。福井地裁は同5月に、大飯原発運転差し止めを認める判決を下した裁判所だ。仮処分を認める可能性は十分にあり、その場合、関電は法廷闘争を強いられる。」

産経新聞が取り上げているのは、福井地裁が再稼働差し止め訴訟で仮処分を認める可能性があるということです。これが「高浜には訴訟リスク」という小見出しのもとに書かれている。
先にも述べましたが、産経新聞は安倍政権断固応援新聞です。そのためここで産経新聞が表明している不安は、安倍政権そのものの不安と重なっているとも言えます。
産経新聞はさらにこんな記事も書いています。

 原発再稼働1号は高浜か 「合格証」きょう確定、川内は遅れ
 産経新聞 2015年2月12日
 http://www.sankei.com/affairs/news/150212/afr1502120002-n1.html

ここでは高浜原発再稼働に向けた道のりよりも、川内原発再稼働に向けた道のりの方が有利な点を取り上げて、高浜原発再稼働への障壁を指摘しています。

 「川内が有利な点は、再稼働に向けた「地元の同意」だ。昨年10、11月に立地自治体の薩摩川内市と鹿児島県が同意を表明し、大きなハードルをクリアした。
  高浜では防災指針の目安となる半径30キロ圏に京都府や滋賀県も含まれるため、地元の範囲をめぐって争いがあり、同意がスムーズに得られるかは不透明だ。」

川内原発とて「大きなハードルをクリアした」ことになっていると僕は思いませんが、それはともあれ産経新聞はここで高浜原発に関しては「地元の範囲」をめぐって「争い」があると指摘されていることが重要です。
具体的には関西広域連合がいざというときに被害を受ける地元として認めよというまっとうな声を上げており、それが大きな障壁になっているのです。

だとするならば私たちの歩む道は鮮明です。産経新聞が、安倍政権を慮って心配している通りの道を歩もうではありませんか。
一つに両原発ともに、再稼働に向けて順調な道を歩んでいるとはとても言えない現状をしっかりと見据えて、原発再稼働反対のさらに大きな声を響き渡らせることです。
とくに重要なのは3月11日の福島原発事故以降4周年を迎えるにあたって、全国いたるところで大きな集会や企画、デモンストレーションが行われようとしていることです。
ぜひこれらに参加し、また周りの方を誘い、「原発再稼働反対」「このまま原発ゼロを社会を実現しよう」という声を全国で高めようではありませんか。

続いて大事なのは裁判の動きです。首相の応援新聞である産経新聞が裁判を懸念しているのですから、私たちはこれらの裁判をぜひとも応援しましょう。
そのために募集の行われている訴訟団があれば積極的に参加しましょう。裁判傍聴などにも行きましょう。弁護団へのエールを送りましょう。
この点で昨年5月に福井地裁で下された大飯原発稼働停止命令は画期的でした。今からでもこの内容を広め、これに続く判決を出すように当該の裁判所に要請を行うことが大事です。

続いて大事なのは、高浜原発をめぐる「地元」問題です。
高浜原発は福井県の一番西にある高浜町の中のさらに一番西にある内浦湾に押し付けられた原発です。このためわずか数キロで京都府舞鶴市になります。舞鶴市は半径30キロ以内にほとんどが入ってしまう。
政府は原発から30キロ以内の市町村に避難計画の策定を義務付けました。これは政府自身が、これらの市町村が事故が起これば被害が発生することを認定したことと同じです。にも関わらずこれらの市町村やそれらを含む府県を当事者とみなさないのはあまりに理不尽です。
この点を踏まえて、関西広域連合は「原子力防災対策に関する申し入れ」を行っています。ぜひこれを支持し、拡散していきましょう。その中で「地元」とは何かの論議をも広げて行きましょう。

 原子力防災対策に関する申し入れ
 http://www.kouiki-kansai.jp/data_upload01/1420608484.pdf

ここで述べてきたことは私たちができることのほんの一例です。
想像力を働かせていけばもっとたくさんのことができるはずです。ぜひそれぞれで思いついたことを実行に移してください。どんどんやりましょう!
大事な点は、原発問題に関しては今なお私たち民衆の側が大きくイニシアチブを握っているということです。戒めなければいけないのは国家権力を過大視してしまうことです。これはインテリの方ほど陥りやすい限界であるように思えます。
繰り返しますが、原発はもう521日まったく動いていない。大飯原発を除けばもう3年近く動いてないのです。私たちが止めているのです。このことに自信と誇りを持ちましょう。そして前に進みましょう。

3月に脱原発の大きなうねりを全国津々浦々から巻き起こしましょう!

