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電子図書館の可能性

電子図書館の可能性

 電子図書館で何がしたいか、何ができるのか、未来への展望を含んだビジョンが図書館から語られる必要がある。TRCにそれができるのか? まあ豊田市役所よりもマシでしょう。

さゆにゃんのらじらー!

 今日かららじらー!は「さゆにゃん」か!どんなもんカナ。ひめたんロスの方がきついでしょうね
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ジェンネっ子のクルアーン学校

『子どもたちの生きるアフリカ』より クルアーンを詠唱する子どもたち マリの古都ジェンネで

ジェンネっ子のクルアーン学校

 ジャカイジャは、ジェンネで生まれ育った両親のもと、モスクのすぐ近くにある町の中心に住む生粋のジェンネっ子だ。私かジェンネで住んでいた長屋の隣人トゥーレ家の長男である。私が彼らの隣に暮らしていた二〇一〇年当時で、九歳か一〇歳くらいだった。寡黙で穏やかな父親と、他人にも自分にも厳しい働き者の母親クンバのほかに、一〇以上年の離れた姉サー、二つ年下で仲の良い弟アブがいる。姉のサーは、ジャカイジャの姪に当たるかわいい赤ちゃんファティムを産んだばかりだ。ジャカイジャは他の多くのジエンネの子どもと同様、小学校とクルアーン学校の両方に通っている。

 ジャカイジャの朝は早い。母クンバは、すでに夜明け前に起床して、朝の礼拝を済ませ、仕事にとりかかっている。家の前で、フルニというトウジンビエ粉の小さな揚げパンを売るのが母クンバの仕事の一つだ。ジャカイジャと弟アブは姉に叩き起こされ、六時頃に起き出してくる。長屋の中庭で、一一人並んで半分眠ったまま顔を洗い、姉に急かされるがまま服を着替え、朝食をとり、私を含めた同じ長屋の大人たちに元気よく朝の挨拶をし、バタバタとクルアーン学校に出かけていく。斜め掛けしたシンプルな黒い布の袋には、ワラと呼ばれる木の板とクルンと呼ばれる竹ペン、背中のカラフルなリュックには、小学校で使うノートや鉛筆が入っている。クルアーン学校は、基本的に早朝と夕方に授業を行う。クルアーン学校の七時前から始まる授業のあと、いったん家に戻って朝食をとり、荷物を取って学校に登校する子どももいるが、アブとジャカイジャ兄弟が通うクルアーン学校は自宅からやや遠い彼らが住む町内にあるクルアーン学校ではなく、母の出身街区にあるクルアーン学校に通っているのだ。そのため彼らは、先に朝食を済ませて小学校とクルアーン学校両方の学用品を携えてクルアーン学校に行き、一時間弱の朝の授業を受けたあと、そのまま小学校に登校する。「ふざけてないで早く支度しなさい!」という母や姉の声、自分の背中より大きなリュックをカタカタと上下させながら駆け出していく子どもたちの様子は、日本の小学生の朝と変わりない。

 ジャカイジャとアブ兄弟が通うクルアーン学校に、私もついていったことがある。外国人の私を率いての登校が気恥ずかしいのか、ジャカイジャは小声で申し訳なさそうに、「離れてついてきてね」と頼んでくる。途中で友達と合流し、細い路地をいくつも曲がり、一五分ほどで着いた。彼らが学ぶのは、教師の自宅の一室で開かれている、ジェンネでは一般的な規模(教師一人に生徒数が二〇人程度)の教室だ。クルアーン学校に通い始めたばかりと思しき七歳くらいのちびっこから、上は一四~一五歳の少年少女もいる。男子が女子より少し多い。クルアーン学校での教育は教師につく形式なので、学校の名前はとくになく、「~先生のところ」「~家のティラフ」といった呼び方をすることが多い。ジャカイジャたちが通うクルアーン学校にも、とくに名前はついていない。

