ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

仏像が芸術になった時

2017年11月10日 | 美術

   今日において、仏像や仏画、仏教建築などが、美術作品であることに異論をはさむ人はほとんどいないでしょう。

 しかし、それらが制作され、人々の信仰の対象のみであった時代においては、美術作品という認識は薄かった、もしくは皆無であったのではなかろうかと推量します。
 もっといえば、美術とか芸術とかいうものは、明治以降、西洋の思想を取り入れた時に生まれた概念で、それまでのわが国には、そもそも絵や彫刻は存在したにしても、それらを総称して美術とか芸術とかいう意識は無かったんじゃないかと思います。

 それらはあくまで、絵であり、彫物であり、音曲であり、物語であり、戯作であったことでしょう。

 明治初期、わが国で芸術や美術ということを強烈に印象付けたのは、浮世絵が西洋に与えた強い影響だったのではないかと思います。
 わが国においては、浮世絵はそれほど重要なものではありませんでした。
 しかし、西洋でジャポニスム運動が起こることで、改めて浮世絵が見直され、同時に、美術や芸術が優れていることは、国威発揚にまでつながることを実感したものと思います。

 で、仏教美術などの宗教的芸術。

 明治4年に布告された古器旧物保存方では、宗教的芸術作品に、美的価値を見ず、もっぱら歴史的価値のみを認め、保存すべきとしています。

 古器旧物ノ類ハ古今時勢ノ変遷制度風俗ノ沿革ヲ考証シ候、とされています。

 ところが明治30年の古社寺保存法では、一転して、宗教的芸術に、歴史的価値とともに、美的価値を見出しています。

 歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範トナルベキモノ、と記載されています。

 明治4年から明治30年の間に何があったのでしょうね。

 西洋諸国を視察して、キリスト教美術が非常に重視されていることを学んだこともあるでしょう。
 また、フェノロサと岡倉天心を中心とする仏教美術の調査もあったでしょう。
 廃仏毀釈を止めようとする運動もあったことでしょう。
 芸術論や美術論が活発に交わされたこともあったでしょう。

 それらが複合的に積み重なって、わが国の人々の間に、芸術とか美術とかいう概念が定着していったのでしょうね。

 
では、それら宗教、主に仏教美術の保有者であった、寺院の僧侶たちはそれをどう捉えたのでしょうか。
 信仰の対象である仏像や仏画が、浮世絵と同様の扱いを受けることは、耐え難かったのではないかと思います。

 現在でも、秘仏などと称して、何年かに一度しか開帳されない仏像がありますし。

 宗教的表象であり、なおかつ美術作品であるというのは、相容れないもののような気がします。

 
しかし、宗教と芸術を同様のものと見る考え方をする人々がいます。

 フェノロサがそもそもそういう考え方の人だったようです。

 また、姉崎正治という学者は、以下のような文章を残しています。

 美術の力も、宗教の感化も、凡そ表象によりて表はるる此の神秘力である。此の表象の力を認めることは即ち神秘に入るの源で、神秘は即ち一切真善美の源泉である。

 
これは全く宗教と美術を同一視する考え方で、多くの反論が寄せられました。
 反論には、大きく分けて2種類ありました。

 一つは、牽強付会にして我田引水、要するに結論ありきの暴論だ、と頭から否定するもの。
 もう一つは、博士の宗教は徹頭徹尾芸術的なること是なりという言葉に端的に表されるもので、芸術論としては理解できるが、宗教にあてはめるのは強引すぎる、というものです。

 宗教といっても様々あり、それらを一緒くたにして、神秘力と断じ、しかもそれが美術の力と同じというのは、あまりにも強引だと、私も思います。

 そう思いながら、明治初期においては、歴史的価値を認められるばかりで、美術的価値をほとんど認められていなかった宗教美術に対する認識が、姉崎博士の論には多くの反論があったにせよ、ここまで来たか、という感慨を覚えます。
 ここにまで至らないと、宗教的美術というものは、確固たる地位を占めることが出来なかったのかもしれません。
 そういう意味では、姉崎博士の言論も、価値あるものだと言えましょう。

 
ただし、宗教の感化を、表象によりて表れる神秘力、と断ずることには抵抗があります。

 表象とは外的対象像であり、それはつまり、現実世界であったり、美術作品であったりといった、目に見え、心に印象を残すものでしょう。
 その表象を媒介にして神秘力を認めるというのは、まさに芸術の問題であって、宗教のそれではありません。

 宗教に神秘的な側面があるのは間違いないと思いますが、それだけではありません。
 もっと複雑なものです。

 結局のところ、宗教をどう定義づけるか、あるいは宗教をどう見るか、というところから始めなければなりません。

 それは極めて個人的な問題で、内心の自由、信仰の自由に関わることです。

 私はただ、明治の先人たちの努力により、仏教をはじめとするわが国の宗教上の作品群が、美術作品として認められ、一般庶民でも気軽に親しめるようになったことに感謝したいと思います。 


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