*****

 高浜合格 九電社員「心折れそう…」進まぬ再稼働、四面楚歌の九電経営陣
 産経新聞 2015年2月12日

 原子力規制委が12日、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の新規制基準への適合を認めた。だが、安全審査で先行する九州電力川内原発1、2号機(鹿児島県薩摩川内市)の再稼働は、規制基準合格から5カ月が経過してもまったく見えない。九電、規制委・規制庁双方の不手際を指摘する声が上がる。(小路克明)

 「低廉で安定した電力供給は、日本経済の生命線であり、責任あるエネルギー政策を進める。原子力規制委員会が新規制基準に適合すると認めた原発は、その科学的・技術的な判断を尊重し、再稼働を進める」
  安倍晋三首相は12日の施政方針演説でこう語った。
  だが、原発再稼働の歩みは停滞している。

  「規制庁職員から連日連夜の呼び出しを受け、かなり厳しいことを言われる。正直言うと、心が折れそうです」
  東京・六本木の九電東京分室で、規制委・規制庁との折衝にあたる九電社員はこう愚痴をこぼす。
  東京分室には九電全社員の2%にもあたる260人が詰め、規制委・規制庁からのヒアリング、書類作成に追われている。それでも、再稼働は夏以降となりそうだ。

  ■4万ページが6万ページに

 川内原発が、再稼働の前提となる新規制基準に合格したのは平成26年9月だった。同年11月までに地元の薩摩川内市、鹿児島県が再稼働に「同意」した。
 一気に再稼働に突き進むとみられたが、思わぬハードルが浮上した。原発の機器の設計図など工事計画と保安規定の補正書だ。九電は規制委の指摘を受け、修正した補正書を昨年9月末に再提出する計画だったが、2度にわたって延期となり、現在に至るまで提出できていない。
 規制委の田中俊一委員長は「九電の対応の遅れを懸念している」と語る。

 これに対し、九電の瓜生道明社長は「われわれはまな板の鯉。規制委の求めに真摯(しんし)に応えていく」という姿勢を崩さない。原発再稼働という電力会社の“命綱”を握る規制委に対し、多くは語らない。
 だが、補正書をめぐり、九電の原発部門に対する規制庁側の要求は、厳しさを増している。内容だけでなく、書式を含めて細かいチェックが入り、作り直しが続く。現在計4万ページの補正書は大幅な修正の結果、6万ページにも達しそうだという。規制庁側との意思疎通の難しさを嘆く声も出る。
 そうこうしている間に、九電は民間企業として存続の危機に陥った。

 平成27年3月期の連結決算は4期連続の最終赤字となる見通しだ。債務超過が現実味を帯びる九電に、金融機関は「電気料金再値上げ」を融資条件に挙げるようになったという。
 しかし、原発再稼働を視野に入れながらの再値上げは、利用者の反発が大きい。経済再生を掲げる政府、経済産業省の理解も得がたい。
 社内に亀裂も走り始めた。書類作成が進まない原子力部門への風当たりが強くなり、将来像を社員に示せない経営陣への不満も積み上がる。
 九電経営陣は、まさに四面楚歌といえる状況だ。

  ■高浜には訴訟リスク

 高浜原発の合格を獲得した関電は、したたかだった。
 九電との折衝における規制庁の言動を逐一つかみ、自社の書類に即座に反映させている。この結果、関電は高浜原発の補正書の大半をすでに提出した。8万2千ページにも達したという。
 「川内ではなく、高浜が再稼働一番乗りではないか」。こんな観測さえ規制庁内で浮上する。

  とはいえ、高浜原発にも再稼働に向けたハードルがいくつかある。その最たる物が訴訟リスクだ。
  昨年12月、反原発団体が高浜、大飯両原発の再稼働差し止めを求めて、福井地裁に仮処分を申請した。福井地裁は同5月に、大飯原発運転差し止めを認める判決を下した裁判所だ。仮処分を認める可能性は十分にあり、その場合、関電は法廷闘争を強いられる。