 五〇代の男性のアルファに授業の様子を見学させてほしいと頼むと、「五分くらいなら構わないが……」と苦い表情である。このクルアーン学校は、観光客がよく通る路地から覗き込める位置にある。ジェンネは一九八八年にユネスコの世界遺産に登録されて以降、急速に外国人観光客が増えた。とりわけ、観光客が好む迷路のような路地の一角にあり、ジェンネで最も古いクルアーン学校の一つといわれるこの学校は、人気の観光スポットの一つだ。外国人観光客から許可なく無遠慮に写真に撮られることも多い。それでは生徒も教師も集中できず、こうした一部の観光客にはうんざりしているという。このアルファはジャカイジャ兄弟から私の話を聞いており、私が観光客ではないことは知っているそうだが、子どもたちのためにも長時間の見学は遠慮してほしいとのことだった。

 子どもたちは、木板と竹ペンを手にシーファに座って、アルファと私のやりとりを面白そうに見上げている。ジェンネのクルアーン学校は、多くの場合シーファと呼ばれる玄関聞とその周辺で開講される。ジェンネの一般的な家は、中庭とそれを口の字型に囲む複数の部屋で構成されており、シーファはこうした家の玄関に併設された小部屋だ。路地との境界に当たり、半分ウチで半分ソトのような空間だ。シーファからは、中庭でアルファの家族が朝食をとったり洗濯をしたりしているのが見える。クルアーン学校を開いている家のシーファには、さらさらの砂がたっぷり敷き詰められている場合が多い。他の部屋の固い土間やコンクリート床と違い、直に座っても痛くない。クルアーン学校では、椅子と机がある学校と異なり、教師も生徒も床や床に敷いたゴザの上に座る。椅子がなくても読み書きしやすい体勢が取れ、お尻が痛くならないよう、砂を敷いているのだ。都市部では、学校に限らず日常生活でも椅子とテーブルという生活スタイルをとる人びとが増えてはきた。ジェンネでも、座椅子やソファがある家は多い。しかし、クルアーン学校ではあくまで伝統的な日常生活と同様、床やゴザの上で学ぶ。普段学習机で勉強する日本の子どもが、習字教室に行けば畳に正座のスタイルをとるのによく似ている。

 アルファが子どもたちの前に座り、授業を始める。子どもの年齢も進度もさまざまだ。アルファはそれぞれの生徒の進度に合わせて、木板にゆっくり手本を書いて示したり、読み上げさせて正しく発音できているか確認したり、誤字を指摘したりしている。狭いシーファに、クルアーンを読み上げる子どもたちの声が響く。すぐ近所にもクルアーン学校があるようで、同じような子どもたちのざわめきが、路地の向こうからも聞こえてくる。教師がこちらを見て無言でうなずいたのが潮時の合図と理解し、ジャカイジャのクルアーン学校を引き上げた。

 午後二時頃、ジャカイジャが家に戻ってきた。クルアーン学校が八時前に終わり、そのまま小学校に登校し、授業を終え帰宅したのだ。服は泥だらけで、ポケットには直に入れられた小魚。友達と寄り道して釣り遊びをしてきたことが、一目で厳しい母親クンバにばれる。なぜまっすぐ帰ってこない、お昼ごはんを温め直さないといけないでしょうと、いつものように叱られている。ジャカイジャはこれから夕方のクルアーン学校の時間まで、昼食をとり、弟や友達と遊んだり、母のおつかいに出たり、生まれたばかりの姪をあやしたりして過ごす。そして夕方五時頃、またクルアーン学校に出かけていく。この時には、弟のアブは一緒に行かない。クルアーン学校の多くは夕方にも授業を行っているが、出席する子どもは総じて朝より少ない。夕方、子どもたちは友達と遊んだり親の手伝いをしたりするのに忙しいためだ。とりわけ女の子は、一一~二I歳になると母親の家事の手伝いをすることが増え、夕方の授業にはあまり出なくなる。

 クルアーン学校でアラビア語を学ぶ子どもたちにとって、ジェンネ語も片言で、アラビア語はまったく読み書きできない外国人の私は、大人なのに子どものような不思議な存在だ。ジェンネでは、程度の差はあれ、多くの大人がクルアーンを読み書きできる。ジャカイジャとアブは時々、クルアーン学校で使う板に書かれたアラビア語の文字を示して、私に「読める?」と尋ねてきた。私は毎回「読めない」と降参する。すると彼らが、指で文字をたどりながら、クルアーンの一節であろうアラビア語を読み聞かせてくれる。ジェンネの他の大人に同じことをすれば、発音が忠いとか誤字があるとかいった的確な指摘を受けることだろう。その判定ができない私は、彼らにとって恰好の自慢相手だった。

