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現代日本語は本当に相対敬語なのか

2017-03-07 23:25:35 | ヨン様
こんばんは、ヨン様です。


従来、日本語において重要な文法カテゴリーであると考えられている敬語。
学校で敬語についての授業があるのはもちろん、その使い方に苦労したという経験のあるかたは多いのではないでしょうか。
敬語というカテゴリーは、日本の近代化にあたり欧米の諸言語に対抗して見出されたカテゴリー(つまり、文法ではなくイデオロギーの産物)であるとされる考え方もあるようですが、そういった原理的な主張はひとまず脇においておき、今日は日本語の敬語の使われ方について考えてみたいと思います。

よく知られているように、現代日本語の敬語体系は「相対敬語」であり、古代日本語が持っていた「絶対敬語」の性質はないとされています。
最近になって「現代語:相対敬語vs古代語:絶対敬語」という図式は作為的に生み出されたものであるとする説得的な研究が登場しておりますが(福島直恭(2013)『幻想の敬語論 進歩史観的敬語史に関する批判的研究』)、ここではまず、相対敬語と絶対敬語とはどんなものであるかということを確認しておきましょう。


相対敬語とは、簡単にいえば「聞き手によって敬語の用い方が変わる、聞き手の視点に立った敬語法」です。
たとえば、山田さんが会社で電話対応をした際、取引先の佐藤さんから上司の田中社長を呼び出すよう頼まれたとしましょう。
すると、山田さんはこのように答えることが可能です。


(1)佐藤「すみません、田中社長はお手すきでしょうか」

  山田「はい、田中でしたら現在当社におりますので、いまおつなぎいたします」


ここで山田さんは、上司である田中社長を「田中」と呼び捨てにしています。
これは外部の取引先である佐藤さんに対し、自分の身内である山田社長を低い地位に置いており、聴き手である佐藤さんの視点に立った敬語法であるといえます。
この結果、山田さんは田中社長を「田中社長」と呼ぶ場合と「田中」と呼ぶ場合とを相対的に使い分けることになり、聞き手によって敬語の使い方が変わることになります。
このような敬語法を、相対敬語と言い、現代日本語は相対敬語であるとされます。
企業研修でも、「顧客に対しては上司に敬称や役職名をつけないように」と言われたことがある方は多いのではないでしょうか。
なお、知人に対して自分の親族を「父」「母」などと呼ぶのも、一種の相対敬語だといえます。
一般的に、これらの親族呼称は直接の呼びかけには用いられず、敬語の使い分けが見られるからです。

それに対し、絶対敬語とはいわば「一定の人に対して敬語の用い方が定まっている、話し手の視点に立った敬語法」です。
先ほどと同様の文脈を考えた場合、山田さんが次のように答えたとしましょう。


(2)佐藤「すみません、田中社長はお手すきでしょうか」

  山田「はい、田中社長でしたら現在当社におりますので、いまおつなぎいたします」


ここでは、山田さんが田中社長を自分の立場から見て、「田中社長」と呼んでいます。
このような場合には、聴き手である佐藤さんに対して、身内である山田社長を低く置くようなことはせず、話し手である山田さんからの視点に立って敬語が用いられています。
すると、山田さんは田中社長を常に「田中社長」と呼ぶことになり、一定の人物に対する敬語の用い方が絶対的なものとなります。
このような敬語法は、絶対敬語といわれており、少なくとも現代日本語においては上述のようなやりとりは不適切である、あるいは違和感を覚える日本語母語話者が多いとされています。
同様に、知人に対して自分の父親のことを「お父さん」「お母さん」などと呼ぶのは、誤った日本語であるとされることもあります。
いずれも身内である親族に敬称を付けており、両親に対して常に敬語を用いていることになるからです。

さて、以上が相対敬語と絶対敬語のあらましになります。
既に言及したように、現代日本語は相対敬語と一般的には見なされており、絶対敬語的な敬語法は、ビジネス日本語などでは厳しくとがめられることもあります。
しかし、現代日本語は本当に相対敬語だといえるのでしょうか。
また、相対敬語だといえるとして、それがどれだけ徹底されているのでしょうか。
正直、私には絶対敬語的であるとされる(2)のような用法ですら、文法的に不自然であるとは思えませんし、それほど失礼な印象もありません。
ここで私は思い切って、「世間一般で言われるほど現代日本語は相対敬語が徹底されているとは言えないし、また、その規範意識も自明なものではない」と主張したいと思います。
そのために、私の素朴な印象を述べるだけでなく、いくつか議論をしましょう。

まず、次のような状況を考えてみてください。
大学生である高橋さんは、指導教官であるA大学の伊藤准教授から、B大学の山本教授を紹介されました。
その際、高橋さんは次のように言うことが可能です。


(3)山本「あなたが、噂にきく伊藤先生の教え子ですか」

  高橋「はい、伊藤先生にはいつもお世話になっております。」


ここで注目してほしいのは、「伊藤先生」というように、伊藤先生に敬称を付けているという点です。
これは、身内(指導教官)である伊藤准教授を山本教授に対して低めて言及してはおらず、高橋さんの視点から敬語を用いているという点で、絶対敬語的であるということができます。
一方、次のような日本語を使うことは、おそらく多くの日本語母語話者が抵抗感を持つことでしょう。


(4)山本「あなたが、噂にきく伊藤先生の教え子ですか」

  高橋「はい、伊藤にはいつもお世話になっております。」


これは、山本教授に対して伊藤准教授を低めて言及したおり、山本教授の視点に立っているという点で、相対敬語的です。
ところが、このようなやりとりは明らかに不自然であり、普通の感覚を持った日本語母語話者からすれば、伊藤准教授に対して極めて失礼な言い方であると感じるのではないでしょうか。