  25年9月以来、国内の全原発は停止した。原発ゼロの影響は、電気料金上昇や各地域をリードしてきた電力会社の弱体化という形で表面化した。これ以上の原発ゼロは日本経済に回復不能な打撃を与えかねない。
  原子力規制委員会設置法は、第1条で規制委の目的を「原子力利用における安全の確保を図るため必要な施策を策定し、実施する事務を一元的につかさどる(中略)もって国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びにわが国の安全保障に資することを目的とする」と記す。
  福島第1原発事故を教訓にしつつ、規制委・規制庁は今こそ「安全に原子力を利用する」という原点に立ち返らなければならない。

 

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明日に向けて(1039)内部被曝隠しという暴力(矢ヶ崎さんのICRP批判のポイントをおさえる-1)

2015年02月12日 23時30分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150212 23:30)

2月7日、8日と矢ヶ崎さんを大津市の明日都浜大津、京都市の京都大学にお招きして講演会を開催しました。それぞれ約70人、220人が集まってくださいました。どちらも予想を上回る参加者でした。ありがとうございました。
京都大学では日本共産党京都市議の加藤あいさん、ノンべくキッチンホテヴィラの広海ロクローさんにも参加していただき、パネルディスカッションも行いました。なかなか良い対話が実現できたのではと思っています。
さすがに少しく疲れて数日、休ませていただきましたが、講演会を踏まえて内部被曝問題についての捉え返しを深化していきたいと思います。

今回の企画、矢ヶ崎さんの内部被曝に関する把握のポイントを多くの方に知っていただきたくて開催しました。計画したのは昨年12月でしたが、年頭にシャルリ・エブド襲撃事件が起こり、続いて後藤さん、湯川さんの件がクローズアップされました。
この中で僕は現在の中東の混乱を作り出したのはアメリカの湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争であり、アメリカの暴力への批判なしに、中東の「過激派」だけを批判することはできない。アメリカの暴力を黙認し、いわんや加担などしては絶対にならないと訴えてきました。
むしろ今はアメリカの暴力への体系的批判を深めていく必要がある。そのために内部被曝隠しという原爆投下後から続けられてきた暴力と、中東で継続的に振るわれている暴力とが大きくつながっていることを捉え返すべきなのです。

矢ヶ崎さんは、内部被曝問題を「隠された核戦争」と呼んできました。広島、長崎への原爆投下という実際に行われた核戦争、その後の米ソによる核軍拡競争などの冷戦の他に、隠されてきた核戦争があったのでした。被曝隠しと被曝強要でした。
被曝強要とは、一つは大気中核実験で膨大な量の放射能を全世界の人々に浴びせてきたこと、もう一つは原発などの核施設の運転によって放射能がたびたび大気中に放出されてきているにもかかわらず「健康に大した被害はない」からと、原発労働や周辺住民に被曝を強制してきたことです。出発点はウラン鉱の採掘における被曝労働にあります。
この「隠された核戦争」を正当化し、科学的な粉飾をこらして危険性を隠してきた機関こそ、国際放射線防護委員会(ICRP)です。だから私たちは「隠された核戦争」を表に引き出して把握し、真っ当な批判に晒していくためには、ICRPの被曝隠し、被曝強要のカラクリを明らかにすることが求められるのです。矢ヶ崎さんが進めてきたのはこの仕事です。

理解のための分かりやすい入口は、矢ヶ崎さん自身の問題意識の歩みです。というのは矢ヶ崎さんの専門は物理の中でも「物性物理学」というジャンルです。物質の性質を探る学問で超伝導だとか半導体だとか磁性だとかいろいろな分野があります。これらを原子、分子の世界でも観るし、もちろん放射線にも関係します。
その矢ヶ崎さんが内部被曝問題と出会ったのは、ご自身が住まわれている沖縄で、米軍による劣化ウラン弾「誤射」事件が起こった時でした。「誤射」と言いつつ計画的に訓練をしていた可能性が高いのですが、この時、米軍は劣化ウランは「放射能ではなく危険はない」と言い放ちました。これに対して矢ヶ崎さんは「沖縄県民、なめられてはなるものか」と反論に立ちあがりました。
劣化ウランとは、濃縮ウランの反対の言葉です。ウランの中で核分裂するものはウラン235といって、自然界のウランの0.7%しかない。この濃度では核分裂が連続して続く臨界状態を作れないので、ウラン235をかき集めて濃度を高める。これが濃縮ウランで、残りかすが劣化ウランと呼ばれるのですが、非常に硬いので鉄を貫く最強の弾丸になる。しかしそのとき粉じん化するのですが、しっかりと放射線を出すため、金属としての毒性とも相まって、生物に甚大な影響を与えるのです。