 ジャカイジャは元気で心の優しい少年だ。しかし勉強はあまり得意でなく、小学校での成績はまったくふるわない。母親から言いつけられた簡単なおつかいでも、たびたびミスをしては呆れられている。もしかすると、クルアーン学校でもそれほど優秀な生徒ではないのかもしれない。しかし、ジャカイジャがクルアーン学校で友達とじゃれあう様子や、私にアラビア語自慢をしてくる時の誇らしげな表情から、彼がクルアーン学校に通うのを楽しんでいることはよく伝わってくる。優秀ではなくとも、クルアーン学校で使う教材をとても丁寧に扱い、間違ったことをして叱られたらきちんと反省し、姪っ子の面倒をよくみる、善き小さなムスリムだ。

クルアーン学校のこれから

 ジェンネは、マリの中でもとりわけ宗教的で歴史ある町だといわれている。大都会ではないこうした地方の伝統的な町でも、子どもたちをめぐる状況は日々刻々と変化している。一九九〇年代まで電気がなかったジェンネにも発電所ができ、二〇〇〇年代に入るとインターネット・カフェもできた。学校にもパソコン教室があり、子どもたちは親の知らない技術をあっという間に覚えていく。日本と同様、携帯電話は若者に必須のアイテムになり、携帯電話に好きな音楽をダウンロードして楽しむ中学生も多い。衛星テレビで放送されるラップ音楽や派手なアクション満載の映画も人気だ。

 ジェンネのアルファの有志で結成されている組合「アソシアシオン・ティラフ」の代表者は、子どもをとりまくこうした急激な変化にとまどっている。彼によると、ジェンネにおけるクルアーン学校の数に大きな変化は見られないものの、その社会的重要性は低下し続けているという。他の町に比べるとクルアーン学校に通う子どもが圧倒的に多いジェンネだが、そのジェンネでも、クルアーン学校は学校より「劣った」「非近代的な」場であると考える親も増えてきたという。

 これまでに示したように、ジェンネの子どもたちにとって、クルアーン学校は単なるイスラーム教育の場ではない。その後の人生を生きていくための社会的紐帯を築く出発点であり、学校とも家庭とも違う地域コミュニティとの結節点である。クルアーン学校がつないでいたこれらの「紐」や「点」が弱まった時、子どもたちの在り方にどのような変化が生まれるのであろうか。ニジェール川がはぐくんだ恵みのひとつともいえるジェンネのクルアーン学校は、これまでたどってきた八○○年以上の歴史の中でも、最大の変化の一つにあるのかもしれない。
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スターバックスのビジネスモデル

『ビジネス名著大全』より

『トレードオフ』 上質をとるか、手軽をどるか

 「上質で手軽」は幻影、追い求めると痛手を負う

  COACHは2000年ごろから飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、2008年には見る影もないほどの窮状に陥った。1970年代に高級ハンドバッグを武器に地歩を固め、ルイ・ヴィトンやエルメスと並び称されるほどのラグジュアリー・ブランドとなった。ところが、90年代終わりになると、「身近なラグジュアリー」とでも呼ぶべきカテゴリーを考案し、マスマーケット向けに洒落たデザイナーズ・バッグを提供する戦略を打ち出した。高級ブランドとして大成功を収めていながら、それに飽き足らず、上質さと手軽さの二兎を追ったのだ。COACHのバッグの平均価格は300ドル。ヴィトンのそれは一番安いものでもこの2倍の値段だ。(中略)上質な商品やサービスを「上質でしかも手軽」へ進化させようとすると失敗する。