このように、知人に対して身内に言及する場面であるのにもかかわらず敬称を省略できない状況が存在するという点で、必ずしも日本語は相対敬語が徹底されているわけではありません。
(3)(4)のような例に対しては、「そもそも先生というのは“身内”と考えることができないのだから、この場合は例外である」という反論もあるかもしれません。
しかし、この反論はほとんど意味をなさないでしょう。
(1)の場合には「社長」に対して相対敬語を用いていました。
「社長」というのは、(企業規模にもよりますが)おそらく一般的な社員にとって必ずしも身近ではありませんし、自分の所属会社の長であるという以上の繋がりはないことが多いはずです。
一方、「先生(教授等を含む)」は、学生の研究や、場合によっては私生活にもコミットして指導をします。
その点で、一般的な企業の「社長」よりもずっと身近な存在であり、“身内”というのにふさわしい存在のはずです。
もし「先生は“身内”とはいえない」という反論をするのならば、「なぜ社長は“身内”といえるのか」「そもそもそこでいう“身内”とはいったいどのような関係性なのか」ということが問題になり、より深刻な問題が生じることになるでしょう。
このような経験的事実から、日本語では相対敬語が必ずしも徹底されているわけではないということは、動かしようがないことであるように思われます。

続いて、絶対敬語が「話し手の視点に立ったものであり、聞き手に失礼な印象を与える」という一般論についても、甚だ疑問であるといわざるをえません。
もう一度(1)(2)の例を見てみましょう。
ここで重要なのは、そもそも取引先の佐藤さんも「田中社長」というように、役職名を付けて呼んでいる(そのような状況である)という点です。
つまり、そもそも佐藤さん自身も田中社長を「社長という役職名を付すべき対象である」と認識しているのです。
そのような人に向けて田中社長に関して言及する際に「田中社長」と呼称することが失礼にあたるという論理が、私には理解できません。
佐藤さんは「田中社長」と口では言っておきながら、内心では田中社長を見下しており、人から「田中社長」と言われると途端に憤慨するのでしょうか。
このようなことは、常識的にいっても到底考えられません。
以上のことから、絶対敬語が現代日本語として不自然であるとする原理的な根拠も、あまりないといえるのではないでしょうか。

以上の議論を踏まえると、少なくとも現代日本語において相対敬語が徹底されているとはいいがたいように思われますし、相対敬語が社会的に考えて不適切であるという規範意識は、あまり説得力がないように思われます。
言語学的に考えても、複雑な配慮表現(敬語もこれに含まれる)の体系を網羅的に記述することは到底不可能なことです。
それをひとしなみに相対敬語であると断じてしまうのはあまりにも無理があるでしょう。
このように考えれば、現代日本語の敬語は、その状況に応じて絶対敬語的にもなれば相対敬語的にもなるのであり、聞き手や話し手の認識に応じて柔軟に運用されてもかまわないはずです。


さて、今日は敬語をテーマにして、一般的に相対敬語的であるとされる現代日本語も、必ずしもそれが徹底されているわけではないという点についてみてまいりました。
ただ、このような主張をすると、なぜこのような一種の神話とも呼べるような敬語論が人々の間に浸透しているのか、という次の課題が浮かび上がってくることになります。
しかし今日は既に相当長くなってしまいましたので、また機会を改めてお話ししたいと思います。


敬語については悩まされることも多いですよね。
現実の社会生活においてはそのコミュニティのローカル・ルールに従ったほうが角が立たず得策かと思われます。
ここでのお話を“実践”する際は、くれぐれもご注意ください。

それでは!
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コメント
 
 
 
Unknown (はなはち)
2017-03-09 05:39:39
こんにちは!
いつもに増してキレのあるヨン様の日記、おもしろかったです!!

ところで、相対敬語って、話の内容において、聞き手に話し手の上司が働きかけなくても起きるものなんでしょうか?
つまり、⑴話し手と話し手の上司の2人の出来事を聞き手に伝えるときは絶対敬語で、⑵話し手、聞き手、上司の3人が参与する出来事は相対敬語みたいなことが起きないかな〜という疑問です。
話し手:松本
話し手の上司:木村
聞き手(取引先の人):神野
という文脈で、

松本「⁇先日、木村と一緒にスカイツリーに行ったんですが、すごく混んでましたね」
神野「へぇ〜」

この談話は不自然ですが、

松本「ok明日、木村がスカイツリー前にて神野様をお待ちして降ります」
神野「了解しました」

これは自然なのでは、ということです。まぁ、いずれにせよ教授と学生の例で相対敬語は変ですが、現代日本語がそれほど相対敬語を徹底してないだけでなく、そもそも文法的に相対敬語が使える環境は限られているのでは、と考察してみました!
 
 
 
Unknown (ヨン様)
2017-03-09 23:04:38
ヨン様です。
コメントありがとうございます!

ご提示いただいた例は大変興味深いですね。
ただ、必ずしも話し手と話し手の上司の2人の出来事を聞き手に伝えるときに絶対敬語が出るというわけではなく、文体のフォーマルさとの関係もあるような気がいたします。

神野「木村さんとは普段から親しいのですか?」
松本「実は木村とはプライベートでも親しくさせていただいております」

この例は結構容認できるのではないかと思われます。
いずれにせよ、相対敬語が出てくる場面と言うのは意外と限られていて、現代日本語が相対敬語だというのは極端かなと思っております。
 
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