物性物理学は物質のさまざまな性質を研究対象としているので、矢ヶ崎さんはウランにも詳しく、米軍の暴論を科学的に論駁する論稿をただちに打ち出せましたが、反論などに備えてさらにこの分野での研究を深めていました。
2003年に原爆認定訴訟という裁判が全国で起ちあがりました。原爆被爆者たちの中で、自分の病気が原爆の放射線によるものと認定されると得られるのが原爆症認定ですが、実は多くの被爆者が認定を受けられずに苦しみ続けていました。
なぜそうなっていたのかというと、原爆投下後に被爆者調査を行ったアメリカ軍や、その後に調査に加わった日本政府が、内部被曝による被害を一切、認めてこなかったからでした。

原爆症認定訴訟は、放射線による害を非常に小さくしか捉えず、様々な病気を原爆のせいとは認めない日本政府に対して、被爆者が、やむにやまれずに立ち上がり、起こした裁判でした。
劣化ウラン弾との格闘によって、内部被曝に関する研究者として知られるようになっていた矢ヶ崎さんは、この裁判の弁護団から依頼が受けることになりました。法廷で内部被曝の被害についての証言をして欲しいという要請でした。
しかし矢ヶ崎さんははじめは断るつもりだったそうです。自分は物性物理を専攻していて、核物理学や病理的なことには不案内だと感じたからでした。

断ることを決意しつつ、問題になっていることを一定踏まえた上で解答しようと思った矢ヶ崎さんは、裁判の焦点の一つとなっていた「放射線線量評価体系」に目を通しました。1986年に出され、英語で"Dosimetry System1986"とタイトルがついていたことから、一般にDS86と呼ばれるものです。
この文章を読んで、矢ヶ崎さんの思いは一変することになりました。読んだ後に腹が立って腹が立って三日三晩も眠れない夜が続いたためでした。矢ヶ崎さんのその後の人生を一変させた文書でもありました。
なぜ眠れなかったのか。DS86が一見科学的な装いをこらしながら、肝心なところでまったく非科学的な手法を用いて、人々を欺いていたからでした。

問題は第6章にありました。いや正確に言うと6章とそれを巻頭にまとめている総括=サマリー部分に重大なずれがあるのです。
DS86では広島、長崎に原爆が投下されて以降の、両市における放射線量に関する分析がなされているのですが、実はアメリカが一斉に測定したのは長崎で48日目、広島で49日目でした。
この間に決定的なことがあった。枕崎台風の到来です。戦後3大台風に数えられるほどの大型台風で広島では洪水がおこり、濁流が市を襲いました。長崎でも広島以上の大雨が降った。そのことで降下した放射能のかなりが海へと流されたのでした。

米軍はこの後に放射線値を一斉に測った。当然にも台風到来以前の推定される放射線量からは段違いに低い値になっていたはずでした。ところがDS86ではこの決定的な問題がはぐらかされてしまったのです。
しかも先にも述べたように第6章の中では、このデータが測定の前に風雨の影響を受けていた強い可能性があることをもしっかりと書き込んでいながら、各章に入る前に設けられている総括では「風雨によってその大部分が流されなかったと仮定すれば」と書き込まれ、データは風雨の影響を受けていなかったという仮定を採用してしまったのでした。
矢ヶ崎さんがショックを受けたのは、きちんと読めば、一般科学の素養のあるものなら誰でも分かるような嘘が決定的なところで使われていたことでした。科学とは言えないとんでもない嘘でした。

しかもそんな他愛もない嘘が2000年代まで、つまり戦後60年近くも通用してきてしまっていたのでした。そのことに信じられないほどのショックを受けたと言います。
同時に矢ヶ崎さんを襲ったのは、どうしてもっと早くにこの問題に関わらなかったのかと言う強い自責の念でした。矢ヶ崎さんはこの問題は自分の専門の範疇を越えると考えていた。
ところが被爆者を苦しめていたのはもっと単純な大嘘なのでした。矢ヶ崎さんがもっと早く関わり、DS86を読んでいればすぐにも指摘できた内容でした。矢ヶ崎さんはそれまで関わることのできてこなかった己に怒り、三日三晩を眠れずに過ごしたのでした・・・。

このDS86の「総括」の記述者であるDS86慣習顧問者は、国際放射線防護委員会(ICRP)の1983-1993年委員会のメンバーであり、放射線影響研究所長も務めた「科学者」でした。
実際、DS86第6章でも線量評価は、内部被曝を無視すしたICRPが繰り返し発表してきた「勧告」に依拠して行われていました。
かくして矢ヶ崎さんのICRP体系への批判が開始されました・・・。