  「上質さ」と「手軽さ」、両方を共に極めた商品を作れば向かうところ敵なしのようにも思える。しかし、「この魅惑的な組み合わせは幻影にすぎない」と著者は言う。

  どういうことなのか。まずは、上質さと手軽さの意味を見ていこう。

 上質と手軽の天秤

  私たちは毎日、何かにつけて「上質さ」と「手軽さ」を天秤にかけている。野球の試合をテレビで観るか、スタジアムで観戦するか。ファストフードを食べるか、レストランで気の利いた食事をするか、というように。こうした選択が市場でとう行われるのか。それこそが、ビジネスの成功と失敗を解き明かすカギだと著者は言う。

  ○上質VS手軽

   本書のいう「上質さ」とは、経験全体を指す。口ックコンサートでいえば、音の質だけでなく、アーティストが演奏する姿、照明、観客、そして後で知人に自慢すること。これら全てが極上の経験を紡ぎ出す。一方「手軽さ」とは、望むものの手に入りやすさの度合いを表す。すぐ届くか、使いやすいか、いくらかかるか、などがポイントになる。

  ○上質=経験+オーラ+個性

   上質か否かは、見たり触ったりするなど、商品やサービスにまつわる経験全体によって決まる。一方、それは「オーフ」と「個性」という、2つの要素からも成り立っている。例えば、高級テーラーのスーツは強いオーラを放ち、上質感を増す。そして、個性も上質さに関わっている。私たちが何かを買うのは、他の人々に自分らしさを伝えるためでもある。洒落たブランドのスニーカー、デザイナーズ・ブランドのジーンズなど、個性の表現につながればつながるほど、そのアイテムは上質なものといえる。経験、オーラ、個性。この3つの足し算によって上質度は決まる。

  ○手軽=入手しやすさ+安さ

   手軽とは簡単に手に入るということ。商品やサービスの手軽度は、便利であるほど高まる。例えば、電子レンジ食品の手軽度は圧倒的に高い。そして、手軽かとうかは価格にも左右される。価格こそ手軽さを実現する切り札。安いと、多くの人が手に入れやすくなる。

   簡便性と経済性。結局のところ、望むものを最も簡単に手に入れる手段を消費者に提供すれば、その企業は無敵なのだ。これこそが、手軽であることの威力である。

  ○愛されるか、必要とされるか

   上質であるとは、突き詰めれば「愛される」ということ。ティファニーの宝飾、プラグのバッグ……。これらは皆、愛されはしても、まず必要とはされないものだろう。他方、手軽であるとは「必要とされる」と同義だ。ウォルマート、電子レンジなどはいずれも生活に欠かせないもので、多くの人が必要とする。しかし、たいていは愛情の対象ではない。

 道を踏み外すと・・・・・・

  このようなことを再確認すれば、先に紹介した、「この魅惑的な組み合わせは幻影にすぎない」という著者の言葉は納得できるだろう。上質さはオーラや個性に支えられている。他方、手軽さはオークや個性を打ち消す。手軽になればなるほど、そのアイテムが持ち主を引き立てる力は弱まる。

  ○拡大路線でオーラを失ったスターバックス

   スターバックスは2007年に壁にぶつかった。客足が衰え、利益が細り、株価は大きく下落した。スターバックスは当初、上質さで勝負していた。それゆえ独特のオーラがあった。「ちょっとスタバに行ってくる」と言うと、同僚も一目置いてくれる。だからこそ、瞬く間に一世を風靡したのだ。

   しかし、その後、スターバックスは積極的な拡大路線をとる。これを、上質か手軽かの二者択一という観点から見ると、当初は上質を目指したが、拡大路線を契機に、手軽な店という逆方向へ進んでしまった。いやむしろ、一挙両得も夢ではないと考えたのだろう。身近にあって、しかも他の店にはない心地よさがある店、愛されて、なおかつ必要とされる存在を目指したわけだが、それはまず不可能だ。手軽になるほど、オーラは失われていく。

   スターバックスは往時の輝きを取り戻せるだろうか。先行きは厳しそう、というのが著者の見立てである。スターバックスのようなブランドにとって、どこにでもある見慣れた存在になるのは命取りだ。米国人のほとんどは、もはやスターバックスにオーラや個性を感じていない。「わざわざ探してまで足を運ぼうとはしないだろう」と著者は言う。