続く


 

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明日に向けて(1038)アメリカの国家テロの根幹にある放射線被曝について学ぼう!(矢ヶ崎さん講演会へ)

2015年02月07日 08時30分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(201502027 08:30)

繰り返しのご案内になって恐縮ですが、本日2月7日と明日2月8日、大津市の明日都浜大津と京都大学において矢ヶ崎さん講演会を行いますのでお知らせします。
内部被曝や、国際放射線防護委員会(ICRP)による被曝隠しのことなど解説していただきます。

この間、繰り返していることですが、今、中東を大混乱に陥れているのは、湾岸戦争やイラク戦争でイラクをめちゃめちゃに破壊し、本当にものすごくたくさんの人々を殺害してきたアメリカに大きな責任があります。
この殺人の中には劣化ウラン弾の放つ放射線と重金属の毒素によるたくさんの死も含まれます。生まれることのできなかった命、生まれてからすぐに亡くなった命、また時間をかけて緩慢に殺された命、今、殺されつつある命があります。

昨日、国会でイスラム国による湯川さん、後藤さん殺害に関して「テロ」を非難する決議があげられましたが、山本太郎議員が決議の内容に抗議して退席しました。
山本さんが訴えたのは、今のべたようなイラク戦争によるアメリカの責任や真っ先に日本が支持したことへの捉え返しが決議で触れられていないのはおかしいということです。敢然たる行動でした。山本さんの退席抗議を全面的に支持します。

僕自身も「テロ」という言葉をとても安易にマスコミなどが使っている現状にきわめて批判的です。
誰も「テロ」を明確に定義しないで一方的にイスラム国などに対してのみ使っている。その使い方には、一方での殺戮の当事者であるアメリカへの批判が含まれていません。そのためこの言葉は暴力への有効な批判足りえていません。

今、私たちに必要なことはアメリカによる暴力と殺人、国家テロの歴史をきちんと把握し、批判していくことです。それでこそアメリカの暴力思想を刷りこまれたあらゆる勢力によるテロルを批判できます。
中東の現実をしっかりと捉え乍ら、一方での長きにわたる放射線被曝の歴史を捉えて行くことが重要なのです。

アメリカは私たちの国に二つも原爆を投下しました。軍隊対軍隊の戦いとしての戦争としてはまったく必要のない攻撃でした。新型爆弾の威力を試すための卑劣な人体実験でした。
その上でアメリカは原爆の威力の知るために被爆者調査を独占的排他的に行いました。米占領軍の最高機密に指定した上での調査でした。調査をしたけれどもけして治療はしないという酷い行為でした。

このもとでアメリカは被ばくの影響を出来るだけ小さく見せることに腐心しました。戦争犯罪を隠すためにです。そして人間を瞬時にも長期にわたっても殺す核兵器を温存し、核戦略を維持、「発展」させるためにです。
事実、アメリカはその後、ものすごい数の大気中核実験を行いました。これに旧ソ連も対抗したため、両国だけで膨大な放射能が地上に降り注がれました。

このために亡くなった命を国際放射線防護委員会(ICRP)ですら117万人と見積もっています。広島、長崎の犠牲者数とされている数をはるかに上回る殺人が行われたことが公言されているのです。
もちろんこの見積もりはとても甘い数値です。ヨーロッパ放射線防護委員会(ECRR)はなんと6162万人という推計を出しています6000万人が殺害された可能性があるのです。

核兵器開発のもと、「実戦」をしなくても、こんなに膨大な殺人、人類史上最悪のテロルが行われてきたのです。
その中心にいて、今なお、ひとつも反省も謝罪もしていないのがアメリカです。このアメリカの国家テロを批判せずして、いかなるテロ批判も無力です。というよりアメリカのテロへの加担にしかなりません。

そもそもこのことをきちんと学ばなければ私たちの命、私たちのかけがえのない人々の命すら守れません。いま、緩慢に殺害されつつあるのはほかでもない、あなたであり私なのです!

この重大な事実をともにつかむために、ぜひ矢ヶ崎さんの講演にお越しになり、ともに内部被曝の脅威について、国際放射線防護委員会がそれを隠してきたカラクリについて学んでください。
以下、集会情報を簡単に記しておきます。詳細は「明日に向けて(1031)」をご覧下さい。

なお明日はIWJが中継をしてくださいます。8日13時半からIWJ京都1チャンネルで中継してくださるそうです。以下がアドレスです。
http://www.ustream.tv/channel/iwj-kyoto1 

*****

矢ヶ崎克馬先生お話会
内部被曝ってなあに?