『スターバックス再生物語 つながりを育む経営

 超ブランド企業を襲った存亡の危機--。現場に復帰した創業者は、何を語り、いかなる手を打ったのか? 瀕死の組織に命を吹き込み、人々を鼓舞した言葉の数々と、再興への軌跡が描かれる。

 本書の概要

  今や世界的ブランドとして知られるスターバックス・コーヒー・カンハニー。名経営者ハワード・シュルツの手によって育てられ、成長を遂げた同社だが、彼が第一線を退いた後、拡大路線を突き進んだことが災いして、経営難に陥る。その危機を救うべくCEOとして復帰したシュルツが、失われた伝統を取り戻し、再建を果たすまでの道のりを明らかにした、まさに「再生物語」である。

 拡大の果ての低迷

  本書『スターバックス再生物語』の著者ハワード・シュルツは、言わずと知れた、スターバックスの事実上の創業者である。彼の指揮の下、アメリカのシアトルからスタートしたスターバックスは、世界的なコーヒーチェーンとなった。だが、同社はその成長の過程で少しずつ道を踏み外していった。成功から危機、そして再生までの道のりを、順にたとってみよう。

  2000年、著者はスターバックスのCEOを引退し、会長になって海外戦略に注力するようになった。そして後任のCEOとして、オーリン・スミスを指名した。オーリンがCEOを務めた5年間に、店舗数は約3倍の9000店舗に達した。さらに店舗以外でも、ハイアットやマリオッ卜系のホテルが宿泊客にスターバックスのコーヒーを提供した。書店やスーパーマーケッ卜の何百という店舗の中にも、独立型の店を作った。こうした新規の販売網が新たな収益源となった。

  オーリンの後任として選ばれたのは、ジム・ドナルドである。彼がCEOになった時、ウォール街がスターバックスに与えたハードルは高かった。売上高と利益の年間成長率は、最低でも20%を維持しなければならなかった。

  当時、同社はエンターテインメントの分野にも事業を拡大していた。それまでも店舗で流す音楽のオムニバスCDを販売してはいたが、まもなく多くのミュージシャンのアルバムを店に並べるようになった。また、書籍の販売ではベストセラーを何冊か出した。こうした成功によって、スターバックスは流行を作り出していると感じ始め、映画を作って当てることもできるのではないか、と考えるようになった。そして、実際、映像の分野にも進出した。

 衰退の兆し

  2006年に入ると、業績が悪化し始めた。07年の夏、来店客数の伸びは過去にないほど落ち込んだ。そこで著者は変調に気づく。

  2006年、世界中の店舗を何百と訪れるうちに、創業者であり、商人であるわたしは、スターバックスが何か本質的なものを見失ったのを感じた。全体的な雰囲気や精神だ。(中略)スターバックスを特徴づけていたいくつかのものがなくなってしまったことで意図せぬ結果が起こり、そのせいで自信がいつのまにか失われていたのだ。

  例えば、店舗に導入された新たな自動エスプレッソマシンによってサービスの迅速性や効率性が改善された。しかし、この機械はかなり高さがあった。そのため、来店客からはカウンターの中にいるバリスタが飲み物を作る姿が見えなくなり、ロマンチックで劇場的な要素が失われてしまった。また、店舗に漂っていた挽きたてのコーヒーの香りがほとんとしなくなっていた。これは、挽いたコーヒーの粉を各店舗に出荷するように変えたためだった。挽き立てのコーヒーから立ちのぼる重厚な、豊かな香りは、来店客にここがスタヘーバックスの店であることを示す最も強力なシグナルだ。客の前で挽くことをしなくなったために、スターバックスの店舗の伝統が失われてしまった。

  伝統を逸脱したことを象徴的に示す例として、著者はブレ^クファストーサンドイ^チを挙げる。ブレックファスト・サンドイッチは、多くの客に好まれた。ファンが増えれば、オーブンでサンドイッチを温めることも多くなる。すると、においを発する。とりわけチーズの焦げたにおいが、スターバックスの物語を台無しにしてしまった。「サンドイッチの販売をやめてくれ!」。著者は、店の責任者にそう言ったという。サンドイッチの販売をやめれば売上は落ちるが、長期の利益のためなら短期の損失も我慢できると著者は考えた。だが、CEOのジムや他の人はそうではなかった。

  創業者には独特の視点がある。会社を活気づけるのは何か、そのためにはどうすればいいかがわかっている。その知識が、何か正しくて何か間違っているかを判断する直感につながる。CEOに戻る時が来た--著者はそう考え始めた。

 真実のコーヒーを目指して

  2008年1月、著者はCEOに復帰した。そして、翌2月のある火曜日の午後、米国スターバックスは、国内7100店舗全部を一時的に閉鎖した。完璧なエスプレッソを作るために、13万5000人のバリスタを再研修しようと考えたのだ。

  素晴らしいエスプレッソを作るには細心の注意が必要である。バリスタの心配りが足りずに、エスプレッソが薄すぎたり苦すぎたりすれば、スターバックスは創業の精神を失うことになる。つまり、人々の気持ちを明るくすることができなくなるのだ。

  ただ1杯のコーヒーには、大きすぎる使命である。しかし、商人とはそういうものだろう。自分たちが作り出すものが他の人たちを感動させることを信じている。コーヒーがおいしくなければ、スターバックスの存在意義はなくなる。著者は、働く者全員が仕事に対する情熱を取り戻さねばならないと確信した。だからこそ、全店舗を閉めることにしたのだ。そして大きな損失を出したが、コーヒーの質は改善され、著者の元には良い話が寄せられるようになった。

  人生には決断すべき時がある。たとえ、理屈や常識や信頼する人たちの忠告に反するとしても、だ。リスクを負い、理性に逆らっても進もうとするのは、選ぼうとする道が正しいと信じるからだ--そう、著者は語っている。最終的に、一斉閉店は象徴的な役割を果たした。大胆に行動を起こすことによって、スターバックスが再び決意を新たにしたことを示したのである。

 原点に戻る

  成功している小売業は、細部に並々ならぬ注意を払っている。個々の商品の質、お客様1人1人に対する反応、わずか1ドルの費用といった小さいものに、きちんと配慮している。だが、スターバックスのパートナー(従業員)の多くは細部への配慮を失っていた。売上高を上げ、拡大を推進することばかりに注力し、お客様1人、コーヒー1杯について考えることはなかった。だから著者は、パートナーに向かって言った。「原点に戻らなければなりません」と。

  CEOに復帰した時、著者はパートナーたちに何かあれば直接メールを送ってもらうように依頼した。最初の月に受け取ったメールは5600通。彼は時間が許す限り、返信した。また、店舗や焙煎工場を訪ね、本社の中を歩き回り、仕事をしている人と話をした。さらに、以前実施していたオープンフォーラムを定期的に行うことにした。集まって顔を合わせることで、感情の絆や創造的な緊張が生まれ、重要なフィードバックが行われる。この場はとても意義あるものだったが、あまり行われなくなっていた。それを再開し、四半期に1度は行うことにしたという。

  著者は、終章で、スターバックス低迷の要因を次のように分析している。

  成長は戦略ではない。戦術である。それをわたしたちは十分に学んだ。規律のない成長を戦略としたために、スターバックスは道を見失ってしまったのだ。

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国民の熱狂に応える新聞

『不死身の特攻』より

国民の熱狂

 それでは、大西長官以外の司令官は、どうして「特攻」を続けたのでしょうか。1944年(昭和19年)10月29日の新聞の一面を見れば、それが分かるような気がします。一面のトップに、太ゴチックで「御鷲の忠烈 萬世に燦たり」と大きな文字が躍っています。「必死必中の體當り」という文字も大きく書かれています。

 10月29日の『敷島隊』以降、新聞の一面に特攻隊の記事が躍り出ます。

 朝日新聞を例に取れば、これ以降、なんらかの形で特攻隊が一面で記事になったのは、1944年(昭和19年)の残りニカ月と少しで42回。1945年(昭和20年)の終戦までで86回。計128回。