日時:2015 年2月7日(土)
午前の部 11:00~12:30 昼食持ち寄り座談会
午後の部 13:00~14:30 矢ヶ崎先生お話会 
     14:30~16:00  矢ヶ崎先生&守田敏也さん対談+質疑応答

会場: 明日都浜大津 5階中会議室
    大津市浜大津四丁目1番1号  Tel  077-527-8351
JR大津駅から徒歩約10分 京阪浜大津駅から陸橋を渡って徒歩 約1分

参加費: 午前の部 ひとり300円(会場費として)
         午後の部 ひとり500円(会場費・資料代として) カンパもよろしくお願いします!

午前の部にご参加の場合は昼食をお持ちください。
午後の部の途中でお茶休憩を入れます。差し入れ大歓迎です!
託児はありませんが、親子スペースを設けますのでお子さんもご一緒に参加していただけます。
人数把握のため、下記ま で事前にお申し込みいただけるとありがたいです。

お問い合わせ・お申し込み 
E-mail:asunowa_kouenkai@yahoo.co.jp   TEL : 077-586-0623(暮らしを考える会)
主催: ネットワークあすのわ

***

矢ヶ崎さん講演会
隠されてきた内部被曝の危険性

日時 2月8日(日)午後1時開場 1時半開始
場所 京都大学吉田南4号館1階 4共11教室

講演 矢ヶ崎克馬(琉球大学名誉教授)
パネルディスカッション パネラー
矢ヶ崎さんほか、加藤あいさん(日本共産党京都市会議員)
広海ロクローさん(ノンベクキッチン ホテヴィラ店主)
コーディネイター 守田敏也さん(フリーライター)

参加費1000円

主催 矢ヶさん講演会実行委員会 
代表:守田敏也(090-5015-5862)morita_sccrc@yahoo.co.jp

予約はいりません。
託児はありませんが子どもと親御さんが一緒に入れるスペースを作ります。
絵本など準備します。泣き声など気にせずに会場内でお話を聞いてください。

以下の記事により詳しい情報があります。

明日に向けて(1031)被曝隠し、被曝強制という暴力について学ぼう(矢ヶ崎さん講演会へのお誘い)
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/e2f8ccb78b976872a018b59ac963d2e6

コメント (1)
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明日に向けて(1037)安倍首相の非対話的な姿勢が私たちの危機を深めている

2015年02月05日 10時00分00秒 | 明日に向けて(1001~1100)

守田です。(20150205 10:00)

湯川遥菜さん、後藤健二さんを「イスラム国」が殺害したと発表したことに対して、安倍首相は「必ず罪を償わせる」と911事件後のアメリカブッシュ元大統領のような言いまわしで公言しました。
イスラエル国旗を背にして「テロを許さない」と公言して、アラブ、中東の人々全体を敵にまわすようなパフォーマンスをしてしまったことに続くあまりに危険な発言です。一国の首相として絶対に言うべきではなかった発言です。

これに対して、イラク戦争に反対して外務省を更迭された天木直人さんが2月4日に「「罪を償わせる」と公言した安倍首相の末期的危険さ」という声明を出しています。ことの本質を鋭くえぐっているので一部を引用します。

***

 あの言葉は、自らを批判するものは許さない、批判する者に対してはムキになって敵対してつぶす、という、これまでの安倍首相の個人的感情、人間性から発せられた、感情的な言葉なのである。
 誰が見ても明らかな今度の中東外遊の失敗と、その対応のまずさが、よりによってイスラム国ごときに、世界の前で、名指しで批判され、恫喝された。
 これ以上の屈辱はない。
 
 未熟な安倍晋三という政治家にとっては耐えられないことなのだ。
 しかし、安倍首相の幼児的な傲慢さは、これまでのように日本国内の安倍批判者に対しては許されるとしても、国際的にはまるで通用しない。
 ましてやイスラム国には絶対に通じない。
 それどころか完全に逆効果だ。
 