 このうち、はっきりと特攻隊の記事をセンセーショナルに打ち出しだのは、厳密に言えば、1944年では、31回、1945年では、55回でした。

 佐々木友次さんについての「勇壮な作文」は第2章で紹介しました。

 さらに新聞の二面では、より物語的な記事が多く書かれました。未来ある若者が、祖国のために、自ら志願して、微笑みながら体当たりをしていった。どんな人物だったのか。最後の姿はどんな風だったのか。同僚はどう思ったのか。両親は、妻は、恋人は何を思い、特攻隊員は残された人達に何を託したのか。見送る整備員が、「喜びのあまり」号泣した風景、など。

 玉砕と転進が続く記事の中で、特攻隊に関する文章は、どんな「戦果」よりも勇壮で、情動的で、感動的でした。

 そして、だからこそ、第一回の特攻は絶対に成功させるためにベテランパイロットが選ばれたのです。

 国民は感動し、震え、泣き、深く頭を垂れました。そして、結果として、戦争継続への意志を強くしたのです。

 こんなに若い兵隊さんが、自ら志願して、祖国のために率先して身を捧げている。それを知れば知るほど、米英への憎しみや戦い続ける決意、窮乏に耐える根性、不屈の闘志を強くしていくだろう。そのためには、「戦果より「死ぬこと」の方が大切だと司令官が考えても当然だと思うのです。

 終戦直後に部下をつれて特攻に出撃した宇垣纏という海軍中将がいました。

 ある日、特攻隊を見送る訓示を終えた宇垣長官に対して「本日の攻撃において、爆弾を百%命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうどざいますか」と聞いた準士官がいました。

 宇垣長官は、即座に大声で、

  「まかりならぬ」

 と答えたのです(『空母零戦隊』岩井勉 今日の話題社)。

 この迷いのなさは、やはり「戦果」より「死ぬこと」が目的であると考えられます。それも、日本国民だけではなく、日本軍の隊員達への「効果」を考えていると思われるのです。

売れるから書く

 と言って、司令部の意図をくんで煽ったマスコミを責めるだけでは何の問題も解決しません。

 はっきりしているのは、国民はそういう勇壮で感動的な記事が読みたかったということです。

 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』(半藤一利・保阪正康 東洋経済新報社)によれば、日露戦争の開戦前、「断固帝政ロシアを撃つべし」という新聞と「戦争を避けて、外交交渉を続けるべきだ」という新聞に分かれていたそうです。

 そして「戦争反対の新聞は部数がどんどん落ちる」「その一方で、賛成派の新聞は伸び始め」たのです。

 結果「戦争前の明治36年と戦争が終わって2年目の明治40年で比較すると、『大阪朝日新聞』は11万部から30万部、『東京朝日新聞』は7万3千部から20万部、『大阪毎日新聞』は9万2千部から27万部、『報知新聞』は8万3千部から30万部」に伸びたのです。

 冗談だろうと笑い話になりそうなぐらいの伸びだと半藤さんは言います。

  「この数字が示しているのは、戦争がいかに新聞の部数を伸ばすかということです。要するに、戦争がいかに儲かるかなんです」

 一方、最後まで日露戦争に反対していた『平民新聞』は発禁が続いて、最後には廃刊になりました。

 日露戦争以降、新聞社は戦争が商売になることを知って、軍部に協力していきます。それが、佐々木友次さんの特攻を書いた勇壮な作文になるのです。

 満州事変の時、ほとんどの新聞が「援軍」「擁軍」になった時、『大阪朝日新聞』だけは、「この戦争はおかしいのではないのか。謀略的な匂い、侵略的な匂いがする」と書きました。ですが、在郷軍人会を中心とする不買運動にやられて部数が急落(奈良県では一部も売れなくなりました)、最終的には負けて編集方針を変えました。

 不買運動に反対し、満州事変に反対する『大阪朝日新聞』を買い支える大衆は存在しなかったのです。

 特攻が続いたのは、硬直した軍部の指導体制や過剰な精神主義、無責任な軍部・政治家達の存在が原因と思われますが、主要な理由のひとつは、「戦争継続のため」に有効だったからだと、僕は思っています。戦術としては、アメリカに対して有効ではなくなっていても、日本国民と日本軍人に対しては有効だったから、続けられたということです。
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