 日本という国が、もはや常軌を逸したイスラム国に対し、戦争をはじめるべきかどうかという歴史的な瀬戸際に、この国の首相が個人的感情に任せて言動することほど、危険で愚かなことはないのだ。
 もし、この国の政治家や、官僚や、メディアや、有識者が、安倍首相に逆らうことをおそれて、あるいは保身という低俗な利害から、安倍首相の末期的な暴走を誰一人として止めることができないなら、間違いなく日本は道を踏み誤る。

***

僕もまったく天木さんに同感です。

こうした一連の行為を、あらかじめ仕組まれた謀略であると論じる人々もいます。
そういう側面も確かにあるかもしれません。世界情勢をいたずらに悪化させ、戦争を引き寄せ、自衛隊の行動の場を広げていく。そんな悪辣な意図を持っている人も確実にいることでしょう。
あるいはイスラエルでの「対テロ」宣言の場で、イスラエル国旗をうまいこと背負わせたのはイスラエルの仕業だったかもしれない。

しかし安倍首相のこれまでの言動の傾向性を見ていると、僕にはそれほどに強い計画性は感じられません。
安倍首相が日本を戦争国家に変え、アメリカ、イギリスと肩を並べることを夢見ていることは間違いないですが、その先に国家100年の計があるなどとはまったく感じられない。むしろ明確な国家戦略などなしに突き進んでいるように思えます。まるで玉砕国家です。
この点は、安倍首相の集団的自衛権をめぐる記者会見の時にも非常によく表れていたので記事にしたことがあります。ある方が繰り返しツイートして下さっている内容ですが、ここに安倍首相の発想が非常によく表れていました。

 明日に向けて(882)安倍首相の考え方の中にこそ戦争拡大の芽が孕まれている!(集団的自衛権・首相会見を批判する)
 http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/3f91aa119f5837c8bc0720a4135c6b05

安倍首相の応答スタイルは以下のごとしです。すなわち、絶対に反省せず、相手の言い分に耳を貸さず、一方的に自論だけを述べ、反論には逆切れする・・・。
まったく対話不能です。致命的なことは相手の気持ちを忖度することがまったくできないことです。だから相手を激昂させてしまうし、自分もすぐに激昂する。
対話での解決能力がないのです。だから争いを引き寄せるばかりなのです。

アジアでの対立ではまだしも両国の間に様々なパイプがあり、何よりも経済的利益の一致があるので、ヒートしても必ず周りから対立を押さえようとする人が現れます。
互いに対する分析も進んでおり、戦争などになったら互いに損をすることを理解している人々がたくさんいます。
安倍首相はいわばそうした人々に甘えきって、暴言を吐き続けているとも言えます。

しかし中東との関係ではそうではありません。
もっとも重要なことは中東の人たちはこれまで日本に大きな好意を寄せてきたということです。第二次世界大戦で原爆を投下された国、そこから懸命に這い上がって平和国家を作った国としてです。
つまり原爆を投下したアメリカとは明確に区別する意識が中東の人々の間にありました。そのもとに日本人気が作られても来たのです。

それだけに、この好意が幻想に過ぎないと中東の人々が感じたとき、日本は原爆を落としたアメリカの同伴者だったのだという理解にいたったとき、大変なことになってしまいます。
中国、韓国は、けして安倍首相が日本民衆の総意を代表しているわけではないことも知っています。日本の中にさまざまな戦争反対の動き、侵略を捉え返してきた動きがあるのも知っているし人的交流もあります。
しかし中東との間にはそのパイプがまだまだ非常に薄いのです。

もちろんごくわずかですが人的交流はあります。民衆の側からそれを担ってきた人々こそ、後藤健二さんをはじめとしたジャーナリストたちです。
高遠菜穂子さんのように人質事件後の日本国内のバッシングで手酷く傷つけられながら、私たちに真実を伝え続けようとしてきた方もいます。これらの人々が私たちの国の中東に向けた窓になり、実は日本人総体の安全も守ってきたのです。
ところが今、安倍政権は後藤さんにバッシングを加え始めています。さらに渡航制限をちらつかせて、ジャーナリストたちの中東入りを妨害しはじめています。これは私たちの目と耳と安全を奪う行為です。あまりに愚かです。

そのことが招来するのは、中東と私たちの間のパイプがどんどんなくなってしまうことです。
なくなった状態で、私たちの国への好意が消えていく。裏切られたと言う思いが強まっていく。中東を苦しめ続けてきたアメリカ、イギリス、そしてイスラエルと同列にみなされていく。あまりに危険です。
根本的に対話が不能で、相手の言い分に耳を傾けることができない安倍首相にはこうしたことが見えていないのだと思います。だからこそ私たちの国は大変、危険な地点に立っているのです。

僕はこうした安倍首相の傾向が最もよく表れているのが、オリンピック招致発言での大嘘だと思います。
「原発は完全にコントロールされている」「汚染水はブロックされている」「今も未来も健康被害はまったくない」というものです。
完全な嘘ですが、実はここには安倍首相の願望も含まれていたと思います。

他者との対応で、安倍首相は相手の言い分を忖度することができません。実はまったく同じように、現実と向かい合う上でもこの方は自分に不利な事実と向き合うことができないのです。
他者との対応で一方的に自論をまくしたてたり、逆切れ対応で、中身のある反論をまったく行えないように、現実に対しても自分に都合の良い解釈を優先させてしまう。そのため現実的な対応をとらないしとれないのです。
嘘をついたって原発がコントロールできるわけではない。「健康被害はまったくない」と言ったって、現実の被害がなくなるわけではないのです。ウソで放射能は無くならない。対処しなければしないだけ危機は深まるのです。

私たちがはっきりと見ておくべきこと、最も危険な事実は、こうした対話不能、現実への対処不能な首相をいただいたまま、それを止めることが自民党にもマスコミにもできなくなっていることです。
私たちの国のこれまでの統治システムが根腐れしているのです。ここにこそ本当の危機があります。私たちの国は戦略的観点を欠いたまま、歴史に流されてしまっています。
そもそも今は「イスラム国」など相手にしているときではありません。福島原発事故の収束にこそ、全ての力を傾けなくてはならない時なのです。国家戦略からしてそうです。繰り返し述べてきたようにこのままでは国家的危機を招きます。

天木さんが「もし、この国の政治家や、官僚や、メディアや、有識者が、安倍首相に逆らうことをおそれて、あるいは保身という低俗な利害から、安倍首相の末期的な暴走を誰一人として止めることができないなら、間違いなく日本は道を踏み誤る」と指摘されている通りです。
安倍首相個人の問題よりも、このような根本的に政治家としての資質に欠ける人物を首相に抱いているこの国のあり方そのものが危機的なのです。
その意味で安倍政権は戦後最弱の政権です。だから狂暴化しています。狂暴化しているけれど、明確な戦略的展望などない。中東を泥沼化して疲弊し米兵の身代わりに投入できる軍を求めているアメリカと一緒に泥沼に沈むだけです。

実は戦前もそうだったのでした。NHKドキュメントなどで明らかにされてきているように、戦前に天皇の御前会議に参列していた大臣たちの中で、実はアメリカと戦争して勝てると思っていた人物は誰もいなかったのでした。
ところが日本は中国侵略戦争ですでに20万人の戦死者を出していたので、大臣たちはアメリカの要求を受け入れて撤兵したら国民の猛批判を受けると思っていた。それが怖くて、誰も愚かな戦争を止めようと言い出せなかったのです。
陸軍は海軍に先に言って欲しいと思っていた。海軍も同じでした。昭和天皇も戦争を止めさせたかったのでした。だったら言えば良かった。誰かが国のために命をかけて発言すれば必ず戦争は止められました。なぜって誰も勝利の展望を持っていなかったのだからです。

ところがこの時の私たちの国の中枢には、命がけでこの国を守ろうとする人物は一人もいなかったのでした。だから戦略的にけして犯してはいけなかった愚かな判断、対米戦争に突入してしまったのです。あまりにばかばかしい!
今、起こりつつあるのはこれと同じことです。第二次世界大戦を根本的に反省してこれなかったつけがこのようにまわってきてしまっています。
だからこそ、私たち民衆こそが行動していくことが必要です。放射能に対する対応も同じ。政府は私たちの命を守ろうとは思っていません。実は守るだけの力を持ってもいません。私たちが自ら動かなければ命は守れません。

とくに僕が訴えたいのは、中東の人々が寄せ続けてきてくれた好意的まなざしに今こそ応えようということです。
中東の苦しみ、痛み、嘆きを共にしましょう。あまりに理不尽なイスラエルによるガザの封鎖を即刻止めさせましょう。アメリカのイラク侵略戦争を謝罪させましょう。補償をさせましょう。
その声を大きくしていくことの中で、中東の戦乱が終わる道を、私たちが自らの問題として考え、紡ぎ出し、歩んでいくことが必要です。私たちの平和と中東の平和が一つに繋がっていることを強く認識して進みましょう!

 

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